中井久夫はカヴァフィス、リッツォスだけではなく、他のギリシャ詩人も訳している。そのことを「ギリシャ詩に狂う」に書いている。そのなかで、こういう文章がある。エリティスの詩のなかの「風」について触れている。
舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっと駆け出す風のリズムがあった。
あ、これは私が中井久夫の「訳詩」から感じ取ったものだ。「狂ったザクロの木」一部をエッセイのなかで紹介しながら、こう書いている。
歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群とともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。
中井の訳もすばらしいが、私は「最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」というこの感想が大好きである。詩の陶酔は、何を読んでいるのかわからなくなることである。
私は、この「陶酔」の感覚を、中井と共有できたのではないかと、秘かに感じている。私は中井のことばのリズムに酔った。そのことを最初の手紙に書いたと思う。そうしたら、中井から、私のことばのリズムは、ある詩人のリズムに似ている、という指摘があった。それは外国のとても有名な詩人だった。私は読んだことはなかったが、名前は知っている。別の機会にも同じことを言われた。驚いて、その全集を買ったが、「訳詩」が私には合わなかったのか、少し読んで挫折した。リズムが、違っている。「ザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」という感じにならないのであった。中井の訳で読んでみたいと思った。ことばのリズムに陶酔する。--それが詩を体験することだと、私は中井の訳詩(ことば)をとおして、あらためて学んだ。味わった。
中井久夫が死んだ直後は、いろいろ書くことをためらったが、いまは少し書いてみたいと思う。私の「中井体験」は、他のひとの中井体験とは違うだろうと思う。多くのひとは「思想」について語っている。しかし、私にとっては、中井は「ことば」のひとであり、そのことばというのは「リズム」なのである。「意味」ではない。「意味」も重要だが、「意味」の前に、私は「リズム」に共感して読んでいる。
きょう取り上げたエッセイでは、中井自身が「ことばのリズムの人」であると語っていると思う。
写真は、中井久夫が送ってくれた「みすず」と、「みすず」のコピー。三十年前のことである。
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