詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇132)Joaquín Llorens

2022-01-06 23:18:15 | estoy loco por espana

Obra de Joaquín Llorens

Joaquín Llorens crea diferentes tipos de obra.
Las dos que os presento hoy están en contraste.
La de la izquierda es elegante, moderno y urbano.
Yo puedo escuchar música ligera y tranquila. Un sonido transparente como un piano o un violín.
Si fuera una flor, es la que florece en el jardín.
La de la derecha es un poco pesado. Es flexible, pero me siento un poco pasado de moda. Me recuerdo el mar, la tierra, las olas y la flor que florece en el campo.
La música que escucho es la voz humana. Incluso si fuera un instrumento, el sonido de una trompeta, saxofón.

Me gustan las dos obras, pero prefiero más la de la derecha.
Por qué?
Porque....la de la izquierda tiene una impresión mecánica. La curva tiene una belleza precisa, como si se hubiera realizado mientras se realizaba una medición con un dispositivo.
La  de la derecha tiene una fuerte impresión de que fue hecha con las manos y el cuerpo. Joaquín está formando una curva mientras lucha con el hierro. Nunca puede hacer lo mismo. 
El usa un martillo, un yunque y fuego. 
Al chocar el cuerpo de Joaquín y el hierro,  ellos intercambian "sangre". La sangre de Joaquín fluye entre el hierro, y la sangre del hierro fluye entre el Joaquín. 
Esta obra me da la impresión de que hierro y Joaquín renacerán al mismo tiempo.

Joaquín Llorensはさまざまな作品をつくる。
左の作品はスマートで現代的、都会的である。
軽やかで静かな音楽が聞こえてくる。ピアノ、バイオリンのような透明な響きが聞こえる。
右の作品は少し重たい。しなやかだが少し野暮ったい感じ。海や大地、波や草木を感じる。
聞こえてくる音楽は、人の声である。楽器だとしても、トランペットとかサックスとか息をつかった楽器の音。
どちらの作品も好きだが、私は、右の作品の方をより好む。
なぜか。
左の作品はどこかメカニックな印象がある。カーブ一つをとってみても、機器で計測しながらつくったような正確な美しさがある。
右の作品は手、肉体でつくったという印象が強い。鉄と格闘しながら形をつくっている印象がある。手触り、といえばいいのかもしれない。同じものは二度とつくれない。つかうのは、ハンマーと金床と火。ホアキンの肉体と鉄がぶつかり合いながら、「血」を交換する。鉄のなかにホアキンの血が流れ込み、ホアキンのなかに鉄の血が流れ込む。鉄とホアキンは同時に生まれ変わる、という印象がする。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(29)

2022-01-06 21:30:20 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(29)

(私は今ここに)

私は

ここに
いる

どこへ行こうが
動けない
私を

言葉で
リモコンして
言葉の涯まで
連れて行く

そこも
ここ
だろうか

 「リモコンして」の「原形」は「リモコンする」だろうか。「名詞+する」という形で「動詞」をつくる。谷川は、いまはつかわないようなことばもさらりと書くが、こういう新しいことばもさらりとつくってしまう。

 

 

 

 

(そこにいつまでも)

そこにいつまでも
私はいる
地面に木漏れ陽が
落ちて

おもかげは
川音に
紛れ
言葉は薄れて

そこに
独り
立ち尽くし

すべてを
愛でる
私がいる

 「いる」ことが「愛でる」こと。それだけでは足りなくて、谷川は「すべてを」と書いている。「すべてを」は「いつまでも」に通じるだろう。そこには「限界」がない。そして、その中心に「独り」がある。

 

 

 

 

 

(諦め故に)

諦め故に
希みの
滲む

手足と
腹の
温かみが
語を生み

自は
他へと
動き出す

眉の黒
水の透明
唇の赤

 「諦める」のは何が諦めるか。こころか、精神か。「手足」と「腹」、その「温かみ」は諦めない。つまり「語を生む」。「諦める」の反対は「生む」なのだ。「肉体の温かみ」は「語(ことば)」だ。

 

 

 

 

 

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山本育夫「12さち」

2022-01-06 10:27:27 | 詩(雑誌・同人誌)

山本育夫「12さち」(「博物誌」50、2022年01月25日発行)

 山本育夫書き下ろし詩集「たくおん」18篇のつづき。
 「たくおん」は「たくあん」ではない。「だくおん」と書くのが一般的だが、山本は「たくおん」と書いている。濁音のための「゛」を省略している。「12さち」では、こんな具合。

たったっ たった
あしおと か おいついてくる

 これは一般的な書き方をすれば「たったっ たった/足音が追いついてくる」だろう。「たったっ たった」は軽快な足音のオノマトペ。--こう読めば、たとえば「学校文法/教科書解釈」では「正解」かもしれない。
 でも、山本は、そういう「書き方」を知らずに、間違えて、こう書いたわけではない。そうであるなら、それを読むとき「たったっ たった/足音が追いついてくる」と「学校文法」にあうように「修正」して読んでしまっては、山本が書こうとしたことを見落としてしまう。山本が何を書こうとしたのかわからないが、私は山本が「学校文法」の奨励する「修正」を拒否していることだけはわかる。いや、私は、山本が「学校文法」の「修正」を拒否してことばを動かしているのだ(表記しているのだ)と「誤読」する。
 この問題に向き合うのは、とても難しい。だから、私は山本の「学校文法」による「修正」を拒否したいという気持ちを受け止め(もちろん、それは「誤読」かもしれない)、それでは私も「誤読」してみよう。「学校文法」の「修正」を拒否して、山本のことばを読んでみよう、と思うのである。
 こういうことは、手さぐりである。言い換えるなら、「正解」などないのだ。自分を信じるかどうかだけなのである。
 私は最初、「たったっ たった」を濁音なしに「軽快な足音」ととらえたが、「だっだっ だっだ」だとどうなるか。重くなる。苦しくなる。でも、私は、これを「軽い」ままにしておきたい。
 それは二連目と関係している。

たれか か うたっている る
こえか つきにおいかけてきた ららら
いつも なにかか おいかけてきて
おいついて おいこしていく くくく
ゆめは はかない と
たとぅー を いれた ちふさ か
ゆれている んたろうね
そのたひに
そのたひに さちあれ れ

 「学校文法」にしたがい「修正」すれば、「誰かが歌ってる、る/声が次に追いかけてきた、ららら/いつも何かを追いかけてきて/追い付いて追い越していく、くくく/夢は儚いと/タトゥーを入れた乳房が/揺れているんだろうね/そのたびに/そのたびに幸あれ、れ」になるだろう。「歌(メロディー)」が「声(ことば/意味)」に変わる瞬間を「次に」という短いことばでつたえているところなんか、実にいいなあ。好きだなあ、この部分と書きたいのだが……、それを書くとまた別の感想になる。
 最初の感想にもどる。
 引用しなかった部分(一連目)に「ふとうはたけ」ということばがあり、「ぶどう畑」を連想したせいだが、私は、「こえか つきにおいかけてきて」を「肥え担ぎが追いかけてきて」と読んでしまった。農家の仕事を手伝ったことがある人ならわかるだろうが、「肥え」をかついだまま軽快に走ることはできるない。だいたい走ると「肥え」がこぼれてしまう。こぼさないように、というのは「肥え」を大切に思うからでなく、こぼしたら自分の体が汚れるからである。だから走ったりはしない。
 ところが山本を追いかけてきた「肥え担ぎ」(女)は、軽快そのものである。疲れを知らない。そればかりか、「肥え」に汚れることなんか気にしていない。なぜって、若い女の肉体は「肥え」なんかはじきかえしてしまうのだ。その若い女の象徴が「乳房」。「タトゥー」を入れているらしいが、それはほんとうに乳房を飾る(より美しく見せる)装飾品だ。「肥え」だって、そうなのである。ひとふきすれば、すべすべの裸にかわるのだ。より美しく輝くのだ。絶品になるのだ。そして、その女の名前が「さち」なのだ。「ちふさ」ということばのなかに「さち」があるように、こういう一連のことばを書く山本の気持ちのなかには「幸が好き」という気持ちが含まれている。
 そんな山本と「さち」を、

とおい ていほう から
いぬとひとと こちらを
みている
みんなに
さちあれ さち あ れ

 ここなんか、私は、「さち」の「乳房」を見るために、山本が女に襲いかかった、と読む。いわゆる「青姦」というやつだ。それをみんなが見ている。犬も見ている。犬は交尾しながら山本と「さち」を見ているかもしれない。
 みんな、幸福だ。
 なかでも、「さち」は「あーれー」と悲鳴を上げながら、実際は喜んでいる。こういう「誤読」のためには、「たったっ たった」は軽快でなくてはならないし、
何よりも「立った/勃起した」を連想させなければならないから「だっだっ だっだ」ではだめなのだ。「立った、立った、立った」を連想させないとだめなのだ。山本は「さち」を知っている。どれくらい知っているかというと「乳房」にタトゥーがあるというようなことだけではなく、足音を聞いただけで、それが誰かわかるくらいに知っている。「さち」とわかった瞬間に、勃起するくらいに「さち」を知っている。
 そんなことを思うのである。
 こういう「感想」は、たとえ思っても、書かない。書くとしても「修正」して、穏便な形で書く、というのが一般的かもしれない。しかし、私は、そういうことはしない。「修正しません」という宣言を含んで書かれたことばに対しては、私も私を「修正しない」。どこまでも暴走する。
 詩を読むとき、詩が私を読み返してくる。詩が、私の中に隠れているものを覗き込んでくる。だから、私はその覗き込まれたものを(覗き込まれていると感じたものを)、そのまま詩に対して返す。詩を読んだから、私はここまでかわることができたよ、と。

 私の感想は「ひとりよがり」である。私は私の感想が誰かによって「共有」されて、「批評」にかわることを望んでいない。いつでも「一対一」で存在していたい。

 

 

 

 


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山本育夫「13やけこけ

2022-01-06 00:05:51 | 詩(雑誌・同人誌)

山本育夫「13やけこけ」(「博物誌」50、2022年01月25日発行)

 山本育夫「13やけこけ」は、書き下ろし詩集「たくおん」のなかの一篇。「たくおん」は「濁音」のことである。山本は「濁音」をわざと「清音」として表記している。「濁音」を「清音」にすると、「意味」がすぐにはわからない。「濁音」をまじえると、いままで知っていた「意味」が浮かびあがってくる。このときの「一瞬」の混乱。そこに、まあ、詩のとっかかりのようなものがある。
 ということなのだろう。
 で、私は、それはそれとてし「理解」した上で、それを拒否して読んでみる。というか、即座に「濁音」にならない部分を楽しむのである。
 「13やけこけ」の最初の部分。

ほくか むちゅうてしのはなしを しているとき
あなたはおそらく こうかんしている

 「しているとき」と「あなたはおそらく」は濁音なしで読むのだろう。そのとき、私に何が起きるか。次の部分も濁音なしで読んでしまう。そうすると、

あなたはおそらく 交歓している

 となる。直前の「している」が特に影響してくる。「している」というとき、セックスである。セックスとは「こうかん」である。交歓のほかに交感もいいし、交換でもいいなあ。愛液の交換。それは好感がないとできないかどうかはわからない。しているうちに、感じてしまうかもしれない。そのときの「感じる」は「好感」かもしれないなあ。
 もう、こうなると、ことばはことばではなくなる。ことばは声になる。声はことばとは別の何かを発する。「いや」は拒絶ではなく「もっと」であるときさえあるのだ。
 「ぼくが」なんて、冷静に濁音でことばを言っている内は「冷静」。感情は「高感」ではなく「低感」にすぎない。ことばをおきざりにして肉体が暴走する。これを「交歓」と呼びたいが「交歓」だから、ひとりだけ感じてもだめ。
 あえて感じまじりで、じゃなくて漢字まじりで書くと、逆に感じが出てくるかも。

ほ、僕か、夢中、手、し、野放し、していると、
あなだ、ば、おそらぐ 交歓している

 「ぼく」が興奮して「ほく」になってしまうなら、「あなたは」なんていう正確な音と助詞は不似合い。肉体の抑制がきかないから、「た」は「だ」になり、「は」は「ば」になる。ちょっと東北弁のような、くぐもった感じが、肉感的だ。いまは冬だから、布団なかにもぐりこんで、真っ暗な布団のなかで手さぐり。手は、野放し状態で、あっちこっち動き、それがねえ、思いもかけずに「感じる」部分に触れてしまう。いままで知らなかった部分。見えない、見えないままの、手さぐり。野放しの「野」は「野生」の「野」。そう、手が野生になって、いや「野性」かな?、何か知らないもの、そうではなくてもっともよく知っているものになって、なにかを「している」。それに女の野生、野性が目覚める。野生と野性の交歓。
 そうしたらさあ。

(きょうは けんきね こえのはりもいいし

 あらら、素直な感想。やっぱり、セックスは「声」が大事。とくに、真っ暗闇の中では「声」が興奮を呼び覚ます。
 あとは、もう、テキトウ、というか、「正確」な読み方なんか関係ないね。
 ことばを読むということは、ことばに読まれること。ことばに読まれて、私のことばがどこまで変わっていけるか。

僕が 夢中で詩の話を しているとき
あなたはおそらく こう感じている
(きょうは 元気ね 声の張りもいいし

 なんて読んでいると、山本の詩のことばを「文法」で修整して読むことになってしまう。ピカソの描いた、目があっちを向いたりこっちを向いたり、尻の丸みとヴァギナが正面から描かれた絵を、頭の中で修整するようなもの。そんなことをしていたら、ピカソの絵にならない。さっかく「書き方の文法」を破壊して書いてくれているのだから、いまこそチャンス。その破壊を借りて、どこまで私自身の「書き方、読み方の文法」を破壊して、山本が書こうとしていないことまで読み進めることができるか試してみたい。
 ことばは、一音ずつ正確にならんでいるのではない。見た瞬間、聞いた瞬間、子音も母音もいれかわる。濁音、清音の区別以上にね。

こんなにとしかはなれているのに

 なんて、「学校文法」にあわせて修整すれば「こんなに年が離れているのに」だけれど、それそそれでセックスのときおもしろいかもしれないけれどと脱線しながら、私は、

こんなことはしなれているのにね

 「セックスなんてし慣れているのにね」(もう十分知っているはずなのにね)と読んで、「こんなことで死なれては(こんなところで先に逝ってしまうなんて、だめだよ)」と読んで、さらに。

あなたは ほくの ことはの いみ
しゃなくて ほくの そんさい を
まること りかいして きたんたね

 これは「あなたは僕のことばの意味/じゃなくて、僕の存在を/丸ごと理解してきたんだね」ではなく、

あなたは 僕のことを 意味(精神)
じゃなくて ぼくの 存在(肉体/セックス)を
丸ごと 理解してきたんだね

になる。「ことば」なんか理解しなくて言い。「肉体」を丸ごと受け入れる。「意味」なんて、どうにでもなる。まず、その「肉体(存在)」を受け入れることが大事。「理解」なんて、あとからすればいい。
 「意味」なんて、だれかの都合にあわせてあとからつくられた「修整された形式」(共有を強要する形式)にすぎない。
 だから。
 いきなり知らない外国語を読むように、強引に、自分の知っていることばで読む。それは、自分のことばを読むこと。詩に対して、自分のことばを読ませることだ。
 ここから、ことばの「交歓」が始まる。「強姦」じゃないよ。「睾丸」に脱線して、「紅顔」でごまかさずに、「厚顔」で乗り切ろう。そういうことも「交歓」だからね。

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