「現代詩手帖」12月号(19)(思潮社、2022年12月1日発行)
石毛拓郎「夢か、」。すでにブログで感想を書いた。どう書いたかは、もう忘れた。忘れるために書くのだから、それでいいと思っている。読むたびに違ったことを書きたい。できるなら前に書いたことと反対のことがいいと思うが、思い通りにいくとは限らない。きょうは、次の部分を引用してみる。何が書けるか。
夢か、
尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が
----汽車に乗っていきゃア、東京まで、沈黙っちょっても行けるんぞ。
娘は、心配顔で訊く
----東京から先の方は行けんか?
父は、東京行きを制するように
----夷(エビス)が住んどるけに、女子供は行けぬ。
「東京行きを制するように」は、誰のことばだろうか。石毛は、この連を林芙美子「風琴と魚の町」を参照にして書いている(と、注に書いてある)。林芙美子は「尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が」とは書かないだろうから、「字の文」は石毛の創作かもしれない。そうだとしたら、どうして「東京行きを制するように」と書けたのだろう。どうして石毛に、林芙美子の父の気持ちがわかったのだろうか。かりに林芙美子が書いたとしても、どうして林芙美子に父の気持ちがわかったのだろうか。
と、書けばわかるのだが。
気持ちなんて、だれにでもわかるのだ。気持ちを隠すことはできないからだとも言えるが、気持ちなんて、先に言ったものの勝ちなのだ。ことばにした瞬間、気持ちは決定づけられる。それは時として、言った本人の気持ちを超えて、「真実」になる。「わかった、きみはこう言いたいんだろう」とだれかが叫べば、言ったひとが「そんなつもりはない」と否定してもむだである。なぜか。気持ちとは「共有」されたものだからだ。「共有」されないものは気持ちではないからだ。
だからね。
石毛は、それを「共有」するために、林芙美子のエピソードを「わざと」書いてる、ということよりも、私は、こうつづけたい。
だからね。
いつ、どこで、だれに「共有されたか」が重要になる。「夢」のように。だから石毛は埼玉で詩を書いている。この詩でのように東京にこだわりながら。石毛の詩のタイトル「夢か、」は、そういう意味を含んでいるかどうかは知らないが。
井戸川射子「育ち喜ぶ草」。隣の家から侵入してきた蔦のようなものを取り除く作業をことばにしている。まあ、独り言のようなものだ。そのとき、
連なって滝みたい、と褒めると
そうやって何かに喩えるのはやめて
と強い声を出される
あ、ここがおもしろい。
草が(植物が)、声を出すわけではない。しかし、井戸川は聞いてしまう。それは、誰の声? これは特定してみてもおもしろくない。「だれ」は気持ちではないからだ。ここでの「気持ち」は「そうやって何かに喩えるのはやめて」だ。
井戸川は、「共有」してしまったのだ。
それに従うかどうかは問題ではない。従うにしろ、無視するにしろ、「共有」が先にある。それは一瞬とさえも言えない瞬間である。
「わざと」とか「わざわざ」を持ち出して、考えることを忘れてしまう。
岡本啓「音楽」。
音は通らないけれど
この世でぼんやり聞いていた音が
なぜかよく聞こえる
そうですか。「わざわざ」書いてくれて、ありがとう。
ところで。
石毛拓郎の「夢か、」の最後の部分、
父は、「どうだ!」とばかりに
自転車の荷台に
わたしを、きつく縛りつけた
この「「どうだ!」とばかりに」が「気持ち」というものなんだよなあ。それは、説明しないときは、すごくよくわかる。しかし、説明しようとすると、とても面倒くさくて、「そんなのこと、知らんよ」と言いたくなる。「知らんよ」は「よくわかる」を含んでいる。その「よくわかる」で大事なのは、「わかる」ではなく「よく」という部分。それが「気持ち」というもの。
岡本は、「よく」聞こえると書いているが、その「よく」を私は共有できなかった。「わざと」書いていると感じた。岡本は必死になって聞き取っているのに(聞こえないものを聞こうとしているのに、そして「やっと」聞き取ったのに)、それを「よく」とすり替えている。「やっと」を否定し、「よく」と自分に言い聞かせている。「よく聞こえる」ものなら、井戸川の詩のように、突然、拒否できないものとしてあらわれるものなのだ。
もちろん「やっと」聞き取ったものを「よく」聞こえるということもある。だれかを説得するときに、つかうね。岡本の「よく」は「やっと」と書き換えた方が「気持ち」になるのだが、岡本は「やっと」はいやなんだろうなあ。自分の「苦労」をみせたくないんだろうなあ。
井戸川は、草むしりなんか面倒くさい(苦労)を隠さずにみせているから、「気持ち」の変化が丸見えになり、それが楽しい。
詩は、比較しながら(?)読むと、楽しい。
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