詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(14)

2022-12-23 12:12:32 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(14)(思潮社、2022年12月1日発行)

 新井啓子「クラウドボウ」。故郷へ帰るとき、こんな描写。

峠のさきに海岸線がある
背骨のような稜線は
起き上がり
波打ち
折れ曲がってつづき
その末に するどく
海原に突き出た
(細長い岬
昔 ちちははが巡った

 「昔 ちちははが巡った」という一行が、それまでの描写を新井個人の視点から、両親の、さらにその祖先の視点(記憶)に変える。「細長い岬」だけが「両親のことば」かもしれないが、その岬を見て「細長い岬」をまるではじめて見るかのように発見するとき、そのことばにたどりつくまでに動いたことば、「峠のさきに海岸線がある」から「海原に突き出た」が、「両親のことば」になる。「歴史/記録/記憶」になる。それは、単にことばではなく、そのことばをたどる「肉体」になるということだ。だからこそ「巡る」という動詞が出てくる。繰り返し繰り返し(巡るように)、そこを歩いたのだ。
 この「自然」は、とてもいい。
 「わざと」ではない。「巡る」ことで、土地が、風景が、「自然」そのものになる。「自然」として生きるものになる。両親が生きたように、土地も生きている。人間と土地が組み合わさって「自然」になる。「自然」が人間の精神の「自然」を育て、生きていく。

 荒川洋司「真珠」。男女の連れが喫茶店に入ってくる。男が話している。野球の話だ。

選手の予想に飛び、根尾、今年もどうかとなり
転じて昔、西部から中日に移ったコーチ某は
現役で二年しか投げなかった、いつだったか
七回裏に逆転満塁ホームランを浴びて、など
異常なこまかさが世の根幹となる

 「世の根幹」。
 新井の書いていた海岸の風景もその類だ。語らなくても、それは存在する。男の話も語らなくても、すでに存在し、知っているひとは知っている。男の話を荒川が再現できるのは、荒川がそれを知っているからである。私は野球のことは何も知らないから、荒川が聞いた男の話をことばに再現しようとすると「嘘」になる。何か資料をつかって点検しながら書いたとしても(たとえば、七回裏、とか)、それは「嘘」なのだ。いいなおすと、私が「肉体」として知っていることではなく、どこか、他人の「知識」から引っ張りだしてきたものにすぎない。それは「わざと」書かれた正確さになる。「自然」がなくなる。
 「わざと」を排除した「自然な積み重ね」(変わらぬ海岸の風景のようなたしかさ)というものが「根幹」なのであり、それは「世」に共有される。新井の両親が見た風景が、新井に共有され、さらに土地の人に共有される。それは、私がその「場」へ行くことがあったら、その瞬間に共有できる。私が野球に詳しく、たまたま男の話を聞いたら、「七回裏の逆転満塁ホームラン」が共有できるのと同じだ。
 荒川は、どんな「わざと」(西脇の言う、わざと)を書いても、それを「自然」になじませることができる。西脇とは別の「教養」がある。それは「世」というものがもつ「智慧」に通じるかもしれない。
 「真珠」は「身のほどが輝く真珠」という一行からはじまっているが、その「身のほど」の「身」が大事。そのことを荒川のことばは知っている。

 最果タヒ「恋は無駄死に」。

恋が恋だという確証はどこにもないまま
死体になっても手を繋いでいたらその愛は本当って
信じている人のため
死体の手を結びつける仕事をしている
本当の死神の仕事

 この「わざと」は、どんなに時間をかけても「自然」にはならないだろう。そういう「逆説」が青春ということか。
 私は古い人間なので、

「キスしたかった すごくしたかった それだけだった だからしたし 好きかどうかはそこから考えようと思った

 このことばが「自然」になってくれればいいなあと思う。
 私は詩を読むとき、年齢とか、性別とかはふつうは考えないが、新井、荒川、最果とつづけて読むと、最果のことばは若いなあ、と感じる。それは、私が若さを失っているということかもしれない。
 『さっきまでは薔薇だったぼく』には、もっと「自然な輝き」にあふれたものがあったとも思う。

 

 

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