クリント・イーストウッド監督『クライ・マッチョ』(★★★★★) (2022年01月15日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン8)
監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、闘鶏の鶏
クリント・イーストウッドが魅力的なのは、描きすぎないことである。もっと見たい、と思った瞬間に、もうそのシーンはない。少し見せればいい。少し見て、あとは観客が自分の知っていることを思い出し、そこから考え、感じればいい、という感じ。
冒頭の朝の光の中を走る車。その朝の光に透けながら輝く木立の葉っぱ。そういう光と木の葉の感じは、たしかにどこかで見た記憶がある。どこだろう。はっきりと思い出せない。見ていないかもしれない。でも、見たと思わせる。もう一度見たい、と思う。その瞬間、もうカメラの位置は違っている。
光、その「光線」を感じさせるシーンは、ほかにもある。イーストウッドが車にかがみ込む。そのとき逆光、太陽の片鱗のようなものが、さーっと差し込み、あ、美しいと思ったら、もう見えない。見えなかった人には見えなくてもいい、という感じかなあ。
こういうことが、もしかしたらこの映画のテーマかもしれない。
ひとはそれぞれ自分の人生を生きている。自分の人生にも、他人の人生にも、見える部分もあれば見えない部分もある。太陽の光と違って、人の放つ光、人の出会いは規則的ではない。偶然であって、その出会いが、なにかの光のように他人の(自分の)一部を透明な光でつつむ。なんでもないことかもしれないが、それが忘れられない何かになる。
イーストウッドが少年に乗馬を教えるシーンが好きだなあ。どうやって馬と接するか。支配するのではなく、一緒に生きる。早足で走るとき、スピードアップをするとき手綱で指示するのではなく、体重のかけ方をかえる、というのなど、なるほどなあ、と思う。乗っている人の体重の移動が、自然に馬を「押す」形になる。おんぶされている人が体重を前にかけると、おんぶしている人の体は自然に前のめりになる。体が前のめりになると、足が少し早く動く。バランスをとるためにね。そのあとの「姿勢」についても、なんでもないようだけれど、馬が楽になるような、そして乗っている人が楽になるような姿勢である。
相手も、私も。
この相互に「楽」な感じが、たぶん、いまのイースウッドが私たちにつたえたいものなのかもしれない。父と子の関係、男と女の関係、友人の関係。互いに、相手の小さな部分にさっと光を当て、私は、それを見たよ。私は、それが好きだよ、と言う。これだけで、ひとはひとと一緒に生きていける。
そして、こういうことは、まあ、忘れられてもいいことかもしれない。世界を変える人間ではない。でも、そのとき世界は変わっている。個人個人にとっては、ね。実際、この映画では、少年もイーストウッドも「新しい」世界を手に入れる。彼らの「世界」が変わる。誰も注目していないけれどね。それがいいんだね。
ラストの一瞬前。
少年が、大事にしていたマッチョ(鶏)をイーストウッドに渡す。あげる。これ、いいねえ。さっと描いている。イーストウッドが、「焼いて食べてしまうかもしれない」と冗談めかして言う。少年は「だめだよ」とは言わない。冗談だとわかっているから、というよりも、もっと大きな何か。少年は生まれ変わったのだ。「マッチョ」が彼の支え(理想)ではなくなったのだ。少年が「マッチョ」を超えたのだ。それを「信頼」という形(抗議しないという形)で、ぱっと描き、ぱっと打ち切る。
演技させるのではなく、演技させない。「人工的なもの/作為的なもの」にしないということかなあ。
イーストウッドの車と牧場の馬が並行して走るシーンも、なんでもないのだけれど、馬が美しくていいなあ、と思う。