詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

2022-01-24 15:23:08 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』を最初に読んだときの驚きは、小説が「ハッピーエンド」で終わらないことだ。殺人事件は起きてしまっている。どうしたってSantiago Nasarは生き返らない。そうであるなら、生き残ったAngela VicarioとBayardo San Roman が幸福になること以外に「結末」はないからである。
 しかし、そこまで書いたあとで、ガルシア・マルケスは「最初」にもどるのだ。最後に「殺人」が復習のようにして再現されるのだ。
 私は「doc veces 」と「lucidez 」がこの小説のキーワードだと書いた。その「doc veces 」「lucidez 」が、最後の章である。
 殺人事件(現実)は、一回(una vez )起きる。それは最初(primera vez )である。このとき、私たちはそれがどういうことなのか「意味」がわからない。「正気(lucidez )」のつもりでいるが、「意味」がわからないのだから、まだ「正気(lucidez )」は目覚めていない。眠っているようなものだ。見たもの、聞いたものを、ことばを通して再現するとき、殺人事件は「真実」になる。「正気(lucidez )」が見た「現実」だ。
 みんな「正気(lucidez )」にもどりたい。だから、みんなが自分の目撃したことを語りたい。語ることで「真実」をつかみたいと思っている。語ることで、殺人事件は「二度(dos veces )」起きるのだ。「正気(lucidez )」にもどるためには、語ることで、殺人事件を「二度(dos veces )」起こすしかないのだ。
 そして、ことばを通して起きる「二度目の殺人事件」は「一度目の殺人事件」よりも、より鮮明で強烈だ。私は、Angela Vicarioが「生まれ変わった」あとの描写も大好きだが、この「二度目の殺人事件」の描写も大好きだ。残酷でむごたらしいのに、わくわくしてしまう。切りつけても切りつけても死なないSantiago Nasar。双子の兄弟の絶望に、思わず共感してしまう。現実には、共感などしてはいけないのだが、小説なので共感してしまう。それは、クライマックス中のクライマックスの描写についてもいえる。

Hasta tuvo cuidado de sacudir con la mano la tierra que le quedó en las tripas.(P137)

  実際に見てしまったら、ぞっとするかもしれない。しかし、この光景を見たWenefrida Marquez はなんという幸運なのだろうと思う。そういう光景を見ることができるひとは、きっと誰もいない。世界でたったひとり、彼女だけが体験したのだ。それを語るとき、しかし、彼女は「正気(lucidez )」のままである。「正気((lucidez )」でないなら苦しくないが、「正気(lucidez )」のままそれを語らなければならない。これは、幸福であると同時に、とても苦しいことである。
 これはガルシア・マルケスも同じこと。
 人間が引き起こした不幸。それをすべての登場人物の「正気(lucidez )」として描き、それでもなおまだ「正気(lucidez )」でいる。これは、つらいことに違いない。
 書く順序が逆になったかもしれないが……。
 「正気(lucidez )」ということばは、この最終章にもつかわれている。きちんと読み返したわけではないが、この小説では「正気(lucidez )」がつかわれるのは、前に紹介した部分と、次の部分。Santiago Nasarが瀕死の状態で自宅へ帰るシーン。

Tuvo todavía bastante lucidez para no ir por la calle, que era el trayecto más largo, sino que entró por la casa contigua.(P136)

 そして、最後のセリフ。

Que me mataron, niña Wene.

 「正気(lucidez )」とは何とつらいことだろう。

 この小説に限ったことではないが、文学とは「二度(dos veces )」の世界なのだ。現実にあったことが「最初の一回(primera ves =una vez )」。それを「ことば」にして再現するとき、それは「正気(lucidez )」が見た「二度目(segunda vez =dos veces )」なのだ。
 そして、「最初の一回(primera ves =una vez )」は長いのに対して、「二度目(segunda vez =dos veces )」は短い。それは書き出しからAngela Vicarioの幸福までの長さと、最後の章の長さを比較するだけでもわかる。Garcia Marquezは、ことばを加速させ、激しく暴走する。そのリズムがとても効果的だ。強調構文を積み重ねて、想像力を爆発させる。

 キーワードについて。私はキーワードということばを「キー概念」とは違った意味でつかっている。「キー概念」は、ある文章のなかで何度もつかわれる。その文書を要約することばである。私がいうキーワードは、たいていの場合一回しか出てこない。それをつかわないとことばが動かないときだけつかわれる。『予告された殺人の記録』では「dos veces 」。私が読んだ限りでは、これは一回だけつかわれている。そして、もうひとつの「lucidez 」も二回だけ。誰もが知っている。しかも、最小限度の回数しかつかわれない、作者の無意識になってしまっていることばを、私はキーワードと呼んでいる。

 

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ことばの読み方

2022-01-24 00:36:00 | 考える日記

ことばの読み方

 私は特別変わったことばの読み方をしているとは思わなかったが、マルケスのサイト(スペイン語)で対話していて、私の読み方が他の人とは違うことに気がついた。みんなが「文学を楽しめ」としきりに言うのだ。私は私で楽しんでいるのだが、どうも楽しんでいるようには見えないらしい。あまりに何度も言われるので、みんなのやっていることとどこが違うのか考えてみた。多くの人が、作品の「一部」だけを引用して、何もコメントしていない。これ何? これが「楽しむ」ということ?
 で、気がついたのだ。

 音楽を例にすると、きっとわかりやすくなる。
 音楽は、たいていは「聞く」。聞いて楽しむ。ところが、音楽にはほかに「演奏する」楽しみもある。私は「聞く」ではなく、「演奏する」という方の楽しみ方なのだ。
 楽譜がある。読むと音が聞こえてくる。あ、この音(メロディー)がいいなあ。この部分をもっとも印象づけるにはどういう演奏方法があるだろう。それを考えるように、私はことばを読むとき、これはどんなふうに全体のなかで位置づけ、どこを強調すればいちばん強烈に印象に残るか、と考え、そこで考えたことを書いている。それを考えるのが楽しみ。
 全体を「聞く」だけでは満足できないのだ。「聞く」で満足するときも、ある人の演奏、別の人の演奏と聞き比べて、こっちの方が好き、という感じで聞いてしまう。「ここの演奏の仕方が好き、嫌い」という感じ。
 読むときは、読みながら、こういう書き方の方が好き、と思ってしまうのだ。「書いてあること(テーマ、意味)」ではなく、「書き方」の方に興味があるのだ。

 飛躍するが。

 たぶん、これは「一元論」と関係している。私はあらゆる存在は、そのときそのとき、必要に応じて、私の目の前にあらわれ「世界」をつくりだしていると考えている。そのつど「世界のあらわれ方」があるだけで、確固とした世界はない。あるとすれば「混沌」があるだけ。
 ことばは「世界のあらわし方」なのだ。音楽は「演奏の仕方」なのだ。楽譜に戻していえば「作曲の仕方/音符の組み合わせ方」なのだ。実際に「演奏されたもの」「書かれてしまった作品」よりも、それが「あらわれてくる、そのあらわれ方」に興味があるのだ。「出現(させる)方法」に興味があるのだ。
 世界は「出現(させる)方法)」によって違ってくる、「世界=世界出現(させる)方法)」なのだ。

 だから、私は、どの作品を読むときでも、他の作品とほとんど関係づけない。関係づけるとしたら「ことばのあらわれ方/あらわし方」だけを関係づける。外国の思想家のことばをもってきて、詩を解説するということをしないのは、そういう理由による。その思想家にはその思想家の「世界のあらわし方」がある。それはいま読んでいる詩人の「詩のあらわし方」とは関係がない。その思想家と、その詩人が交渉して、それぞれに影響を与え合っているというのなら別だが。ふたりが交渉していないなら、それは「無関係」としか言いようがない。私にとっては。私とその思想家、私とその詩人という「一対一」の関係以外の何も存在しない。

 

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