詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

現代詩手帖」12月号(5)

2022-12-14 12:35:49 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(5)(思潮社、2022年12月1日発行)

 奥野埜乃「( とつとつと…」。書き出しから、私には、何が書いてあるのかわからない。

とつとつとシグナルを送る凹んだ臍のうえにわたしの指がなめらかな波紋を広げたとき、彼女は水面から、深く、深く、いつもの姿勢で沈んでいっている最中だった。
そう、いつもならわたしをハグするためのこと、彼女は陽が差し込まなくなる水底へとゆっくりゆっくり降りていく。

  何がわからないかといって、「わたし」のいる位置である。「わたし」は水底にいる。「彼女」は、水底にいる「わたし」とハグするために水中に降りていくということか。そうであるなら、「わたし」から見れば「沈んでくる」「降りてくる」だろう。「沈んでいく」「降りていく」というかぎりは、私は水の外にいる。それでは「ハグ」できないだろう。「ハグ」が「抱擁」だと仮定の話だが。
  これは「わざと」奇妙な動詞のつかい方をしているのか。「わざわざ」こんな書き方をしているのか。「わさわざ」と「わざと」と違う。
  このあと、

彼女は語気強く未知の言葉に応答し、全身の毛を逆立てる。

  という一行がある。「未知の言葉」は「沈む」「降りる」ではないかもしれないが、知っているように思えることばを「未知のことば」に変えてしまうのが詩であると私は信じているので、奥野の書いていることがわからない。
  さらに、こういう一行がある。

だいじょうぶ、彼女はあなたに告げるから。わたしを伝えるのがあんたの使命よ。

 「あなた」「あんた」が唐突に出てくる。「わたし」と「あなた/あんた」の関係はどうなっているか。「彼女」の存在によって「わたし」が「あなた/あんた」へと変化するということか。
 いずれにしろ、この書き方は「わざわざ」ではなく、「わざと」である。
 たとえば、葬儀。「遠いところをわざわざありがとうございます」という挨拶がある。一方、遠いけれど、「わざと」行くときがある。それは「わざわざ」とは全く違う意味である。
 西脇順三郎は、詩は「わざと」書くものであるというようなことを言っていたと記憶する。西脇の場合「わざと」書いても、それが「わざと」ではなく、自然に「わざわざ」にかわっていく。なぜかというと、西脇には私とは違って深い教養があって、それが人間性となり滲み出してくるからである。「わざわざ」は滲み出してくるもの。「わざと」はほんとうはそれが存在しないのに、存在するかのように装うことである。遠い葬儀に「わざと」行くのは、私は故人を尊敬していました、と嘘をつくためである。

 城戸朱理「凶兆」。

月がゆるやかに位置を変えるとき
星の座が定まる
あかあかと燃えるベテルギウスから
不吉の知らせが届いたのか
森が誰かを殺すために
           動き始める
それもまた伝承だが、もし現実になるならば
月もまた青ざめていくだろう

 これは「わざと」の大集合である。その証拠が、引用した終わりの二行にある「また」「また」の繰り返しである。「また」を繰り返さないことには、ことばが動かない。「また」によってことばを動かし、その動きによって「事実(それまで書いてきたことば)」を定着させる。
 ことばによって「事実」を別なものにしてしまう、というのは詩の特権であるが、それが

森が誰かを殺すために
           動き始める

 というような視覚に頼らないと成立しない特権ならば、私は、特権であることを放棄した運動にしか見えない。
 この直後に、

怒りがデジタルに拡散していく時代

 という一行がある。「ペテルギウス」のような音の美しさが「デジタル」にはない。「デジタル」からは、滲み出してくるものが何もない。
 最後の四行。

星の座が定まるとき
国境は揺らぎ
千年を経た大木が裂け
数千年を閲した山脈が崩れる

 「デジタル」なのに「数千年」か。概数を拒否してしまうのが「デジタル」ではないのか。城戸の書いているのは、「アナログ」でもなく「アナクロ」かもしれない、と私は感じる。
 西脇が「わざわざ」に高めた「わざと」を、わざわざ「わざと」に引き戻している。

 管啓次郎「西瓜の日々(My Watermelon Days)」。

西瓜の建築のなかに住めることがわかって
それは西瓜そのものなのだった。
装飾も家具もない。
むずかしいのはどうやって中に入るかで
表面に穴をあけると果汁がこぼれてしまう。
どうやって入ろうか、どうやって入ろうか
いろいろ考えて、試みていると、それが起きる。

 この「どうやって入ろうか、どうやって入ろうか/いろいろ考えて、試みていると、それが起きる。」という二行に集約されているのが「わざわざ」だ。
 ここから「わざと」が「わざわざ」にかわって、滲み出してくる。「千年」とか「数千年」とか言わずに、管の「生涯」(このことばが詩のなかにある)が滲み出してくる。それは、いつの時代の管なのかわからないが、わからなくて当然なのである。十年前か二十年前か、あるいはきのうか、さらにも明日かもしれない時間が、管をつつみこむ。時間は、いつでも、それを思った瞬間に、「いま」となって存在するものである。
 だから、管は、詩を、こんなふうにとじる。

そんなぼくの西瓜の日々は
はじまったばかりです。
西瓜で乾杯しよう。
生命のために。

 「千年」「数千年」ということばはなくても、千年、数千年、つまり「永遠」を感じる。それは「過去」ではなく、「いま」という限定を破壊する力だ。「いま」という限定を破壊し、「いま」とさえ呼べない充実した瞬間に変える。
 こういう瞬間のために、「わざわざ」遠回りをする、私は引用しなかったが、管のことばはいろいろな時空を動き回る。それが詩である。現代詩手帖か、詩集で、いちばんいいところを探して読んでみてください。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇257)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-12-14 08:45:46 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"En compañía de la lluvia" Serie pictografias alla por el 2010, 200x200 cm

 La palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso recuerda el cuadro de un hombre caminando bajo la lluvia. La palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en el día lluvioso está relacionada con un sueño en el que intentaba recordar un recuerdo que no podía rememorar. En el sueño, llueve y el hombre camina bajo la lluvia. Mojados por la lluvia, los contornos de las farolas se difuminan en un color gris, creando muchas sombras que se disuelven en el aire como un recuerdo no recordado. Se ha vuelto difícil distinguir entre lo real y las sombras. Pero en el cuadro que la palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso, el tiempo ha pasado y el hombre que la palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso no está ahí, pero otra palabra que lo perseguía está caminando como un hombre. En la mano lleva una bolsa roja llena de palabras. Las palabras pretendían describir recuerdos que no podía recordar, pero la lluvia continua empapó la bolsa y los contornos de las palabras empezaron a disolverse. Cuando las palabras disueltas tocan el pavimento, se convierten en nuevas palabras que siguen al hombre y empiezan a caminar. Era como un recuerdo que aparece repetidamente en un sueño que no puedo recordar. La palabra escritas siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso, se hace dudar de si está mirando el cuadro, convirtiéndose en el hombre del cuadro y caminando por la ciudad de la memoria, o caminando por la memoria de la ciudad. Mirando hacia atrás, está segura de que sus ojos deben encontrarse con la palabra deseosa de ver la desesperación de la palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso.

 雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばは、雨の降るなかを歩いている男の絵を思い出し、雨の降るなかを歩いている男の絵を見に行った。雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばは、思い出せない記憶を思い出そうとする夢と関係していた。夢のなかでは雨が降っていて、その雨のなかを男が歩いている。雨にぬれて、街灯の輪郭は灰色ににじみ、いくつもの影をつくりながら、思い出せない記憶のように空気のなかに溶け出している。本物と影との見分けがつかなくなっている。しかし、雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばが見た絵のなかでは、時間が通りすぎたのか、あの日、雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばが見た男はそこにはいなくて、彼を追いかけていたことばが男になって歩いていた。手にはことばがぎっしり詰まった赤いバッグを提げていた。それは思い出すことができない記憶を描写するためのことばなのだが、降り続く雨がバッグのなかにしみこんできて、ことばの輪郭が溶け始めている。溶け出したことばは、歩道に触れると、男を追いかける新しいことばになって歩き始める。それは繰り返し夢のなかに現れる思い出せない記憶にそっくりだった。雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばは、絵を見ているのか、絵のなかの男になって記憶の街を歩いているのか、街の記憶を歩いているか、わからなくなった。振り返れば、雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばの絶望を見たいと熱望していることばと目が合うに違いない。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする