ガルシア・マルケス ことばの選択(3)
どんな小説にも忘れられない文章がある。『予告された殺人の記録』)(新潮社、1983年4月5日発行)の92ページ。殺人犯の双子の兄弟は、この記録の話者と対話している。
「あのときは、二重に目を覚ましているような気がしたよ」その言葉を聞いてわたしは、留置場にいた彼らにとって何よりも辛かったのは、正気だったことにちがいないと思った。(92ページ)
「二重」と「正気」。マルケスが、自分自身の「文体」の秘密、苦悩を語っているように聞こえる。
想像の世界は、ことばを書くことによって鮮明になる。すでにある想像を、ことばで再現する。これは世界を「二重」に目覚めさせることである。書くことによって、見えなかったものまで見えてくる。それから逃げることはできない。マルケスにとって何よりも辛かったのは、書けば書くほど現実を超えて鮮明になってしまう世界のなかで、彼がいつまでも「正気」でいることだったに違いない。
ことばで書いた世界が「でたらめ」なら問題はない。「夢物語」ですますことができる。どこまでも「正確な現実」だから苦しいのだ。
そして、この「二重」と「正気(正確)」は、日本語の翻訳ではなかなか指摘が難しいが、スペイン語で読むと「強調」という形であらわれていることがわかる。
スペイン語はことばの順序が恣意的である。自由が利く。だからマルケスは語順を工夫している。副詞節を導くときのことばにも工夫しているし、日本語で言う「副詞」にあたるかもしない「まさか」のようなことばを巧みにつかっている。マルケスは「強調構文」をつかう達人なのだ。「強調構文」というのは、いわば「二重に目覚める」感じ、見えているのに、そのさらに先(深部)が見える。見えなくていいものまで、見せられてしまう。ここで、「正気」を保つのは難しい。でも、マルケスは「正気」を保って書き続けた。
また、私は、こんなことも思う。
世界には「現実の世界」と「架空の世界(想像の世界)」がある。しかし、「ことば」「文体」には「架空のことば」「架空の文体」はない。書いた瞬間、語った瞬間、それは「現実に存在することば」「現実に存在している文体」になってしまう。あるジョイスの「フィネガンズウィーク」でさえも。この不思議な力の前で「正気」でありつづけるのは、とても困難なことである。しかし、多くの作家は、その「正気」と戦い、「正気」でありつづけている。
だから文学はおもしろい。小説も、詩も。