詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(21)

2022-12-30 16:18:57 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(21)(思潮社、2022年12月1日発行)

 峯澤典子「ひとりあるき」いっしょに生まれるはずだった兄弟を思うとき、夢を(たぶん、同じ夢を)見る。その夢が作品の中心。

この夢を見はじめた夜いらい、わたしのすべての感情は、あなたから切り離されたつまさきの重い痺れをくぐってから、息のそとに出てゆくようになりました。

 「息のそと」は「息の外」か。「息の外」へ出て行くとどうなるのか。わからないが、自分の「いのち」をはなれて動く感じがある。新しい息を手に入れることができるか、息以外の何かを手に入れることができるか。
 わからないけれど、わからないからこそ印象に残る。

 宮尾節子「牛乳岳」を読むと、「息の外へ出る」とは、こういうことかもしれないと、ふと思う。脈絡もなく。ただ、突然に。

「冷やしたぬき」
なんて看板見ると1メートル位は
(むねのなかで)
ゆうに跳び上がります。

 (むねのなかで)、あるいは 峯澤なら「夢の中で」というだろうか。なんでもできる。そのなんでもというのは、「ゆうに跳び上がります」の「ゆうに」のことである。そんなことはほんとうはできない。けれど、なんの努力もせずに、らくらくと。それが当然のことであるかのように。とても自然に。
 「息の外」は、ほんとうに「息の外」ではなく、「息の中」にある。「息」がそれまでの「息」とは違ってしまうこと。「息」が違ってしまったことを「息の外へ出る」というのだろう。
 瞬間的に、今までとは違ってしまう。そのとき「ゆうに」が起きている。
 それは、その人だけが感じることができる「別次元」である。
 だから峯澤は、

ゆき
ゆきだよ。

どこまでも
あかるい ゆきだよ。

と、「別次元」を描写し、宮尾は、それをこう書く。

キモイ(気味悪い)のは
そっちもこっちもおなじです。

からだに
詩が来ているときは
まあこんな塩梅です。

 「別次元」を、宮尾は「からだに/詩が来ている」と書く。峯澤が「息のそと」というなら、宮尾は「息のなか(むめのなか?)」というのだろうが。

 森本孝徳「蚤卵論」。森本はことばが好きなのだろう。そして、森本が好きなことばは、私とは関係ないところを動いている。

身から出た錆とはいえ永遠の散歩に誘い出すなら、
末弟(ボロッキレ)よ、
ここを拭き取るのが薔薇色のかかとだ。」

 峯澤は「つまさき」と書いていたが、森本は「かかと」と書く。どちらも私にはわからないのだけれど、森本の方が「わざと」が強いだろうなあ。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇267)Obra, Calo Carratalá y Lu Gorrizt

2022-12-30 11:22:50 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá (arriba) y Lu Gorrizt

 De repente me acordé del trabajo de Calo Carrata y Lu Gorrizt. Estaba leyendo un ensayo de Hisao Nakai. Nakai vivió en una pensión cuando era estudiante. El problema era que tenía que pasar por el dormitorio de la pareja principal cuando iba a orinar por la noche. Esta historia es difícil de entender en el Japón moderno, y lo sería aún más en Europa.
 Las casas japonesas antiguas no tienen paredes. Las casas europeas tienen paredes. En las casas japonesas antiguas, las habitaciones privadas tienen "puertas" por los cuatro costados. Puertas correderas SHOJI y FUSUMA. Hay una puerta corredera que da acceso a cualquier habitación. Las habitaciones privadas europeas están rodeadas de paredes. Normalmente sólo hay una puerta.
 Esto afecta a las actitudes hacia la pintura.
 En las casas de los amigos españoles que visité, había cuadros en todas las habitaciones. En Japón, este tipo de amigos son escasos. En Japón, los cuadros solían colgarse encima del KAMOI, es decir, cerca del techo, porque no era posible colgarlos en puertas correderas (SHOJI o FUSMA). En cambio, en los grandes edificios (templos, castillos o casas de poderosas), se pintaban cuadros en las puertas correderas. No eran cuadros, sino "muros". Eran "dispositivos" para hacer de una habitación una habitación privada, un mundo completamente distinto de las demás habitaciones.
 A la inversa. Los cuadros de las casas europeas son "puertas" que liberan estancias privadas. Desde ahí, puedes entrar en otro mundo. Más que una "ventana", es una "puerta" por la que el espíritu puede entrar en otro mundo.
 Cuando vi la obra de Calo y Lu, me extrañó su tamaño.¿Dónde podría colgarse un cuadro tan grande? Al menos, no en mi casa. ¿Quién lo compraría? A menos que los vendan, no podrán ganarse la vida. 
 Pero de repente me di cuenta de que sus cuadros eran "puertas". Antes los pensaba como ventanas, pero son mucho más grandes, dispositivos para que la gente entre y salga. Al mirar los cuadros, el espíritu escapa de la "habitación privada" y entra en "otro mundo". Igual que siento en un templo japonés, en una sala con pinturas FUSMA, que la sala es "otro mundo". En un caso, cuando abrí la puerta corredera y pasé al otro lado, me encontré con que estaba dibujada la parte trasera de una montaña. Las pinturas fusuma no son muros, sino incluso "montañas".
 Teniendo esto en cuenta, resulta extrañamente persuasivo que el cuadro de Calo de un barco de refugiados esté en la pared de una habitación en la que trabaja con su ordenador, y el cuadro abstracto de Lu esté en una habitación en la que disfruta conversando. Esto no es un cuadro, ni un dibujo. Es una "puerta oculta" hecha en la pared. No sé cuántas personas pueden abrir esa "puerta", pero es una "puerta" importante para quienes la necesitan.


 Calo Carrataと Lu Gorrizt の作品をふいに思い出した。中井久夫のエッセイを読んでいたときである。中井は学生時代下宿していた。困ったことは、夜、小便に行くとき、主人夫婦の寝室を通らないといけないということだった。この話は、現代の日本では通じにくいし、ヨーロッパではもっと理解しにくいだろう。
 日本の古い住宅には壁がない。ヨーロッパの住宅には壁がある。日本の古い住宅では、個室は四方すべてが「ドア」である。障子、襖。引き戸があり、どの部屋にも通じる。ヨーロッパの個室は壁に囲まれている。ドアはたいていの場合一つである。
 これは、絵に対する態度に影響してくる。
 私が尋ねたスペインの友人の家では、どの部屋にも絵が飾ってあった。日本では、そういう友人は少ない。日本では、昔、絵は鴨居の上、つまり天井の近くに飾ってあったが、それは襖や障子に絵を掛けられないからである。かわりに大きな建物(寺や城、あるいは豪族の家)では襖に絵を描いた。あれは、絵ではなく「壁」だったのだ。部屋を個室に、他の部屋とはまったく別の世界にするための「装置」だったのだ。
 逆に言えば。ヨーロッパの家に飾ってある絵は個室を解放する「ドア」なのだ。そこから別の世界へ入っていくことができる。「窓」というよりも精神が他の世界へ行くための「ドア」。
 CaloとLuの作品を見て、私が最初にとまどったのは、その大きさだった。こんなに大きな絵を、どこに飾ることができるのだろうか。少なくとも、私の家には飾ることができない。だれが買うのだろうか。売れないかぎりは、彼らは生活できないだろう。他人のことながら、私は、余分なことを考えたりした。
 しかし、突然、彼らの絵は「ドア」なのだと気がついた。以前は、窓と思ったこともあったが、もっと大きな、人が出入りするための装置である。絵を見ることで精神は「個室」を抜け出し「別世界」へ入り込む。日本の寺、襖絵のある部屋で、私が、その部屋が「別世界」であると感じるように。ある襖絵は、襖を開いて向こうへ行ってみると、山の裏側が描かれていた、ということもあった。襖絵は壁どころか「山」でさえあるのだ。
 そのことを思うと、Caloの難民ボートの絵がパソコンに向かって仕事をする部屋の壁にあること、Luの抽象的な絵が会話を楽しむ部屋にあるのも、不思議な説得力を持つ。これは、絵であって、絵ではない。「壁」に作られた「隠されたドア」なのである。その「ドア」を開けることができる人は何人いるかわからないが、必要とする人のための大事な「ドア」なのである。

 

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