坂多瑩子「スースーする」、長嶋南子「なにやってんのよ」(「天国飲屋」2、2022年11月26日発行)
坂多瑩子「スースーする」は何を書いているか。
いつだったか
夜ふけ
鏡をみると
母が死んでいた
よく似た顔だ
うんざりだ
もう死んで一〇年は経っている
一緒につれていかれたあたしも死んで一〇年
背中のどこかがスースーする
母親に食べられたとこ
メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ
ちょっと哀しい日常が凝縮されて
あたしを食べた母を
あたしは
いつか書くはずだったとファミレスで女友だちにいい
ああ 友は夢のような美少女だった
おかあさん
死ぬのはいいけど
美少女のあたしをつれていって
残りかすみたいなあたしを残していったね
そのせいで
あたしの書くものはいつも消しゴムの消しカスでいっぱい
いつだったか
夜ふけ
鏡に
にっこり笑ってやった
母親が死んだ。十年になる。ときどき思い出す。これは、思い出したときのことを書いている。「鏡をみると/母が死んでいた」とあるから、鏡をみて母を思い出した、顔が似ているなあ、と気づいたということか。あとは、哀しいのだか、恨みがましいのだか、よくわからないが、まあ、こんなことは、よくわからなくていい。その日その日の気分で、なつかしかったり、いやだったりする。その、なんだかよくわからないものが、よくわからないまま書かれているところがおもしろい。
「メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ」というのは具体的すぎて、何のことかわからない。「抽象」というか、「要約できるもの」が、ここにはない。それは比喩を突き抜けている。
それは「スースーする」にもいえる。
私は詩の講座で、こういうことばを取り上げるのが好きだ。「スースーするって、意味わかる?」。たいてい、「わからない」という声はかえってこない。「じゃ、このスースーするを自分のことばで言い直してみて」。しかし、これが、できない。「背中のどこかがスースーする」というのは、だれが体験したことがあると思う。たとえば、いまの季節、すきま風が背中のあたりを吹き抜けていく。あるいはマフラーを忘れた日、首筋から寒風が吹き込むことがある。そういうとき「スースーする」。そのときの「肉体の感覚」に何か似ているのかもしれない。しかし、これを別のことばで言い直すのはとてもむずかしい。「肉体」がことばを超えてつかみとっているものがあり、それは「スースーする」で言い直すことができない。「すきま風を背中で感じて……」ということをぼんやり思ってみるが、それは坂多の「スースーする」と重なるかどうか、論理的に説明できない。だから、言い直しもできない。
ほかの行も、なんとなく「わかる」。「わかった気持ち」になる。「あ、わかる、わかる」と言いたくなる。でもほんとうにわかっているのなら、それを別のことばで言えるはずだが、それができない。
それが、論理的に展開されているか、テキトウに散らばっているのか、それを説明することもできない。でも「わかる」という気持ちだけが残る。
私は、こういう詩がとても好きだ。「おばさん詩」と呼んでいる。どういうことかというと、こういうことばの動かし方は、ある程度年齢を重ねないとできない。論理を踏み外すという体験を何回かして、あ、論理というのは大したものではないのだ(そんなものでひとは死なないのだ)とわかったときだけに、言うことができるのである。これは論理にとらわれている「おじさん」にはできない。だから、「おばさん詩」というのはあっても「おじさん詩」というのは、私のなかでは存在しない。(唯一、例外になりうるのは、細田傳造かもしれない。)
長嶋南子「なにやってんのよ」は、どうか。
男と別れた
買い物をジャンジャンする
豚肉豆腐刺身に納豆ホッケにさんまブロッコリー
食べないうちに腐っていく
腐っていくからだ
尖った乳房も
すべすべしたお尻も
どこかへ消えてしまった
あたしゃどうしたらいい
どうもこうもありゃしない
きょうの次はあしたで
あしたの次はあさってでしょ
そのからだで
その頭で
やっていくしかない
そんなことも分からないのか
出来の良い姉さんに笑われるよ
と松丸先生は職員室でいった
別れた男はどこで腐っていくんでしょね
男と別れた。それがどうしたということはないかもしれない。でも、ことばにするくらいだから、ことばにしなければならないだけの重みのようなものはある。で、「なにやってんのよ」と自問自答している。といっても、答えは、でない。それだけのことだが、それだけであるところがいい。
生きていくというのは、答えがないということを納得することなのだと思うが、それとどう向き合うか。「開き直り方」が「おばさん」だなあ、と思う。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com