詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇264)Obra, Joaquín Llorens

2022-12-27 16:24:11 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Tres anillos de movimiento entrelazados. Y sombras. Pero ¿hasta qué punto es esculturas? ¿Dónde empieza la sombra?
 Si cambia la posición de la luz, también cambia la forma de la sombra. ¿Pero es verdad? ¿Está la sombra determinada por la forma? ¿Los tres anillos de hierro no cambian de forma según la sombra? Al ver la sombra que cambia libremente según la posición de la luz, ¿existe el deseo de transformarse dentro de los anillos de hierro en busca de nuevas formas?

 Puedo oir la voz de la sombra provocando al hierro.
 "¿Puedes convertirte en esta forma como yo? ¿Puedes hacer que sus curvas sean más flexibles? Quiero alargar esta parte delgada. ¿Puedes hacerlo?"

 La sombra es quizá la idea de Joaquín. La idea dice al hierro. 'Haz esta parte un poco más redondeada y atractiva. Haz esta parte más redondeada y atractiva, hazla tan excitante que uno sienta una corriente eléctrica al tocarla. Puedes hacerlo, ¿verdad?".

 O quizás el hierro está provocando a Joaquín. "¿Quieres ver lo que escondo? ¿Ves lo que estoy ocultando? ¿Sabes hasta qué punto mi cuerpo es libre de cambiar?".

 Esta conversacion se corre de un anillo de hierro a otro. "Mueve tu espalda más atrás. No toque tu mano no allí, sino aquí. Para los ojos de todos se encuentren aquí". 

 

 絡み合うように動く三つの輪。そして、影。だが、どこまでが彫刻なのか。影はどこからはじまっているのか。
  光の位置が変われば影の位置も形も変わる。しかし、そうなのか。影は形によって決まるのか。鉄の三つの輪が、影に合わせて形を変えることはないのか。光の位置よって自在に変わる影を見ているうちに、鉄の輪の中に新しい形を求めて動き出す欲望はないだろうか。

 私には、影が鉄を挑発している声が聞こえる。
 「きみは、この形になれるかい? そのカーブをもっとしなやかにできるかい? 私はこの細い部分をもっと長くしたいんだよ。それができるかい?」

 影は、もしかするとホアキンのイメージ。イメージは、鉄に呼びかけるのだ。「ここをもう少し丸く魅力的に。ここは、触ると電流を感じるくらいに刺激的に。きみならできるだろう?」

 あるいは、鉄がホアキンを挑発しているのかもしれない。「私が隠しているものを見たいかい? 私が隠しているものが見えるかい? 私のからだがどこまで自由に変化できるか知っているのかい?」

 それは鉄の輪同士の対話に広がっていく。「そこはもっと背中を後ろにそらして。その手は、そこではなく、ここに。みんなの眼が、ここに集まるように。そこからどこまでも滑るように動いていくように。」 

 

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「現代詩手帖」12月号(18)

2022-12-27 09:28:51 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(18)(思潮社、2022年12月1日発行)

 川満信一「在るものの不安」。

いのち、地上の、地下の、空中の命
滔々と流れる無限の大河
休むことのない動詞よ
重さを想えば地球を背負うように
瞑想すれば炎の色に躍動するもの

 私は困ってしまった。「休むことのない動詞よ」とあるが、「動詞」が見つからない。いや、「流れる」「休む」「想う」「背負う」「瞑想する」「躍動する」と存在する(在る)が、「動いている」が感じられない。「地球を背負う」とあるが、それが「重い/重さ」に結びつかない。「瞑想する」から「躍動する」への変化は、ほんとうならブラックホールが爆発するようなものだが、まったく「躍動する」が感じられない。そこに「在る」のは「動詞」と名付けられた「名詞」のような感じがする。
 これは、「わざと」?

躍動するいのちの 炎の大河を跨ぎ
異星の峰へワープせよ ランボー!

 ことばが「頭」のなかできらめいている。しかし、それは「在る(状態)」のであって、「動き(動詞)」ではない。「状態」をあらわす「動詞」というのもあるのだけれど、それは「休むことのない」とは別の「動詞」だと思う。

 高良勉「フボー御嶽」。

男の人は
特に島外の人は
入ってはいけない
タブーが生きている
フボー御嶽

 高良は、したがって「一度も入ったことが無い」と書いている。高良にとっては、肉体的には「存在しない」。しかし、意識的には「存在する」、その場所。その「意識的存在」を「具体的存在」に変えるのは何か。
 高良は、他人の撮影した「写真」を利用する。「写真」に映し出された「場」。「白装束の神女たち」が「神祀りを行っている」。
 これも「動詞」ではないなあ、と私は感じる。「動き」が「状態」として、固定されている。肉体が動いていない。
 「入ってはいけない」と言われたとき、高良の「肉体」のなかで、どんな運動が起きたのか。「してはいけない」と言われたとき、「肉体」にはそれを「したい」という欲望も生まれるだろう。それをどうやって「してはいけない」と言い聞かせたのか。どんな葛藤があったのか。なかったのか。
 高良は「わざと」それを書かなかったのか。
 神女たちを

 マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ

 と書かれても、それがどんなふうに美しいか、私にはわからない。美しさに触れたとき、高良の「肉体」がどう動いたのか、それが知りたい。「マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ」ということばが、注釈にあるように比嘉康雄『神々の原郷 久高島』のことばなら、なお、そう思う。
 高良は、ここでは、自分のことばではなく、単に他人のことばを伝達しているにすぎない。

 松尾真由美「凍える雛のひときわのざわめきから」は、何が書いてあるかわからないが、だかこそ「信じてもいい」。松尾には信じているものがある。それはタイトルの「凍える雛のひときわのざわめきから」にあらわれている。
 「ひな」と「ひときわ」の音のつながり。「ひときわ」と「ざわめき」の音のつながり。ことばをつないでいく「の」の音の脈絡。
 それは、書き出しの一行にもある。

受け入れてもらえないかもしれなかった。りり、りらら。

 「受け入れてもらえないかもしれなかった」のなかにある「ら行」の音。「し」の音が強い「い」。それが結びつき「り」という音にかわる。ここから「る/ろ」ではなく、明るい「ら」へ転換するのは、松尾が、基本的に明るい音のことばを優先させる「肉体/声帯/口蓋/のど」を持っているからだろう。「ら」のなかの「あ」を引き継いで「たどたどしい」と動いていく。松尾の「ら行」は「R」ではなく「L」で発音されるのかもしれない。

とおいほど反論できない分かりきった蜃気楼を飲みこんで、みれどしら。

 この「みれど」は音階の「ミレド」だけではなく「飲みこんでみれど」とつながる「動詞」のようでもある。そのとき「みれど」の「ど」は「とおいほど」の「ど」につながっている。
 途中に「らそふぁみれららら」「らしどれみふぁみれ」と「ふぁ」という音がある。「遠いほど」ではなく「おおいほど」と書くのだったら、「とほいほど」と書いた方がもっと音が響きあったかもしれない。
 「わざと」を押し通し、「わざわざ」に変えてしまうのが松尾の詩であると仮定しての話だが。

 

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