詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉惠美子「小春日和」、徳永孝「雲の橋」、青柳俊哉「フィルター」、永田アオ「スポーツバッグ」、木谷明「十一月の挨拶」

2022-12-02 23:34:37 | 現代詩講座

杉惠美子「小春日和」、徳永孝「雲の橋」、青柳俊哉「フィルター」、永田アオ「スポーツバッグ」、木谷明「十一月の挨拶」(朝日カルチャーセンター、2022年11月21日)

 受講生の作品。

小春日和  杉惠美子

やわらかなものは みどり児の手
やわらかなものは 秋の陽だまり
やわらかなものは 明日を待つこころ

視線を少し遠くに向けて
次の季節を予感しようと思う
待ってみようと思う

少しバランスが取れてきそうな気がする
心を拡げることが出来たら
違う時間が流れそうな気がする

 どの行が好き? そこから詩に近づいていくことにした。「待ってみようと思う」。最後につながる行。待つことが大切。問題があっても、待っていれば解決する。「違う時間が流れそうな気がする」。少しずつ気持ちが外へ動いていく。それが違う時間、違う世界につながる。「やわらかいもの」の繰り返しの理由がここにある。「やわらかなものは みどり児の手」。手を思い浮かべながら、最後につながる。と言う具合に意見が分かれた。意見が分かれるというのは、とてもいいことだと思う。
 私は「やわらかなものは 明日を待つこころ」。少し理屈っぽいかもしれないが、「やわらかなものは」という繰り返しが理屈っぽさを消している。リズムにのって、無意識に読んでしまう。あるいは理屈っぽさを読み落としてしまう、といえばいいのか。これは、なかなかできない「技巧」というものである。そして、この「こころ」が二連目で「思う」ということばにかわり、三連目で「気がする」ということばにかわる。「待つ」ときの「こころ」の変化が、それとはわからないように書かれている。その変化のはじまりが、この行にある。二連目、三連目の「思う」「気がする」はなくても、成立する。もちろん、それを削除するときは「思う」だけではなく「と思う」を削除しないと行けないし、「気がする」は「な気がする」を削除し「な」のかわりに「だ」(形容動詞の語尾)をつけくわえないといけない。しかし、こういうことは、無意識にできる。「思う」「気がする」はなくても、成立する、とはそういう意味である。そのうえで、「思う」「気がする」を削除したものと、元の詩を比べてみるとわかると思うが、「こころ」「思う」「気がする」は、ことばこそ違うが「やわらかなものは」ということばの繰り返しと同じように、繰り返すことでリズムをつくっていることがわかる。
 杉は、そういうことを意識していないかもしれない。無意識に、ことばが変化しているからこそ、そこに「正直」があらわれる。「正直」がことばの奥深いところで動いていると、詩が、とても自然に響いてくる。
       

雲の橋  徳永孝

青空に長く弓なりに伸びる
一本の飛行機雲
遠くに広がる白い雲へ続く橋

雲の国には何が有るのかな
どんな人達が住んでいるのかな
橋を渡って行ってみよう

細いけれど
まっすぐだから
楽に行けそうだよ

あ、橋のあそこが風で乱れてきた
崩れ落ちる前に
急いで通りすぎよう

こんどは雲のもやがかかってきた
道を踏み外さないよう
用心して行かなくちゃね

やっと着いた大きな雲の国
雲の草原に寝ころがって
しばらく休けい

 「しばらく休けい」。オチが軽やかでいい。がんばって、たどりつき、休憩するという感じがいい。「あ、橋のあちこちが風で乱れてきた」。情景を想像できる。「雲の草原に寝ころがって」。同じ気持ちになる。大きな雲のイメージが自然に浮かぶ。
 私は「遠くに広がる白い雲へ続く橋」。「続く」という動詞が、イメージを「つづけている(つないでいる)」。変化を追いかけて、それがイメージとしてつづいているのだが、その出発点が「続く」という動詞のなかにある。
 少し疑問を書けば。「飛行機雲」は雲のない晴れ渡った空にあらわれる。想像の上では、それは「大きな雲」につながるかもしれないが、私は、現実の風景としては飛行機雲が別の大きな雲につながることはないと思う。(見た記憶がない。)詩は現実を書くものではないから、もちろん「空想」を完結させてかまわないのだが、「青空に長く弓なりに伸びる」という「写生のことば」ではじまった運動が「空想」にかわっていくときは、その「空想」のなかに「写生としての描写」があった方がいいと思う。「雲の草原」は「弓なり」に比べると、比喩として常套句という感じがする。

フィルター  青柳俊哉

太陽はうすく細く
厚い砂の層に覆われていく地球 
砂から伸びている 無数の
仄白い鉱物 鉱物の周りを 
衛星のように
球体がめぐっている

球体の中に 
人は花になって生きていた 
砂と石のうえを浮遊する 光る花の群れ 
風にそよぐことも 砂に根を下ろすこともなく 
光も水も もとめない花々 
花が光自身であったから
花の意識にとっては生も死もないのかもしれなかった 
球体の中央に 
二つのフィルターの口が開いていて 
そこから ひときわ眩しい花々が
吸い込まれるように消え   
吹き散らすように生まれていた

星の空間が 内部へ折り返し
花の球体をうみだす 
花の光を浴びて 鉱物は樹木のように
伸びていく 二つの空間を
フィルターが結び 星の光を
いのちへ変えていた

 「球体の中に/人は花になって生きていた」。美しい。花が好きなので、こんな風だったらいいなあと思う。「花が光自身であったから」。花から光へ、それが最後に星に変化していく。その変化が美しい。「花の意識にとっては生も死もないのかもしれなかった」。人間以外は、みんなこうなのだろうか。生も死もない世界。無垢なイメージが美しい。「フィルターが結び 星の光を/いのちへ変えていた」。わからないけれど、イメージが美しい。「球体が何かわからない」という声も出て、これに対して青柳は「星の空間が 内部へ折り返し/花の球体をうみだす」が書きたかったと言った上で、太陽が沈み、死が訪れる、そのあと死が生へとかわる感じとつけくわえた。循環、円環のイメージか。
 私は「球体の中央に/二つのフィルターの口が開いていて」がイメージできなかった。なぜ「二つ」なのか。青柳によれば、「二つ」というよりも、フィルターの「両面」というイメージらしい。

スポーツバッグ  永田アオ

横長のスポーツバッグを抱きしめて
電車の中で丸くなって眠っている
少女よ
下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは
とても大切なものなんだろうね
あなたはきっと知らないが
わたしたちもあなたをとても大切に思っているよ
だから、ビクッと目を覚まし
ずりおちそうなスポーツバッグを抱えなおして
恥ずかしそうにしなくていいんだよ

(どうかこの少女を戦禍が襲いませんように)

少女よ
眠りなさい
みんなであなたを守るから
あなたが抱きしめている
そのスポーツバッグみたいに

 「下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは」。気持ちがこもっている。「眠りなさい」。呼びかけているところがいい。「みんなであなたを守るから」。少女への気持ちが、ここに集約されている。「恥ずかしそうにしなくていいんだよ」。少女を包み込む視線がいい。「ビクッと目を覚まし/ずりおちそうなスポーツバッグを抱えなおして」がリアリティーがあっていい。
 私も「下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは」が印象に残った。特に「下にも置かず」が単に「客観的描写」を超えて、少女の気持ちになっているところがいい。「抱く」という動詞は、途中で「抱える」ということばにかわり、ふたたび「抱く」があらわれる。その途中に「守る」というこどが出てくる。「抱く(抱える)=守る」である。そしてそれは「大切な」ものだから「抱き、抱え、守る」。このことばの呼応が強固で美しいのだが、「下にも置かず」がそれをていねいに「肉体」で言い直している。どんなふうに、抱き、抱え、守るのか。「下に置かず」というと、大事にしている感じが強くなる。その少女の気持ちが、永田に影響し、「抱く」ということばを誘っているのだと思う。

十一月の挨拶  木谷明

あ、お月さま
この頃 機嫌がいいようね
こんなに はやい じかんから
白く ぽっかり
日毎 お顔が ふっくらしてく
おかえり
浮かびに来ただけ ふとりに来ただけ
でも おかえり 夕方だから、そういうよ
それで
夜空に光ったら いってらっしゃい っていう

 「でも おかえり 夕方だから、そういうよ」。いい感じ。夕方の、なつかしい感じを思いだす。「浮かびに来ただけ ふとりに来ただけ」。月のセリフだが、ぶっきらぼうな感じいい。ふとるというネガティブなことを言っている。「この頃 機嫌がいいようね」。話しかける感じがいい。「夜空に光ったら いってらっしゃい っていう」。いってらっしゃいが、新鮮。
 月がふとる(満月に近づいていく)ことを、人間が太ると重ね合わせ、ネガティブ(健康的ではない?)という声があったことに、私は驚き、新鮮な気持ちにもなった。私は、その前の「ふっくら」とあわせ、満月(に近づく)を肯定的にとらえている。書いている木谷も私も「意味の定型」にとらわれているかもしれない。
 私も「でも おかえり 夕方だから、そういうよ」が好き。「そういうよ」は月に言っているというよりも、自分自身を納得させているのだと思う。月への気持ちであると同時に、自分の気持ちを確かめる。そのために、言う。それは最終行にも繰り返されている。ことばは、だれか、相手に向かって言うものだが、ときには自分自身に言うこともある。自分を整えるために言う。詩も、だれかに向かって書くのだが、同時に自分を整えるためにも書く。自分でもわからない何かを、はっきり自分のものにするために書くのだと思う。

 

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