詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

なぜ、いま?(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-24 13:16:46 | 考える日記

 2022年12月24日の読売新聞(西部版・14版)の一面。
↓↓↓
「特定秘密」漏えいか/防衛省 海自1佐処分へ/OB依頼 複数隊員通し(見出し)
 海上自衛隊の1等海佐が、安全保障に関わる機密情報にあたる「特定秘密」を外部に漏えいした疑いがあることが、政府関係者への取材でわかった。防衛省は近く1佐を懲戒処分にする方針だ。特定秘密の漏えいが発覚するのは初めて。
 政府関係者によると、海自OBが、知人の現役隊員に接触し、複数の隊員を経て1佐の元に依頼が届き、漏えいにつながったという。
↑↑↑
 「政府関係者への取材でわかった」と書いてあることからわかるように、これは防衛省の発表ではない。「特ダネ」である。
 どうして、わかったのだろうか、というよりも、私は「いつ」わかったのだろうか、ということの方に関心がある。
 きょうの、ふつうの新聞各紙のトップは「来年度予算」だと思う。(確認していないので、わからないが。)その内容といえば予算規模が114兆円、防衛費が今年度より6・7兆円増えることだろう。
 なぜ、そんなに防衛費だけが増えるのか。
 だれもが疑問に思うだろう。
 その疑問に答えるには、日本が攻撃される危機が強まっている、というのがいちばんである。その「攻撃の危機」は、特定秘密の漏洩という形でも起きている。日本の情報が狙われている。
 でも、どこの国が、あるいは誰が、特定秘密を手に入れたのか。それは、読売新聞の記事には、まだ、書いていない。「海自1佐」が漏洩した(処分を検討する)というところまでわかっているのだから、当然、漏洩先もわかっているはずだが、それは「政府関係者」から教えてもらえなかったのか、教えてもらったけれど、「特ダネ」の第二報に書くために残しているのかわからないが、書いていない。
 これは逆に言うと、今後もこのニュースが「一面トップ」に書き続けられるということである。そして、それは「予算」の問題をわきに押しやるということである。
 これが、このニュースのほんとうのポイントだと私は考えている。
 「安保の危機」をアピールする。その結果として、防衛費の増額を当然のこととする。その方向に世論を誘導していく。
 「特ダネ」だから、今後次々にたの報道機関がこのニュースを追いかけるだろう。つまり、このニュースのつづきが、紙面を埋める日がつづくのである。その間、防衛費が大幅に増えるということが忘れられる。あるいは、「特定秘密」まで狙われている、防衛費が拡大されるのは当然だという方向に世論が誘導される。
 そういう誘導をするための、リークである、と読む必要がある。

 で、問題はもとへもどって、「いつ」リークされたか。
 やはり、このタイミングで、リークされたのだ。予算の閣議決定に合わせてリークされたのだ。
 読売新聞の記事を読むかぎり、漏洩した人物は特定されている。そこからさらに漏洩が広がるということもない。すでに漏洩された内容も把握されている。処分することも決まっているらしい。
 海自1佐と漏洩を巡る「過去」はこれから次々に出てくるが、きょう以降(未来の時間に)漏洩が起きる可能性はない。だから、このニュースは、海自1佐を処分してからの発表でもかまわないわけである。
 だとしたら、やはりいちばんのポイントは「リークした時期」、なぜ読売新聞がその記事をきょう書いたかである。
 一面のトップ記事が予算ではなく、「特定秘密」漏洩か、という疑問形のニュースであることの意味を、私たちは考える必要がある。そのニュースは、私たちの生活に直結する予算よりも重大なニュースなのかどうか、考える必要がある。

 

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「現代詩手帖」12月号(15)

2022-12-24 10:11:16 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(15)(思潮社、2022年12月1日発行)

 多和田葉子「きっと来る」。

一度ひらいてしまったら
もう取り返しがつかない
散るまでに闇に戻れない

 この「に」は何だろう。「散るまで闇に戻れない」ではなく「散るまでに闇に戻れない」。「散る前に」闇に戻りたいのだろうか。「散らないかぎり」闇に戻れないということを強調しているのか。
 詩は、

ひらいてしまって大丈夫なの?
汚れやすく傷つきやすい白を
寒気にさらけだして枝に咲く

 とはじまっていた。桜の花を描いているように見えた。ほかの花よりも早く咲いてしまった、桜。
 しかし、桜ではないかもしれない。開花ではないかもしれない。どこかに、ロシアのウクライナ侵攻の、取り返しのなさが隠れていないか。
 一度、武器が火を噴いたら(開戦したら)、取り返しがつかない。何もかもが破壊されないかぎり、元に戻れない。

侵略と感染に怯える沈黙の中
あなただけが花火のように満開だ
春が来ることを全身で信じて

 最後の三行も桜を語っているのだが、ロシアのウクライナ「侵略(侵攻)」、コロナウィルス「感染」を思うのである。
 思うに、闇には二種類あるのだ。何もはじまらない無としての闇、何もかもがなくなってしまったあとの無としての闇。何もはじまらない闇、何もなかった闇には、もうだれも戻れない。戻るためには、何かをしなければならない。
 多和田は「に」にどんな運動を託したのか。「わざと」なのか、無意識に(自然に)なのか、わからない。しかし、非常に、ひっかかる。強い印象を残す「に」である。

 中村実「冥土(六)」。死んだら、死者と会えるか。かつての知り合いと会えるか。

そうだ、冥土にはあらゆる時と場所にかかわりなく
死者が送りこまれてくるのだから、知り合いと簡単に出会えるはずがないね。
こうなったら、いっそ、あの世が恋しいねえ、あそこに戻れば
あの道角にも、あの通りにも知った人たちばかりだから、懐かしくてたまらない。

 「あの世」と書かれているが、これは「冥土」からみた「あの世」だから、実は、この世。多和田の書いていた「闇」は、これに似ているかもしれない。「この世」がいいわけではないが、「あの世」に行ってしまうと、「あの世」になってしまった「かつての、この世」が懐かしい。それが「闇」であっても。あるいは「闇」だからこそ。
 生きているときは、知った顔にばかり会う。いやになってしまう。そして、「この世は闇だ」と言ったりする。そのときの、「闇」。そこに戻るのは、ほんとうにむずかしい。

きみのいう知り合いもみんなもう冥土に来ていることを忘れているのじゃないか。
いまさら、あの世に戻りようもないけれど、戻っても誰と会えるわけじゃないのだよ。
そう言われればそのとおりだな、ぼくたちはこの小径を行くより他はないのだね、
この広場を抜けて、いつまでもうす暗い小径を行くより仕方がないのだねえ、と答えた。

 しかし、私は「この小径」を受け入れることはしたくない。「この小径」は小さく見えるだけで(大きさが見えないだけで)、ほんとうは「取り返しがつかない」(多和田の詩の中にあったなあ)くらい大きい。そして、それは「闇」ではなく、唯一の光のように提示されているというのが、いまの「現実」だと思う。
 そう、私は、とんでもない防衛費の拡大のことを言っているのだ。「敵基地反撃能力」と、奇妙な名前で語られている軍隊の拡大。それは、ロシアのウクライナ侵攻によって、まるで「希望」のように語られている。そんな「希望」よりも、「専守防衛では死んでしまうかもしれない」という不安な闇の方が、はるかに安全だろう。
 「闇」に二種類あるように、「安全」にも二種類ある。

 野崎有以「貝拾いの村」。いま、この「寓話」が書かれる理由は何だろうか。野崎は、どうして古くさいストーリーを書くのか。たぶん、古くさいストーリーは、すでに共有されているからだ。そこへ帰っていく。

男はかつて本当に愛した女によく似た少女と出会った
若かった頃 あのどんよりとした暗い女に見つかる前の話だ
その少女もまたひどく傷ついていた
男は理由も訊かず少女を抱きしめた

 しかし、野崎の書いている「暗い(暗さ)」、それは、多和田の書いた「闇」や、中村の書いた「あの世(冥土から見たこの世)」とは違うような気がする。むしろ、「敵基地反撃能力」のような「かつて見た(以前もあった)希望」のように私には思える。そういう意味では、野崎は、「時代を先取りし続けてきた詩人」なのかもしれない。野崎の書いたものを全部読んでいるわけでもないし、順序立てて読んでいるわけでもないが、私は、どうにも納得できない「いやあな暗さ」の反復、反復の「いやあな暗さ」を感じる。
 野崎は「わざと」書いているのだと思うが、その「わざと」が誰に向けてのものか、私にはわからない。

 

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