ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)
『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』を最初に読んだときの驚きは、小説が「ハッピーエンド」で終わらないことだ。殺人事件は起きてしまっている。どうしたってSantiago Nasarは生き返らない。そうであるなら、生き残ったAngela VicarioとBayardo San Roman が幸福になること以外に「結末」はないからである。
しかし、そこまで書いたあとで、ガルシア・マルケスは「最初」にもどるのだ。最後に「殺人」が復習のようにして再現されるのだ。
私は「doc veces 」と「lucidez 」がこの小説のキーワードだと書いた。その「doc veces 」「lucidez 」が、最後の章である。
殺人事件(現実)は、一回(una vez )起きる。それは最初(primera vez )である。このとき、私たちはそれがどういうことなのか「意味」がわからない。「正気(lucidez )」のつもりでいるが、「意味」がわからないのだから、まだ「正気(lucidez )」は目覚めていない。眠っているようなものだ。見たもの、聞いたものを、ことばを通して再現するとき、殺人事件は「真実」になる。「正気(lucidez )」が見た「現実」だ。
みんな「正気(lucidez )」にもどりたい。だから、みんなが自分の目撃したことを語りたい。語ることで「真実」をつかみたいと思っている。語ることで、殺人事件は「二度(dos veces )」起きるのだ。「正気(lucidez )」にもどるためには、語ることで、殺人事件を「二度(dos veces )」起こすしかないのだ。
そして、ことばを通して起きる「二度目の殺人事件」は「一度目の殺人事件」よりも、より鮮明で強烈だ。私は、Angela Vicarioが「生まれ変わった」あとの描写も大好きだが、この「二度目の殺人事件」の描写も大好きだ。残酷でむごたらしいのに、わくわくしてしまう。切りつけても切りつけても死なないSantiago Nasar。双子の兄弟の絶望に、思わず共感してしまう。現実には、共感などしてはいけないのだが、小説なので共感してしまう。それは、クライマックス中のクライマックスの描写についてもいえる。
Hasta tuvo cuidado de sacudir con la mano la tierra que le quedó en las tripas.(P137)
実際に見てしまったら、ぞっとするかもしれない。しかし、この光景を見たWenefrida Marquez はなんという幸運なのだろうと思う。そういう光景を見ることができるひとは、きっと誰もいない。世界でたったひとり、彼女だけが体験したのだ。それを語るとき、しかし、彼女は「正気(lucidez )」のままである。「正気((lucidez )」でないなら苦しくないが、「正気(lucidez )」のままそれを語らなければならない。これは、幸福であると同時に、とても苦しいことである。
これはガルシア・マルケスも同じこと。
人間が引き起こした不幸。それをすべての登場人物の「正気(lucidez )」として描き、それでもなおまだ「正気(lucidez )」でいる。これは、つらいことに違いない。
書く順序が逆になったかもしれないが……。
「正気(lucidez )」ということばは、この最終章にもつかわれている。きちんと読み返したわけではないが、この小説では「正気(lucidez )」がつかわれるのは、前に紹介した部分と、次の部分。Santiago Nasarが瀕死の状態で自宅へ帰るシーン。
Tuvo todavía bastante lucidez para no ir por la calle, que era el trayecto más largo, sino que entró por la casa contigua.(P136)
そして、最後のセリフ。
Que me mataron, niña Wene.
「正気(lucidez )」とは何とつらいことだろう。
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この小説に限ったことではないが、文学とは「二度(dos veces )」の世界なのだ。現実にあったことが「最初の一回(primera ves =una vez )」。それを「ことば」にして再現するとき、それは「正気(lucidez )」が見た「二度目(segunda vez =dos veces )」なのだ。
そして、「最初の一回(primera ves =una vez )」は長いのに対して、「二度目(segunda vez =dos veces )」は短い。それは書き出しからAngela Vicarioの幸福までの長さと、最後の章の長さを比較するだけでもわかる。Garcia Marquezは、ことばを加速させ、激しく暴走する。そのリズムがとても効果的だ。強調構文を積み重ねて、想像力を爆発させる。
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キーワードについて。私はキーワードということばを「キー概念」とは違った意味でつかっている。「キー概念」は、ある文章のなかで何度もつかわれる。その文書を要約することばである。私がいうキーワードは、たいていの場合一回しか出てこない。それをつかわないとことばが動かないときだけつかわれる。『予告された殺人の記録』では「dos veces 」。私が読んだ限りでは、これは一回だけつかわれている。そして、もうひとつの「lucidez 」も二回だけ。誰もが知っている。しかも、最小限度の回数しかつかわれない、作者の無意識になってしまっていることばを、私はキーワードと呼んでいる。