詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(6)

2022-12-15 11:35:55 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(6)(思潮社、2022年12月1日発行)

 福間健二「フミちゃんの眠らない夜」は、「後注」がついいてる。

二十三歳のフミちゃん、金子文子(一九〇三-一九二六)の没年を意識して。そこから書きはじめて、金子みすゞ(一九〇三-一九三〇)をひっぱりだして終わることになるとは思っていなかった。文子とみすゞ、同年生まれで、文子の方が少し上。

 これは「わざと」書いたのか、「わざわざ」書いたのか。「わざわざ」と私は思った。私はふたりの生まれた年も死んだとしも知らないが、そういう読者は多いだろう。その読者のために「わざわざ」書いてくれているのである。福間は、親切な人なのだろう。いまは、親切は親切とはいわずに、「おせっかい」というかもしれないなあ。
 詩のなかに、

キス、やたらにするもんじゃない。いまはとくに。

 ほら、「親切」ではなく「おせっかい」でしょ? おせっかいは「わざわざ」するものなのだ。
 でも、福間のために書き加えておくと「詩とは書き始めたときと書き終わったときとでは、思いがけず、世界が変わってしまっている」という定義を、「後注」で「わざわざ」言い直してくれている、読者を啓蒙しようとしているところが、なかなか親切である。「思っていなかった」が、とてもいい。「思っていなかった」のなら、それを破棄してもいいのだが、そうではなく「思っていなかった」からこそ作品として提出する。これが作品を評価するポイントになる。「思っていた通り」(予定通り)なら、それは詩ではないのだ。

 新井豊美「私は漁婦 ボラとりに行く」。

魚市場で
とれたばかりのボラの頭が切り落とされ
切り口からどっと赤いものが
あふれ出すのを見た
頭のないボラの銀色にくねる胴を
男はわし掴みにして立ち去り
男の動作はすばやく
血潮の中に頭と内臓がしんと残った

 「男は」「男の」と繰り返されるところがとてもおもしろい。私は反射的に、対極(?)の女を思い浮かべる。だから「血潮の中に」の血潮を月経のように感じてしまう。新井の肉体(生理)のなかに「頭と内臓がしんと残った」。それは魚市場の光景であって、魚市場ではない。

夢 とはいえ色彩と音と質量があり
夢 とはいえ鞭となって痛くしなる
ボラの血で指を染め
夢 という激しい暴力をあの男にならって
刃物でザクリと切り落としたい

 いいなあ。まるでセックスだ。セックスのとき、男は男でありながら女であり、女は女でありながら男である。したいこと、されたいこと、に区別がなくなる。
 「男は」「男の」と「わざわざ」書いたから、「夢」「夢」「夢」が「わざわざ」書かれたものではなく、自然になる。

 ところで。
 なぜ十年も前に死亡した新井の詩が「年鑑」に載っているのか。『新井豊美全詩集』が一月に出たからである。つまり、詩集を売るための宣伝のために、「わざわざ/わざと」古い作品を掲載しているのである。
 そういうことに新井の詩が利用されたからといって、新井の詩のことばの意味や音の響きが変わるわけではないし、これをきっかけに新井の詩を読む人が増えるとしたら、それはそれでいいことだが、私は感心しない。「年鑑」とは「記録」のことだろう。商売は「記録」ではない。
 それは、編集についても言える。現代詩手帖の「年鑑」は毎年、作品の掲載順序に気を配っている。基本的に発表月(今回は2か月単位)で区切り、その区切りのなかでは五十音順に作品が掲載される。そして、その区切りごとの掲載順のほかに、全体の最初と最後は、かなりの有名詩人(たいていのひとが知っている詩人)の作品が掲載されることになっている。今回は巻頭の作品選びに苦労したようだ。五十音順を守ると、巻頭は青野暦になる。これを避けて、谷川俊太郎の作品を最初に掲載している。(最後は吉増剛造である。)この操作は「わざわざ」なのか「わざと」なのか。「わざわざ」なのだが、そこから人間性があふれてこないので、どうしても「わざと」になってしまう。
 私は、編集方針をきちんと守り、谷川俊太郎のほかの詩人の作品の中に紛れ込ませた方が谷川に対して親切だと思う。「わざわざ」特別待遇をしない、ということが大切な場合がある。商売のために特別待遇をするのは、私には非礼な行為に思える。つまり「わざと」特別待遇しているように見える、ということである。

 倉田比羽子「交歓」。倉田は、ある時期、新井豊美と同じ歩調をとって作品を書いていたような印象がある。「仲間」という印象が私の記憶のなかにある。だから、というわけなのかどうかよくわからないが。

それは、まるでそこがはじまりであったかのようにふさふさした草むらに分け入ってゆく

 この一行「交歓」というタイトルの影響もあって、新井の描いていたセックスにつづけて読んでしまう。そして、『河口まで』『いすろまにあ』の新井豊美の詩は好きだったが、その後は次第に好きではなくなっていったなあ、というようなことを思い出してもしまう。好きではないことを「わざわざ/わざと」書くのも私は好きだが、きょうは、やめておこう。「年鑑」について書いたから、もういいだろう。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇259)Obra, Joaquín Llorens

2022-12-15 09:38:45 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens


 ¿Sabes? Lo que miraba, lo que pensaba, mientras daba vueltas alrededor de tu escultura.
 Te lo diré sólo a ti.
 Delante, detrás, derecha, izquierda. Cada vez que cambio de posición, cambia la forma de tu obra. Pero, ¿sabes? La sombra en la pared y en el suelo siguen siendo la misma. A veces doy la espalda a la obra para comprobar la sombra.
 ¿Qué es una sombra? ¿Por qué no cambia de forma? ¿Acaso la sombra que emerge de la obra habla de la esencia de la obra?
 Pero también conozco otro secreto.
 La sombra cambian con más violencia que las obras de arte. Se mueve al cambiar el ángulo de la luz. Cuando el sol cambia de posición, la sombra se extiende por el suelo o se levanta contra la pared. Y mientras cambia de forma, intercambian palabras contigo (con tu obra hermosa), que siempre tienes el mismo aspecto. El lenguaje de la sombra es el lenguaje de la luz. Pueden ser las palabras, la música, que se mueve en tu corazón.
 Entre el tiempo, tu obra, la luz y la sombra bailan: siempre sueño con esto.

 

 Toda obra de arte convive con el espacio, la luz y el tiempo. Así que, a menos que uno vaya allí y lo vea con suspropios ojos, no habrás visto la obra.

 

 

 君は知っているだろうか。君の作った彫刻のまわりをぐるぐる回りながら、私が何を見ていたか、私が何を考えていたかを。
 君だけに教えよう。
 正面、後ろ、右、左。私が立つ位置をかえるたびに、君の作品の姿が変わる。しかし、君は知っているだろうか。壁と床に映った影は同じ形のままなのだ。ときどき作品に背を向けたのは、影を確かめるためなのだ。
 しかし、影とは何だろう。なぜ形を変えないのか。作品から生まれた影こそが、作品の本質を語っているのではないのか。
 だが、私は別の秘密も知っている。
 影は作品よりももっと激しく変化する。光の角度が変わると動いていく。太陽が位置を変えると、影は床に伸びたり、壁にぶつかって立ち上がったりする。そして、形を変えながら、いつもかわらぬ姿の君(作品)とことばをかわしている。影のことばは、光のことば。それは君のこころのなかで動いていることば、音楽かもしれない。
 時間のなかで、作品と光と影がダンスする--その様子を私はいつも夢見ている。

 

 あらゆる作品は、空間、光、時間と一緒に生きている。だから、その場へ行って、自分の目で見ないと作品を見たことにはならない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇258)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-12-15 08:45:19 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
Las 2 orillas" Serie pictografias 100x100cm.


qué se mueve?
yate? olas? viento? luz? gente?
color? sonido?
tiempo?
memoria?
si fuera un poeta.....
con qué palabra empiezas cuando escribes un poema?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする