詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

雨が降っている。

2022-01-20 14:18:46 | 考える日記
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私の書いている感想(批評?)は、多くの人には、いったい何が言いたい?というものだと思う。
私は「書かれている事実(意味)」にはほとんど関心がない。
書き方に関心がある。
そう書くことで世界がどうかわったか。
もしそう書かなかったら、その世界はどんな具合になるのか。
それも「事実」ではなく「感情」がどう変わるのか、ということに関心がある。
 
これは、私なりの「一元論」と関係しているのだが、それに踏み込むと、すべてが「妄想」でかたづいてしまうので、ここでは書かない。
 
でもねえ。
どうしてみんな「おまえにはわからない」というのだろう。
わかりっこないだろう、他人のことなんか。
自分のことさえわからないのに。
わからないことはそのままにしておいて、わかることだけ考える。
たぶん「わかっている(と思っていること)」ことを捨ててしまう、無にしてしまうために。
 
言いなおすと。
「おまえにはわからない」と言われることは、ある意味で、私にとっては「究極の理想」なのだ。
他人に言われるのではなく、それを自分で発見するために書いているのだから、「究極の結論」をそんな簡単におしつけないで、と言いたい。
 
つたわらないだろうなあ。
 
 
 
 
 
 
 
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ガルシア・マルケス 文体の秘密(1の追加)

2022-01-20 11:31:08 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(1の追加)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』にはいくつもの「強調構文」が出てくる。野谷文昭の訳文では、それがわからない。というよりも、私はスペイン語版を読んで、マルケスの狙いは独自の強調構文の確立にあると感じ始めたのだ。そして、その「強調構文」は、ネイティブが気づきにくいということも気がついた。私がこれは「強調構文だ」と指摘しても、フェイスブックの「マルケス」のサイトのひとは何も感じてくれない。ひとりだけ、メキシコの言語学者が、私の指摘した「dos veces 」の問題に反応してくれた。
 本当は「ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)」の最後に、(1の補強)として書くつもりだったのだが、先取りして書いておく。私はアンヘラ・ビカリオと「私」との対話の部分がとても好きなのだが、そこにこんな文章が出てくる。ペンギンブックの109ページ。

 Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.

 「 desnudo」ということばにひきずられて見落としてしまいそうだが、「 la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.」がとてもおもしろい「強調構文」だ。
 ふつうは、
(1)ella (Angela Vicario) se despertó a causa de la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.
(2)ella (Angela Vicario) se despertó con la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama. 
あるいは
(3)la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama despertó a ella. 
と書くと思う。
 スペイン語は語順が英語のように厳密ではない。主語も省略できる。動詞の活用によって主語が何かわかるからである。だから順序も変えられる。
 この文章のポイントは「despertar 」という動詞のつかい方である。
 目が覚めるという意味でつかうとき(自動詞としてつかうとき)と「despertarse 」という形をとる。それが(1)(2)の文章。目を覚まさせる(他動詞)の場合は(3)になる。主語は「la certidumbre de que el estaba desnudo en su cama」と非常に長くなる。そのため「despertar 」という動詞の印象が弱くなる。これでは衝撃が弱い。
 それを避けるためには(1)(2)の文章になるのだが、このときは「a causa de」や「con 」が必要になる。そういう余分なものが入り込むと、「la (a ell)」と「 la certidumbre 」の結びつきが弱くなる。マルケスは、「la (a ell)」と「 la certidumbre 」を強烈に結びつけたかった。結びつきを強調したかった。そのために「a causa de」や「con 」を必要としない「文体」を選んだのだ。マルケスの文章を読むと「ell 」と「certidumbre 」が同時に強烈に迫ってくる。そして、このことばは一回目に書いた「 lucidez」につながることばである。
 ここに書かれている体験はアンヘラの「錯覚」なのだが、その錯覚は彼女にとっては「現実」なのだ。それを一瞬のうちにわからせるために書いたのが、この文章である。
 

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