斎藤恵子『夕区』(思潮社)。
斎藤は「空気」を正確に表現する。「空気」とは人と人の「間」でもある。人がいる、いないには関係がない。「間」は斎藤ひとりでも存在する。記憶がそこに存在するからである。「警報器」の後半。
「顔も声も覚えていない」がすばらしい。この一行がこの作品を引き締める。つまり真実だと告げる。
引用しなかった前半の部分に
という非常に具体的な描写がある。そのときの「身の内をさらすような気がして」が「顔も声も覚えていない」と呼応している。
「顔も声も」その人の「身の内」にあるものを伝える。斎藤は「晩ごはん」(体のなかへ入っていくもの、身の内になるもの)を隠した。「身の内」を隠してガス会社のひとと接した。そのときガス会社のひとはやはり「身の内」を隠していた。あえて表に出そうとはしていなかった。あたりまえのことだが、そのことに斎藤はうっすらと気がついている。深くは意識していない。「身の内」を隠すことは深い意識によるものではなく、習慣だからである。いわば無意識だからである。
無意識でしたことが、意識に対して反逆している。反逆というとおおげさかもしれないが、無意識のなかの何かが存在を主張して叫んでいるのである。それは「声」にはならない。「空気」となって存在する。「ざわめき」と斎藤は書いているが、「音」が感じられるのに、その「音」を再現できないものが「ざわめき」である。「空気」とは声にならない声(ざわめき)が充満した「場」である。「身の内」が声にならないまま漂う「場」としての「空気」が、ここに存在している。
「顔も声も覚えていない」という一種の欠落(真空地帯)が空気を揺さぶる。ほんとうに空気が濃くなるわけではない。実際の酸素、窒素の濃度がかわるわけではない。真空地帯があるという意識が、空気を濃く見せるのである。
声にならない声、ざわめきを斎藤は「叫び」とも呼んでいる。叫びを「淵より」のなかで斎藤は定義している。
「内部」は「身の内」に通じる。そこからあふれて「声」とは違った肉声--それを「自身の存在を確かめる」ものと定義している。自分のために、自分にむけて発した肉声が叫びである。それは「ざわめき」のように、自分自身にも、その意味が判然としない。けれども、体の内から出ていく何かという意識だけは明確に肉体に存在し続ける。
「警報器」のなかに「なまなましく」ということばがあったが、この「なまなましく」とは、意識化できないけれど(ことばとして明確に表現できないけれど)、肉体が肉体として感じる何かである。
肉体の外(空気)と意識化されない習慣としての肉体の内部(身の内)をつなぐもの。「なまなましい」という感覚。「つばめガス」のひとがここにいたという「なまなましさ」は外部の側に、「叫び」の「なまなましさ」は斎藤の内部(身の内)の側に属するが、どちらに属するかというのは形式的なもの(便宜上のもの)にすぎなくて、それは外部と内部を融合させて存在する。内部と外部の融合する「場」だからこそ、それは「空気」でもある。「空気」が肉体の内部と外部を自然に(無意識に、意識できなまま)行ったり来たりする。そして「なまなましい」という感覚を引き起こす。そのとき、内部・外部の区別は消えてしまっている。
*
斎藤の記憶、意識はしっかり肉体に根差したものである。肉体を裏切ることがない。「夕区」の最後の部分。
「階上にいるときのように/かなたを見る目をしていた」。この肉体の共鳴力。肉体は、それが他人の肉体であるにもかかわらず、その肉体を見るとき、相手の肉体のなかで何が起きているかがわかる。胃痛のひとの肉体の動きを見れば、それが私自身の痛みでもないのに痛みを感じていることがわかる。遠くを見る目をしている少女を見れば、遠くを見ていることがわかる。そしてときには、その目がとらえているものまで見えてしまう。もちろんそれは「海が近くにあるのだと思った」と書いているように「思った」とこにすぎない。斎藤の内部でおきた印象にすぎない。けれど、その「思った」ことはけっして間違いではない。それは、つばめガスのひとが斎藤の家にいたという事実よりももっと正確である。少女は海を見ているのである。そう確信させることばの動きが、斎藤にはある。斎藤の一群の作品(この詩集に含まれている作品)は、そうしたことを確信させる。
「海」は「気配」ではなく、このとき実在する。
こうした確信を引き起こすことばこそ「詩」である。
斎藤は「空気」を正確に表現する。「空気」とは人と人の「間」でもある。人がいる、いないには関係がない。「間」は斎藤ひとりでも存在する。記憶がそこに存在するからである。「警報器」の後半。
つばめガスのひとは
大きな靴を履いていた
帰っていったら
玄関が広くなった
体に付いていた
たばこの匂いが少しした
晩ごはんを盆にのせて
台所のテーブルに置き戻した
元に戻ったはずなのに
ひとの気配が
薄けむりのように流れていた
ガステーブルの前
台所の床
玄関
ひとが来て去ったことが
なまなましく
充満していた
顔も声も覚えていない
いたことだけが
ざわめかせていた
しばらくは元に戻らない
空気が濃くなっている
「顔も声も覚えていない」がすばらしい。この一行がこの作品を引き締める。つまり真実だと告げる。
引用しなかった前半の部分に
遅い晩ごはんを
台所のテーブルに
並べはじめていたときだった
身の内をさらすような気がして
急いで別の部屋へ盆にのせて運んだ
という非常に具体的な描写がある。そのときの「身の内をさらすような気がして」が「顔も声も覚えていない」と呼応している。
「顔も声も」その人の「身の内」にあるものを伝える。斎藤は「晩ごはん」(体のなかへ入っていくもの、身の内になるもの)を隠した。「身の内」を隠してガス会社のひとと接した。そのときガス会社のひとはやはり「身の内」を隠していた。あえて表に出そうとはしていなかった。あたりまえのことだが、そのことに斎藤はうっすらと気がついている。深くは意識していない。「身の内」を隠すことは深い意識によるものではなく、習慣だからである。いわば無意識だからである。
無意識でしたことが、意識に対して反逆している。反逆というとおおげさかもしれないが、無意識のなかの何かが存在を主張して叫んでいるのである。それは「声」にはならない。「空気」となって存在する。「ざわめき」と斎藤は書いているが、「音」が感じられるのに、その「音」を再現できないものが「ざわめき」である。「空気」とは声にならない声(ざわめき)が充満した「場」である。「身の内」が声にならないまま漂う「場」としての「空気」が、ここに存在している。
「顔も声も覚えていない」という一種の欠落(真空地帯)が空気を揺さぶる。ほんとうに空気が濃くなるわけではない。実際の酸素、窒素の濃度がかわるわけではない。真空地帯があるという意識が、空気を濃く見せるのである。
声にならない声、ざわめきを斎藤は「叫び」とも呼んでいる。叫びを「淵より」のなかで斎藤は定義している。
叫ぶとは伝えることではない
互いに交感することでもない
内部でわきあがるもの
突き破ってくるもの
あふれるものだ
声を放つのではない
声は届けようとする意志を持つ
叫びは自身の存在を確かめるだけだ
「内部」は「身の内」に通じる。そこからあふれて「声」とは違った肉声--それを「自身の存在を確かめる」ものと定義している。自分のために、自分にむけて発した肉声が叫びである。それは「ざわめき」のように、自分自身にも、その意味が判然としない。けれども、体の内から出ていく何かという意識だけは明確に肉体に存在し続ける。
「警報器」のなかに「なまなましく」ということばがあったが、この「なまなましく」とは、意識化できないけれど(ことばとして明確に表現できないけれど)、肉体が肉体として感じる何かである。
肉体の外(空気)と意識化されない習慣としての肉体の内部(身の内)をつなぐもの。「なまなましい」という感覚。「つばめガス」のひとがここにいたという「なまなましさ」は外部の側に、「叫び」の「なまなましさ」は斎藤の内部(身の内)の側に属するが、どちらに属するかというのは形式的なもの(便宜上のもの)にすぎなくて、それは外部と内部を融合させて存在する。内部と外部の融合する「場」だからこそ、それは「空気」でもある。「空気」が肉体の内部と外部を自然に(無意識に、意識できなまま)行ったり来たりする。そして「なまなましい」という感覚を引き起こす。そのとき、内部・外部の区別は消えてしまっている。
*
斎藤の記憶、意識はしっかり肉体に根差したものである。肉体を裏切ることがない。「夕区」の最後の部分。
道の先で
青い少女がスカートをひるがえしていた
階上にいるときのように
かなたを見る目をしていた
海が近くにあるのだと思った
やがて
わたしは
海への坂をのぼるのだ
「階上にいるときのように/かなたを見る目をしていた」。この肉体の共鳴力。肉体は、それが他人の肉体であるにもかかわらず、その肉体を見るとき、相手の肉体のなかで何が起きているかがわかる。胃痛のひとの肉体の動きを見れば、それが私自身の痛みでもないのに痛みを感じていることがわかる。遠くを見る目をしている少女を見れば、遠くを見ていることがわかる。そしてときには、その目がとらえているものまで見えてしまう。もちろんそれは「海が近くにあるのだと思った」と書いているように「思った」とこにすぎない。斎藤の内部でおきた印象にすぎない。けれど、その「思った」ことはけっして間違いではない。それは、つばめガスのひとが斎藤の家にいたという事実よりももっと正確である。少女は海を見ているのである。そう確信させることばの動きが、斎藤にはある。斎藤の一群の作品(この詩集に含まれている作品)は、そうしたことを確信させる。
「海」は「気配」ではなく、このとき実在する。
こうした確信を引き起こすことばこそ「詩」である。