「現代詩手帖」12月号(6)(思潮社、2022年12月1日発行)
福間健二「フミちゃんの眠らない夜」は、「後注」がついいてる。
二十三歳のフミちゃん、金子文子(一九〇三-一九二六)の没年を意識して。そこから書きはじめて、金子みすゞ(一九〇三-一九三〇)をひっぱりだして終わることになるとは思っていなかった。文子とみすゞ、同年生まれで、文子の方が少し上。
これは「わざと」書いたのか、「わざわざ」書いたのか。「わざわざ」と私は思った。私はふたりの生まれた年も死んだとしも知らないが、そういう読者は多いだろう。その読者のために「わざわざ」書いてくれているのである。福間は、親切な人なのだろう。いまは、親切は親切とはいわずに、「おせっかい」というかもしれないなあ。
詩のなかに、
キス、やたらにするもんじゃない。いまはとくに。
ほら、「親切」ではなく「おせっかい」でしょ? おせっかいは「わざわざ」するものなのだ。
でも、福間のために書き加えておくと「詩とは書き始めたときと書き終わったときとでは、思いがけず、世界が変わってしまっている」という定義を、「後注」で「わざわざ」言い直してくれている、読者を啓蒙しようとしているところが、なかなか親切である。「思っていなかった」が、とてもいい。「思っていなかった」のなら、それを破棄してもいいのだが、そうではなく「思っていなかった」からこそ作品として提出する。これが作品を評価するポイントになる。「思っていた通り」(予定通り)なら、それは詩ではないのだ。
新井豊美「私は漁婦 ボラとりに行く」。
魚市場で
とれたばかりのボラの頭が切り落とされ
切り口からどっと赤いものが
あふれ出すのを見た
頭のないボラの銀色にくねる胴を
男はわし掴みにして立ち去り
男の動作はすばやく
血潮の中に頭と内臓がしんと残った
「男は」「男の」と繰り返されるところがとてもおもしろい。私は反射的に、対極(?)の女を思い浮かべる。だから「血潮の中に」の血潮を月経のように感じてしまう。新井の肉体(生理)のなかに「頭と内臓がしんと残った」。それは魚市場の光景であって、魚市場ではない。
夢 とはいえ色彩と音と質量があり
夢 とはいえ鞭となって痛くしなる
ボラの血で指を染め
夢 という激しい暴力をあの男にならって
刃物でザクリと切り落としたい
いいなあ。まるでセックスだ。セックスのとき、男は男でありながら女であり、女は女でありながら男である。したいこと、されたいこと、に区別がなくなる。
「男は」「男の」と「わざわざ」書いたから、「夢」「夢」「夢」が「わざわざ」書かれたものではなく、自然になる。
ところで。
なぜ十年も前に死亡した新井の詩が「年鑑」に載っているのか。『新井豊美全詩集』が一月に出たからである。つまり、詩集を売るための宣伝のために、「わざわざ/わざと」古い作品を掲載しているのである。
そういうことに新井の詩が利用されたからといって、新井の詩のことばの意味や音の響きが変わるわけではないし、これをきっかけに新井の詩を読む人が増えるとしたら、それはそれでいいことだが、私は感心しない。「年鑑」とは「記録」のことだろう。商売は「記録」ではない。
それは、編集についても言える。現代詩手帖の「年鑑」は毎年、作品の掲載順序に気を配っている。基本的に発表月(今回は2か月単位)で区切り、その区切りのなかでは五十音順に作品が掲載される。そして、その区切りごとの掲載順のほかに、全体の最初と最後は、かなりの有名詩人(たいていのひとが知っている詩人)の作品が掲載されることになっている。今回は巻頭の作品選びに苦労したようだ。五十音順を守ると、巻頭は青野暦になる。これを避けて、谷川俊太郎の作品を最初に掲載している。(最後は吉増剛造である。)この操作は「わざわざ」なのか「わざと」なのか。「わざわざ」なのだが、そこから人間性があふれてこないので、どうしても「わざと」になってしまう。
私は、編集方針をきちんと守り、谷川俊太郎のほかの詩人の作品の中に紛れ込ませた方が谷川に対して親切だと思う。「わざわざ」特別待遇をしない、ということが大切な場合がある。商売のために特別待遇をするのは、私には非礼な行為に思える。つまり「わざと」特別待遇しているように見える、ということである。
倉田比羽子「交歓」。倉田は、ある時期、新井豊美と同じ歩調をとって作品を書いていたような印象がある。「仲間」という印象が私の記憶のなかにある。だから、というわけなのかどうかよくわからないが。
それは、まるでそこがはじまりであったかのようにふさふさした草むらに分け入ってゆく
この一行「交歓」というタイトルの影響もあって、新井の描いていたセックスにつづけて読んでしまう。そして、『河口まで』『いすろまにあ』の新井豊美の詩は好きだったが、その後は次第に好きではなくなっていったなあ、というようなことを思い出してもしまう。好きではないことを「わざわざ/わざと」書くのも私は好きだが、きょうは、やめておこう。「年鑑」について書いたから、もういいだろう。
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