詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」から「健康について」

2022-12-11 21:23:18 | 詩集

「健康について」は、とても難解である。
健康の対極にあるのは何か。不健康=病気。人間はだれでも病気が嫌い。病気の延長線上にある死も嫌い。
さらに健康には、肉体の健康のほかに精神の健康という問題もある。

三木清は肉体の健康(病気)についても語っているが、途中から重心が精神の健康へとうつっていく。これを、どう説明するか。私はずいぶん考え込んだ。

しかし。取り越し苦労だった。

イタリアの青年は、三木清を読む前に同じテーマの作文を書くのだが、その作文が、健康の問題を、中国の不老不死を求めた皇帝に結びつけ、人間は必ず死ぬ、大切なのは肉体の健康ではなく精神の健康であると論を展開し、ことば(哲学)は死なないと書く。求めるべきは肉体の「不死」ではなく精神の「不死」であると結論する。

三木清の文書を先に読んだとしても、彼のような作文を何人の高校生が書けるだろうか。

何か所か、文法の間違いや、日本人ならつかわない言い回しもあるのだが、論理の明確さと展開の仕方にびっくりしてしまった。
作文をアップできないのが残念。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「現代詩手帖」12月号(2)

2022-12-11 09:35:54 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(2)(思潮社、2022年12月1日発行)

 倉橋健一「さらば、小箱よ」。

ツバメ印で長いあいだしたしまれてきた徳用マッチが
時勢に押されてついになくなるという噂を聞く前の日のこと

 「噂を聞く前の日」が「わざわざ」だね。「噂を聞く前の日」は、存在するようで、存在しない。特定できない、という意味である。あるいは「意識」のなかにしかない、と言い換えればいいか。
 だから、これからはじまるのは「意識の劇」なのである。そして、この意識というものも「わざわざ」書かないと存在しないものであり、書けば存在してしまうというものでもない。
 ほら。

朝焼け
一羽の火の鳥がひとりの天使(えんじぇる)をくわえると

 と書いたあと

(もっとも天使を見たというのは)私のまったくの主観で

 と書く。「主観」ということばで、存在するかもしれない「客観」を否定していく。ことばが動いていく。その動きだけがある。だから、ことばに「意味」を求めてはいけない。
 思い出してほしい。倉橋のことばが動いているのは「いま」ではない。「噂を聞く前の日」を、ことばは動いている。そして、それは動き始めると「噂を聞く前の日」のことではなく、「動いている今」のことになる。それは「今」さえも突き破ってしまう。だからといって、それが「未来」になるわけでもない。「今」でありつづける。
 この矛盾が「わざわざ」である。書かなければ「矛盾」しないことを、書くことで「わざわざ」矛盾にしてしまう。
 正気ではない。別なことばで言えば「ばっかじゃない?」なのだが、「ばか」であることが詩人の「正直」というものである。詩人は正気ではないが、ばか正直である、ということを「わざわざ」ことばを書くことで証明するのである。

 小林坩堝「NOWHERE」。

 分譲住宅か、マンションか、あるいは分譲宅地か。不動産を下見にゆく。売り手の「定型のことば」と、そのことばに触発されて動く意識が、

 地下鉄の地上駅を抜け、街灯の消された街を満員電車が走ってゆく。二駅のあいだだけ地上を走る車輌のリズム。

 というように、ちょっと「不動産業者」のことばに汚染されながら、それに拮抗して動く。この「拮抗」を「わざわざ」書いている。そして、それが、この詩のいい部分である。このまま走り続けてほしいと思うが、最後。

たった一度きりの今日の現在形を保持する為めに、--果たして錯誤とは生存の換言ではなかったか--私はペンを走らせ、空洞を満たすインクが血であると誤る。

 小林は「わざわざ」そう書いているのだが、「ペン」ではなく、地下鉄の電車を走らせつづけてほしかった。「血」ということばが出てくるが、においも色も感じない。「定型」だからである。さらに「誤る」と「定型」の念押しもしているが、それこそ「時代錯誤」というものかもしれないと、私は読んだこともない大正、明治文学を思い出すのである。

 佐々木幹郎「ばんごはん」。
 「1 少年期」「2 老年期」と二つのパートにわかれている。少年のことばとして、

ぼくはおなかがへっているけれど
たべたくない
おなかのなかで ねじれて
たおれるひとがいうんだ

 天の邪鬼(?)なこどもの意識、だね。
 一方で、老人は、どう言うか。

ばんごはんを あと4000回たべると
わたしも いなくなる

 晩御飯4000回というのは、10年以上だね。15年未満ではあるけれど。これは老人の無邪気な意識(?)。ある葬儀のとき、90歳を超す老人が「私もあと10年か」と漏らすと、近くにいた親族が「ばかを言っては困る。あすにでも死んでくれ」とつぶやいた。老人は、子どもと同じように自分しか見えない。
 だから、というと変かもしれないが。そして、回数も違ってくるが、「少年」と「老年」を入れ替えた方が「現実的」になると思う。〇歳で死ぬ。年ではなく、日にすると〇日、時間にすると〇時間、分なら〇分、秒なら……という「無意味」なのことを「意味」であるかのように、自分が発見したことであるかのように「わざわざ」ことばにするのは、子どもの行動である。
 もちろん、そうであるからこそ、その「定型」を拒絶し、佐々木は、このスタイルにしたのかもしれないが。


 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする