詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇133)Jose Enrique Melero Blazquez

2022-01-30 22:58:44 | estoy loco por espana

Jose Enrique Melero Blazquez
Nudo 7

 

Que fuerza tan misteriosa.
Este hierro esta a punto de tomar forma a si mismo, mientras se quema solo.
Ademas, es una forma nueva que nadie habia imaginado nunca.
Es como si el corazon de hierro manda a los huesos y musculos de hierro.
"Convierteos en una nueva forma".
Al leer este, Jose podria ser de enojarme.
"Yo soy el que hace el trabajo. No es hierro".
Sin embargo, Jose esta tan integrado con hierro que me hace sentirlo que el hierro esta haciendo su propio trabajo.
Jose es, por así decirlo, una "partera"....para mi poinion.
Hay un poder misterioso que me hace sentir asi.
Mi espanol es pobre.
No puedo escribir lo que pienso en espanol.

 


なんという不思議な強さ。
この鉄は、まるで自分で燃えながら形になろうとしている。
ホセがつくっているのではなく、鉄が自分で新しい形になろうとしている。
しかも、いままで誰も想像しなかったような新しい形に。
まるで鉄の心臓が、鉄の骨と筋肉に対してけしかけているようだ。
「新しい形になれ」と。
こんなことを書くと、ホセが怒るかもしれない。
「作品をつくっているのは私だ。鉄ではない」と。
しかし、鉄が自分で作品をつくっていると感じさせるくらい、ホセが鉄と一体になっている。
ホセは、いわば「産婆」のような存在だ。
そう感じさせる不思議な力がある。

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(5)

2022-01-30 11:31:37 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(5)

 「一元論」についてビジターのGladys Arango Hern ndez から質問を受けた。そのとき、こう答えた。
La definicion de monismo es dificil.
Creo que hay diferencias en la definicion dependiendo de la persona.
Escribo mi forma de pensar. 
No distingo entre cuerpo y mente. 
No distingo entre yo y los demas. 
No distingo entre yo y las cosas (por ejemplo, arboles y rios). 
Reconozco el mundo como "caos". "Caos" significa que la forma es indefinida y no hay distincion.
Entonces, el mundo aparece frente a mi segun sea necesario. 
Creo que estas aqui porque tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece como tu. 
Leo la palabras las de Garcia Marquez. Cree que tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece frente a mi como las palabras de Garcia Marquez.
Reconozco la existencia de los seres humanos (mi existencia) asi. 

 すこし抽象的すぎたかもしれない。
 私がこれまで書いてきたことに触れながら、
書き直してみる。

 「oxymoron」は、私の考えでは「一元論」に通じる。「el rencor feliz 」はrencorとfeliz が強く結びついたものである。el rencor feliz =rencor+feliz 。ここにはrencor→feliz とrencor←feliz のふたつの動きがある。これは、区別がつかない。前者が後者を結びつけたのか、後者が前者を結びつけたのか、区別がない。どちらでもいい。そこにはただ「運動」があるだけである。まだ名づけられない「感情」がある。この「名づけられる前の感情」を「混沌」と呼ぶ。ここから「 rencor 」だけが姿をあらわすとき「感情は「rencor」になる。「feliz 」があらわれるとき「feliz 」になる。しかし、「rencor」も「feliz 」もすでに私たちになじみのある感情である。彼女が感じたものは、そういう私たちの知っている感情ではない。新しい感情である。「rencor」と「feliz 」が分かちがたく結びついた感情。その結びつきの「運動」が、結びついたまま「世界」へあらわれた。ことばは、その「運動」を、そのままあらわしている。そして、そのとき「世界」とは「ことばの運動」である。「ことば」の運動から、そのとき、その瞬間に「世界」があらわれる。これが、私の考えている「一元論」である。

 「oxymoron」は、意識の絶対的な覚醒である。「rencor」と「feliz 」という結びつきは、ふつうの感情ではありえない。しかし絶対的な覚醒のなかでは、それはあり得る。新しい感情なのである。
 
Era como estar despierto dos veces. (p92)

 という文章がある。「despertar dos veces 」を「一元論」から見つめなおしてみる。これは、一度目覚めたあと、もう一度新しい世界に目覚めるということである。

despertar una vez (=primera vez )y ver el mundo→despertar dos veces (=segunda vez )y ver el mundo nuevo
 このとき「→(運動)」の「主語」は「人間」であるが、el mundoがel mundo nuevoに変わったとき、「主語」もまた新しい主語になっている。主語の意識がかわったときと、主語は新しいいのちを生き始める。世界は、そうやって変化しづける。世界に存在するといえるのは、この運動だけである。
 一度目の目覚めで「rencor」という感情に気づく。二度目の覚醒で「rencor」に「feliz 」が結びついていることに気づく。そして、この場合、絶対的覚醒の方が、最初の目覚めを支配してしまう。生まれ変わる。「rencor」に「feliz 」が結びついているというよりも、「rencor」から「feliz 」が誕生してくる感じだ。
 どちらが重要かは、あまり大事ではない。「生まれ変わる」という運動の方が大事だからである。生まれ変わるとき、その肉体のなかには、過去の「血(いのち)」が引き継がれる。これは、人間も、感情もことばも同じこと。

 「生まれる/生まれ変わる」に限らず、運動はもちろん「主語/存在」を必要とする。「私」がいなければ「感情」もない。「私(主語/存在)」がなければ運動は描写できない。しかし、運動をともなわない存在は、存在したことにならない。「私」にしろ「感情」にしろ、それはまだ形にならず「混沌」のなかで、生まれる前のままでいると考えている。「ことば」になって生まれるという「運動」のなかで「主観/精神」と「客観/肉体」を統合される、というのが私の「一元論」。

 私は、ことばがどんな運動をしているかを読みたい。ことばの運動に焦点をあてて、文学を読んでいる。

 

 

 

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「敵基地攻撃」改称論

2022-01-30 09:56:05 |  自民党改憲草案再読

 読売新聞の政治面。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220129-OYT1T50255/ 

「敵基地攻撃」改称論…自民「反撃」「打撃」案、公明「先制と誤解も」
↑↑↑↑↑
 なぜ「改称」なのか。なぜ「ことば」なのか。
 この問題は、よく考えてみないといけない。「戦争法」のとき「集団的自衛権」ということばが飛び交った。そして、そのことばは、多くの人によって、次のように誤解された。「日本が中国や北朝鮮から攻撃されたら、日本だけでは対抗できない。アメリカの協力だけでも不可能だ。近隣諸国と共同して(集団になって)日本を守る(自衛する)しかない。集団的自衛権は、日本にとって重要な防衛政策である」。
 これは「日本の自衛隊が集団的自衛権を行使する」という文脈を無視している。つまり「集団的自衛権」の「主語」が「自衛隊」であることを忘れた論理である。しかし、この「主語」をぬきにした論理、主語を「近隣諸国」にすりかえた論理が、安倍を支持するサイトで横行した。
 「集団的自衛権の主語は自衛隊」と説明しても、だれひとり納得しない。「集団」も「自衛」も誰もが知っていることばである。その知っていることばを自分の知っている定義で組み立て直して理解する。政治家は、その「国民の日本語能力」を利用する。
 今回の場合、どうか。

 「敵基地攻撃」。「敵」も「基地」も「攻撃」も知っている。敵は中国、北朝鮮。基地はミサイルを配備している場所。攻撃は、ミサイルを打ち込むこと。つまり、中国や北朝鮮のミサイルに向けて日本がミサイルを発射するのが「敵基地攻撃」である。どこにも間違いがないのだが、これでは「自衛」の感じがなくなる。「自衛」の感じを出さないと、国民に受け入れてもらえないのではないか、と心配しているのである。
 「戦争法」では「集団的自衛権」が絶大といっていいほどの効果を上げた。名称が「日米共同戦争権=アメリカが攻撃されたら、いつでもどこへでも自衛隊を派遣し戦争できる法律)」だったら、国民の受け止め方は違っていただろう。
 自民党の一部や公明党が狙ってるのは、どうやって「自衛権」の要素を盛り込むか。どうすれば国民の目をごまかせるか。そのための「ことば探し」である。

 記事にこう書いてある。

 政府・与党内で、敵のミサイル発射基地などを自衛目的で破壊する「敵基地攻撃能力」の呼称見直しが、能力保有に向けた議論の焦点の一つに浮上している。特に、保有に慎重姿勢の公明党には、国際法に抵触する恐れのある「先制攻撃」と混同されかねないとの懸念が強い。
 公明の北側一雄副代表は27日の記者会見で、「もっと違った表現にしてもらいたい。言葉として、『敵基地』も『攻撃』もふさわしくない」と述べた。
↑↑↑↑↑
 「自衛目的」と、まず書いている。「自衛目的」なら何をしてもいいという感じを出すための工夫をしようとしている、ということである。まあ、これは、「戦争法」が問題になったとき「創価学会の女性たちが戦争法に反対している」をアピールしたのに似ている。なんとしても「戦争に反対している党」をアピールしたいというだけであって、戦争に反対というわけではないのだ。(反対アピールしただけで、創価学会の女性たちが、自民党、公明党以外の党に投票したかどうかは、結局はわからない。わかっているのは公明党が議席を減らさなかったということだけである。)戦争に反対している(戦争反対という意見は持っている)とアピールするけれど、戦争には賛成というのが公明党(創価学会)の「戦略」なのである。

 問題は。

 こういうとき、こういう「事実」をどう報道するかである。読売新聞は、ただ「こういう動きがある」とだけ書いている。「こういう動き」に対して、読売新聞はどういう立場をとるのかを書いていない。事実を伝えるために、どういうことばを選択するか、という姿勢を示していない。
 政府がつかえば、それをそのまま正確にコピーして伝える、というだけだろう。
 これは平成の天皇の「生前退位」報道のときとおなじである。誰が、何のために「生前退位」という「造語」を生み出したのか。(平成の皇后が、誕生日の談話で「生前退位」ということばを聞いたことがない、と語ったために、「生前退位」という表現を思いついた人間が特定されそうになった。そのため、あわてて「生前退位」ではなく「退位」という表現に切り換えた。まず読売新聞が、その先陣を切った、ということを絶対に忘れてはいけない。)
 「ことば」には「ことばを選択する」ときの「意思」がある。その「意思」にまで踏み込んで「ことば」を見つめないといけない。
 いま見つめなければならないのは、「敵基地攻撃」を「改称」することで、ほんとうに狙っているのは何か、ということである。
 私は、次の部分に注目した。
↓↓↓↓↓
 北側氏には、近年は移動式発射台や潜水艦からのミサイル発射が可能となっていることに加え、ミサイル攻撃だけが脅威ではないため、標的は「敵基地」に限らないとの思いがある。
↑↑↑↑↑
 「ミサイル基地攻撃だけではダメだ」と、ほんとうはいいたいのだ。つまり、もっと軍備を増強する必要がある。「移動式発射台や潜水艦からのミサイル発射」に対抗するために、日本も「移動式ミサイル発射台」や「ミサイル発射ができる潜水艦」を導入すべきだという方向へ論を展開したいのだ。
 そういう方向へ論を展開していくために、自民党は公明党を利用しているし、公明党はそれを知りながら自民党の「お先棒担ぎ」を嬉々としてやっている。「反戦公明党」をアピールしながら「戦争大好き公明党」を隠せる絶好の機会だからだ。「戦争法」のときとおなじだ。
 そして、この背後には。
 国民への配慮なんかは、まったく、ない。アメリカの軍需産業を儲けさせ、その見返りに「日本の国会議員」でありつづけるという「保身」の思いしかない。
 いったん戦争がはじまれば、極限状況に達するまで、戦争は終わらない。沖縄、広島、長崎だけではない。第二次大戦後のアメリカのかかわった「戦場」を見れば、すぐにわかる。どんな戦争も「自衛」を名目にはじまり、「反撃」を名目に拡大していく。「改称」するなら、そういう事実を隠すのではなく、もっと明確になるように改称すべきなのだ。
 自民党が進めているのは「敵基地攻撃」能力のアップではなく、「敵攻撃誘発」システムの完備なのである。日本が軍備を増強すればするほど、敵(中国、北朝鮮?)は日本の基地を攻撃するための準備を進めるだろう。名目は、やはり「自衛」なのである。日本から侵略されないために。なんといっても、日本は中国や北朝鮮に侵略している。「自衛力/防衛力」を増強しようとするのは当然のことだろう。
 侵略戦争への反省と、その戦争に関する近隣諸国との「共通認識」を形成するということからはじめないと何も解決しない。アメリカの手先になって、というか、アメリカの言うがままにアメリカの軍需産業に金をつぎ込み、国民は貧乏を強いられるだけだ。

 それにしてもなあ。
 こんな記事を嬉々として書いている読売新聞が信じられない。
 「敵基地攻撃」が「敵基地反撃」に改称されたら、読売新聞が報道した通りになった、とはしゃぐつもりなのか。読売新聞が報道したから「敵基地反撃」になった、そして国民が納得できるものになった、読売新聞は世論をリードする新聞である、というつもりなのかもしれない。

 

 

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