詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川口晴美『やがて魔女の森になる』

2022-01-22 12:17:07 | 詩集

 

川口晴美『やがて魔女の森になる』(思潮社、2021年10月20日発行)

 川口晴美『やがて魔女の森になる』について、私は何を書けるか。直感として、テキトウなことを書くのだが、私の知っている人間で言うなら、石毛拓郎ならきちんと川口の文体の魅力を書くことができるだろう。私には、荷が重い。
 たとえば、詩集のタイトルと関係している「世界が魔女の森になるまで」。

ひとりになったら森へ行く
毎日そればかり考えながら目が覚める
アラームはちゃんと鳴ったのにお母さんが起こしに来て
のろのろパジャマを脱ぐわたしの身体をこっそりチェックしていること
気づいているけど黙ってる
わたしは妊娠なんかしないよそれより森に行きたい
こっちを見ないお父さんにおはようって声をかけるのは
殴ったりお風呂をのぞいたりしないならいいお父さんだよって
クラスメートが言ったのを忘れないため
森は遠い

 私は、ここまでで、すでに一篇の詩だと思う。つまり、もうこの段階で、私は「手いっぱい」になってしまう。そして、その「手いっぱい」の印象を引き起こすのが一行がだんだん長くなってゆくのに、それが突然、ふたたび、ぱっと短くなるということなのだ。持ちこたえて、持ちこたえて、ぱっと放り出す。その持ちこたえ方が、私にはつらい。
 何か重いものを持たされる。どこまで重いものが持てる、徐々に重さを追加される。この「追加」の感じが、とっても、いや。一つずつ、別の重さを持ち上げるというのなら、何と言うか「リセット」のリズムがあるからいいんだけれど、リセットではなく「追加」というのが、「拷問」を感じさせる。精神が、どんどん歪んでいく。そういうことに、私は耐えられない。それが私の体験ではなく、他人の体験でも、いやだなあ、という気持ちが先に立ってしまう。
 なにが、この「持続」(もちこたえる)感じを引き起こしているのか。もちろんことばそのものが(一行そのものが)だんだん長くなることもあるのだけれど。
 きっと。
 二行目の「ながら」だな。

毎日そればかり考えながら目が覚める

 「ながら」というのは二つのことを同時にすることだね。でも、そのとき、どっちの「動詞」の方に重心があるのかなあ。「考える」に重心があるのか、「目覚める」に重心があるのか。区別できないから、「ながら」といえば、まあ、それはそうだね。
 そして、この「ながら」は、奇妙な形でことばの奥に隠れ「ながら」あらわれている。それがまた、なんとも、いやあな感じ。どんな感じかというと、こういう感じ。

アラームはちゃんと鳴ったのにお母さんが起こしに来て
↓↓↓
アラームはちゃんと鳴ったの「を知っていながら」(そして、わたしがぐずぐずしているのを知っていて」お母さんが起こしに来て

 「ながら」は単に動詞の「並行」を意味しているのではない。なんというか、そこには幸福な「共存」があるのではなく、むしろねちねちとした「批判」がある。それは二行目の場合は「自己批判」だが、三行目になると「自己批判」を逸脱する。お母さんを批判するのに、奇妙な形で「ながら」が動いている。そして、「ながら」によって、わたしとお母さんが接続してしまう。
 こうなると、もうなにがなんだか、わからない。

気づいているけど黙ってる
↓↓↓
気づいてい「ながら」黙ってる

 いや、「ながら」とは書いてないんだけれど、読む方としては「ながら」と読んでしまうなあ。これは、もう「批判」ではなく「容認」。むしろ、それを利用する。母親にわかるように「わたしは妊娠なんかしないよ」は、ほら、こそっそりみるだけじゃなくて、しっかり見て、と体を見せつけている。
 で、その一行。

わたしは妊娠なんかしないよそれより森に行きたい

 突然あらわれる「それより」はなんだろうか、というと。
 これも私の「誤読」では「ながら」なのである。

わたしは妊娠なんかしないよ「と、こころのなかで言いながら」それより森に行きたい「と、こころで思っている」

 前の行の「気づいている」は「こころで気づいている(こころが気づいている)/こころのなかで思っている」。
 そのあとの行には、どんなふうに「ながら」を補えるか。どんなふうに「ながら」が隠れているか。

こっちを見ない「ようにしながら、こころでわたしを見ている」お父さんにおはようって声をかけるのは
殴ったりお風呂をのぞいたりしないならいいお父さんだよって「知っていながら」

のことなのだ。つまり、そういうことを知っているというのは、まあ、いろいろなニュースなどがあるからかもしれないが、川口は、こうつづけている。

クラスメートが言ったのを忘れないため

 クラスメートは、そういうことを経験している。それを「知っていながら」、わたしはクラスメートにわざわざそれを言わせているのである。同情をするふりをして、クラスメートのこころの傷を見つめている。
 同じ視線で、母親も父親も見ている。
 川口は、そんなことは書いていないというだろう。私の「誤読」だと。わたしは、そういう批判があることを「知りながら」、二行目の「ながら」から妄想を暴走させるのである。
 川口の詩は、何かしら「妄想」を暴走させる「装置」を隠している。石毛なら、そこのところを、もっと配慮のあることばで書くことができるだろう。

 

コメント
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