詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「スースーする」、長嶋南子「なにやってんのよ」

2022-12-04 20:58:11 | 詩(雑誌・同人誌)

坂多瑩子「スースーする」、長嶋南子「なにやってんのよ」(「天国飲屋」2、2022年11月26日発行)

 坂多瑩子「スースーする」は何を書いているか。

いつだったか
夜ふけ
鏡をみると
母が死んでいた
よく似た顔だ
うんざりだ

もう死んで一〇年は経っている
一緒につれていかれたあたしも死んで一〇年

背中のどこかがスースーする
母親に食べられたとこ
メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ

ちょっと哀しい日常が凝縮されて

あたしを食べた母を
あたしは
いつか書くはずだったとファミレスで女友だちにいい

ああ 友は夢のような美少女だった

おかあさん
死ぬのはいいけど
美少女のあたしをつれていって
残りかすみたいなあたしを残していったね

そのせいで
あたしの書くものはいつも消しゴムの消しカスでいっぱい

いつだったか
夜ふけ
鏡に
にっこり笑ってやった

 母親が死んだ。十年になる。ときどき思い出す。これは、思い出したときのことを書いている。「鏡をみると/母が死んでいた」とあるから、鏡をみて母を思い出した、顔が似ているなあ、と気づいたということか。あとは、哀しいのだか、恨みがましいのだか、よくわからないが、まあ、こんなことは、よくわからなくていい。その日その日の気分で、なつかしかったり、いやだったりする。その、なんだかよくわからないものが、よくわからないまま書かれているところがおもしろい。
 「メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ」というのは具体的すぎて、何のことかわからない。「抽象」というか、「要約できるもの」が、ここにはない。それは比喩を突き抜けている。
 それは「スースーする」にもいえる。
 私は詩の講座で、こういうことばを取り上げるのが好きだ。「スースーするって、意味わかる?」。たいてい、「わからない」という声はかえってこない。「じゃ、このスースーするを自分のことばで言い直してみて」。しかし、これが、できない。「背中のどこかがスースーする」というのは、だれが体験したことがあると思う。たとえば、いまの季節、すきま風が背中のあたりを吹き抜けていく。あるいはマフラーを忘れた日、首筋から寒風が吹き込むことがある。そういうとき「スースーする」。そのときの「肉体の感覚」に何か似ているのかもしれない。しかし、これを別のことばで言い直すのはとてもむずかしい。「肉体」がことばを超えてつかみとっているものがあり、それは「スースーする」で言い直すことができない。「すきま風を背中で感じて……」ということをぼんやり思ってみるが、それは坂多の「スースーする」と重なるかどうか、論理的に説明できない。だから、言い直しもできない。
 ほかの行も、なんとなく「わかる」。「わかった気持ち」になる。「あ、わかる、わかる」と言いたくなる。でもほんとうにわかっているのなら、それを別のことばで言えるはずだが、それができない。
 それが、論理的に展開されているか、テキトウに散らばっているのか、それを説明することもできない。でも「わかる」という気持ちだけが残る。
 私は、こういう詩がとても好きだ。「おばさん詩」と呼んでいる。どういうことかというと、こういうことばの動かし方は、ある程度年齢を重ねないとできない。論理を踏み外すという体験を何回かして、あ、論理というのは大したものではないのだ(そんなものでひとは死なないのだ)とわかったときだけに、言うことができるのである。これは論理にとらわれている「おじさん」にはできない。だから、「おばさん詩」というのはあっても「おじさん詩」というのは、私のなかでは存在しない。(唯一、例外になりうるのは、細田傳造かもしれない。) 

 長嶋南子「なにやってんのよ」は、どうか。

男と別れた

買い物をジャンジャンする
豚肉豆腐刺身に納豆ホッケにさんまブロッコリー
食べないうちに腐っていく

腐っていくからだ
尖った乳房も
すべすべしたお尻も
どこかへ消えてしまった
あたしゃどうしたらいい
どうもこうもありゃしない
きょうの次はあしたで
あしたの次はあさってでしょ

そのからだで
その頭で
やっていくしかない
そんなことも分からないのか
出来の良い姉さんに笑われるよ
と松丸先生は職員室でいった

別れた男はどこで腐っていくんでしょね

 男と別れた。それがどうしたということはないかもしれない。でも、ことばにするくらいだから、ことばにしなければならないだけの重みのようなものはある。で、「なにやってんのよ」と自問自答している。といっても、答えは、でない。それだけのことだが、それだけであるところがいい。
 生きていくというのは、答えがないということを納得することなのだと思うが、それとどう向き合うか。「開き直り方」が「おばさん」だなあ、と思う。

 


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オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)

2022-12-04 15:03:53 | 映画

オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)(2022年12月03日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 オドレイ・ディワン 出演 アナマリア・バルトロメイ

 ノーベル文学賞受賞作家アニー・エルノーの小説が原作。主役の女性が1940年生まれという設定だから、1960年ごろのフランスが描かれていることになる。アメリカを揺るがしている中絶問題がテーマなのだが、フランスはそれをどんなふうに解決したのか、問題を克服したのか。しかし、映画は、これをフランスの問題、あるいは国家の問題としては描いていない。ひとりの女性がどう向き合ったか、そのとき社会が(男が)どう対応したか、それに対して主人公がどう反応したかに焦点を絞って描いている。
 だから。
 この映画の特徴は、視線が拡散していかないところにある。情報量が少ないわけではないのだが、すべてが主人公の身体に接近した場所で描かれる。この主人公の肉体との距離をどう感じるか。ひと(他人)との距離の取り方は、習慣というか、国民性によって随分違うと思う。フランス(人)のことは私はよく知らないが、どちらかというとひととひとの「物理的距離」は近い。挨拶のとき抱き合ったり、キスしたり、カフェなどの座席の距離も狭い。しかし、「心理的距離」はどうか。独立心が強いというべきか、わがまま度合いが強いというべきか、意外と「遠い」。「遠い」(距離感が広い)から、わがままが許されるのだろう。そして、いったん対立すると、近づかなくなる。日本は、「物理的距離」はかなり広いが、「心理的距離(拘束感)はかなり強い。「同調圧力」(というらしい)がある。他人の「わがまま」を否定し、自立を許さないところがある。
 この映画は、私が感じているままの「フランス人の距離感」で展開する。
 カメラは主人公に密着する。いつも彼女から離れない。いつも1メートル以内(もっと短い、50センチ、30センチの距離か)にいる。遠くのものがカメラの中に入ってくるときもあるが、それはあくまで彼女の視線がその遠くのものをみつめたから。たとえば大学の教室での、離れた席にいる男、教壇にいる教師を見るという具合。主人公の「視線」から自由にカメラが世界をとらえるわけではない。
 印象的なシーンがいくつかあるが、私にとってもっとも強烈だったのは、海のシーン。主人公が男友達と海へ行く。沖へ向かってどんどん泳いでいく。男が危ないと追いかけてくる。このときカメラが映すのは海の広さではない。追いかけてくる男や、遠ざかる岸も映さない。ただ水のなかで泳いでいる女を映す。彼女は、自分だけではどうすることもできない圧倒的なものと対面している。それは「全体」が見えない。水のようにただ肉体に絡みついてくる。決して「親身になることのない(近づいてくれない)」ものが、肉体のそばにぴったりとはりついている。ここに、彼女の「息苦しさ」が象徴されている。戦いたくても戦えない、助けを求めたいのに誰も助けてくれない。「いのち」が、ただ、「いのち」のまま存在している。巨大な、手に負えないもののなかで。
 問題は。
 このとき、私はどこにいるのか。私は、彼女にとって、たとえば巨大な海なのか。彼女を追いかけてきて、「引き返せ」といっている友達なのか。わかっているのは、私は彼女ではない、ということだけなのだ。この映画のなかには、私は、いない。そのことを、もっとも強烈に感じさせるのが、この海のシーンだ。そして、私がそこにいない(関与できない)にもかかわらず、私を彼女の「30センチ以内」の距離に引っ張りこむのがカメラなのである。
 私は、ほんとうは、そこにいるのだ。たとえば、主人公に妊娠を告げる医師として。流産を引き起こすと嘘を言って流産防止薬の処方箋を書く医師として。助けを求められた男友達として。あるいは、堕胎の処置をする女として。同じ寮の友達として。その距離の中にいて、彼女を拘束するのではなく、彼女の独立とどう向き合うか。「30センチ」の距離以内に入らなければ、まあ、「知らん顔」ができる。私には無関係ということができる。しかし、カメラは、そういう私の「わがまま」を許さない。
 他人を「わがまま」と切って捨てることは、もしかしたら簡単かもしれない。私と無関係ということは簡単かもしれない。しかし、簡単だから、その方法がいいとはいえない。これが、むずかしい。この映画が、ある瞬間、「恐怖映画」のように迫ってくるのは、その「距離感」があまりにも現実的だからかもしれない。古い時代設定だが、時間の距離を超えて迫ってくる。特に、あの海のシーンでは、そこには「歴史(過去)」ではない「時間(いま)」が動いている。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇251)Obra, Calo Carratalá

2022-12-04 08:52:43 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá

 ¿Qué peinta Calo? Es el tamaño del espacio. Sólo veo un espacio tremendamente enorme. No hay nada más que luz, y es interminable. La luz empuja todo a lo lejos, no sé si es el horizonte de mar o de tierra. Y luego hay un espacio frente al campus que no se representa, pero que es aún más grande y lleno de luz que esa inmensidad.
 Calo pinta la silueta de un hombre en primer plano. Sin embargo, el primer plano es un primer plano aparente creado al recortar un lugar lejano, que en realidad está muy lejos. El hombre está a medio camino entre el horizonte lejano y yo, en el "medio lejano". Y lo que veo es la extensión del espacio que se extiende alrededor del hombre, la luz que sigue empujando el espacio.
 El hombre refleja la luz, pero también está silueteado por la fuerte luz. Y al mismo tiempo está emitiendo luz. La luz que lo inunda penetra en el interior del hombre y destruye sus contornos desde dentro. Los contornos del hombre se rompen desde dentro y las sombras se dispersan ahora en la inmensidad del espacio y desaparecen en la luz. Sólo la luz pura y el espacio puro permanecen en el mundo. Esto es lo que me hace sentir el cuadro.

 Caloは何を描いているのか。空間の大きさである。私には、ただとてつもなく広い空間が見える。そこには光だけが無限にあふれている。光が、水平線か、地平線かわからない何かを遠くへ押し広げる。そして、描かれていないが、その広さよりももっと遠い光に満ちた空間がキャンパスの手前に広がっている。
 Caloは男のシルエットを手前に描いている。しかし、その手前は、遠いところを切り取った(トリミングした)結果生まれた見かけの手前であり、ほんとうはとても遠い。男は、遠い水平線と、私との中間、「遠い中間」にいる。そして、私が見ているのは、その男を中心にして広がる空間の広さ、空間を押し広げ続ける光である。
 男は光を反射しながら、強い光のためにシルエットにもなっている。そして同時に光を発している。まわりにあふれる光が男の内部に侵入し、男の内部から輪郭を破壊する。男の輪郭は内部から砕け、影はこれから広大な空間の中へ散らばり、光になって消えていく。世界に、ただ純粋な光、純粋な空間だけが残される。そう感じさせる絵である。

 

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