詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵子『夕区』

2006-08-18 13:30:37 | 詩集
 斎藤恵子『夕区』(思潮社)。
 斎藤は「空気」を正確に表現する。「空気」とは人と人の「間」でもある。人がいる、いないには関係がない。「間」は斎藤ひとりでも存在する。記憶がそこに存在するからである。「警報器」の後半。

つばめガスのひとは
大きな靴を履いていた
帰っていったら
玄関が広くなった
体に付いていた
たばこの匂いが少しした
晩ごはんを盆にのせて
台所のテーブルに置き戻した
元に戻ったはずなのに
ひとの気配が
薄けむりのように流れていた
ガステーブルの前
台所の床
玄関
ひとが来て去ったことが
なまなましく
充満していた
顔も声も覚えていない
いたことだけが
ざわめかせていた
しばらくは元に戻らない

空気が濃くなっている

 「顔も声も覚えていない」がすばらしい。この一行がこの作品を引き締める。つまり真実だと告げる。
 引用しなかった前半の部分に

遅い晩ごはんを
台所のテーブルに
並べはじめていたときだった
身の内をさらすような気がして
急いで別の部屋へ盆にのせて運んだ

という非常に具体的な描写がある。そのときの「身の内をさらすような気がして」が「顔も声も覚えていない」と呼応している。
 「顔も声も」その人の「身の内」にあるものを伝える。斎藤は「晩ごはん」(体のなかへ入っていくもの、身の内になるもの)を隠した。「身の内」を隠してガス会社のひとと接した。そのときガス会社のひとはやはり「身の内」を隠していた。あえて表に出そうとはしていなかった。あたりまえのことだが、そのことに斎藤はうっすらと気がついている。深くは意識していない。「身の内」を隠すことは深い意識によるものではなく、習慣だからである。いわば無意識だからである。
 無意識でしたことが、意識に対して反逆している。反逆というとおおげさかもしれないが、無意識のなかの何かが存在を主張して叫んでいるのである。それは「声」にはならない。「空気」となって存在する。「ざわめき」と斎藤は書いているが、「音」が感じられるのに、その「音」を再現できないものが「ざわめき」である。「空気」とは声にならない声(ざわめき)が充満した「場」である。「身の内」が声にならないまま漂う「場」としての「空気」が、ここに存在している。
 「顔も声も覚えていない」という一種の欠落(真空地帯)が空気を揺さぶる。ほんとうに空気が濃くなるわけではない。実際の酸素、窒素の濃度がかわるわけではない。真空地帯があるという意識が、空気を濃く見せるのである。

 声にならない声、ざわめきを斎藤は「叫び」とも呼んでいる。叫びを「淵より」のなかで斎藤は定義している。

叫ぶとは伝えることではない
互いに交感することでもない
内部でわきあがるもの
突き破ってくるもの
あふれるものだ
声を放つのではない
声は届けようとする意志を持つ
叫びは自身の存在を確かめるだけだ

 「内部」は「身の内」に通じる。そこからあふれて「声」とは違った肉声--それを「自身の存在を確かめる」ものと定義している。自分のために、自分にむけて発した肉声が叫びである。それは「ざわめき」のように、自分自身にも、その意味が判然としない。けれども、体の内から出ていく何かという意識だけは明確に肉体に存在し続ける。
 「警報器」のなかに「なまなましく」ということばがあったが、この「なまなましく」とは、意識化できないけれど(ことばとして明確に表現できないけれど)、肉体が肉体として感じる何かである。
 肉体の外(空気)と意識化されない習慣としての肉体の内部(身の内)をつなぐもの。「なまなましい」という感覚。「つばめガス」のひとがここにいたという「なまなましさ」は外部の側に、「叫び」の「なまなましさ」は斎藤の内部(身の内)の側に属するが、どちらに属するかというのは形式的なもの(便宜上のもの)にすぎなくて、それは外部と内部を融合させて存在する。内部と外部の融合する「場」だからこそ、それは「空気」でもある。「空気」が肉体の内部と外部を自然に(無意識に、意識できなまま)行ったり来たりする。そして「なまなましい」という感覚を引き起こす。そのとき、内部・外部の区別は消えてしまっている。



 斎藤の記憶、意識はしっかり肉体に根差したものである。肉体を裏切ることがない。「夕区」の最後の部分。

道の先で
青い少女がスカートをひるがえしていた
階上にいるときのように
かなたを見る目をしていた
海が近くにあるのだと思った

やがて
わたしは
海への坂をのぼるのだ

 「階上にいるときのように/かなたを見る目をしていた」。この肉体の共鳴力。肉体は、それが他人の肉体であるにもかかわらず、その肉体を見るとき、相手の肉体のなかで何が起きているかがわかる。胃痛のひとの肉体の動きを見れば、それが私自身の痛みでもないのに痛みを感じていることがわかる。遠くを見る目をしている少女を見れば、遠くを見ていることがわかる。そしてときには、その目がとらえているものまで見えてしまう。もちろんそれは「海が近くにあるのだと思った」と書いているように「思った」とこにすぎない。斎藤の内部でおきた印象にすぎない。けれど、その「思った」ことはけっして間違いではない。それは、つばめガスのひとが斎藤の家にいたという事実よりももっと正確である。少女は海を見ているのである。そう確信させることばの動きが、斎藤にはある。斎藤の一群の作品(この詩集に含まれている作品)は、そうしたことを確信させる。
「海」は「気配」ではなく、このとき実在する。
 こうした確信を引き起こすことばこそ「詩」である。


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トーマス・ベズーチャ監督「幸せのポートレート」

2006-08-17 23:27:19 | 映画
監督 トーマス・ベズーチャ 出演 ダイアン・キートン、クレア・デインズ

 「努力しないこと」(自然体でいること)をモットーにしている一家。そこへ「頑張り屋」の女性が長男の婚約者としてやってくる。そして繰り広げられるどたばた。というような設定のなかで、ダイアン・キートンがすばらしい。
 長男役のダーモット・マロニーに対して恋人のサラ・ジェシカ・パーカーはおまえにふさわしくない、と言う。そのあと「失敗したとき、そばにいてやることができない」とも。ダイアン・キートンは癌が再発し、あと1年も生きられない。そのことを知っていて、息子に対して、そう告げる。そのときの顔がいい。「いつでも、いくつになっても、おまえのことを心配だ」というのではない。「いつでも、いくつになっても、おまえのことを心配していたい」という、一種の母親の欲望(母親の生きる希望)のようなものが、とても自然に浮き上がってくる。その感じがいい。
 ダイアン・キートンの演技の質そのものがだいたい「受け」の演技だが、この映画ではそれがとても自然に生かされている。ダイアン・キートンは家族全員に対して「いつでも、いくつになっても、おまえ(たち)のことを心配していたい」と願っている。それは裏を返せば、「どうか本当の自分自身をみつけて、それを大事にして欲しい」という願いでもある。本当の自分の欲望に従って生きるなら、どんなことも失敗ではない。自分の欲望にしたがわず、何か無理をして(つまり努力して)、つまずくことが失敗である。しかし、それも自分自身へたどりつくための道なのだから、それはそれでいい。そのとき、いつでも、いくつになっても「頼ってほしい」と願っている。頼られる母でいたいと願っている。それが、もうできなくなるんだよ、と訴えかける。
 こんなことはもちろん映画のなかでセリフで言うわけではない。言うわけではないが、それが伝わってくる。だから、すばらしい演技だと思う。私の思ったことはもちろん見当違いかもしれない。しかし、それが見当違いであっても、そういうことを想像させてくれる演技、そういう思いを引き出してくれる演技が私は好きだ。
 途中から登場するクレア・デインズもいいなあ。目が魅力的だ。そして肌がきれいだ。なんといえばいいのだろうか。肌というのは人を人の形にとどめておく「壁」みたいなものだが、クレア・デインズの肌には「壁」がない。透明ななので、そのままこころに触れることができるような感じがする。無防備な感じがする。そして目は、矛盾するようだが、とてもしっかりしている。主張がある。無防備な肌に主張する目。その対比が美しい。引き込まれていく。


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大谷良太『うっとうしかった』

2006-08-17 14:59:50 | 詩集
 大谷良太『うっとうしかった』(五月出版企画)。
 表題作がおもしろい。

きれいな骨だった
と彼女は手紙で言った
炉から出てきたとき
きても輝いていたの
生前のあの人と
まるで違って、ね
たくさん雨が降った
それでなくても
うっとうしかった
ときどき引き出しを開けては
筆跡を読み返した
何度も泣いたし
夜中に叫んで目覚めたりもした
あの人の思い出がまだ
整理できていないの、ぷつんて
切れたままなのよ
ベランダに鳩が
巣を作り
ひなを育てた
室外機の上で
クルックルッと首を回し
何かを問うようだった
きれいだった
あの人の骨、壺の中へ
あの人のすべての壺の中へ、それから
私は静かにふたをするの、
回線をつなぐから
待ってて。

 「うっとうしかった」の主語があいまいである。「彼女」が手紙のなかでそう書いているのか。それとも大谷が「彼女」の手紙を読んでそう感じているのか。どちらともとれる。 その直前の「たくさん雨が降った」も「彼女」の手紙に書いてあるのか、それとも手紙を読んでいるときの大谷の「場」の状況なのかわからない。どちらともとれる。
 「ときどき引き出しを開けては/筆跡を読み返した」のは大谷だろうと思う。「遺骨」を読み返すとは言わないだろうから。
 では、次の「何度も泣いたし」はだれのことだろうか。「……し」ということばでつながっているから、次の「夜中に叫んで目覚めたりもした」人と同一人物だろうが、これもあいまいである。「彼女」と思われるが、大谷であってもかまわない。
 「ベランダに鳩が」からつづく描写も、手紙のなかに書かれていることばか、大谷が見つめる風景なのかわからない。どちらであってもかまわない。
 この「主語」をあいまいにし、状況を交錯させ、感情を交差させる書き方が、とてもおもしろい。「彼女」と大谷は、どこかでこころが重なっているのである。ふれあっているのだろう。「うっとうしい」とは、そういうこころの重なり具合であり、触れ合い具合であろう。
 だからこそ、大谷は「ときどき引き出しを開けては/筆跡を読み返」すのである。
 それはそのまま「彼女」に触れることではなく、同時に「彼女」の「あの人」に触れることでもある。大谷は今、「彼女」の手紙をとおしてしか「あの人」に触れ得ない。「あの人」と重なり合い、触れ合うには「彼女」をとおしてしかできない。
 その悲しさ、切なさが、「かのじょ」と大谷の区切りをあいまいにする。そこに「詩」がある。
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くらもちさぶろう「ポックリ さま」ほか

2006-08-16 02:21:08 | 詩集
 くらもちさぶろう「ポックリ さま」ほか(「ガニメデ」37)。
 城戸朱理の詩を読んだあとにくらもちの作品を読むと、その肉体感覚がと
てもリアルである。「ポックリ さま」。

あし が よ
ミカン ばこ の いた を
さびた クギ で くっつけた みてえで
ガタガタ する ん だよ
うばぐるま に つかまらねえ と あるけねえ
(略)
ポックリ さま に て を あわせて
ポックリ しに てえ

はたけ の まんなか で
つんのめって
ねもと が くさって たおれる くい みてえに
こえ もたてねえ で

 くらもちの肉体はいつでも彼が触っている存在に触れ、それをものの「肉
体」と感じている。肉体の不思議さは、それが自分のものでもないのに、そ
の肉体の感じがわかることだ。だれかが腹を抱えてうずくまっている。そう
すると私たちはそれが私たちの肉体でもないのに「腹が痛いのだ」とわか
る。それと同じように、くらもちはミカン箱のクギで打ちつけた板、畑のな
かの杭の内部で起きていることを自分の肉体のように感じている。こうした
ことが起きるのは、くらもちが常にミカン箱や畑のなかの杭に肉体で接して
いるからだ。手で触れ、その感触を自分の肉体のなかに取り込んでいるから
だ。もの(存在)の声を肉体で伝えるには、常にものに触れることが必要
だ。「見る」だけではわからない。ものと「距離」をおくのではなく、もの
との「距離」をゼロにする。それが「触る」ということである。
 「触る」こと、触ってわかる何かについて、「クギ を うっちゃ いけ
ねえ」に魅力的な行がある。生きている木にクギを打ってはいけないという
詩だ。

なでて あげな
ふゆ の あさ でも
あったかい ぞ

しんだ ニンゲン の て みてえじゃ ぬえ

 「触る」(この詩では「なでる」だが)とは、他者の温かさを知ること
だ。温かさとは生きている証のことだ。
 同じ「ガニメデ」に発表されている「ブヨ」は、くらもちが木に触りなが
ら木の気持ちを自分の肉体にしているのと同じように、ブヨに対しても、そ
れを自分の肉体にしていることがわかる。刺されると痛いブヨに対してさえ
も、くらもちはこころを開いている。生きているものはみんなこころを持っ
ている。喜びも悲しみもしている。そうしたことを、自分の肉体を傷つける
ブヨに対してさえも、肉体として感じ取っている。
 最終連が美しいが、特に最後の4行は信じられないくらいに美しい。この
4行のために「ガニメデ」の全ページが存在すると言ってもいいくらいだ。

あせ の におい を かぎつけて
よろごんで いる のか
すすりなき の ような
おと を たてて いる


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城戸朱理「水の否決」

2006-08-15 12:06:35 | 詩集
 城戸朱理「水の否決」(「ガニメデ」37)。
 たいへん魅力的なタイトルだ。同じように書き出しも魅力的だ。

こうやって歩き
歩きつづけていると
土地という土地が
どのていどの水を含んでいるものなのか
足裏から伝わってくるようになるのだが

 アスファルトの道ではない自然の道、それを感じる肉体の不思議な認識力--たしかにこういうことはある。道のない山の中を歩いていて、あ、こっちへいくと水があるなとわかる瞬間がある。足首や膝、腰もそれを感じるけれど、特に足裏、足の指のうごきなどが、土に反応する。肉体の記憶を呼び覚まされるようで、ぐいと引き込まれた。
 だが、次の瞬間、とても違和感を感じた。やわらかい土の中に硬い小石がまじっているのを踏みつけたときのような、いやな感じ、足首や膝、腰まで反応してしまうし、上半身もバランスをとるために動いてしまうような違和感。

だとしたら川岸が
こんなにも乾いているのは
なぜなのだろう--

 これは「足裏」が発した「疑問」だろうか。そんなふうには思えない。
 「川岸」という認識には「足裏」以外の肉体が関与している。たとえば目。視線が川の水を見ている。そして、記憶が川岸というものがどの程度水を含んでいるかを無意識のうちに判断し、その判断と「足裏」の実感との違和を浮かび上がらせる。それはよくわかるが、そのとき、「足裏」が「川岸が/こんなにも乾いているのは/なぜなのだろう」と疑問に思うとは私の肉体には思えない。「足裏」は何も考えない。ただ感じるだけのものだ。感じたものを肉体全体に伝えるだけのものだ。ただ感じ、その感じを感じのまま伝えるからこそ、つまりそこに信頼できる何かが生まれる。肉体を信じるとはそういうことだと思う。そうしたとき「わかる」ということが起きる。この土地がどれくらい水分を含んでいるかが「わかる」とは、そういう信頼関係のことだ。

 「足裏」の魅力的な認識能力を書きながら、城戸は突然、「足裏」という肉体を放棄する。捨て去る。
 肉体を放棄して、純粋に「精神」(あるいは「脳」「頭脳」と言った方が城戸の場合、正確かもしれない)の方へ傾いてしまう。

水に拒否されるもの、
川に否決されるとき
生涯というものはものうく
瞬(またた)けば余生が始まっている
      (谷内注 「ものうく」は立心偏に「頼」の正字、漢字が表記でき
ないのでひらがなで代用)

 ここにはもはや「足裏」の入り込む余地はない。
 「足裏」がほんとうに「生涯」というようなものを思いめぐらすなら思いめぐらしてもいい。実際にそうであるなら、その思いめぐらしこそ読んでみたいが、そういう肉体をきちんと見つめなおした詩を城戸は書かないだろう。(残念なことだが)
 なんだか「足裏」の魅力的なありようは読者をだますための作為のように(ほんとうに城戸が感じたことではないように)思えてしまうのだ。

 「足裏」の触覚--そういうものを城戸は信じていないだろう。城戸の肉体には「足裏」などないのだと思う。城戸に肉体があるとしたら、たぶん目、視力が肉体を代表するだろう。引用のつづき。

とどこおるように
かえりみるように
ふるさとに包まれて
起源から隔てられるようにして。
そんなときだ、
たとえば「祖国」という言葉のように
名指しえぬ感情が生まれるのは。
たとえば、そんなときだ
人が川の源を見たいと思うのは。

 「人が川の源を見たいと思うのは。」の「見たい」をささえるのは目であり、視力である。もし「足裏」(少なくとも足)が思考し続ける、感情を維持しつづけるなら、「見たい」ということばはここでは登場しないだろう。濡らしたい、触れたい、というようなことばに代表される欲望だろう。
 それに先立つ「起源から隔てられるようにして。」ということばの「隔てられる」を感じている肉体も点検してみなければならないだろう。「足裏」が水分が遠い、水分が遠くに隔てられていると感じるように(第1連は、そういうことを書こうとしていたように私には思える)、肉体で感じたことが書かれているわけではない。「名指しえぬ感情」と城戸は書いている。ここには肉体を離れた「感情」、センチメンタルな概念だけがあり、それがかってにことばを動かしているように思えて仕方がない。

 私は詩に肉体がなければならないとは必ずしも思わない。「頭脳」の詩があっていい。しかし「頭脳」の詩を書くなら、そこに「足裏」、その肉体だけが感じるようなもので読者を誘い込むような奇妙な「技法」はとるべきではないと思う。
 もっと純粋に「頭脳」を主体にして、精神を主体にして、肉体など関係ないという詩を城戸は書くべきなのではないだろうか。


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岡本勝人「亡き父のための都市の詩学」

2006-08-14 13:57:22 | 詩集
 岡本勝人「亡き父のための都市の詩学」(「ガニメデ」37)。
 なつかしい詩を読むときのような、静かな気持ちになる。たとえば、冒頭の「都市が暮れ色に染まるとき」。

架線を通過する電車の音を聞きながら
うす暗い喫茶店でクラシック音楽をあかず聴いた頃
クロード・モネ展にでかけては
ビッグ・ベンの淡青色の絵をじっと見つめた頃
ロンドン橋のうりにバスを止めて
幾羽もの鳩が時計台を横切るのをカメラに収めた頃
テートギャラリーにウィリアム・ブレイクを見に行く途中で
ウェストミンスター寺院の詩人たちの胸像に出会った頃

それはどれも日常からこぼれおちた顔の異なった
暮れ色に染まる時間の宇宙全体をしめしていた
テーブルの上の赤と青の林檎をながめている
林檎は生の断片だったが
はじめてのエスキース
球と円筒と円錐はそれぞれの小宇宙だった

 「日常からこぼれおちた」「顔の異なった」「宇宙の全体」。ある一瞬に宇宙の全体を見る。そういう視線がなつかしい。そういう視線がこころを静かにさせるのだろう。それだけなら、私は、たぶんこの詩の感想を書かない。
 こころを静かにさせると私は書いたけれど、実は、この詩はどこか不気味である。特に2連目が不気味である。最後の3行は私にはどうしてもセザンヌの絵に見えてしまう。ところがこの詩には「セザンヌ」は登場しない。1連目にたくさんの人名や特定の場所が出てくるのに、「セザンヌ」の名前がない。
 何よりも不気味なのは2連目の2行目と3行目のつながりぐあいである。2行目でいったん文脈は完結するのだろうか。そうであるなら、この作品は「暮れ色に染まる時間の宇宙全体をしめしていた」という行のあとにこそ「一行空き」が必要だろう。2連目の2行は1連目に結びついていた方がわかりやすいだろう。
 「顔の異なった」は「宇宙」にかかることばなのに1行目と2行目には行のわたりがあり、別の世界を描いている「暮れ色に……」の行と「テーブルのうえの……」が「空き」もなくすぐ隣に結びつく。
 この不安定な行の構成そのものに、岡本の「詩」はあるのかもしれない。存在と存在の境目が揺らぐ。揺さぶりをかけられて、そこからはみだしてしまう。はみだしたものが本来結びつくはずのものではないものと結びついてしまう。いや、岡本の詩の場合、結びつくというより、別の存在の隣に並列してしまうといえばいいだろうか。
 異質なものが並列する。たとえば「電車の音」と「クラシック音楽」。そのとき、その並列によって何かが照らしだされ、そこから誘い出されるのか、押し出されるのかして、存在そのものからはみだしてしまう。「電車の音」は電車の音ではなくなり、クラシック音楽はクラシック音楽ではなくなる。つまり「日常からこぼれ落ちた顔」になってしまう。それは宇宙の全体をしめしている。

 それは宇宙全体をしめしている……か、どうか。実は、そう読んでいいのかどうか、私にはわからない。「宇宙の全体をしめしていた」はもしかすると1行目、2行目の行のわたりのように3行目の「テーブル」に行わたりでかかることばかもしれない。
 「宇宙の全体」に呼応することば「小宇宙」はセザンヌと思われる絵の構成、その部分について言われているからである。
 ことばの「境目」がどこかあいまいなところがある。揺れるところがある。そこから何かが噴き出そうとしている。それが不気味である。同時に、何か緊張感を誘う。もしかすると、この緊張感こそが本当は静けさのもとかもしれない。

 「境目」と私は書いた。実は、このことばは岡本の別作品のなかに存在することばである。「手帳のなかの記号は現在をしめす」。

整序から遠く離れてゆがんだカオスのままの自筆の文字群
日々の境目をなにげなく通過してきたが
人知れぬ急速と効率のよい仕事のためにも
都会の小さな現在は手帳のなかにあった
純粋時間をひたすら歩んでいた

 「純粋時間」とは「日常からこぼれおちた」「顔のことなった」「暮れ色にそまる時間」の「宇宙の全体」のことになるだろう。
 「境目」に似たことばは、たとえば「都市と海と砂漠の信号機を越えて」のなかの次の行にも見られる。

「生」と「死」の境界には道路標識が立っている

 「死」とは「日常からこぼれおちた」生、逸脱した生であろう。だからこそ、そこに「詩」の本質がある。「都市と……」の最後の2行は美しい。

思い出はいつ死んでしまうかわからないから
いけるところまでいってみよう

 これは「日常からこぼれおち」「純粋時間」のなかへ出かけていこうという意思表明である。それが「亡き父」を追悼することである。つまり「亡き父」の生をたどることである。

 「境目」、そして逸脱と、そこから始まる「並列」については、「現代のチンパンジー語をさがせ」のなかのことばが端的に語っている。

電車のなかで首をかしげると
背後から突然の非文脈的コミュニケーション

 「非文脈的コミュニケーション」が「詩」なのである。

 岡本の詩には、強い統一された意識がある。「日常からこぼれおちた」もの、「境目」を失ったもの同士が唐突にコミュニケーションをはじめる。そこから「詩」が立ち上がる。ちょっとエリオットに似ている。エリオットは今までそばになかったものを並列させることで「日常からこぼれおちた」「顔の異なった」「時間」を演出した。岡本は、演出ではなく、エリオットと逆の操作で、そこへ行ってみようとしているように思える。



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ポール・グリーングラス監督「ユナイテッド93」

2006-08-14 01:46:56 | 映画
監督 ポール・グリーングラス 出演 コーリイ・ジョンソン、デニー・ディロン

 結末がわかっているのに、思わず身を乗り出し、最後は助かるんじゃないか、と思ってしまう。がんばれ、がんばれ、とこころのなかで叫び、テロリストに立ち向かった行動が成功するように祈ってしまう。飛行機が墜落したあとでさえ、これは映画にすぎない、本当は全員助かったのだ、と思い込みそうになる。
 いやあ、びっくりした。
 テロリストたちの祈りのシーンから始まり、空港のざらざらした映像にまるで現実そのものと錯覚してしまいそうだ。臨場感というのも奇妙だが映画を見ているという感じが全然しない。
 映画は、管制のやりとりと、ユナイテッド93の機内の様子が交互に描く。だれもが全体像がわからず、自分にできることを懸命にやる。あ、あのとき管制塔はこんなふうに混乱していたんだ。混乱のなかでこんなに冷静にというか、できることは何かを的確に判断していたのかと驚く。パニックに陥らないところがすごい。混乱しながら、そして貿易センタービルの映像も見ながら、驚愕し、それを現実としてしっかり向き合う。これ以上の混乱を引き起こさないためにどう対処すべきかを考える。それも瞬時のうちに。人間というのは、すばらしいものだと驚く。
 それはユナイテッド93の乗客についても同じだ。恐怖のなかで混乱しながら、電話をつかい情報を集め、何ができるかを探る。彼らだけが、他の旅客機の乗客と違い、乗っ取られた飛行機が何のために使われるかを知っている。出発が後れたために「時差」が生じたのである。そこからがすごい。すばらしい。テロリストとの戦いを決意するだけではなく、乗客同士が助け合い(たとえば携帯電話を隣の人に貸してやるというような、自分にできることをきちんとする)、懸命に生きようとする。人間にはこんなに多くのことができるのかと感動する。勇気というものを通り越して、立派だ。敬服に値するとはこういう行動を指すのだろう。
 この感動が、冒頭に書いたがんばれ、がんばれ、という願いになる。

 ユナイテッド93の乗客たちが、この映画どおりに正確に他のテロリストの行動と結果を把握していたかどうかわからない。たぶん、この乗客の描写には、監督の祈りがこめられているのだと思う。ユナイテッド93の乗客たちは世界を救ったのだと思う。彼等の人間としての意志が世界を救ったのだと思う。もしユナイテッド93がホワイトハウスに突入していたら、アメリカの対テロ戦争はもっと激烈だっただろう。テロリストがいるかもしれないあらゆる場所を壊滅したに違いない。そしてテロは今よりももっと激しく、世界各地でおこなわれただろう。

 映画の感想からずいぶんずれてしまったかもしれない。しかし、そんなことを思わず考えてしまう、感じてしまう映画だった。



 映画そのものにもどれば、リズムがすばらしい。映像のざらざらした感じもリアルで衝撃的だ。無名の俳優をつかいきった監督の技量がすばらしい。
 管制塔の状況を克明に再現したところがすばらしい。「プレインズ、と言っている。複数だ」というテープの分析の冷静さをあぶりだしたところがなんともすごい。管制官が雑音とも思える音を克明に聞き取っている様子を再現したところがすばらしい。
 何よりも遺族の証言をもとにユナイテッド93の内部を、あたかも実際に見てきたかのように再構成する想像力がすごい。そして、その想像力の根底に、人間の行動力への信頼をすえていることが見事だ。
 ユナイテッド93の機内で起きた実際のことはだれも知らない。生きている証言者はだれもいない。それなのに、この通りのことが起きたのだと信じ込まされてしまう。信じたくなる。人間を信頼し、愛している監督の視線に感動してしまうのだ。

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池井昌樹『童子』(その4)

2006-08-13 23:39:38 | 詩集
池井昌樹『童子』(その4)


 池井の詩には、いつも「今」というものがない。ただ「永遠」だけがある。永遠の直中で放心している池井がいるだけである。「永遠」はさまざまなことばで表現されている。「ならわし」では次の2行。

こことはちがうどこかへ
はれわたってでもゆくような

 「こことはちがうどこか」が「永遠」なのではない。「はれわたってゆくような」という「透明感」、距離のなさが「永遠」なのである。
 池井はつねにいのちのつながりを描いているが、そのつながり、たとえば父母-私-息子(過去-現在-未来)には、いわば時間の隔たり(距離)がある。その距離がある状態では「永遠」とはいえない。距離が消えるときが「永遠」なのである。距離が消えるというのは時間の区別がなくなることである。今が過去であり、過去が今であり、また未来でもあるという時間の融合した状態が「永遠」である。

 この作品では、「永遠」をまた違った形でも表現している。

あんなにとおいまどのなか
まだくちすすぐあのひとの
どこかみおぼえあるかおは
あれはだれだったのかなあ
ぼくにみられているともしらず
あんなところでかおをふき
いまはみえなくなったひと
まどにはつたがおいしげり
それがいつしかくもになり
かすみになってきえるのを
ひとりぼんやりみています
だれにみられているともしらず

 「つた」「くも」「かすみ」と変化していくもの。つながっていくもの。その変化は「つた」と「くも」、「くも」と「かすみ」を隔てるものがなくなっていくことだ。区別が消滅し、距離がゼロになる。そこにも「永遠」がある。
 そうした風景の、あるいは風景をつくる存在の、距離感の消滅とは別に、もうひとつの距離感の消滅がある。それがこの詩の一番おもしろいところだ。
 池井は遠い窓のなかに口をすすぐ人を見ていた。それがいつのまにか風景をぼんやりと眺める池井にかわってしまい、その瞬間、池井はだれかに見られている。だれかを見つめていた池井がだれかに見られている。池井は口をすすぐ人との距離感をなくし、一体になって、今はだれかに見られている。そこに「永遠」がある。
 池井を見つめる「だれか」。その存在は、池井と、池井が見つめていた口をすすぐ人とを融合させる力を秘めている。そういう力の前で、池井は放心しているのである。それは池井を見つめる「だれか」こそが「永遠」である、ということだ。

 こうした文章を書くと、その「だれか」を「神」と呼ぶ人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。そうした超人的な存在を池井は想定していない。考えていない。これはたとえば「りんさんの月」を読むとよくわかる。石垣りんを追悼する詩である。このすばらしい作品(池井の作品のなかでもっともすばらしい作品だと私は確信する)は、ぜひ多くの人に直接読んでもらいたいので、ほんとうに一部だけを引用する。私の考えも、少しだけにとどめる。

こころゆくまで
にんげんだった
石垣りん
それでよい。

 「こころゆくまで」は池井の放心につながる状態である。そうあることが「神」ではなく「にんげん」であると池井は書く。「だれか」とは「こころゆくまで/にんげん」である存在のことである。それは、たぶん世界のどんなところにも生きている。自分を大切にして、同時に出会った人を大切にして生きている。そういう相互のありようが「にんげん」ということだ。
 池井は、この詩のなかで「それでよい」と言っている。先輩詩人に対して「それでよい」とは傲慢な言い方だろうか。そうではない。「そうなりたい」では、池井の思いはつたわらない。「それでよい」は、「そうなりたい」よりもっともっと強い肯定である。こういうことはできる限り強く力を込めて言わなければならないものなのだ。全肯定なのである。
 あるいは、こういえばもっと池井の思いに近くなるだろうか。
 「こころゆくまで/にんげん」であるということは「詩人」であるということだ。一瞬一瞬を「永遠」に変えて生きていく存在。すべてを融合し、すべてを融合ゆえに個別に輝かせ、その存在すべてがつながっているということをたしかなことばで、たしかな態度で表現する存在。あるいは、それが到達した世界、つまり「詩」というものが世界にある。「それでよい」と池井は言いたいのだ。
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池井昌樹『童子』(その3)

2006-08-12 23:45:56 | 詩集
池井昌樹『童子』その3

 「いのちのつながり」は「産む」「生まれる」という形でつづく。基本的には父母-子-孫(過去-現在-未来)という姿をとる。しかし、池井はそうした過去から未来へ動いていく時間系列とは別の次元でも「産む、生まれる」をつかっている。
 「厩」という作品。

なあ
妻よ
このごろ夫(つま)はかんがえる
おまえからうまれたんだな
むすこらだけじゃない
おれも
おまえがうんでくれたんだな
としはもゆかぬこむすめが
とおもはなれたうまのほね
わけのわからぬおやじをひとり
このよのくらいうまやのすみで
こっそりうみおとしたんだな
夫として
また父として
やまありたにあり
やままたありて
みえないつぼみがひらくよう
いつしか夫もいたにつき
いつしか父のかおをして
いばりくさっているけれど
けれども妻よ
夫はこのごろかんがえる
おまえからうまれたんだな
このよろこびもくるしみも
ささやかなこのいのちまで
難産どころじゃありませんわよ
かぼそいうなじをのぞかせながら
となりでねいきをもうたてている
妻よ
なあ

 ここに書かれている「生まれる」は比喩として読むことができる。池井がひとりの女性と出会い、生まれ変わる。それ以前の池井とは違った池井になる。ありていに言えば、詩だけしか眼中になかった池井が、家庭を持ち、家族を持ち、それまで気がつかなかったもの、家族という形でえんえんとつづいてきたいのちのあり方に気がつく。池井を産み、育ててくれた家族への感謝に目覚め、彼が受け取ってきたものを家族にかえすとこでいのちのつながりを広げていくことの大切さに目覚める、ということになるかもしれない。
 それはそうなのだが、私は、少し違ったものを感じる。
 ここでは池井は「妻」に対して「おまえがうんでくれたんだなあ」ということばをもらしているが、これは「妻」だけに対してのことばではないように感じられてしようがない。
 池井は「りんさんの月」で石垣りんとの出会い、交流を描いているが、他人と出会うこと、交流すること、そうした「一期一会」すべてに対して「おまえがうんでくれたんだなあ」と感じているのだと思う。石垣りんに対しては「おまえがうんでくれたんだなあ」というような表現はできない。対等な感覚で、そういうことばをいうことはできないし、また、石垣りんにしても、妻がもらすように「難産どころじゃありませんわよ」というような軽口でこたえる具合にはいかないだろう。だが、(たぶん)、池井は妻の軽口のような温かい励ましを受け止めているはずである。山本太郎に対しても、会田綱雄に対しも、その他の多くの人に対しても、同じだと思う。多くの人が「難産」のすえに池井を産んでくれた、池井は多くの人から生まれた。そのことを妻を描くことで代弁させている。
 いのちのつながりは「過去-現在-未来」という縦軸だけではなく、横軸にも広がっている。(山本太郎、会田綱雄、石垣りんを描くだけでは、彼らが池井より先輩であるだけに、そのつながりは「縦軸」と誤解されるかもしれないからこそ、妻を登場させることで「横」、同時代ということを強調したいのだと思う。)横のつながりは、現在という時間の広がりを豊かにする。池井は人間だけではなく、鳥や木からも生まれたのである。「だれもしらない」の鳥や木はそうしたことを語っている。
 今という時間は縦軸の中でとらえれば、父母-池井-息子。横軸でとらえれば、池井-妻(山本太郎ら)-鳥-木。そして、妻には妻の縦軸の時間があり、鳥には鳥の縦軸の時間があり、木には木の縦軸の時間がある。池井がこころの一番深いところで感じているのは、そうしたさまざまな縦軸の時間を、今、ここに、並列させるなにかがある、何者かが並列させているということに対する「畏れ」である。だれかがそうした複数の時間を並列させ、池井の目の前に差し出している。池井は、それを放心して眺めている。どう受け止めていいかわからず、それでも受け止めているということをなんとかことばにしようとしている。
 あるいは、何者かが、池井が、今、ここにあるさまざまな時間をちゃんと受け止めるかどうかを見つめている。巨大な眼差しによって、いつも池井はみつめられている。そのまなざしは過去からの視線であり、未来からの視線であり、同時代からの視線である。それらが一緒に融合したもの、つまり永遠の視線である。
 その厳しい、あるいは温かい視線の中で池井は真っ裸になる。無防備になる。放心するしかない。池井を真っ裸にし、無防備にし、放心させる力を持った視線。
 それを強烈に感じ、ふるえ、一種の「畏れ」のなか、池井は同意を求める。「なあ」と声をもらす。巨大な視線に対しては「なあ」とは言えない。巨大なものが、どこかにある。それを妻に知ってもらいたい。だから「なあ」と言う。これは妻に対してだけではなく、読者のすべてに対して投げかけられた「なあ」でもある。

 「なあ」の中にある実感--それは「なあ」とだれかに呼びかけたことのある人間にしかわからないものかもしれない。知ってもらいたい。知ってもらえるかどうかわからないけれど、感じていることを伝えたい。
 そこにはなにかことばにならないものがある。
 そして、それを受け止める人、たとえばとても親密な関係にある妻にしろ、たぶん「はいはい」と受け答えをするだけしかできない。「難産どころじゃありませんわよ」というような軽口でしか受けことえすることができないものである。このとき、つまり、妻の側にもなにかことばにできないものがあるのだ。
 ことばにできないもの、ことばにならないものが、出会い、触れ合い、感じ合う。そのときの強いつながり、ことばにならないがゆえにことばを超えた強いつながりが「なあ」のなかにある。

 この詩は、たぶん多くの人にとって、池井が妻に感謝をこめてささげた詩として受け止められるだろう。それはそれでいいことだし、多くの人に、そういうふうにして受け入れられ、愛される詩であって欲しいと私は願うけれど、同時に、その池井詩への愛が、ことばをこえて、いつの日か、この世にあるすべてのもの、この世に生きるすべてのもの、鳥や木へも、知らないうちに広がって行ってほしいと思わずにはいられない。
 鳥や木に対して「なあ」と呼びかける人が、池井の詩を読んだ人の中から生まれてくることを願わずにはいられない。


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池井昌樹『童子』(その2)

2006-08-11 12:21:48 | 詩集
池井昌樹『童子』その2

 「弓」という冒頭の作品は「ちちとははからぼくはうまれた」で始まる。池井の、いのちのつながり意識を端的にあらわした作品である。

あいしてくれたものたちを
無残に食いちらかしてきた
ぼくを食いちらかしてくれ
それが供養というものだ

 「むすこ」への呼びかけである。「供養」。美しいことばだと思う。こうしたことばが自然に出てくるところが最近の池井の詩の特徴だ。普通なら、この「供養」についての思いを深めていくのだろうが、池井のことばは少し違った方向へ動いていく。そこに池井の本質がある。

けれどもそんなことよりも
ひかりながれる矢のような
いのちはどこからきたんだろう
ちちははよりももっとまえから
むすこらよりももっとまえから
むすこらよりももっとさきへと
るいるいたる死をつらぬいてゆく
その矢はだれがつがえたのか
よる眼をとじてかんがえる
こんなまっくらやみのなか
ぼくをゆめみるものがある
あとかたもなくなったあと らんらんと
ゆめみつづけるものがある

 「ぼくをゆめみるもの」。それをたとえば宗教家は「神」というかもしれない。しかし、池井は神とは言わないだろう。神と言うにしても、それは人を導き、守る神とは違う感じがする。

あとかたもなくなったあと らんらんと
ゆめみつづけるものがある

 「あとかたもなくなったあと」とは「ぼく」が完全に消滅したあとという意味だろう。神は「ぼく」が完全に消滅したあと存在するのか。存在しないだろう。あくまで神は人間と向き合って存在するものである。池井は、ここでは宗教的な意味での神を超える存在を思い描いている。
 その存在は「らんらん」と夢見続ける。何の夢か。いのちがつながっていく夢であるか。すこし違う。
 その存在が見る夢は、目を見開いて見る夢である。池井は夜「眼をとじて考えている」その存在は、目を見開き、「らんらんと」輝かせて、池井を見つめている。池井を「ゆめ」として見ている。池井というより、池井によってつながっていくものを見ている。
 それは人間のいのちというより、「詩」のいのちである。

 先に書いたことと少し矛盾した形になるが、「詩」とは、たとえば「供養」ということばを、今、ここによみがえらせる池井のことばの動きそのものである。「供養」ということばは美しいし、それ自体も「詩」なのだが、それよりも、「供養」を呼び出すことばの動きそのものが「詩」である。
 あるいは、こんなふうに言うこともできるかもしれない。
 「眼をとじてかんがえる」とき、その考えのなかに立ち現れてくる存在、池井をゆめみる存在、それをことばにしたとき、池井はその存在そのものになる。そうして、現実の池井を一個の肉体をもった人間ではあるけれど、人間のからだからはみだしてゆく何者かになり、ことばのなかで深く交わる。
 そして「詩」そのものになる。



 「だれもしらない」はとても不思議な作品である。朝、木のあいだを行き来する鳥を見ている。そんな自画像を描いている。その末尾。

なもないとりと
なもないひとと
だれもしらない
ひともとの樹と

 「なもないひと」とは池井自身である。「なもないとり」はそこで見かけた鳥である。そして一本の樹。それを「なもない」ではなく「だれもしらない」と修飾するのはなぜなのだろうか。また、「だれもしらない」は一本の樹だけを指しているのだろうか。
 私には違ったふうに思える。
 池井が鳥を見つめていること。そのことも「だれもしらない」。鳥がいることも「だれもしらない」。樹があることも「だれもしらない」。「だれもしらないけれど」鳥は生きている、樹はそこに存在し、池井がその前に立っている。「だれもしらない」けれど、世界は存在し、いのちがつながっている。鳥とも樹ともいのちはつながっている。そして「だれもしらない」ことの、知らないことの対象は、そのいのちがつながっているということなのだ。
 「だれもしらない」こと、いのちがつながっていることを池井は実感している。そしてただ放心している。池井のいのちを、鳥に、樹にかえし、一体となる。

 池井は、たとえば朝、会社へ急ぐ人、その社会と乖離する。そのかわりに、「だれもしらない」鳥や樹と人間(池井)とのいのちのつながりを実感し、そのつながりのなかで池井自身を開放する。
 その開放を、「だれもしらない」。
 私たちは、その「だれもしらない」ことを、池井のことばをとおして味わう。
 それが「詩」だ。



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池井昌樹『童子』(思潮社)

2006-08-10 11:52:14 | 詩集
 池井の詩は「まつり」である。現実のなかにまぎれこんできた「異界」である。「おまつり」という作品は、その「異界」につてい、次のように書いている。

こどものころのおまつりは
ときのながれがたえたよう
いつもとちがういつかへと
あけはなたれてゆくような

 時間の停止、そして「いつか」という時間を超えた場所への開放感。これは多くの人が体験する感覚だろう。いつもと違う何かに想像力が刺激される。開放される。祭りの日は何を想像してもいいのだ。いつもと違う露店の駄菓子のにおい、あまい誘惑、冒険心をくすぐる吹き矢や鉄砲。それが池井のまつりだが、そうしたもの以外に、たとえば「見せ物小屋」にひそむ恐怖、空中ブランコの恐怖と大胆さ、猛獣つかいの臭い息。そんなもののなかに、小さなこころのなかに隠していた想像力を解放する。そして、今でも、ここでもない世界へゆく……。
 しかし、池井は、そうしたことだけを感じているのではない。もっと違うものを感じている。詩はつづく。

つよくにぎったははのてが
ははのてよりもやさしくて
にぎりかえしたちいさなて
わたしのてではないようで
つなぎあうてのぬくもりの
そのなつかしさうれしさに
いつまでもうつむいていて
いつまでもまた
めをとじていて

 想像力(空想力)を池井は共有するのではない。自分の生活とは違った「異界」の夢(猛獣つかいや空中ブランコ乗りのこころ)を共有するのではない。そうした「頭」のなかの夢を共有するのではない。

つなぎあうてのぬくもりの

 「異界」へこころがひらかれてゆくとき、それはひとりの歩みではない。そばに誰かがいる。それはたとえば母だが、その母と手をつないでいる。手をつなぎあっている。そのことこそが池井にとって「異界」そのものなのだ。
 
つよくにぎったははのてが
ははのてよりもやさしくて
にぎりかえしたちいさなて
わたしのてではないようで

 母の手なのに母の手ではないような感じ、自分の手なのに自分の手ではないような感じ。たしかなことは「つなぎあうてのぬくもり」だけである。だれかと手をつなぎあっている。そのだれかが「母」ではないのは、「母」の向こう側に「母の母」「母の母の母」もいるからだろう。そして自分の手の向こう側には「私の息子」「私の息子の息子」がいるからだろう。
 想像力ではなく、肉体でつなぎあうもの。血でつなぎあうもの。そのつながりが、池井のいのちそのものを開放する。いのちといのちが、見えない手でつながりあうのが、池井にとっての「まつり」なのである。

こどものころのおまつりは
みるものきくものめずらしく
いつものまちもひとたちも
いつもとちがうかおをして
うらみちぬけてゆくおみや
そのうらみちのいしがきの
こけのにおいもめずらしく
ハッカパイプやしょうがあめ
やまとつまれたさとうきび
いろとりどりのふきやなど

 書き出しのこの世界は、池井が中学生の頃から書いていた世界そのままであるが、そうした、なにか古くさい「もの」の世界から、池井は「いのち」のつながりの世界へと詩を展開してきた。「もの」の裏側にはものをつくる人たちがいる。ものに触れながら、しらずしらずに人に触れ、そのつながりに洗われ、清められながら、母は母でありながら母ではなく、息子は息子でありながら息子ではない、そこにあるのは「つながり」という連続性、自分をどこまでもどこまでも遠くへ連れて行ってくれるいのちのつながりであるということを知り、安心して、放心するという世界にたどりついた。

 池井はいつでも放心する。無防備になる。そういう形で、いのちそのものとつながる。


童子

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映画「恋するトマト」

2006-08-09 23:30:54 | 詩集
監督 南部英夫 出演 大地康雄 アリス・ディクソン

 緑が美しい。トマトが美しい。そして何より大地康雄の日焼けした顔の色が美しい。そして大地の稲を鎌で刈る姿が美しい。稲の株をしっかり左手で掴み、鎌を握った右手をぐいと引く。その動き、スピードがすばらしい。日本の百姓の、喜びにあふれる肉体だ。
 人に裏切られ、そして人を裏切るような仕事をしながら、フィリピンの農村へ行ったとき、田んぼが気になる。働く人が気になる。その視線、その視線の先の風景が、とてもいとおしい。
 一度農業をしたことがある人は、どうしてもそこで栽培されているものに目が行ってしまう。どんな具合に育っているだろうか。ちゃんと実っているだろうか。そして、それを収穫する人にも目が行ってしまう。つらい仕事だけれど、そのつらさのなかにある快感、丹精込めて育てたものが丹精込めた分だけ大きくなっているという実感。そういうものをひとりの日本人が取り戻す物語だが、農村の描写、特に大地が働く描写がすばらしいのでぐいぐいひきずりこまれる。
 太陽と土地と水があれば農業はできる。そして食べるものを育てているかぎり人間は生きて行ける。
 農業は稲やトマトを育てるだけではない。人間を育てる。人間の生きる力を回復させる。大地は、そうした過程を、全身でつたえている。ああ、百姓はいいなあ。自然相手の仕事だが、愛情を込めれば込めるだけ、稲もトマトも正直に育つ。
 そして、稲やトマトの正直な姿が人間を正直にさせる。

 日本の農業はたいへんな状況に追い込まれているが、正直な人間がいるかぎり、まだまだ再生できる。再生してほしい。そう祈らずにはいられない、美しい映画だ。

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林嗣夫「29 夏の日に」

2006-08-09 22:52:56 | 詩集
 林嗣夫「29 夏の日に」(「兆」131 )。
 林は同じ号に「in松山」というタイトルのエッセイを書いている。「日常の裂けめ」について書いている。それに呼応するような作品が「夏の日に」である。
 「日常の裂けめ」を1連目で定義している。

不思議な記憶が
思いもよらない回路を通って
あざやかによみがえることがある

これを2連目の途中で具体的に描いている。

わたしは仕事を一休みして
ペットボトルで清涼飲料水を飲んだのだ
すこし顎を上げ 口をつけ ぐうんとひとくち飲んだのだ
そのとき
どうしたことか一すじ光が走り
痛いような 悲しいような 一つの記憶がよみがえった

 林は60年前、つまり敗戦のときの夏を思い出している。焼け野原で誰かに手渡された水筒から水を飲んだことを思い出す。今このときによみがえる過去--そこに日常の裂けめを感じている。
 林は、そしてこの不思議な記憶のよみがえりを「思いもよらない回路を通って」と書いているが、私には、その回路が具体的に見える感じがする。林は「思いもかけない」と言っているものは、林が自覚できない、無意識、のものだろう。それは肉体の記憶である。ことばではなく、肉体の覚えていること。ことばにせずに抱え込んでいることがら。

すこし顎を上げ 口をつけ ぐうんとひとくち飲んだのだ

 「ぐうん」としか表現できない肉体の記憶。論理的なことばを拒否してあふれてくる感覚。そこに「通路」がある。
 人にはだれでも具体的に説明できないことがある。「ぐうん」は「ぐうん」としか言えない。しかし、だからといってそれが人に伝わらないとは限らない。「ごく」ではない。「ごくり」ではない。「ぐうん」。
 林は何の説明もつけくわえていないが、このことばに触れたとき、私は、水をのどで飲むというより、のどの奥にあるもの、食道か、胃か、腸か、いや肉体の全身が水を吸い込むようにしてむさぼる感じがした。水を飲むとき、体、のどや胃や腸は水よりも下にあるのだが、その下にあるものが上にある水を吸い上げて飲むかのような、一種の力、水を飲むのだという意志のようなものを感じる。
 私たちは肉体の内部にことばにならない記憶を抱え込んでいる。肉体が動き、ことばにならないものが、ことばになろうともがく。その瞬間に、その記憶の根っこが一緒に動く。「思いもよらない回路」の奥にはかならず人間の肉体の動きがある。それはまだことばとして定着していない力である。

 「兆」の同人の小松弘愛は精力的に土佐方言を取り込みながら詩を書いている。その方言のなかに私が感じるのも肉体である。肉体はもちろん個人のものだが、個人のものでありながら、なぜか個人を越えてしまう部分を持っている。うまく説明できないが、たとえば他人が体を丸くしてうなっている。そういう姿を見ると、ことばで説明を聞かなくても、その人が腹かどこかが痛くて苦しんでいるのがわかる。その痛みは私の痛みではない。私の痛みではないのに、その痛みがわかる。私たちは何かを共有する。ことばで共有するように、肉体でも共有する。その何かのなかには「標準語」ではとらえられない微妙な風土の、つまり同じ土地で共有した空気そのものもふくまれているのだと思う。そうしたものが、小松のことばをとおして立ちあがってくる。私はもちろん土佐の人間ではないから、その空気を、小松が感じているままに受け取ってはいないだろう。というより、たぶんぜんぜん違ったものとして受け取っている可能性の方が強い。それでも、何か、その「受け取った」という感じが常に残る。それは、林のことばを借りて言えば「日常の裂けめ」が見えたということ、私の肉体が揺さぶられたということかもしれない。


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小松弘愛「りぐる」

2006-08-08 23:53:25 | 詩集
 小松弘愛「りぐる」(「兆」131 )。
 「りぐり」とは土佐方言。「年を入れる人」「吟味する人」。小松は「りぐり農園」で「アバシゴーヤ」を栽培しているという新聞記事を読む。「アバシ」は沖縄方言で「ハリセンボン」を指す。それも新聞記事に書いてあったのだろう。その記事を読んでの感想がつづく。これが非常におもしろい。(ネットなので系図表記がうまくいかず、申し訳ないが一部変形した形で紹介する。ぜひ、「兆」で全文を読み直していただきたい。)

「りぐり」と「アバシ」
土佐方言と沖縄方言
ここで 一つ系図を作らせてもらおう

初男(夫 高知県)

|---アバシゴーヤ(イメージキャラクター「アバシ坊や」)

洋子(妻 沖縄県)

「アバシ坊や」を育てるには
農薬はいけない
センダンの木から抽出した
天然成分の防虫剤などを使っているという

 系図(家系図)に私は笑ってしまった。なんて馬鹿なことを(いい意味で)考える人だろうと、笑いが止まらなかった。今までも小松の詩に感心してきたし、好きだったが、この部分でさらに好きになってしまった。
 「馬鹿なこと」と私は書いたが、「馬鹿なこと」には、その人の人間性が一番よく出る。人によく見せようとする意識が一瞬消えるとき、それは「馬鹿なこと」になる。その人の生の肉体が出てくる。
 系図は、小松がことばの背後に必ず人間の存在を思い浮かべていることを浮き彫りにする。ことばがあれば、必ずそこにはそのことばを使う人がいる。それはたとえば男と女である。ことばとことばが出会うということは、人と人が出会うことでもある。男と女が出会えば、そこから何かが生まれる。愛? そんな抽象的なものではない。こどもである。新しい人間である。その新しい人間に、男と女はかわいらしい名前をつける。愛があるとすれば、それはこどもに付けられた名前であり、成長するこどもの、成長そのものが愛だろう。
 こうしたことを、あれこれ説明するとなんだかうるさくもなるし、道徳の授業(?)みたいでおもしろくもなんともないものになってしまうが、(私の説明では、小松の詩のおもしろさと、小松の人間性の温かさを殺してしまうが……)、そんな小うるさい説明をせず、系図にしてしまって、それでおしまい(説明できた)と思ってしまうところに、なんとも不思議な味がある。思わず「馬鹿あ」と叫んで、その「馬鹿あ」と叫んだ瞬間に消える距離感のようなものが、思わず接近してしまう感じ、抱き締めたくなるような温かいものが、抱き締めることによってしか味わえない温かさがここにある。

 少し別な角度から、この詩の楽しさを、もういちど書いてみようか……。

 もしこの詩を小松が朗読するとしたらどうなるだろう。「ここで 一つの系図を作らせてもらおう」のあと、どう読むのだろうか。
 読めない。
 系図の部分では、どうしたって黒板か何かをつかって「図」を描いて、図を描きながらしか説明できない。ここにはことばにならないものが含まれているのだ。ことばにならないものがここに含まれている。ことばにならないもの。ことばにならないけれど、肉体に深くしみついて、人の行動を規定するもの--それを私は「思想」と呼ぶが、この系図をつかってゴーヤ栽培を語る部分に、その説明の仕方にこそ、小松の「思想」がある。
 ことばにならないもの--それを、たとえば私は、具体的な人間の存在、男と女の存在に対する想像力と呼ぶ。人間がそこにいる、と想像して系図を書く。その想像力が、小松の温かさである。常に人間の生活を思い浮かべ、そのなかでことばを動かす。それが小松の「思想」である。
 普通、土佐の人間が沖縄のゴーヤを栽培するからといって、そこに沖縄の女性まで想像する必要はない。むしろ、そういうことは余分である。いつ水をやるか、肥料をやるか、いつもぎとるか。そんなことこそ、本当は考えなければならない。しかし、小松は、土佐の人間が沖縄のゴーヤを育てるということは、土佐の男と沖縄の女が出会ってこどもを産み、育てることと同じだと想像する。こどもを育てるということは、そして「りぐり」つづけることだと説明する。(ここでは引用しなかった作品の後半部分。)

 こういうふうに、ことばにできないもの、体にしみついた「思想」をいったん書いてしまうと、ちょっと足もとをとられるというか、その後、どうやってことばをつないでいければいいのか、人はわからなくなる。
 小松の作品も、その作品自体としていえば、後半部分は乱れる。ひたすら「りぐり」を繰り返すことに行をついやしてしまう。しかし、そこがまたかわいいというか、愛らしいというか、「ばかあ」といいたくなるような楽しさに満ちている。
 最後の5行。

りぐり自然農園の
宣伝係のようになってきましたから
もう
終わりにしますが
タイトルは「りぐり」とさせていただきます。

 「系図」、男と女、こどもが登場するから言うのではないが、これはまるで結婚式のスピーチのようではないか。それも、せっかく用意してきた原稿を読み始めたのに、読んでいる途中でふと言いたいことを思いつき、その話を挿入してしまったために、どうしめくくっていいか、つじつまがあわなくなって、しどろもどろに終わるスピーチのようではないか。
 系図を汗を拭き拭き、全身を動かして書いている小松の姿、そのあとしどろもどろになっている小松の姿が目の前に浮かんできてしまう。こんなふうに作者の肉体そのものまで想像させてくれる詩は、私は大好きだ。
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豊原清明「夢を捨てて木の傷」

2006-08-07 16:14:12 | 詩集
 豊原清明「夢を捨てて木の傷」(「火曜日」87)。
 書き出しが面白い。

毎朝、寝床から立ち上がる瞬間、
こう、切り裂かれていく
原っぱの悲惨な光景がポツンと
広がっていく。
「ぜいたくは、敵」
そんな言葉をポッと思い出しては
アッ、しまった!と落ち込む

 「ぜいたくは、敵」という突然の転換がおかしい。そして、そのことばを思い出して「落ち込む」という感覚がすてきだ。世間にはいやなことばが満ちている。それは肉体にも染み付いている。そうしたことばひとつひとつに好き嫌いという感覚を持っていて、それをはっきり書くことができる、というのが豊原の詩の楽しさだ。
 2行目の「こう、」ということばもすばらしい。「こう、」といわれても具体的には何もわからない。わからないのに「こう、」と自分のなかでことばを探すときの感覚が、頭のなかの感覚ではなく、肉体の、身振り手振りとなって肉体を揺さぶる。肉体のなかの何かが刺激されて、すっと読んでしまう。
 豊原のことばには、いつも確かな肉体がある。それもアスリートのように鍛えられた肉体というのではなく、ちょっとだらしない(?)甘やかされた肉体がある。その十分に甘やかされた肉体の感覚が、甘く誘う。
 2連目の

ダイエット? 今は起き上がる度に
床が軋むではないか!
うっ、うっ、うっ。くっー

 ああ、いいなあ、と思う。

 肉体に染み付いたことば、といえば、「旅に夢を残して」にも、そんなことばが登場する。それは笑いの仕掛けとなって立ち上がってくる。「頭」で笑うのではなく、肉体が笑い出してしまう。

少年よ、大志を抱け。
青年よ、青い帆を破け。
中年よ、中志を抱け。
壮年は騒々しくなれ。
晩年はゴッホと咳をして
老人よ、元気に成れ。
若者は疲れやすくなるから。

 豊原は、真に肉体に染み付いたことばだけで詩を書くことができる天才である。「晩年はゴッホと咳をして/老人よ、元気に成れ。」と笑わせたあと、「若者は疲れやすくなるから。」とすとんとことばを落としてしまうところがいい。
 最終連もいい。とてもいいな。

二十四歳で鼻ちょうちんが出なくなった
今はタコの口をして
風呂の水の中に沈没してゆく
父の小六の顔が思い出され
「私」小説でも出来そうや、
されど、原稿用紙に布団はかけられぬ。

 「布団」はもちろん「私小説」の代表作をもじったものだが、そんな遊びよりも、「されど」「られぬ」という突然の「古語」のタイミングがなんともいえずすばらしい。「出来そうや」の口語とぶつかりあって、その衝突がとてもおかしい。こういうことばの、ことば同士の対話は肉体になってしまったことばにしかできない交流だ。



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