「現代詩手帖」12月号(5)(思潮社、2022年12月1日発行)
奥野埜乃「( とつとつと…」。書き出しから、私には、何が書いてあるのかわからない。
とつとつとシグナルを送る凹んだ臍のうえにわたしの指がなめらかな波紋を広げたとき、彼女は水面から、深く、深く、いつもの姿勢で沈んでいっている最中だった。
そう、いつもならわたしをハグするためのこと、彼女は陽が差し込まなくなる水底へとゆっくりゆっくり降りていく。
何がわからないかといって、「わたし」のいる位置である。「わたし」は水底にいる。「彼女」は、水底にいる「わたし」とハグするために水中に降りていくということか。そうであるなら、「わたし」から見れば「沈んでくる」「降りてくる」だろう。「沈んでいく」「降りていく」というかぎりは、私は水の外にいる。それでは「ハグ」できないだろう。「ハグ」が「抱擁」だと仮定の話だが。
これは「わざと」奇妙な動詞のつかい方をしているのか。「わざわざ」こんな書き方をしているのか。「わさわざ」と「わざと」と違う。
このあと、
彼女は語気強く未知の言葉に応答し、全身の毛を逆立てる。
という一行がある。「未知の言葉」は「沈む」「降りる」ではないかもしれないが、知っているように思えることばを「未知のことば」に変えてしまうのが詩であると私は信じているので、奥野の書いていることがわからない。
さらに、こういう一行がある。
だいじょうぶ、彼女はあなたに告げるから。わたしを伝えるのがあんたの使命よ。
「あなた」「あんた」が唐突に出てくる。「わたし」と「あなた/あんた」の関係はどうなっているか。「彼女」の存在によって「わたし」が「あなた/あんた」へと変化するということか。
いずれにしろ、この書き方は「わざわざ」ではなく、「わざと」である。
たとえば、葬儀。「遠いところをわざわざありがとうございます」という挨拶がある。一方、遠いけれど、「わざと」行くときがある。それは「わざわざ」とは全く違う意味である。
西脇順三郎は、詩は「わざと」書くものであるというようなことを言っていたと記憶する。西脇の場合「わざと」書いても、それが「わざと」ではなく、自然に「わざわざ」にかわっていく。なぜかというと、西脇には私とは違って深い教養があって、それが人間性となり滲み出してくるからである。「わざわざ」は滲み出してくるもの。「わざと」はほんとうはそれが存在しないのに、存在するかのように装うことである。遠い葬儀に「わざと」行くのは、私は故人を尊敬していました、と嘘をつくためである。
城戸朱理「凶兆」。
月がゆるやかに位置を変えるとき
星の座が定まる
あかあかと燃えるベテルギウスから
不吉の知らせが届いたのか
森が誰かを殺すために
動き始める
それもまた伝承だが、もし現実になるならば
月もまた青ざめていくだろう
これは「わざと」の大集合である。その証拠が、引用した終わりの二行にある「また」「また」の繰り返しである。「また」を繰り返さないことには、ことばが動かない。「また」によってことばを動かし、その動きによって「事実(それまで書いてきたことば)」を定着させる。
ことばによって「事実」を別なものにしてしまう、というのは詩の特権であるが、それが
森が誰かを殺すために
動き始める
というような視覚に頼らないと成立しない特権ならば、私は、特権であることを放棄した運動にしか見えない。
この直後に、
怒りがデジタルに拡散していく時代
という一行がある。「ペテルギウス」のような音の美しさが「デジタル」にはない。「デジタル」からは、滲み出してくるものが何もない。
最後の四行。
星の座が定まるとき
国境は揺らぎ
千年を経た大木が裂け
数千年を閲した山脈が崩れる
「デジタル」なのに「数千年」か。概数を拒否してしまうのが「デジタル」ではないのか。城戸の書いているのは、「アナログ」でもなく「アナクロ」かもしれない、と私は感じる。
西脇が「わざわざ」に高めた「わざと」を、わざわざ「わざと」に引き戻している。
管啓次郎「西瓜の日々(My Watermelon Days)」。
西瓜の建築のなかに住めることがわかって
それは西瓜そのものなのだった。
装飾も家具もない。
むずかしいのはどうやって中に入るかで
表面に穴をあけると果汁がこぼれてしまう。
どうやって入ろうか、どうやって入ろうか
いろいろ考えて、試みていると、それが起きる。
この「どうやって入ろうか、どうやって入ろうか/いろいろ考えて、試みていると、それが起きる。」という二行に集約されているのが「わざわざ」だ。
ここから「わざと」が「わざわざ」にかわって、滲み出してくる。「千年」とか「数千年」とか言わずに、管の「生涯」(このことばが詩のなかにある)が滲み出してくる。それは、いつの時代の管なのかわからないが、わからなくて当然なのである。十年前か二十年前か、あるいはきのうか、さらにも明日かもしれない時間が、管をつつみこむ。時間は、いつでも、それを思った瞬間に、「いま」となって存在するものである。
だから、管は、詩を、こんなふうにとじる。
そんなぼくの西瓜の日々は
はじまったばかりです。
西瓜で乾杯しよう。
生命のために。
「千年」「数千年」ということばはなくても、千年、数千年、つまり「永遠」を感じる。それは「過去」ではなく、「いま」という限定を破壊する力だ。「いま」という限定を破壊し、「いま」とさえ呼べない充実した瞬間に変える。
こういう瞬間のために、「わざわざ」遠回りをする、私は引用しなかったが、管のことばはいろいろな時空を動き回る。それが詩である。現代詩手帖か、詩集で、いちばんいいところを探して読んでみてください。
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