ガルシア・マルケス 文体の秘密(4の追加)
(これは、フェイスブックのガルシア・マルケスのサイトのために書いた文章です。いままで書いたものも、そこで書いたものです。)
「oxymoron」ということばを知った。日本語では「撞着語」というらしい。そういう「用語」があることを知らなかった。それで、日本語には「撞着語はない」と書いてしまったが、調べてみたら、ある。
「愚かな賢者」「明るい闇」の類。森鴎外には、たしか「水が黒く光った」という表現がある。光の反射がまぶしくて、白ではなく、黒の方が視覚に飛び込んできた。まぶしさの強調である。何かを強調するとき「撞着語」がつかわれる。「論理」としてではなく、一瞬の「感覚」として。そこには、意識のスピードがある。早く動く意識だけがとらえることのできる世界だ。
Garcia Marquez の文体の特徴を「スピード」にあると私は書いてきたが、「oxymoron」もまたその精神のスピードがとらえた世界のあり方と言えるだろう。
私が大好きな、次の表現もまた、ある意味で「oxymoron」と言えるだろう。
Era como estar despierto dos veces. (p92)
人間が目覚めるのは一度だ。二度目覚めることはできない。マルケスがここで書こうとしているのは、「最初は現実の世界に目覚めた」、これは「肉体が目覚めた」ということ。しかし、次に「精神が目覚める」。「二度目は、精神が目覚めたので違った世界が見えた」ということだ。主語は「肉体」から「精神(あるいは感覚)」へとうつりかわっている。この瞬時の移り変わりが「oxymoron」ということばの背後にある。
そして書くということ、ことばにするということは、最終的には「oxymoron」と深い関係がある。「肉体の目覚め」から「精神の目覚め」の変化、その移行には、いままでつかってきたことばでは伝えられないことがある。それを表現するためには、いままで「矛盾(間違い)」と考えられてきたことを「矛盾ではない」と書き換えることだからだ。いままでのことばでは書けない「別の真実」を書くためには、「矛盾」を跳び越えなければならないのだ。そのためには「スピード」が必要。「助走」が必要。また最初にもどってしまうが、そう思った。
「oxymoron」は日本語の場合、「愚かな賢者」「明るい闇」のように「慣用句」が多い。造語(?)は「現代詩」には見られるが、日常会話では絶対にないと言えるくらいに少ない。(私は思い出せない。)
しかし、スペイン語圏の人には、「oxymoron」はふつうのことなのかもしれない。インターネットのコメント欄に書き込まれるくらいなのだから。