ガルシア・マルケス 文体の秘密(5)
「一元論」についてビジターのGladys Arango Hern ndez から質問を受けた。そのとき、こう答えた。
La definicion de monismo es dificil.
Creo que hay diferencias en la definicion dependiendo de la persona.
Escribo mi forma de pensar.
No distingo entre cuerpo y mente.
No distingo entre yo y los demas.
No distingo entre yo y las cosas (por ejemplo, arboles y rios).
Reconozco el mundo como "caos". "Caos" significa que la forma es indefinida y no hay distincion.
Entonces, el mundo aparece frente a mi segun sea necesario.
Creo que estas aqui porque tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece como tu.
Leo la palabras las de Garcia Marquez. Cree que tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece frente a mi como las palabras de Garcia Marquez.
Reconozco la existencia de los seres humanos (mi existencia) asi.
すこし抽象的すぎたかもしれない。
私がこれまで書いてきたことに触れながら、
書き直してみる。
「oxymoron」は、私の考えでは「一元論」に通じる。「el rencor feliz 」はrencorとfeliz が強く結びついたものである。el rencor feliz =rencor+feliz 。ここにはrencor→feliz とrencor←feliz のふたつの動きがある。これは、区別がつかない。前者が後者を結びつけたのか、後者が前者を結びつけたのか、区別がない。どちらでもいい。そこにはただ「運動」があるだけである。まだ名づけられない「感情」がある。この「名づけられる前の感情」を「混沌」と呼ぶ。ここから「 rencor 」だけが姿をあらわすとき「感情は「rencor」になる。「feliz 」があらわれるとき「feliz 」になる。しかし、「rencor」も「feliz 」もすでに私たちになじみのある感情である。彼女が感じたものは、そういう私たちの知っている感情ではない。新しい感情である。「rencor」と「feliz 」が分かちがたく結びついた感情。その結びつきの「運動」が、結びついたまま「世界」へあらわれた。ことばは、その「運動」を、そのままあらわしている。そして、そのとき「世界」とは「ことばの運動」である。「ことば」の運動から、そのとき、その瞬間に「世界」があらわれる。これが、私の考えている「一元論」である。
「oxymoron」は、意識の絶対的な覚醒である。「rencor」と「feliz 」という結びつきは、ふつうの感情ではありえない。しかし絶対的な覚醒のなかでは、それはあり得る。新しい感情なのである。
Era como estar despierto dos veces. (p92)
という文章がある。「despertar dos veces 」を「一元論」から見つめなおしてみる。これは、一度目覚めたあと、もう一度新しい世界に目覚めるということである。
despertar una vez (=primera vez )y ver el mundo→despertar dos veces (=segunda vez )y ver el mundo nuevo
このとき「→(運動)」の「主語」は「人間」であるが、el mundoがel mundo nuevoに変わったとき、「主語」もまた新しい主語になっている。主語の意識がかわったときと、主語は新しいいのちを生き始める。世界は、そうやって変化しづける。世界に存在するといえるのは、この運動だけである。
一度目の目覚めで「rencor」という感情に気づく。二度目の覚醒で「rencor」に「feliz 」が結びついていることに気づく。そして、この場合、絶対的覚醒の方が、最初の目覚めを支配してしまう。生まれ変わる。「rencor」に「feliz 」が結びついているというよりも、「rencor」から「feliz 」が誕生してくる感じだ。
どちらが重要かは、あまり大事ではない。「生まれ変わる」という運動の方が大事だからである。生まれ変わるとき、その肉体のなかには、過去の「血(いのち)」が引き継がれる。これは、人間も、感情もことばも同じこと。
「生まれる/生まれ変わる」に限らず、運動はもちろん「主語/存在」を必要とする。「私」がいなければ「感情」もない。「私(主語/存在)」がなければ運動は描写できない。しかし、運動をともなわない存在は、存在したことにならない。「私」にしろ「感情」にしろ、それはまだ形にならず「混沌」のなかで、生まれる前のままでいると考えている。「ことば」になって生まれるという「運動」のなかで「主観/精神」と「客観/肉体」を統合される、というのが私の「一元論」。
私は、ことばがどんな運動をしているかを読みたい。ことばの運動に焦点をあてて、文学を読んでいる。