詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガルシア・マルケス 文体の秘密(1)

2022-01-18 10:33:47 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(1)

 フェイスブックのなかにスペイン語圏のひとたちがあつまっている「マルケスのグループ」がある。そこに書き込みをすると、ある人は言う。マルケスを理解するにはスペイン語がわからないとだめだ。カリブの歴史や風土がわからないとだめだ。
 でも、そういう批判をする前に、どうして「君はマルケスをどう理解しているか」「どの小説の、どの部分が好きなのか、その感想を聞かせてくれ」と言わないのか。
 いま、私が読んでいる『予告された殺人の記録』(ペンギンブックス)で、私は私の考えていることを書いてみよう。(これは、フェイスブックで書こうとしていることの、日本語バージョン。前回書いたことと重複する。)

「あのときは、二重に目を覚ましているような気がしたよ」その言葉を聞いてわたしは、留置場にいた彼らにとって何よりも辛かったのは、正気だったことにちがいないと思った。(92ページ、訳・野谷文昭)
《Era como estar despiertos dos veces.》Esa frase me hizo pensar que lo m s insoportable para ellos en la calabozo debi  haber sido lucidez. (ペンギンブックス、92ページ) 
 「二重/dos veces 」と「正気/lucidez 」。マルケスが、自分自身の「文体」の秘密、苦悩を語っているる。
 想像の世界は、ことばを書くことによって鮮明になる。すでにある想像を、ことばで再現する。これは世界を「二重」に目覚めさせることである。書くことによって、見えなかったものまで見えてくる。それから逃げることはできない。マルケスにとって何よりも辛かったのは、書けば書くほど現実を超えて鮮明になってしまう世界のなかで、彼がいつまでも「正気」でいることだったに違いない。
 ことばで書いた世界が「でたらめ」なら問題はない。「夢物語」ですますことができる。どこまでも「正確な現実」だから苦しいのだ。

 そして、この「二重」と「正気(正確)」は、日本語の翻訳ではなかなか指摘が難しいが、スペイン語で読むと「強調」という形であらわれていることがわかる。
 私は、このサイトでいくつかの質問をした。それはいずれも「強調構文」に関する質問である。たぶん、ネイティブであるひとたちは、それがあまりに口語的なので(日常的なので)強調構文と気づかない。(何度も質問しているうちに、何人かのひとが「強調」であると、私の感じ方を支持してくれた。)
p.61
(1) fueron a esperarlo 
(2) lo fueron a esperar
(1)を(2)と書き直すとき、マルケスはもう一度目を覚ましている。二重に目を覚ましている。「彼(サンチアゴ)」を待っているを強調している。
P 69
(3)cuandl lo viera 
(4)donde lo viera
(3)を(4)と書き直すとき、マルケスは、もう一度目を覚ましている。あした、来週、サンチアゴに会ったなら、ではなく、それがどこであれ、サンチアゴに会ったならと「緊急性」を強調している。
P 78
(5)no nos ocurrio que..(=no pensamos que...). 
(6)no se nos ocurrio que...
 (6)の「意味」をスペイン語圏のひとの多くは「思わなかった/no pensamos 」としきりに説明してくれたが、私の知りたいのは「辞書的言い換え」てはなく、そのことばをつかうときの人間の「感情/感覚」なのである。
 (5)に「se」を追加することで、それが「予想外」であることを強調している。
 (5)自体が「まさか、そうとは思わなかった」という意味になるが、(6)のように「se」がつくと、日本語でいえば「夢にもそうとは思わなかった」くらいの、もっと予想外、意識できない感じになると、私は感じている。(そこまでの回答を聞き出すには、私のスペイン語では不可能だった。)
 マルケスには、単に「事件」を報告しているのではない。事件の背後にある「意識の運動」を書いている。「事件」を書くのは、一度目覚めること。その「事件」の登場人物の意識がどう動いているかを書くのは、もう一度目覚めること。「二重に」目覚めること。
 マルケスは、殺人事件の経緯を書いているのではない。新聞報道なら「事実関係」だけでいい。しかし、小説だから、人間を描かないといけない。人間とは「意識」のことである。マルケスは「事実」と「意識」を組み合わせる。「二重」に書く。そして「意識」の方を重視している。
 「事件」だけではなく、その「事件」に関係するひとびとの「意識」(精神/心情)の全部が理解できたとしたら、それはとても苦しいことだ。裁判なら、だれが「有罪」であるかわかれば決着する。しかし、小説ではだれが「有罪」かよりも、人間がどう考えたかが重要だ。彼らの苦しみは、どんなふうに解消できたのか。それとも苦しいまま生きていったのか。
 マルケスは、殺人をおかした双子の意識も、友人たちの意識も、殺人のきっかけになった娘の意識も、全部、わかっている。これでは、だれに「同情」していいのか、わからない。だれかひとりに同情していいのなら簡単だ。全部が見えてしまって、それでも「正気」でいる、正しい判断をするというのは目眩が起きそうなことだ。とても正気ではいられない。
 でも、それをマルケスは「正気」として書く。
 「強調構文」の積み重ねとして、事件をドラマチックに描く。私は、マルクスの「強調構文」のつかい方に、魅了されている。
 その魅力を、スペイン語圏の人と一緒に味わいたくて、フェイスブックで質問した。

 そして。
 いま書いたことだけでは、たぶん、私の書こうとしていることは、日本人にもスペイン語圏の人にも伝わらないが、この次に書く予定の部分で(私がいちばん好きな部分で)、「二重/dos veces 」と「正気/lucidez 」が少し違った形で繰り返されるのだ。つまり、その部分こそがマルケスがこの小説で書きたかったことだとわかるようになっているのだ。野谷の訳文でも感動したが、スペイン語で読むと、マルケスの書いていることがさらに鮮明に「ことば」そのものとしてつたわってくる。しかもそれは複雑なことばではなく、NHKラジオ講座の初級編を終わればわかることばなのだ。強い感情は、いつもつかっていることばのなかで生きている。それが、ほんとうに、手にとるようにわかる。(この文章は、したがって、次回の予告です。)

 また、私は、こんなことも思う。
 世界には「現実の世界」と「架空の世界(想像の世界)」がある。しかし、「ことば」「文体」には「架空のことば」「架空の文体」はない。書いた瞬間、語った瞬間、それは「現実に存在することば」「現実に存在している文体」になってしまう。あるジョイスの「フィネガンズウィーク」でさえも。この不思議な力の前で「正気」でありつづけるのは、とても困難なことである。しかし、多くの作家は、その「作家を苦しめる正気」と戦い、「正気」でありつづけている。
 だから文学はおもしろい。小説も、詩も。文学がおもしろいのは「ストーリー」よりも「文体」。だからこそ、ひとは知っているストーリーを何度でも読むことができる。
 「文体」は。
 たとえば、絵で説明しなおすと、ピカソとマチスが「同じ題材(たとえばバラ)」を「同じアングル」「同じ絵の具」をつかって書いたとしても、絶対に同じバラにならない。「スタイル」が違う。これは「視覚」の世界なので、わりとわかりやすい。
 これがクラシック音楽の演奏になると、私には指揮者、楽団が変わったからといってベートーベンの「運命」が違って聞こえるわけではない。私は「音楽の文体」が理解できていないからだ。
 ことばの「文体」になると、説明がぐんと難しい。「視覚化」しにくい。「聴覚化」からである。「感覚」に訴えることができない。ほんとうは感情が、意識が動いているが、それには「気づきにくい」。
 たまたまスペイン語でマルケスのことを書いているので、スペイン語を例に言いなおすと。
 日本語とスペイン語はまったく違う言語である。だから違いがあるということがわかる。しかし、同じスペイン語でも、マルケスとジョサでは「文体」が違う。そして、その違いは日本語とスペイン語の違いよりも大きい。偉大な作家は、共通言語ではなく、それぞれ個別の「マルケス語」「ジョサ語」で書いているからだ。日本語でいえば「鴎外語」と「漱石語」「村上春樹語」がちがうようなものだ。
 文学は、旅行でつかう「外国語」とはちがうのだ。

コメント
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