詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガルシア・マルケス ことばの選択(4)

2022-01-19 11:07:31 | その他(音楽、小説etc)

 『予告された殺人の記録』に「la pinga」ということばが出てくる。ペニスを指す「俗語」のひとつである。野谷文昭は「あそこ」と上品に訳している。
 で、この「la pinga」ということばをつかうとき、それをつかったひとはどんな気持ちなんだろうと思う。だいたい男の持ち物なのに「女性形」であるのが、なんとも不思議だ。そこでフェイスブックにあるマルケスのサイトで質問してみた。
 答えは。
 スペイン語の名詞には、女性形と男性形がある。それを所有しているのが男性、女性とは関係がない。なんとかアカデミーが定義する、云々。
 聞きたいのは文法的な定義ではなく、つかうひとの感情、としつこく問い詰めると。
 「そんなことは説明できない。だが、おれは「la pinga」を味わうことができる(disfrutar la pinga)」
 ピンポーン、と言いたくなるね。自慢げな感じがある。あえて訳せば「魔羅」という感じ?
 ところが、小説のなかでは、味わうという感じではない。双子の兄弟がいる。徴兵されたが、兄は家の仕事を継ぐので免除された。弟は兵役期間に淋病にかかった。ふたりは人を殺しにいくのだが、弟は淋病の手当てで苦しみ、殺人をできる状況ではないとためらっている。排尿の後、「la pinga」に包帯を巻いている。それを兄がもどかしげに見ている。「魔羅に包帯をまいている」では、なんとなくおかしい。
 なおもしつこく「別項」として、日本には「ちんぽ、ちんちん、陰茎、魔羅などのことばがある。病院で受診するときは、魔羅にできものができた、とはいわない。こどものものを陰茎などとはいわない」というようなことを書いてみた。すると、
 「la pinga」は荷物をかつぐ長い棒の意味でつかう。何か大きなものを指すことがある……。
 あ、これか。
 大きな棒。日本語で探せば「巨根」になるかなあ。
 正確ではないが、これがいちばん近い感覚だなあ、と私は思った。
 双子の兄弟。以前は兄がリーダー格。しかし、弟が兵役から帰って来てからは立場が逆転。軍隊で正確がかわったということもあるが、「淋病」が引き起こした微妙な問題がある。弟は「セックスの先輩」になってしまったのだ。淋病はうれしいものではないが、それは古いことばで言えば「男の勲章」。兄には、それが、ない。兄は弟よりも「劣っている」。つまり、弟のペニスは、ある意味では「羨望の対象」なのだ。
 それがいま「羨望の対象」ではなく、そんなものにもたもたとして、変な病気になんかかかってしまって、役立たず、という感じで兄は見ている。ここには兄弟の立場が再び逆転したことが示されている。その象徴的なシーンで「la pinga」がつかわれている。
 何と訳すべきか。
 ふと、私は「やっかいもの」(大きなやっかいもの)ということばが浮かんだ。
 女性につたわるかどうかわからないが、「性器」というのは、ある意味で「やっかいもの」である。ほんとうはしなければならないことがあるのに、欲望に負けてしまう。そのときの欲望の中心が性器である。思春期に、勉強しなければならないのに、ついつい鉛筆ではなく、性器を握ってしまう。手を動かしてしまう。なければ、そんなことはおきないのに。なんと、やっかいな。しかし、やっかいなくせして、それが快感。だから、やっかいというのかもしれないけれど。
 そのときの「やっかい」とは違うのだけれど。
 兄はきっと思ったのだ。「そんなやっかいなものをぶらさげやがって」(やっかいな病気をかかえこむなんて、という批判もふくまれているかな)。

 ことばには「感情」がつまっている。「意味」ではなく、そのことばを発した人の「感情」にぶつかると、私は、とてもうれしくなる。
 誤読かもしれないけれどね。
 マルケスは、単にストーリーを描いているわけではないし、舞台になった村の人殺しをしそうな男の口調を借りているだけではないのだ。登場人物と「感情」を共有し、その「感情」をあらわすためにことばを選んでいる。
 だから、ここで「la pinga」と書くマルケスが大好き、と私はスペイン語圏の人に伝えたいが、これは説明がむずかしいね。
 他の部分でも、私はマルケスの文体に感動していると言いたいのだが、その説明がむずかしい。きのう書いた強調(enfasis )の問題など、強調構文であるという同意(?)を引き出すために何度も説明しなければならなかった。強調構文というのは「感情」と関係している。そこには感情が込められている、ということを指摘したのだが。これは、マルケスのつかっている強調構文が、あまりにも口語的、日常的だから、「どっちにしたって、意味はかわらないじゃないか」ということなんだろうけれど。
 「la pinga」にもどると、「男性性器だよ、どう呼ぶかなんて関係ない。意味はひとつ」というのに似ている。

 性器をどう呼ぶか。これをフェイスブックの私のページでも書いてみた。たとえば病院でどう説明するか。あるビジターが「これ」という指示語になるかな、というようなことを書いてくれた。私は、ちょっと目が覚めた。「これ、あれ、それ」。便利だね。わたしなら「あれ」をつかうかなあ。「あそこ(あれ)の調子がおかしい」がいちばん通じるかもしれない。「あれ(あの)」ということばは、日本語の場合、話者がその存在を了解しているときにつかわれる。「あのレストラン、おいしかったね」というとき、二人がレストランを知っていないとつかえない。泌尿器科で「あれ」と言えば、患者の「これ」だが医師からは想像できる「あれ」。初めて見るにしても、見慣れている「あれ」。「知っている」ことがたくさんつまっている「あれ」。歯医者で「奥歯」ということばが思い浮かばず、「あれが痛いんです」と言えば、医者は「奥歯?」と聞き返すだろう。まさか淋病の診察にやってきたとは思わないだろう。
 ことばには、そのことばがつかわれる状況があり、それをつかうひとの「気持ち」がある。その関係を「読み解く」(誤読する)というのは、とても楽しい。

 脱線して。
 野沢啓が『言語暗喩論』というものを展開している。私は彼の「詩絶対主義」的な論理が気に入らなくて、あれこれ批判している。いろいろな文献を引用してきて、野沢の論を補強しているのも気に入らない。「言語の発生」そのものを問題にするなら、詩だけではなくいろいろなものを取り上げるべきだろう。いろいろな文献を引用するのはいいけれど、その文献が野沢の問題にしている「言語の発生」を問題にしているのかどうかわからない。「言語の発生」の問題とは関係なく、ただ「言語」について語っているのかもしれない。「文献」を引用するのではなく、野沢の「体験」を引用して書いてほしいなあ、と思う。
 「la pinga」「強調構文」について質問したときも、私がいちばんとまどったのは、多くの人が「文献」を引用してくることだった。私は、こうつかうよ、となかなかいわない。「意味がわからなければグーグル翻訳をつかえばいい」というひとまでいる。私は「知識」ではなく、「感情」を知りたい。ことばといっしょに動いている「感情」を知りたいと思う。現実での「会話」なら状況がわかるし、発話者の声からも「情報」がつたわってくる。ところが「本のことば」では「情報」が限られている。「意味」はわかっても「感情」がわからないことがある。
 これは小説や詩だけではなく、野沢が引用してくる「文献」についても言えることだ。「哲学的著述」にも「感情」はあるはずだ。「論理」を生み出す瞬間の「感情」あるいは「意図」があるはずだと私は信じている。 

 

コメント
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