ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)
『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』のキーワードは「dos veces 」と「lucidez 」だと書いた。「dos veces 」は正確に言えば「Era como estar despiertos dos veces.」であり、「despiertar」と結びついている。きのう書いた「Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.」にも同じことばが出てくる。
この「despertar /dos veces 」は、この作品のなかで、どんなふうに展開するか。私が一番好きな部分、アンヘリカ・ビカリオを「私」が訪問し、「証言」を聞き出す部分に何度も出てくる。(新潮社版では、106ページ以降)
por primera vez desde su nacimineto (ペンギンブック、p107)
これは、こう言い換えされてもいる。
Nació de nuevo(p107)
「生まれて初めて」と「生まれ変わった」。これは「二度生まれる」(nacer dos veces )と言いなおすことができる。生まれていままで生きてきた。しかし、新しい人生に目覚めて(despertarse )し、生き直す。こういう表現は日本語にもあるし、世界のどの国の言語にもあるだろう。人間はある日、ある日生まれ変わる。新しい人生を生き始める。二度目の人生。
そして、そのとき「美しい」のは「二度目の人生」である。
アンヘリカ・ビカリオは初夜に処女でないことが発覚し、捨てられる。初体験の相手に「指名」された男は、彼女の弟(双子)に殺されてしまう。みんなが知っているのに、だれもそれを止めることができずに殺されてしまう。彼女は、厳格な母親によって遠くの村に監禁されている。その彼女が、突然、彼女を捨てた男を思い出し、彼に恋をする。
これが彼女の「二度目の人生」であり、その描写が美しいのだ。「Nacio de nuevo」のあとに、こうつづく。
《Me volvi loco por el--me dijo--, loco de remate.》 Le bastaba cerrar los ojos para verlo, lo oia respirar en el mar, la despertaba a media noche el fogaje de su cuerpo en la cama.
好きでもなんでもなかった男が、突然、恋人になってしまう。気が狂ったように、思い出してしまう。彼を見るには「目を閉じるだけ」で十分である。海の匂いは男の匂い。寝ていると、男の体の火照りを感じて目がさめる。
気が狂ってしまう。このとき「volver(もどる)」という動詞がつかわれている。いままで生きてきて、ここにいる。そこから「過去にもどって(vlover)」「もう一度/ふたたび(dos veces )」「初めて(primera vez )のことのように生まれ変わる/目を覚ます(despertar )」。「loco(気が狂う)」と書いているが、これはもろちん「lucidez 」のことである。彼女は、初めて「正気(lucidez )」を取り戻すのだ。自分が誰であるか、自分が何をしたいか、何を欲しているかを発見するのだ。
だから、こんなふうに言いなおされる。
Se volvió lucida,(略)volvió a ser virgen sólo para él (p108)
正気にもどり、彼のために処女にもどる。「正気にもどる」はともかく「処女にもどる」というのは現実には不可能である。しかし、精神的は可能なのだ。それが、人間が生きているということなのだ。
この緊密にからみあったことばの関係が美しい。そして、このことばの動きのスピードはとても早い。言いなおすと、見分けがつかない。「dos veces 」は「primera vez 」であり「nacer de nuevo」は「despertar (se)」であり「lucidez 」は「loco」なのだ。反対のことばが同じことを意味する。そして、二つの反対のことばが結びつくことで、いままで見えなかったものがくっきりと見えてくる。補色のぶつかり合いによる、それぞれの色の強調のように。私は、ここでは、「primera vez (初めて)」なのか「dos veces (二度)」なのか、忘れてしまう。「文法/意味」を超えてマルケスの世界に引きずり込まれる。
この強烈なことばの運動は
el rencor feliz (p108)
という不思議なことばを生み出す。彼女を監禁している母親に対する思いをあらわした部分だが、 rencor は「恨み」、feliz は「幸福」。一般的な常識では、それは結びつかない。だれかを恨んでいるときは幸福ではない。でも、恨むことができるというのは、自分が生きていることを実感することでもあるのだ。感情が死んでいたら恨むことはできない。感情が生きているから恨むことができる。感情が生きている幸せ。
このあとに、きのう書いた部分がやってくる。
Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despert la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.(p109)
ここにも「despertar 」がやっぱりつかわれている。
ここからが、さらに強烈。
Le habló de las lacras eternas que él había dejado en su cuerpo, de la sal de su lengua, de la trilla de fuego de su verga africana.
こうなってくると、これはもはや「処女」の告白ではないし、彼女が「初夜」の前に男とセックスをしたのが一度だけなのかということさえ私は疑問に思ってしまうのだが。まあ、ともかく、そういうことばが「自然」に感じられるくらいマルケスのことばのスピードは早い。私の想像力では追いかけるだけで息切れがしてしまう。
(ここでちょっとだけ野谷文昭の訳文に文句をつけておくと。「la sal de su lengua 」を「彼の気の利いた言葉」と訳しているが、これは全体の文意にあわないだろう。lenguaにはたしかに「言葉」という意味もあるが、ここではあくまで「肉体」。だから「舌」なのである。「sal (塩)」は大事な調味料。料理でいちばん重要な調味料。そのことを考えると、彼女は、彼女の体をはいまわった男の舌のことを思い出しているのである。私のようなNHKのラジオ講座初級編についていくのがやっとの人間がいうことではないのかもしれないけれど……。)
この急激な「感情」のクライマックスのあと、問題の男が女を訪ねてくる。女が長い間書き綴った手紙を、封も切らずに束ねたまま鞄に入れて。そうやって、彼女の恋はする。ここで、通俗小説なら終わる。ハッピーエンドだからね。でも、この小説はまだつづくのだ。
森鴎外の「渋江抽斎」を読んだとき、途中で渋江抽斎が死んでしまうのに、小説はどうみてもまだ半分は残っている、ということを知ってびっくりしたように、私はこの小説でもびっくりした。
終わったのに、まだつづく?
この「つづき」もまた、「dos veces 」「lucidez 」と関係するのだ。それは、また後日。私の批評もつづくのだ。