詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西川美和監督「ゆれる」

2006-08-07 00:11:26 | 映画
監督 西川美和 出演 香川照之、オダギリジョー

 これは最初から完成した脚本があったのか、それとも映画を撮りながら徐々に脚本を完成させていったのか。後者と思いたい。そんな不思議な映画だ。

 最初に写真を現像しているシーンがある。現像液のなかでゆれる映像。それが何かわからない。ただ現像しているということだけがわかる。このシーンはとても象徴的だ。あらゆる映像は現像の仕方によってかわる、とつげていように思える。
 兄弟がいて、恋人がいて、その奪い合いがある。吊り橋から恋人が落ちる。事故か、殺人か。--ストーリーは「真実」をめぐって、ゆれる。その「ゆれ」もおもしろいが、もっと興味深いのは、兄と弟のこころのゆれである。
 「真実」はひとつのはずなのに、ふたりとも、それをどう語っていいかわからない。真実を語ることが相手に対して何をすることになるのかわからない。自分自身に対しても、それがどんな意味があるのかわからない。「真実」よりもつたえたいことがあるからだ。その微妙な人間の心理を香川照之が絶妙に演じている。
 随所に「嘘」をはさむ。「嘘」に対して弟がどう反応するか(正直に反応するか、嘘で答えるか)をさぐりながら、「嘘」のなかでしか言えないことをいう。どうして、おまえ(弟)がいつも言っていることをおれが言ってはいけないのか。他人への怒り、自分の本音をどうして言ってはいけないのか。そんな心の叫びが、そのまま肉声になって噴出する。その演技、香川照之の演技がすばらしい。
 まるで香川照之がこんな演技がしたい、こんな人間を演じたい、と申し入れてストーリーをつくっていったような感じがする。おとなしい兄、人間のできた兄のこころのなかではこんなことが起きているということを、こんなふうに演じてみたい、と香川が申し入れて人間を造形していったのではないかと思ってしまう。
 その「嘘」のなかにひめられたこころの叫び、それは対抗するようにオダギリジョーが繰り広げる「嘘」と真実。「いい兄」に対することばにならない怒り、憎しみ。
 だれもがことばにならない「声」を肉体のうちに持っている。それを、この兄弟はともに「嘘」でしか語れない。互いに相手を「嘘つき」と思っているのに、その「嘘つき」という批判だけはことばにしない。そこから「ゆれ」がはじまる。だから「ゆれ」のなかにしか「真実」はない。「嘘」と「嘘」のあいだに、声にならない声、真実の声がひそんでいる。
 「嘘つき」と言えればよかったのに、二人とも「嘘つき」と言えないばっかりに、どんどん道を踏み外していく。「ゆれ」つづける。

 香川の演技がなければ成り立たない映画である。



 西川美和の映画は初めて見た。とても鋭い人間観察力を持っていると思う。残念なのは自然描写が美しくない。吊り橋、川の流れ、山が絶対的な存在として浮かび上がってこない。人間を無視して存在を主張してこない。それが見ていて少しつまらない。ただし、街の描写はおもしろい。車の流れ、高速道(?)の表情、ビルの表情、すべてに生々しい動きがある。

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海埜今日子「せきゆすい」ほか

2006-08-06 22:11:09 | 詩集
 海埜今日子「せきゆすい」(「すぴんくす」1)。

いつからか流木が棲みついていた、骨だったかもしれない、ごつごつした、それはことばだったかもしれない、かたい生がたゆたい、耳もとにつめたいひびきで、しろい話をよぎらせてくるのだった。

 海埜にとって、詩とは何よりことばである。ことばさえあれば詩がはじまるのである。「せきゆすい」の冒頭は、そう語っている。
 流木→骨→ごつごつしたということばの流れは、「ごつごつしたことば」(この表現は詩にはないが)にたどりつくと、もう流木はどうでもよくなっている。「ことば」はことばのあとを追いかけてあつまりはじめ「話」にかわる。「話」はやがて「物語」へと変化する。
 増殖することば、ことばが増殖していくことが「詩」なのだろう。

よどみ、すくいあげた気持ちをまさぐっている、石油をこぼした水は、違和をごつごいあたえながら、虹の膜を、たとえばあざやか野原を、けっして川なんかはない、ひしゃげた空き地をつたえてくるのだった。

 増殖することばは何よりも「気持ち」を中心に動く。「気持ち」がまず先にあって、それにあわせて、ことばによって存在を作り出す。「流木」はますます遠くなる。「川」となくなり、「空き地」を呼び寄せる。そしてそこには、ことばのように、ただひたすら増殖する植物、雑草がある。

根っこによりそう、摘んでいる、ハルジオン、ハキダメグサ、捨て去った液体のきゃしゃな音、それはだれのさいはてだったのだろう、くるしい関係をそそぎ、七色を拒否としてちらし、脈にどくどくとした思い、その分、ますますみがかれた木肌なのでたどれなくなる、最後に肯定の泡をぷつぷつとうかべ、なにかがおぼれ、語ることを後もどりして。

 だが、ときどきは「流木」も思い出して、「後もどり」をする。
 これが少し(実は、かなり)残念である。「後もどり」などせずに、そのまま一気に増殖する雑草になり、河原を越え、高速道路を越え、街を越えて行けばどんなにおもしろいだろうと思った。
 増殖することばが「詩」なのであれば、どんな足かせも拒否して、ただことばを増殖させなければ楽しくはならないだろうと思う。「ことばだったかもしれない」ではなく、「ことばだったにちがいない」というところまで、ことばを動かして行ってほしいと思った。
 「後もどり」しないことばこそ、「詩」なのではないか、と思う。



 佐伯多美子「睡眠の軌跡」(「すぴんくす」1)は、最初から「物語」の枠のなかでことばを動かす。ことばがいつのまにかどこか、今、ここではないところへ動いて行くのではなく、今発したことばではとらえられない何かをとらえるために、物語の中心へ中心へと動いて行く。そこに「永遠」がある、と信じている。
 実際に「永遠」を佐伯は描いている。その部分はなかなかおもしろい。「永遠」などという普遍的な概念が詩のテーマになるのは現代では難しいことだと思うが、佐伯は、それを個人的な物語という形で凝縮する。物語のなかで、ある特定の「時間」が凝縮し、その凝縮の果てに爆発して輝く。いわば物語のビックバンの瞬間。それが美しい。
 物語の凝縮と、佐伯自身のことばの凝縮が重なるようにして起きて、爆発も同時に起きる。ことばが突然、自由になる。
 物語という枠が最初からあるだけに、佐伯のことばは後戻りしない。


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小長谷清実『わが友、泥ん人』(その2)

2006-08-05 23:24:18 | 詩集
我が友、泥ん人』(その2)

 音楽と古典と……。小長谷の詩を読むと、肉体と脳がほぐれる。踊りだす。踊りだすといっても激しい踊りではない。何か足を踏み外した瞬間にはじまるような思いがけない踊りである。そして、そのとき感じるのは「今」という時間である。
 古典なのに、今?
 書きながら私は自問し、やっぱり今ということばしか思いつかない。そう思いながら詩集を読み返すと「昔むかし鈔」に出会う。その最終連。

昔むかしあるところに
今があって
それはなんだか
うっかり叫んでしまった
コトバみたいで
大根の葉っぱみたいで
いつもいつも
腐りかけていて
見境もなく
ずーっと


そこにあって

 「昔むかしあるところに/今があって」というのは奇妙な言い方だ。奇妙な言い方だけれど、そのとおりと思う。小長谷が省略した文(ことば)があり、その省略をことばにしないまま納得している私がいる。
 「昔むかしあるところに/今があって」とは「古典のなかに現代に通じる問題がある」あるいは「温故知新」のことであろう。というよりも、どんなことがらであれ、私たちはそれを「今」の問題として受け止めてしまう。「今」という時間に、「今」の私に結びつけて見てしまう。「今」が存在しないところなどないのである。
 あるいは「過去」が存在しない「今」というものもない。 時間は瞬時のうちに溶け合い、まざりあい、瞬間瞬間に別の顔を出す。
 
 こうしたことを、小長谷は、概念的には語らない。むしろ、そういう語りを遠ざけて、ことばの音楽のなかに隠してしまう。昔と今という隔たった時間を、音のなかで溶け合わせてしまう。
 この作品の1連目。

昔むかしなるところに
大根の葉っぱがあって
捨てられていて
汚水でぬれていて
ほとんど腐りかけていて
それが大根の葉っぱであると
識別できる根拠もなくて
根拠がなくても
ただ、


そこにあって

 「……て」ということばの重なり、繰り返し。そのなにかしら、「おわり」(断定)をさけたような言い方が、日本語の昔からあることばの配慮を思わせる。日本人がつちかってきた人間づきあいの中の、自分で断定するのではなく相手に判断をまかせるような、ことばの動きがある。そんなところにも「古典」が顔をのぞかせている。そして、「大根」の「こん」から「根拠」の「こん」へのシンコペーションのような素早いリズムの転換。「根拠」の繰り返しによって、「大根」から離れてしまう不思議さ。「そこにあって」という中途半端(?)な行の放り出しの妙。
 このとき、「そこにある」ものは何か。大根の葉っぱ? 私は「そこにある」という音、そういうふうに動いてしまう体の中のことばのリズムだけが、そこにあると感じてしまう。
 あるいは肉体、と言えばいいのだろうか。
 対象を見失い、それでもことばが動いた、リズムに乗って、ここまできてしまったという肉体の記憶がある。この肉体の記憶のために、ことばはさらに動いていく。ことばのなかで、対象も時間も存在の「根拠」をなくしてとけあってしまう。
 そのとき、ことばを発する肉体だけが、ここにあることになる。それが「今」である。「……て」というようなことばを繰り返しつかってきた人間の「今」、そこからどんなふうにことばを動かして行けるかという「今」が浮かび上がる。

 小長谷はその肉体については何も書いていないが、私という人間のなかでことばが動き、そのことばの動きによってある瞬間には「昔」が「今」と重なり、「大根」が大根以外のものとも重なり、融合する。肉体(人間)というのは、そういう融合を可能にしてしまう力を持っている。そして、その力の源が、ことば自体の音楽なのだと思う。ことばのリズムと音そのものの響き、肉体全体へ刺激を広げていく舌やのど、歯、口蓋、鼻腔の、意識できない運動なのだと思う。

 ことばのなかで「意味」ではなく、音楽が動く、という印象がいつも小長谷の詩に感じる。

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小長谷清実『わが友、泥ん人』(その1)

2006-08-04 11:26:37 | 詩集
 小長谷清実『我が友、泥ん人』(書肆山田)。
 小長谷の詩はリズムがあっておもしろい。リズムに誘われてことばを追っているうちに、今、ここではなく、知らない時間、知らない場所へ導かれている。と、書いてしまえば批評はおしまいになってしまう。「なんだか……」ということばがふいに口をついて出て、あれ、これに似たことばはなかったかなと思い返し、詩集をもう一度開く。
 「空の破れめ」。その1連目の後半。

その
とりとめのなさは
なんだか
わたしの住む世界みたい、
わたしの
こころの在りようみたい、
顔みたい、
はらわたみたい、
影みたい、
来し方かたる
経歴みたい

 「なんだか」ということばが、そこにあった。
 この「なんだか」は何だろう。絶対必要なものだろうか。意味上は不必要である。「なんだか」を削除しても意味・論理はかわらない。少なくとも読者にとっては、その1行があろうがなかろうが、何の影響もないように思える。人によってはない方がすっきり読めるという意見もあると思う。
 だが、私は、そういう不必要なものに魅せられてしまう。
 人は不思議なことに、論理上、あるいは意味上、必要ではないことばを書く。書いてしまう。それは無意識の呼吸のようなもの、息継ぎのようなものである。そういうものが、なぜか私を引きつける。そういうことばに出会うと、私は詩人の肉体に出会ったような気持ちになるのだ。(私は、実際に詩人に会ったことはほとんどない。彼らがどんな肉体をしているか、まったく知らない。)
 「なんだか」は読者には必要がない。しかし小長谷には必要なのである。そこで小長谷は呼吸をととのえ、深呼吸し、新しい空気で胸を膨らませて、一気にことばを新たに追い始める。「みたい」「みたい」という連続が、その「一気」というリズムだ。ことばを一気に追いかけながら、追いついた瞬間に、あ、これではない、と気がつき、そのことばから先へさらに進む。すると、ときどきとんでもないことばに出会ってしまう。

来し方かたる
経歴みたい

 これは何? どういう意味か私にはわからない。もちろん、「とりとめのなさ」が小長谷の詩そのものみたい、という意味に理解できることはわかるが、そんな大学入試の答えのような「意味」ではなく、いったいなぜこんな展開になるのか、その意味、小長谷の肉体のなかで動いた力がわからない。そして、わからないからこそ、引きずられ、繰り返し読んでしまう。読みながら、「来し方かたる」という音の美しさに、口が、舌が、のどが、口蓋が、耳が、まるで自分のものではないかのように躍りだすのを感じる。「来し方かたる/経歴みたい」以外のことばが、ここにあるとは思えなくなる。意味ではなく、音が肉体を踊らせる。酔わせる。酩酊させ、それでいいじゃないか、それ以外にありえないじゃないか、とささやく。
 詩に酔うのは、こういう瞬間である。

 小長谷の詩については音が好き--と書いてしまえば、私はほかに書くことがないのかもしれない。でも、「なんだか」もう少し書いてみたい。もう少し先へ私のことばを動かしてみたい。

 「なんだか……みたい」という繰り返し。それは断定を避けたことばである。断定を避け、意識をずらす。そのとき存在(ことばの対象)がずれる。その「ずれ」あるいは「揺らぎ」のなかに存在するものがある。揺らぎの振幅、音楽でいう和音のようなもの。「ハモる」といえばいいのか、別個のものが互いを認識しながら、自分であって自分ではない存在に変わってしまう瞬間。不思議な「親和力」がそのとき、「ずれ」と一緒に浮かび上がる。「ずれ」と「ずれ」の隙間からではなく、「ずれ」そのものが「親和力」としてうかひあがる。それはたとえば「ド」と「ミ」の長調の3度の和音を聞くとき、肉体がドでもミでもなく、その融合、揺らぎを聞くのと似ている。
 小長谷が書きたいのは、たぶん、そういものだと思う。ことばによる音楽を書きたいのだと思う。
 先の引用では、そうしたことばそのものの音楽の楽しみは少し遠ざけられているかもしれない。おもしろい音楽の行を引用しておく。「ドアを押し、叩いて」。

推敲の果てには いつかきっと
たどり着くところは コトバは

けちゃっぷちゃぷちゃぽたゆたひゆれる
食堂の端っこ 食卓の端っこ

 「けちゃっぷ……」の1行は、音にかかわる肉体すべてをくすぐる。同時に「たゆたひゆれる」の突然の「旧かなづかい」の出現が、脳をもくすぐる。「たゆたい」と書いてしまえば、この行はつまらない。「たゆたひ(たゆたふ)」だからこそ「ぷ」「ぽ」という音とも反応する。「は行」と「ぱ行」は本当は違うものかもしれない。だからこそここでくすぐられているのは肉体ではなく、脳という感じがするのだ。
 脳をくすぐるといえば、「推敲の果てには……」の2行も肉体ではなく、脳を刺激する。なぜ突然、ここにこんな堅苦しいことばが出てくる? タイトルとも関係があるし、引用のすぐ前に出てくることばとも関係する。「ドアを押し、叩いて」。推敲とは、唐の詩人の1行に由来することばである。「門を推して」(押して)がいいのか「敲いて」(叩いて)がいいのか。
 小長谷の詩には音楽と古典が同居している。そのどちらも、読者をくすぐる。愉快にさせる。
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坂本つや子「見知らぬ人」ほか

2006-08-03 13:02:34 | 詩集
 坂本つや子「見知らぬ人」(「すてむ」35)。
 第二次大戦中、中国で助けられた記憶を描いている。風邪をひいて熱で動けない。そのときの中国人との偶然の出会い。やさしいことば。

見知らぬ人の案じてくれる声は しっかり出汁(だし)をとった掛けうどんのにおいがする

 すばらしい行だ。
 「しっかり出汁をとった」の「しっかり」の向こう側に、親切にしてくれる見知らぬ人の人柄が滲む。何事に対しても自分のできる限りのことをする人柄が滲む。
 その「うどんのにおい」はそしてあたたかいにおいだ。あたたかさそのものだ。においをとおして、あたたかさが坂本の体のなかへ入っていく。そして体を苦しめる熱そのものを追い出して行く。
 「幸せ」の実感が、肉体そのものとして伝わってくる。

ゆるやかな耳鳴りのなか 切れぎれに眠っているわたしは恥しい程幸せだった 空腹からも戦争からも保護されているひととき

 「恥しい」が、また美しい。先に引用した行の「案じてくれる」(案じる)ということばの深さと同じように、ここには、そのことばでしかあらわすことのできない深々とした日本語の美しさ、生きている人間が受け継いできたことばの美しさがある。
 「幸せ」を恥じ入る必要は人間にはない。しかし、人はかつて「幸せ」を恥ずかしいと感じたことがあった。それはきっと幸せな自分は誰かに対して何ができるか、という自問でもあったのだと思う。

 「幸せ」が恥ずかしくないためには、うどんの出汁のように、「しっかり」と生きなければならない。「しっかり」とは「丁寧」でもある。自分にも、他人にも丁寧に。こうしたことは「道徳」の教科書の説明でも書いているようなことかもしれない。だが、坂本のことばを読んでいると、自然にそうしたことばが出てきてしまう。誘い出されてしまう。忘れていた何かに触れて、私自身が生まれ変わるような気がする。
 その気持ちを、きょうは大切に持ち続けたいと思った。



 同じ「すてむ」35の、松尾茂夫「金魚の死」。その5連目。

思いついて金魚の寿命を調べてみた
八歳から十五歳、三十歳の例もある
タイヘンダァ!
このチビッコども
おれより長生きしそうじゃないか

 「タイヘンダァ! 」に私は、坂本の書いた「しっかり出汁をとったうどん」の「しっかり」と通い合うものを感じる。「しっかり」も「大変」も本当はとても簡単なことである。簡単であるために人は手抜きをしてしまいがちだ。手抜きをしても、どうこう問題になることではないと思ってしまいがちだ。たぶん、ほんの小さなことが「しっかり」とそうではないものを分けるのである。「大変」と大変ではないものを分けるのだ。そのささいなもの、小さなもの(6連目で、松尾はそれを「つまらぬこと」と書いているが)を、明確に見抜く目が、ここにある。
 ささいなこと、ちいさなことへの向き合い方のなかに「やさしさ」があらわれる。その人の人間性があらわれる。そんなことに「人間性」があらわれる、と書かれては、たぶん松尾は恥ずかしがるだろう。だからこそ「タイヘンダァ! 」とおおげさに驚いて見せる。「おれより長生きしそうじゃないか」とおどけて見せる。そうやって「恥ずかしさ」をユーモアのなかに隠す。
 こういうことばの動きが私は大好きだ。

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倉橋健一『化身』(その2)

2006-08-02 12:25:01 | 詩集
 わたしを隠して、もしわたしが何かになるとしたら、と仮定し、その仮定のなかへ「化身」として登場する「わたし」。
 そこから強い構造と、その構造に拮抗する抒情が生まれてくる。抒情の不可能性にあらがいながら、抒情を確立するために、倉橋は「化身」という強い構造、寓話、あるいは神話とさえ呼べるものを作品に導入し、ことばの運動、抒情の復活を追求している。
 「溜まり色」。その1連目。

風が吹いている
止(や)んでも縹色(はなだいろ)のこうもり傘がいっぽん
白い高層ビルの天辺(てっぺん)にひっかかって
余韻のせいで揺れている

 美しい。縹色と白の対比、こうもり傘と高層ビルという小さいもの、巨大なものの対比、「ひっかかって」という不安定な存在のありようが、その対比のなかに揺れる。
 「余韻のせいで」と倉橋は書いているが……。
 「余韻」とは何だろうか。「風」は私の外部にある。「余韻」は精神の動きのなごりである。高層ビルの天辺にひっかかり揺れているこうもり傘を見たとき精神が動く。たとえば、その傘の色は縹色と認識し、たとえば高層ビルは白いと認識する。その精神の動き、動きとは意識されないような動きの、その微妙なこころの変化が、こうもり傘を揺らすのである。
 倉橋はここではこうもり傘が揺れると描写しているのではない。現実のこうもり傘は揺れない。それは倉橋の精神のなかでのみ揺れると言っているのである。抒情は精神のなかに動く。そのことを倉橋は強く意識しながらことばを書いている。だから、そこには「酩酊」がない。厳しく醒めた感覚だけがある。この厳しさが、倉橋のことばを清潔なものにしている。抒情を描いて、抒情まみれという感じがしないのは、抒情が精神のなかに存在する世界だという冷徹な意識があるからだろう。

 2連目に、とても不思議なことばが登場する。

見上げる人たちが騒(ざわ)めいている
化身したアゲハチョウだという人がいる
燠(おき)がこうもり傘の形をしているんだという人がいる
まだ時間はたっぷりあるのに
どうしてあんなところに舞い上がってしまったんだろう
と 泪ぐむ人がいる
おさげ髪のおさなごがひとり
だまって両手をかざしひらひらさせた
くるくる、くるくる、こうもり傘は応えたようだ

 「まだ時間はたっぷりあるのに」。どういう意味だろう。誰の、何をするための時間だろう。何の説明もない。
 こういうとき、私のこころは勝手に動く。勝手にさまざまなことを考える。そして、思い出すのは「もしもわたしが生まれ変わるとしたら」という行である。「もしもわたしが何かになるとしたら」という意識である。この作品でも倉橋は何かに「化身」しているのである。「こうもり傘」に「化身」しているのである。こうもり傘は倉橋なのである。ただし、倉橋であると言っても倉橋その人ではなく、ある物語り(寓話、寓意)のなかの主人公としての、という意味である。
 この作品は高層ビルから投身自殺する人間を描いたものである。
 ビルの天辺に揺れるもの。「こうもり傘」に見えるもの。それはひとりの男(あるいは女かもしれないが)。その人間を、ある人は「こうもり傘」と見る。(倉橋自身も「こうもり傘」と見立てたいのだ。)ある人は「アゲハチョウ」だと見る。いずれにしろ、それが人間であり、飛び下りれば死ぬという現実から少しでも遠ざかりたいのかもしれない。だが、天辺では死を覚悟して、人影が揺れる。こうもり傘となって、アゲハチョウとなって……。
 「まだ時間はたっぷりあるのに」とは、飛び下り自殺をこころみようとしている人に対してのことばだろう。「まだ(あなたには)時間はたっぷりあるだろうに」とそれを目撃した普通の人は思うのである。
 ところが普通の人ではない人間、つまりまだ普通の「大人の意識を持ち得ていない人間」である「おさなご」はどうだろう。

おさげ髪のおさなごがひとり
だまって両手をかざしひらひらさせた
くるくる、くるくる、こうもり傘は応えたようだ

 おさなごは「まだ時間はたっぷりあるのに」などとは思わない。ビルの天辺の人が自殺しようとしているなどとは想像しない。遠くに人がいる、人が遠くなるのは別れるときである。別れるときには手を振る。「バイバイ」。それはこどもの肉体の自然な反応である。それにあわせるようにこうもり傘である人間も手を振る。「くるくる、くるくる」まわって見せる。もし倉橋が「こうもり傘」になったのだとしたら、そこでは「くるくる、くるくる」まわって見せたということだろう。

3連目。

さよなら、時間はまだたっぷりあるのに
さようなら、
と見ていた人たちがあいさつを交わしている
あつまったから去っている人たち
こうもり傘は高層ビルの天辺で
まだ熱心に揺れている
おさなごも一心に手をかざしている
まもなく昏れなずむ時刻にくるまれるだろう
風は止んだままだ
こうもり傘は縹色のままだ
かざしたもみじばの手もそのままだ
そこに溜まり色はできあがる

 ここでは「時間はまだたっぷりあるのに」は意味が少し変わっている。「自殺者」が地上の人を見て、思っている。「わたしが飛び下りるまでには時間はまだたっぷりあるのに」人は、「さよなら」と去っていく。人が去っていくので、自殺者は自殺を決行しようかどうしようか、まだ「揺れている」(「熱心に揺れている」とは懸命に思いを巡らし、その思いが揺れている、ということだろう。)
 これは自殺者が最後に見る風景である。
 自分を「こうもり傘」に「化身」した存在、あるいは「アゲハチョウ」に化身した存在だと思ってもらいたいのは、そこに、もしかすると開いたこうもり傘ならふわりと着地できる、アゲハチョウなら風に乗って飛んで行くことができるというはかない願望が隠されているかもしれない。倉橋は、自殺者の「抒情」をそんなふうに思い描いているかもしれない。

 どんな悲劇に直面しても、人間のこころ、精神はただ打ちのめされるだけではない。何らかの「化身」をとおして、打ちのめされ、傷つけられるだけの状況から脱出する。精神を救い出す。
 もちろん、そうした「脱出」はもしかすると「逃走」かもしれないが、そこには精神が生き延びるひとつの道がある。現代において、抒情に必要性があるとしたら、それは精神をながらえさせる方法としての抒情かもしれない。
 「自殺者」が自殺を思い止まったか、ほんとうに自殺してしまったか、ということは文学では問題ではない。そうした状況でも、こころは動く。いや、そうした状況だからこそ、こころは動く。その動くということのなかに、人間の「可能性」がある。そしてその「可能性」のなかには、もちろん「抒情」も含まれている。
 そんなことを考えた。
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倉橋健一『化身』(その1)

2006-08-01 23:32:50 | 詩集
 倉橋健一『化身』(思潮社)。
 寓意がある。多くの詩が、ほとんど「私」を中心にして、私が体験したこと、私の感想を書いているのに対して、この詩集には私がほとんど登場しない。ただし、どんなものにも例外はある。「テロの実行者(テロリスト)にいたる六つの断章」。その第1連。

もしもわたしが生まれ変わるとしたら色
なかでもあかね色 あかね色というより雲灼く熱
でなければ焔の極小単位
寒冷前線に身を置いて
けんめいに吃水線を上下しつつ
わたしを織って絨毯になり灼爛する

 「もしもわたしが」の1行には「なる」が省略されている。(2連目の書き出しは「もしもわたしが身代わりになるとしたら水」)もっとことばを補えば、1行目は「もしもわたしが生まれ変わり何かになるとしたら色」という文になる。「何かになる」ということばが省略されているのだ。
 この詩集には、そして、「もしもわたしが何かになるとしたら」が随所に省略されている。「もしも何かになるとしたら」を省略して書かれたのがこの詩集であるとさえ言える。そう考えると、この詩集には「わたし」が省略されているどころか、「わたし」しか描かれていないとさえ言える。
 詩の中で倉橋は何かになり、何かになってことばを、つまりこころを、精神と感性を動かす。どんなふうに倉橋の精神、感性、ことばが動けるかを確かめている。それは「わたし」そのものである。

 冒頭の「草原にて」は「もしもわたしが何かになるとしたら」を補って読むと、倉橋が描こうとしたものが少しわかりやすくなる。

小さな群のなかから
ひとりの若者が立ちあがると
とうとう別れの日はやってきた

は、「もしもわたしが何かになるとしたら、若者」。その若者は小さな群のなかから、ひとり立ちあがると、別れの日はやってきた、ということになる。そして、別れの日はやってきたのではなく、実は、若者が立ちあがることによって作り出されたのだということもわかる。
 そこからはじまるのが現実であるとしたら、それは「わたし」によって作り出された現実である。倉橋の「わたし」が作り出した現実である。倉橋の「わたし」によって作り出されたものであるからこそ、それは私たちが日常的に接する世界とは異質なものを持っている。

トウモロコシとでんぷん性球根と硬バナナしか口にしたことがないというのに
若者はすらりと鮮(あざ)やぐ黒い肌を持っている
さようなら
振りむかなかった
おそらくは感傷とたくみに吊り合った傲慢が
振りむくことを
断念させたのだ

 こんなかっこよさは現実にはありえない。現実はこんなふうにかっこよく人間が動くことを許してくれないだろう。倉橋は、倉橋の作り出したことばの世界で人間が(もしわたしがなるとしたらなるであろう人間が)、どんなに自由に動けるかを書きたかったのだろう。
 実際の現実では、こういうことはありえない。だからこそ、「若者」は消えていく。

あるいは
一刻も早く
地平線を越えて
見えざる人になってしまいたかったのかも

 「見えざる人」。それは倉橋の「理想」なのかもしれない。何者かになる、たとえば若者になる。そして、さっと動いて、次の瞬間には「見えざる人」になる。私たちに残されるのは何か。「若者」が動いた、その軌跡だけである。そして、その軌跡とは、人間の可能性なのである。
 寓話、寓意のなかにあるのは人間の可能性である。倉橋の書きたいことを、そのように定義しなおすこともできると思う。

 寓意、寓話のなかにある人間の可能性--それは、次のように言いなおすこともできるかもしれない。私たちは倉橋の描いた軌跡をとおして、私たち自身も何者かになれる、ということを思い描けるのだ。そういう想像力を刺激するために、倉橋は詩を書いている。
 「見えざる人」というのは透明人間のことではない。見たこともない世界へ行ってしまったから、見えないだけである。見たことのない世界で、今まで見たこともない何者かにもういちど変化してしまった(なってしまった)(化身してしまった)から、私たちはそれを見えないと感じているだけなのだ。それはちょうど、倉橋が「もしもわたしが何かになるとしたら、若者」ということばを省略して、突然「若者」として登場してきたために、私たちに倉橋が見えなかったのと同じである。倉橋は「若者」に「化身」してしまっていた。だから、見えなかった。
 倉橋は私たちに、私たちも「化身」しうるということを教えているのである。

こんなふうに
ひとりの若者は遠ざかり
みたこともないかなたとこちらがわとのあいだには
触れ合うことのできない境界線(ボーダーライン)ができあがった
境界線のむこうがわで彼がどのような存在になっていったか
村長(むらおさ)は神託をえて
食べられながらも生き続けられる通力者になったといい
聞いたみんなは
濃い茂みを背景に
長いツノ、たくましい首で群の先頭に立つ
一頭のセーブル(黒羚羊)を夢想した
鋼鉄のバネに秘めた筋肉質の肉食獣にも雄叫(おたけ)びをあげて立ちむかう
敏捷果敢な一頭の草食有蹄獣を
来る日も来る日も
思い続けたのだった

 「わたし」「若者」「彼」「草食有蹄獣」という変化の連続、化身の連続--そこに人間の可能性がある。それは「もしもわたしが何かになるとしたら」という仮定からはじまっている。そのことを忘れないようにしたい。
                            (この項、つづく)

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