詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

利岡正人「流出点」ほか

2007-01-19 14:12:50 | 詩集
 利岡正人「流出点」ほか(「鰐組」219 、2006年12月1日発行)。
 利岡正人「流出点」は書き出しにひかれ、同時に書き出し(といっても2連目だが)に疑問を感じた。

わたしたちはよく喋る。
本当によく喋る。
喋りながらわたしたちは漏洩する。

わたしたちは河川に垂れ流しだ。
川下に向けて
ひたすら喋りながら
わたしたちそのものが垂れ流しだ。

 「何を」漏洩するか、省略されている。省略されているが、それでいいのだと感じさせるリズムである。「何を」が省略されることで、実は「わたしたちそのもの」が漏洩するということが暗示されているからである。「何を」とは特定できないもの、すなわち「わたしたちそのもの」という全体が漏洩してしまうということが暗示されているからである。
 これは「何を」を言わないことによってはじめて可能なことがらである。
 この暗示を有効にしているのはリズムである。最初の3行によくあらわれていると思うのだが、ここで明らかにされているのは、そこに存在するのものが繰り返しのリズムであるということだけだ。そして繰り返しのリズムがあるということは、そのリズムをつくりだしているものがあるということ、すなわち「わたしたち」が存在するということである。漏洩するものは存在するものだけである。存在しないものは漏洩しない。がたらこそ、「わたしたちそのもの」が漏洩していくということがわかるのである。
 このことをもっと明確にするためとに何が必要か。何も言わない、ということだ。リズムだけ存在させ、新しい内容(ことば)をもちださない。その禁欲さが楽しい。そして、同じリズムを繰り返すことで、内容、あるいは意味を引き延ばし、遅延させることで、読者のなかに何かが生じてくるのを待つ。「わたしたち」が徐々に、それしか存在しないのだと感じられるまでになってくるのを待つ。これは同時に、利岡自身もひとりの読者となって、その引き伸ばし、遅延の果から「わたしたち」が生じてくるのを待つということでもある。
 そういうふうに解釈(?)したうえで不満をいうとしたら、利岡自身が待ちきれていない。引き延ばし、遅延というのは、もっともっと引き延ばし、遅延しつづけなければいけない。
 「川下に向けて」流れ出してしまっては「海」へたどりつくのはわかってしまう。予定調和というと変かもしれないけれど、2連目で「川下」がでてきた段階で、最終連の「海」が見えてしまう。「海」を見せてしまったのだから、「海」ではなく、延々と、くねくねと運河となるか、どぶ(溝?)となるかは別にして、街をたゆたいつづけないとおもしろくない。「海」へたどりついてしまったら、がっかりしてしまう。「海」ではなく、垂れ流しが洗い続ける「岸」をこそ見たい。何かにぶつかりながら「淀み」となってにごってしまうところを読みたい。流れて行ってしまうものが「わたしたち」ではなく、流れながらもそこに存在し続けるものが「わたしたち」なのだろうから。
 「遅延」の楽しみは、「淀み」の深さ、不透明さにある。不透明さとしてどうしようもなく存在してしまうのが「わたしたち」というものではないのだろうか。
 繰り返し、遅延を狙いながら、まるで急流である。「海」へ行ってしまったのでは、「わたしたち」はどこにも残っていない。「何を」を省略した意味がない。



 仲山清「鳥居から鳥居」は何が書いてあるのかわからない。わからないけれど、後半、思わず引き込まれた。特に次の3行。

わたしはゆれる羊水に浮かんでいた
ゆれるのは、母なるひとが男と言い争っているからだった
生まれるのがいやな気がした

 利岡の詩について「遅延」ということばで私が期待したのは、こういう3行のことである。「羊水」と「水」が出てくるからいうのではないが、「流れ」が遅延するとは単にそこにとどまり、淀むだけではなく、淀みを引き起こすきっかけとなった障害物に水がぶつかることで生じる小さな逆流のようなもものもあり、それが流れそのもの、「源流」を汚染し、いっそう淀む。「いやな」感じ。そして「いやな」感じがわかってしまうこと。それが遅延のもっとも魅力的なことではないだろうか。「わたしたち」がどうしようもなく存在してしまうおもしろい部分ではないだろうか。
 仲山の詩では、「母なるひとが男と言い争っている」ということが引き金となって「いやな」気持ちを引き出す。そのことに注目するなら、逆流というのは過去の突然の噴出かもしれない。
 こういう噴出があると、詩の中の時間が急に豊かになる。そして「誤解」「誤読」の楽しみが増えてくる。つまり、かってな想像をする楽しみが増えてくる。
 仲山の詩は、どこか短編小説ふうなところがある。この詩などは、主人公の父は母に妊娠させはしたけれど、結婚は別の女と結婚した。主人公は、事情があって、(たとえば母が重病で、最後に「父」と会いたいと言っているとか……)、男に会いにゆく。そのときの気持ちだけを取り出して書いているように読むことができる。
 利岡が「何を」漏洩するか明らかにしなかったように、仲山は男の正体(男と主人公の関係)を明らかにせず、明らかにしないことで出会いを遅延させ続ける。そして、その遅延のさなかに時間の逆流(過去の噴出)を描くことで、ことばが遅延し続けなければならなかった理由を明らかにする。
 引用した3行によって、遅延そのものが、単なる遅延ではなく、感情・こころとして立ち上がってくる。
 遅延が読みたいのではなく、遅延を選択するしかなかった人間の悲しみ、苦しみが読みたいのである。人間そのもの、「わたしたちそのもの」が読みたいのである。仲山は、そういう読者の(私の?)欲望にこたえてくれる。利岡と仲山の作品を並べて見たとき、私には、仲山の作品の方が、何が書いてあるのかわからないにもかかわらず、大切なものに思えてくるのだった。

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文貞姫(ムン・ジョンヒ)「水を作る女」

2007-01-18 22:53:35 | 詩集
 文貞姫(ムン・ジョンヒ)「水を作る女」韓成禮(ハン・ソレン)訳(「something 」4、2006年12月16日発行)
 自分と他者が一体になる感じ--それは誰にとっても楽しいものだと思う。そして、その一体感が予想外のものであって時、それはとても楽しい。文貞姫「水を作る女」に、それを強く感じた。

娘よ、あちこちむやみに小便をするのはやめて
青い木の下にすわって静かにしなさい
美しいお前の体の中の川水が暖かいリズムに乗って
土の中に染みる音に耳を傾けてごらん
その音に世界の草たちが生い茂って伸び
お前が大地の母になって行く音を

時々、偏見のように頑強な岩に
小便をかけてやりたい時もあろうが
そんな時であるほど
祭祀を行うように静かにスカートをまくり
十五夜の見事なお前の下半身を大地に軽くくつけておやり
そうしてシュルシュルお前の体の中の川水が
暖かいリズムに乗って土の中に染みる時
初めてお前と大地がひとつの体になる音を聞いてごらん
青い生命が歓呼する音を聞いてごらん
私の大事な女たちよ

 女の中の「川」。大地の中の「川」。それが一体になる。ただ一体になるのではない。女が「大地の母になって行く」ことで一体になる。女が大地をのみこんで行くのだ。そのとき大地の中に流れる「川」(水脈)は女の中に流れる「川」であり、それにそって草が生い茂る。草の音から吸い上げられた水が草の茎を通り葉っぱのすみずみまでゆきわたる。大地の中の「川」は単に土の中の「川」ではない。大地に育っているすべてのもの、すべての水分とともにあるものの中を、下から上へと逆流するように動いていく「川」なのである。草の葉が揺らぐ時、「川」は揺れるのだろう。草が伸びる時、その草の葉が伸びた先まで「川」は伸びて行くのだろう。--書いていないけれども、そんな様子が目に浮かぶ。
 2行目。「青い木の下」の「木」もまた「草たち」のひとつになるだろうか。木もまた女の水を吸い上げて大きく育つのだ。その太い幹を通り、幾つもに分かれる枝を通って幾つにも分かれながら、その葉の先端にまでさかのぼっていく女の中の水。--これも書いてはいないけれど、その水の流れが目に浮かぶ。
 草の中を通り、木の中を通り、広がりつづける水。変化しながら、変化することで生きつづける水。
 この水を、文はただイメージ(映像)として描いているのではない。そこに音楽がいっしょにある。「暖かいリズム」がいっしょにある。「歓呼する音」がいっしょにある。この感じが、この詩をとてもすばらしいものにしている。
 水の行方を「視力」が追っているだけではない。「耳」がいっしょに旅をしている。というより、「聴覚」が水の動きをおしている。促している。女の中にあるリズムと女の外にあるリズムが融合し、ひとつになる。音楽になる。すべてが融合し、動いて行く。拡大して行く。女が女の肉体を超越して世界全体になる。「大地の母」を超越し、宇宙の音楽になる。「お前が大地の母親になって行く音」。その「音」のひとことから始まる衝撃のビッグバンの音楽。それに引き込まれてしまう。
 音、音楽--それは性差を超越した官能だ。
 「リズム」「音」--その音楽につながることばがなくても文の詩はすばらしいと思うけれど、「リズム」「音」によって音楽を引き寄せることで、いっそう官能的で魅力的なものになっていると思う。

 「なる」。この感覚が文の詩を大きく感じさせるのだとも思う。「お前が大地の母親になって行く」の中の「なる」。「なる」とは自分が自分でなくなるということ、自分を超越するということである。「髪を洗う女」の中にも「なる」をつかった美しい表現、女の肉体を超越し、大地に、自然になるという行がある。(長くなるので、その部分だけ引用する。)

豊かな多産の女達が
みどりの密林の中で罪なく千年の大地になる

濡れた髪そのままで
千年の青い自然になろうか

 ここでは「なる」が「千年」といっしょにつかわれている。「千年」とは時間を超越した時間という意味だろう。「永遠」というのに等しいだろう。「大地」の超越が「宇宙」であり、「時間」の超越が「永遠」だろう。そして、この「永遠」を文は概念として描いているのではなく、「子供を生む」(産む)ということをとおして把握している。肉体として把握し、揺るぎない自信として宣言している。女は「永遠」だと告げている。圧倒されてしまう。

 こうした作品を読むと、男というのは、文の詩を借りていえば、「頑強な岩に/小便をかけて」いたずらしているような存在である。男は、たぶん、頑強な岩を見つけたら、小便で絵を描いたり、字を書いたりして遊ぶだけなのだ。日が差して小便が乾いてしまえば、どんないたずら書きをしたのか、もう誰にもわからない。そんなことしかできない存在なのかもしれないと思ってしまう。



 文の作品にはハングル文字の原文でも紹介されている。私はハングル文字が読めない。また読めたとしても韓国の伝統的なことばづかいがわからないので、文の詩がそうなのか、韓の訳がその日本語を選んだのかよくわからないのだが「青い」という訳にとてもこころを動かされた。
 「青い木」「青い生命」(水を作る女)「青い自然」(髪を洗う女)。日本語では「青」は「みどり」の意味でもつかう。たとえば「青葉」。新しい、若い、という意味がそこには含まれている。韓国語ではどうなのだろうか。韓国語も同じだろうか。それとも韓が新しい、若い、みずみずしいなどの意味を込めたくて「青い」という訳を選んだのだろうか。「髪を洗う女」には「みどりの密林」ということばも出てくるので、とても気になった。密林については、普通、日本語では「青い密林」とは言わないようだから、たぶん韓は「青い」を意識的につかっているのだと私は判断したのだが、そうだとすると、この韓の訳はとても日本語に精通した訳ということになる。
 ああ、こんろふうにきめこまかく、日本語と韓国語を読み分けるのか、訳し分けるのかと、そのこころの誠実さというか、ことばへのていねいさに感動してしまった。文の詩を日本語に紹介してくれた韓に感謝をこめて、記しておきたい。


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神田さよ『おいしい塩』

2007-01-17 23:57:17 | 詩集
 神田さよ『おいしい塩』(編集工房ノア、2007年1月17日)。
 1月17日。阪神大震災のあった日。詩集の発行日が1月17日になっているのは、その日を忘れたくないという思いが神田にあるからだろう。震災に関する詩が多い。ことばはまだぎくしゃくしている。つらい記憶をことばにするには時間がかかる。「つらい」と簡単に私は書いてしまったけれど、それがほんとうに「つらい」ことなのかどうか、震災を体験した人にはわからないとも思う。衝撃が大きすぎる。何が起きたかわからない。すべてが初めてのことである。初めてのことをことばにするには時間がかかる。どう書いていいのか、その「手本」のようなものがない。二度と体験したくない、という思いが強ければなおさらである。ことばにしなければならないと思いながら、一方でことばにしたくないという思いもあるだろう。その拮抗、精神の、感情の矛盾。その矛盾の中に、「思想」がある。
 震災を直接書いた作品ではないが、「ききょう」にひかれた。

花鋏で
庭のききょうを
一輪切る
二枚の刃の間のわずかな空間は
茎の中の水管をつぶさない
花の息の根をとめない
やさしい刃物 花鋏
白磁の一輪差しに
むらさき色の花
生けられて
生き続ける

 「二枚の刃のわずかな空間は/茎の中の水管をつぶさない」。この繊細なやさしさ。これが神田が震災から引き継いでいるものである。「つぶさない」は「つぶしてはならない」である。つぶされずにあるから生きているのである。
 「わずかな空間」は神田たちがその肉体で実感した貴重な空間でもあるだろう。
 「生けられて/生き続けている」。これも神田の、ききょうに託した心だろうと思う。「生きている」というより「生けられて」(生かされて)いる。そういう思いが、ことばの奥から聞こえてくる。
 生かされているからこそ、そのことを語らなければならない。--その切実な思いが、ことばの奥から響いてくる。
 
 表題の「おいしい塩」もしっかりと肉体をみつめた作品だ。

そのひとが
くれた塩
-おいしい塩
といって

すこし舌にのせる
結晶がくずれ
舌がしびれる
水をのむ
ふたたび
ひとつまみの塩
刺す辛さ
水をのむ
どんどんのむ
体の中が海になる
浮かぶ
沈む


 最後の4行が美しい。生きている喜びがある。生きていれば肉体は海になることもできるのだ。体のなかには神田が飲んだ水がたっぷりたまっている。広がっている。その感じを舌は浮いたり沈んだりする記憶とともに思いだしている。「おいしい」とはこういう「生きている」という肉体の感覚なのだ。
 それを確かめたくて、神田の舌は、ふたたび塩をなめるだろう。

 神田が震災で体験した肉体の苦悩は私には実感できないだろうと思う。それでも、そうしたつらい体験から神田の肉体が塩を味わうまで復活してきたことは、何だかとてもうれしい。「おいしい」という気持ちを、「おいしい」という気持ちのまま受け止めている肉体を、なんだかうれしく思う。
 神田のなめた塩をなめて、水を飲んで、体の中に海が広がるのを感じ、そこで浮き沈みする舌を体験してみたいという気持ちにさせられる。


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井口幻太郎「指」ほか

2007-01-16 23:49:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 井口幻太郎「指」ほか(「すてむ」36、2006年11月25日発行)。
 日本語はこういう使い方をするのか--読んだ瞬間、そう思う作品に出会うことがある。書かれたことばの「意味」というより、気持ちが何の説明もなしに、何かものの固まりのようにつたわってくる。たとえば井口幻太郎「指」の2連目4行目の「負い目」。

狭い工場(こうば)にプレス機を据え
一人で製缶の下請けをしている高広さんに
弟がいた
世間を呪い 毎日のように泥酔して来るので
錠を開けずにいたら 仕舞いに
アルミの門扉を鶴嘴で壊していった

若い頃仕事にあぶれているので
手伝いをさせてみたところ
指を飛ばしてしまった
七〇幾つになってもそれだけが負い目だ

 この「負い目」の美しさは、私のことばでは説明できない。ただ「負い目」とは、こういうときに、こんなふうにつかうのだ、と感じた、教えられた、というしかない。
 仕事を持たない男。その男に仕事をさせた。これは「負い目」とはまったく違った何かである。「負い目」を感じることではけっしてない。しかし、その仕事でその男が指をなくしてしまった。これは井口の責任ではない。それでも「負い目」を感じる。そのこころの動きに、なんというのだろうか、人間の気持ちというのはほんとうはこんなふうに動かなければならないのだ、と教えられた気持ちになるのである。
 泉鏡花の何という小説だったろうか。雪の道で人に出会う。相手は必ずしも好ましく感じている人間ではない。それでも、その人物はすれ違った相手に、「この道を行くと、道が崩れているところがある、気をつけなさい」という。吹雪だから、そのまま知らずに行ったら道を踏み外し転落して死んでしまう。そのことを恐れ、注意を喚起する。その作品の語りかけに何かが似ている。
 他人の命、他人の肉体をないがしろにしない。そういう人間としての基本的なものがここにあるのだ。



 青山かつ子「くりーむぱん」に、井口の「負い目」とは逆のことばがあることに気がついた。逆といっても他人の命をないがしろにしない、という生き方と逆というのではない。「私も生きているよ、わかるかい」という図太い声を感じた。ないがしろにするなよ、といっているわけではないが、何だか命がそこにある、わかるかい、という声である。

くりーむぱんを食べていると
祖母がきて
これは観音様の足なんだよ
そういって
切れ目からわって
端から口に入れる

-ふっくらと甘くて
ありがたい味がするねぇ-
歯のない闇が
ゆっくりパンをとかしていく

あちらでは観音様の足なんだ
妙に納得して わたしも
親指から順番に食べる

 「これは観音様の足なんだよ」というのはもちろん嘘である。嘘であるけれど、そこには「命」がある。祖母は、青山がこどものときクリームパンを食べているのを見て、それが食べたくなった。そして口実を作って食べた。その「口実を作る」ということのなかに「命」があるのだ。
 こういうことばは現実を作りかえるとか、ものの見方をかえるとか、というものではない。「新しい思想」というものではない。しかし、それは「思想」である。人間を人間らしく、個人を個人らしくする、絶対的な肉体そのもののような「思想」である。いや、「思想」というより、肉体にそなわった欲望、本能……、そうではなく、肉体と言い切った方が適切かもしれない。
 青山のこの作品の最終連。

もっと食べたい というと
祖母は
ほらッ と
じぶんの足をさしだした

 祖母はことばを差し出さない。「足」という肉体そのものを差し出す。祖母にとって、ことばと肉体は同じものである。嘘と肉体、方便と肉体は同じものである。いや、肉体は、ことばや嘘以上のものである。「ばかだねえ、ことばを真に受けるなんて。体を真に受けなよ、受け止めてみなよ」。ことばは「頭」で受け止めることができる。しかし、肉体を受け止めることができるのは肉体だけである。命だけである。

 こうした作品を読みながら、私は、私たちはいつ、どうやって、ことばと肉体が同じものであることを忘れてしまったのだろうか、とふと思うのだ。
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種村季弘「夢記」ほか

2007-01-15 14:19:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 種村季弘「夢記」ほか(「たまや」03、2006年2月26日発行)。
 種村季弘「夢記」は文字通り夢を記述したものである。夢の不思議さは夢とわかっているのに、それが夢ではなく、現実だと感じることである。「わかる」ことと「感じる」ことは、どこかで交差しながら、しかも互いを断ち切るようにして共存するのだろうか。
 こういうことを、種村は作品そのもののなかにも書いている。「のらいぬ」。モスクワで原発が爆発した。その夢。

 ところで私はどうすればよいのか。私は旅行中で、ここは宿屋の一室なのか。それならはやく空港に駆けつけなければならないはずだが、その空港はもう群衆で一杯でとうに封鎖され、一部暴徒は射殺されたらしい。テレビが放映したわけではないのに私はもうそれを知っている。

 「知っている」。ここに「夢」の間違い(?)、悪夢の理由がある。「知っている」(わかっている)ことを土台にして、私たちは、起きていないことを推測できる。「知る」というのは現実に縛られない。「知」は現実をねじまげてゆく力を持っている。想像力とは「知」の力なのである。だから「想像力」とは「創造力」でもあるのだ。
 一方、感じる力は、「知」のように今、ここ以外のものを想像することはできない。現実を捩じ曲げて、何かを想像することはできない。ただ、今、ここに起きて、自分にかかわってくるものを感じることしかできない。未来を、自分の肉体として感じることはできない。
 この未来を想像(創造)する力と、今にこだわる感覚が交錯するために、夢は私たちの手に負えない。奇妙に今からずれてゆきながら、常に今にひきずり戻されるのである。
 「知っている」。このひとことで、夢の正体を暴いてしまう種村のことばの力、暴きながら、なおかつ悪夢を持続させる力に驚いてしまう。
 私がもっとも好きなのは「夢2 78・12・30」である。いとことの性愛を描いているが、夢ならではの矛盾というか、わかっているのにどうしようもないという苛立ちが次の部分にくっきりと描かれている。

 そのビニール紐のようなものをなんとかこちらへ取らなければならないのだが、形体のあやうい均衡を崩すと一切の儀式はおじゃんになるのは分かりきっている。輪をこちらへ取る行為に性的快感が予想され、それがうまく行かなければ射精は不発に終るだろう。

 「分かっている」。このつらさ。思わず笑ってしまう。この笑いはもちろん同感の笑いである。同感が感動にまで高まると笑いとなってはじけるものなのである。(私の場合だけだろうか。)



 時里二郎「原っぱの向こう」。「夢」というより「記憶の間違い」のようなものを点検する作品である。そこに、次の行がある。

 その時のしびれるような惑乱の感覚をもう一度取り戻したいと思いいたって、こうして記憶をたどりなおしているのには理由があった。

 時里が書いている「理由」ではなく、私は、単純にここに書いてある感覚と記憶の関係がとても正直で、それがおもしろいと思った。
 時里は「夢」を見ていない。今、目覚めている。そして、「感覚をもう一度取り戻したい」と思っている。感覚を今へ引き寄せようとしている。これが夢と現実のいちばんの違いなのだ。夢の中では感覚はいつでも生々しい。ところが記憶の中では感覚は生々しくない。だからこそ、それを取り戻したいと願うのだ。現実では、いつも、今、ここにないものを人は求める。感覚がないときは感覚を追い求め、理性(知識)がないときは理性を求める。それが現実だ。
 そして、時里のことばはどう動くか。
 眠りが運んでくる夢ではなく、目覚めたままの夢、つまり空想へと動く。空想の中で、記憶を、そして記憶のなかの感覚を点検する。このことを時里は認識している。認識しながらことばを動かしている。

それこそ他愛のない空想に過ぎないが、そういえば、黄色い水たまりを幾つも踏んで、ぼくに向かって走ってくる男のたてる水音も水しぶきも、殊更に記憶から排除されているのはどうしてだろうか。

 時里は「空想」と明確に書き記している。そして「水音」という感覚(聴覚)がとらえるものの欠如もきちんと書いている。時里は夢と現実と空想の違いを認識し、ことばでそれを描いている。その強靱なことばの運動が、時里の文体を清潔なものにしているのだとあらためて思った。

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ポール・マクギガン監督「ラッキーナンバー7」

2007-01-14 22:42:11 | 映画
監督 ポール・マクギガン 出演 ジョシュ・ハートブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ベン・キングズレー

 冒頭に非常に気味の悪いシーンがある。中央に小さなテーブル。そのうえに電話。左右にベッド。幾何学模様の壁紙。何が気味が悪いかというと、その左右対称の感じが気味が悪いのである。そして、その左右対称の気味の悪さがこの映画のテーマでもある。
 左右対称というのは、実は安定していない。安定しているように見えるがそれは錯覚であり、ほんの少しの変化でその対称は崩れる。常に崩れることを孕んだ緊張が左右対称なのである。たとえば冒頭のシーン。電話が鳴る。電話の左下のランプが光る。ただそれだけでもう左右対称は崩れるのである。これが第二のテーマである。
 左右対称であるものが少しの変化で均衡を崩し、なだれるように変化して行く。映画はそうしたことをストーリーとして展開して行く。
 きっかけとなる競馬。この勝ち負けは、奇妙な言い方かもしれないが、やはり左右対称である。勝者と同等の敗者がいる。儲ける者と同じだけ負ける者がいる。それが事故(ほんとうは仕組まれた事故)のために狂い、その狂いの中で翻弄された者が行動を起こし、そこからすべてが始まる。
 左右対称は、ボスとラビの事務所(?)が通りをはさんで左右対称に存在すること、ともに一人息子がいて、溺愛していることという構図にもあらわれている。主人公を拉致する(?)それぞれのチンピラが2人ずつというのも左右対称である。さらには悪役が悪役が2人なら、それに立ち向かう方も2人。悪役の側に1人の刑事がいれば主人公の側には1人の検死官がいる、という具合である。
 監督が、あるいは脚本家がやりたいこと、やろうとしていることは、そうした構図、映像から明らかだが、見え透いている。そのために緊張感がない。あまりにきちんと対称にこだわったためだろう。刑事(男)、検死官(女)という対称の崩れさえも、男と女という想定済みの対称の乱れである。あるいは、こういう乱れは、もう乱れとはいえず、一方が味方なら片方は悪役ということの伏線というにはあまりにも図式的な対比であろう。
 モーガン・フリーマンとジョシュ・ハートのチェス、モーガン・フリーマンとブルース・ウィリスのチェスとなると、それは左右対称の乱れどころか、ジョシュ・ハートとブルース・ウィリスが「一体」であるあからさまな種あかしである。
 ていねいに伏線を張ったつもりかもしれないが、こういう手のこみ方は、逆に不自然である。対称形にこだわりすぎていて、それが気味悪いのであるのかもしれない。
 その気味の悪さは、ひたすら対称を目指すために仕組まれた行動の中で、ひとり犠牲になっていく7番目の登場人物「ニック」へと収斂する。おいおい、ストーリーのためなら、左右対称の構図のためなら、罪のない青年を殺してしまっていいのかい? 娯楽映画とはいえ、こういう処理の仕方は無責任じゃないのかい?                                    (★★)


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粕谷栄市「呪詛について」

2007-01-14 14:06:43 | 詩(雑誌・同人誌)
 粕谷栄市「呪詛について」(「ガニメデ」38、2006年12月01日発行)。
 粕谷栄市「呪詛について」を読みながら虚無について考えた。虚無とは何か。何かわからないけれど、粕谷栄市のことばを読むと私は虚無というものを思い浮かべる。それにつてい書いてみようと思った。

 いかにも、それは、古い年代の人々が好みそうな、陳腐な絵葉書の風景だ。ただ、その日、私にできることは、そこに佇んでいることだけだから、それが、偽りの風景であっても、一向、差し支えないのだ。

 「それが、偽りの風景であっても、一向、差し支えないのだ。」偽りであっても差し支えない。こういう視線、ものの見つめ方に私は虚無を感じる。真と偽の区別を気にしないという視線に虚無を感じる。

 やがて、その町の舗道の街灯が灯り、遠い三日月が、そこに立つ女たちの胸に、一本ずつ、刺された匕首を、見ているだけになったとしても、それは同じなのだ。

 「同じなのだ。」その「同じなのだ」と見てしまう視線に虚無を感じる。「差し支えない」とは結局、あらゆる存在を区別せず、「同じ」ととらえてしまう視線に虚無を感じる。だが、何と「同じ」だというのだろうか。たぶん、あらゆるものが「全体」の「一部」であるという意味だろう。
 真も偽も、そしてこの作品に登場する全裸の女も死にかけた老人も、それは「全体」の「一部」であるということにおいて何の区別もなく、「同じ」なのだ。「一部」であることに変わりはないのだ。
 別のことばで、粕谷は言い換えている。

 呪詛さえも静謐である。それが、死にかけた老人のものである場合には。誰にも知られずに、一切を、そこで、完了させている完了させているということなのである。

 「完了」。全体と言いながら、粕谷は実は全体など見つめてはいないのである。粕谷(死にかけた老人を、粕谷の自画像と読めば)自身は「完了」している。この完了とは、他者とはなんのつながりをも持っていない。つながりを持っていないがゆえに、粕谷の周辺に存在するもの、起きていることが真であっても偽であっても、なんの「差し支えもない」。すべてはまったく「同じ」である。
 自己が「完了」している、という感覚が、虚無の出発点であり、また到達点である。
 そこまで考えて、それでは虚無には何があるのか。自己が「完了」していると感じている粕谷は何をみつめているのか。何を書く必要があるのか、と私は再び考えはじめる。そうすると、ひとつのことばが、繰り返し繰り返しつかわれていることに気がつく。書き出しの1行にすでにそのことばはつかわれている。

 静かな秋の日、その古い運河の町を行こうと思う。

 「その古い運河の町」の「その」。「その」ということばは先行することばを受けてつかわれるのが普通である。「その」は発話者によってすでに意識されている存在をあらわす。しかし、この書き出しには、「その」に先行するものがない。いきなり「その」が登場する。「その」が指し示すもの、「その」の現物(?)は読者には知らされない。「その」が指し示すものは、ただ粕谷の意識の中にだけある。
 粕谷は、たとえばこの作品では「古い運河の町」について書いているふりをしながら、実は、粕谷の意識しか書いていない。それは実在の町ではなく、たとえ実在の町があったとしても、それは問題ではなく、粕谷の意識の中に存在することが問題なのである。粕谷の意識の中にあり、意識の中にあるものが粕谷のことばを動かしていく。意識なのかで真であると判断されたものであれ、偽と判断されたものであれ、それは判断されたということにおいて「同じ」ように存在するものである。それが真であれ偽であれ、意識を動かすという運動の中では同じなのである。
 「その」は粕谷においては、「意識の中の」ということばと同義である。

 私は、死にかけている老人だ。その日、私にできることといえば、それだけだから、黒い大きな蝙蝠傘をさして、懐かしい、その古い運河の町へ行くのだ。
 そのためだろう。黒い大きな蝙蝠傘をさして、その私の歩く町には、何一つ動くものはない。灰色の顔をして、その運河の橋の上にいる私も、そうなのだ。

 繰り返される「その」、あるいは類似の「それ」。それはすべて粕谷の「意識の中の」と言い換えることができる。いや、それ以外に言い換えることができない。
 粕谷は、ただただ「その」(それ、そこを含む)を読者に提示する。粕谷のことばを引き受けているものは(支えているものは)、粕谷の意識だけである。そういうことを、粕谷の「その」は明らかにしている。
 だからこそ、虚無なのである。
 虚無とは意識しか存在しないという考えの中に存在する。死にかけた老人も裸の女も真も偽も存在していたとしても、それはそれを真、あるいは偽と意識する意識の中にのみ存在する。死にかけた老人も裸の女も、死にかけた老人と意識する意識の中にのみ、裸の女も裸の女と意識する意識の中にのみ存在する。--こういう考えのもとに指し示される世界、それが虚無なのだ。
 粕谷の「その」は虚無の代名詞である。

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北川朱実「インドの雨」ほか

2007-01-13 08:51:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 北川朱実「インドの雨」ほか(「石の詩」2007年1月20日発行)。
 北川朱実「インドの雨」の1連目は何のことかわからない。しかし2連目以下を読むと、「なんのこと」はことばではうまく説明できないけれど、なんのことかすぐわかる。

その村では
人が雨になったり
雨が人になったりした

西インドのアウランガバード郊外の農村で
写生していた時のこと
熱心にのぞき込む少年に
クレヨンを渡すと

あっというまに
画用紙いっぱいに
紫いろの雨を降らせた

乾ききった大地は
一瞬にして泡だち
あぶりだしのように川があらわれたけれど

その日
空は
まっ青に晴れわたっていたのだ

 もちろん「人は雨になったり」はできない。しかし、なりたいのだ。少年は雨を降らせたいのだ。それが絵になってあらわれる。そして実際にそれが「雨乞い」であるかのように、雨が一瞬降るのだ。(これは、もっとも現実にそうだったのか、そういう夢を北川が見たのかはよくわからないが……。)
 ここには「言葉」(昨日取り上げた池田のつかっている意味での言葉)はない。だが、「声」がある。「人が雨になったり/雨が人になったりした」は「声」である。「声」であるがゆえに、「言葉の論理」「意味の論理」を超えてしまう。「言葉(意味)の論理」にしたがえば、「人(少年)が雨乞いをしたところ、実際に雨が降り、それを見た時はまるで雨そのものが人(少年)となってあらわれたように感じた」くらいになるだろうか。私が今書いたような書き方でも工夫すれば「詩」になるだろうけれど、北川の書いた1連目の美しさにはとうてい達することはないだろう。
 「言葉」には矛盾はあるだろうが、「声」には矛盾はない。あるいは、「声」は常に矛盾しているから真実をあらわしてしまう。「詩」になってしまう。「声」は肉体そのものであり、それはひとつのものである。手と足がばらばらに動いても、それはひとつの肉体であるように、「声」のなかでは、ひとつひとつの音はばらばらに動いているようでも、「声」そのものはひとつでしかない。「言葉」がそれぞれの単語に分解し、組み立てることができるのに、「声」はそういうことができない。ひとつながりになって、矛盾をかかえて豊かになって、そうして人の「耳」に届くのである。
 北川は「画用紙いっぱいに/紫いろの雨を降らせた」少年を見て、「人が雨になる」ときの「声」を聞いたのだ。その「声」が私には聞こえる。少年が書いた絵を見たわけではない。少年の「言葉」を聞いたわけではない。それなのに少年の「声」が聞こえる。
 北川は「石の詩」で「三度のめしより」というタイトルで詩人の「声」を紹介しているが、とてもいい「耳」をもった詩人だと思う。



 渡辺正也「朝へ」は美しい詩である。

明けると
空は
無音のまま遠ざかり
単音の星が
ひとつずつ滑っていくうちに
記憶が還ってくる

 「無音」「単音」ということばがつかわれているが、私にはなぜか「音」は聞こえない。むしろ「絵」が見える。渡辺はことばで音楽を描くというより絵を描くのだ。「音」の響きではなく、ここでは「滑っていく」という「音」の運動の軌跡--それが「絵」として提示されている。
 渡辺は視力を生きる詩人なのだろう。


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池田實『もう 誰も問わない』

2007-01-12 14:12:12 | 詩集
 池田實『もう 誰も問わない』(ふらんす堂、2007年1月1日発行)。
 読んでも読んでも何が書いてあるのかわからなかった。書いてあることばの意味はわかるのだが、こころに落ちてこない。頭の上をことばが通りすぎていく感じがする。なぜだろう、と思いながら読み進めて、96ページ、「配達不能郵便」に出会う。

朝のテーブルに着くと
 たまごどうする スクランブル? 目玉? 温泉?
いつものように声が飛んできて
私は 一瞬 思案し
温泉 と応える
私は言葉で語られる声を
自分の言葉で聞いている しかし
声は声であって 言葉ではない
声が危うくぶら下げている言葉を切り取り
宛先不明のポストに投函する

 「声は声であって 言葉ではない」に跳び上がるほど驚く。そうか、池田は「声」を聞かないのか。「言葉」(意味)を聞くのか。朝の卵の料理方法をどうするか、というような日常の場でも意味としての言葉を発するのか、と驚くのである。
 私の場合、こんなとき、「言葉」など聞かない。ただ「声」を聞いている。「スクランブル? 目玉? 温泉?」というのは「言葉」なんかではない。そこには「意味」はない。単なる音だ。声だ。というより、もし「意味」があるとすれば、「スクランブル? 目玉? 温泉?」という3種類の区別に「意味」があるのではなく、そのとき3種類も調理方法を羅列するときの連れ合い(?)の声にこそ「意味」がある。毎朝、こんなことをいちいち聞かないといけないなんて、めんどうくさいなあ、あるいは毎朝、こんなふうにして何が好きか聞くのは楽しいなあ。ことばになっていない「めんどうくさいなあ」「楽しいなあ」こそが、朝の日常の「意味」である。それは「声」のなかにある。ことばにされなかったもののなかにこそ「意味」がある。
 たぶん池田と私では「言葉」(ことば)と「声」の持っている重要性が逆なのだ。池田は言葉に意味があり、言葉を相手に伝えようとしている。私は逆にことばに意味があるとは思わない。声に意味があると思う。声で充分意味は伝えられるし、本当は声でしか伝えられないのに、わたしたちは無理をしてことばのなかに「意味」を押し込めようとしている。

 「声」に関することばはさらにつづく。池田は野鳥の声を聞く。真似てみる。

(ピーッ ピーッ ルルー ルルー ツーピー ツーピー……)
しかしそれは私の声ではない(私には固有の声はない
私は自分の言葉にコピーした鳥の声を聞いている

 驚愕としか言いようがない。ほんとうに池田はこんなふうに感じるのか。こんなふうに感じるのが普通で、私が異常なのか。
 私がもし鳥の声を真似て、そのあと何か言うとしたら、池田とはまったく逆のことを言うだろう。「しかしそれは私の声ではない。私には私の固有の声しかない。私は自分の声に(声で、と私は言うと思うが)コピーした鳥の言葉を聞いている。」つまり、鳥の声を自分の声でコピーすることで、その声のなかに隠れている意味、きょうは天気がよくてたのしいなあ、変な男が通っていくぞ、気をつけろなどという会話を聞いている。そうして、そうか、鳥の声にも明るさや暗さ、やわらかさ、厳しさがあって、それは人間の声にも似ているかな……と想像をふくらませる。つまり、かってに意味をでっちあげてわかったつもりになる。「声」をとおして、私はだれか(何か)と理解し合ったつもり、「意味」を共有したつもりになる。それは「言葉」をとおしてではない。
 私には池田の詩は理解できないなあ、という結論に達してしまう。

 ところが。
 池田の詩は思いがけない展開をする。

私は彼らの名前を知りたい(言葉自体の彼らを知りたい
--思考が入り込む--
    (インターネットの図鑑で野鳥の姿と声を調べる
私は野鳥の声に名前を貼り付ける
〈ツーピー ツーピー……ジュク ジュク……--シジュウカラ
--紺色の頭部 白い顎と腹部 鶯色の背羽根……
詩を読むとはこんなことかも知れない
--言葉の中に声を探して思考する
--詩作と思索の背中合わせの遠い親しさで書かれた言葉の声を探す
   (谷内注 「シジュウカラ」は原文は線で囲まれている。)

 鳥の声から鳥の名前を見つけ出すことが「言葉の中に声を探し出し思考する」こととどうつながっているのか私にはさっぱりわからないが、そのことを別にすれば、今引用した最後の2行は、実は、私のめざしていることがらである。私は、池田が書いているように端的には書けないが、いつも「声」を探して詩を読んでいる。その人固有の声、固有すぎてその人には固有という意識すらないだろう声を探して、その声に共感できたとき、その詩が好きになる。たとえば谷川俊太郎の「女に」の中に一回だけ出てくる「少しずつ」。そこに谷川の「声」を聞く。「思想」を感じる。言葉としてではなく、声、というより、肉体そのものとして。(このことは『詩を読む 詩をつかむ』に書いたので省略。)
 私にとっては、ことばにならなかったもの、いや、ことばになろうとしてなりきれない声そのものが大切だ。「言葉」などほんとうは読みたくない。「声」を聞きたいだけなのだ。やさしい声であっても悲しい声であっても怒る声であってもいい。声に触れたときだけ、私は、その詩人が好きになる。

 池田に「声」があるとすれば、たぶんそれは肉体が聞き取る声、「耳」から入ってきてこころに落ちる声ではなく、「頭脳の声」なのだろう。それはこころから遠い場所、頭脳の中だけで響いている声かもしれない。たとえば「道標で」。

私は危うく時間も存在も喪いかけている
(略)
私の肉体と精神が存在と時間に
引きちぎられるような恐怖感でもある

 この「恐怖感」は私の耳にはまったく響いてこない。犬の「キャイン、キャイーン」と遠くで泣いている声さえ、姿が見えなくても、あ、犬が怖がっているという感じがわかるのに、「ことば」で「こわいよ」と言っているわけでもないのに、その恐怖感がわかるのに、池田の書いている「恐怖感」がわからない。
 耳を封印し、「肉体」ということばがあっても、それは私のからだとは無関係の「肉体」と「頭で定義された何か」だと仮定し、ただ「頭の中」だけで思考しなければならないのだろう。
 池田の詩は、頭脳と思考の詩なのである。池田の言葉は頭脳と思考に働きかける詩なのである。私のような読み方では池田の詩は理解することができない。ほかの詩人たちは池田の作品をどんなふうに読んでいるのかなあ、とふと思った。
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呉美保監督「酒井家のしあわせ」

2007-01-12 00:31:19 | 映画
監督・脚本 呉美保 出演 森田直幸、友近、ユースケ・サンタマリア、鍋本凪々美

 「あほ」の映画である。
 「あほ」とは「なんでや」と一対のものである。「なんで、そんなことせんならんのや、あほ」。わかっている。わかっていても、そうせずにはいられない。矛盾である。矛盾しているから、そこに「思想」がある。
 この矛盾を「頭」で解決しようとしてあれこれ苦戦するのが「ばか」である。
 「あほ」はそれを「頭」で解決しようとしない。体(肉体)で受け止める、というか、「あほ」のまま「生きているから、それでいいじゃないか」と、受け流す。矛盾を解決せずに、矛盾と共存する。いっしょに生きる。それは家族がいがみ合いながら(矛盾を、いがみあい、対立と言い換えてみよう)、それでもいっしょに生きて、いっしょに生きているうちになんとなく、家族っていいなあ、と思うようになる。そんな具合に、「いっしょ」というものを「頭」ではなく、肉体そのもので生きる。
 ユースケ・サンタマリア演じる父は「ばか」である。「頭」で問題の解決方法を考え、「頭」で行動する。「頭」のいい人間は、「ばか」である。それを森田直幸演じる息子が「ばか」に引き戻す。
 「頭」のいい人間は、たとえば「愛している」ということは聞かなくても理解できるので、「愛している」と言わなくても、相手につたわると考える。「ばか」である。「頭」の悪い人間は、「愛している」なんて言ったところで通じるかどうかわからないし、行動(肉体を動かす--たとえば、病院へ見舞いに行く)するしかほかに「愛している」とつたえる方法を知らない。「あほ」である。ことばでうまく説明できないから、ともかく体と体を接近させる。ぶつける。怒る。泣く。わめく。
 「なんで泣くんや、あほ」。
 そう言いながら、体がつたえてくるものを体で受け止める。森田直幸が「父さんに会いにゆこう、父さん死んでしまうんや」と友近演じる母に泣いて訴えるシーンである。そして友近が森田直幸を抱き締めるシーンのことである。このとき友近がはっきり受け止めているのは、ことばというより、泣いて訴える森田直幸の体である。ふたりは「頭」で動いていない。肉体で動いている。だから、それが映像になると、とても美しい。映像は「頭」のなかなど映し出さない。あくまで、そこに動いている肉体を映し出すのである。

 もうひとつ、非常に美しい「あほ」がある。ラストシーン。森田直幸が女の子から振られる。女の子の新しいボーイフレンドは森田直幸の親友である。引っ越しのその日に、森田直幸はそのことを打ち明けられる。なんと女の子から花束までもらって、「うーん、この子はおれのことがほんとうに好きなんや」と思っている矢先にである。この「ばか」なできごとを、ユースケ・サンタマリアが笑うことで「あほ」にかえる。息子のばかげた失恋をあほな失恋にかえる。「なんや、おまえ、相手と会っていて(体を見ていて)、そこから何も気づかんかったんか。あほやなあ」というわけである。「笑うことではない」と言いながら、友近も笑いはじめる。
 そして。
 森田直幸はジャージーのファスナーを上にあげて、顔を半分隠して、やはりつられて笑ってしまう。「ほんまに、あほやなあ」。
 「あほ」は肉体である。だからジャージーのファスナーをあげる。顔を隠す。しかし、隠しても隠してもそこにあるのが肉体である。口元を隠しても、目が笑っている。ほんとうに美しい。絶品である。



 感想が前後するのだけれど……。
 「あほ」と「ばか」は関西弁と標準語(東京語?)の違いでもあるのだが、「あほ」を関西弁を話す森田直幸や友近が担うのに対し、「ばか」を受け持つユースケ・サンタマリアが演じるというのは図式的といえば図式的だが、とてもわかりやすく、またとても効果的である。「ばか」(頭で考える)ユースケ・サンタマリアが「あほ」になる(肉体で反応するようになる)という映画でもあるのだ。



 「あほ」をもう少し補足すれば、日常をそのまま手を加えずにすくいとってきたようなせりふと、日常をそのままスナップのようにとらえるカメラは、とても「あほ」である。切れがなく、どてーっとしている。しかし、それがそのまま「あほ」に合致している。なかには「こどもが親を選べへんのと同じように、親かて、こども選べへんのやで」とか、「(離婚したのは)おじさんも初めて生まれてきたんやで、間違いかてするわな」というようなずっしり重みのあることばもあるが、それはもしかしたら、この映画の唯一の傷かもしれない。すべてわすれていいようなせりふ、何を言っていたか思いだせないせりふだけでできていたら、この映画はもっともっと感動的だったかもしれない。
 とはいうものの、この映画は、私の中でははやくも2007年のベスト1である。この映画を超える作品がでてくるとは想像しにくい。この映画がおもしろくないという人がいたら「ばか」である。はやく「あほ」になりなさい、そう言いたい。



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沖長ルミ子「食べる」ほか

2007-01-11 22:34:46 | 詩(雑誌・同人誌)
 沖長ルミ子「食べる」ほか(「どぅるかまら」 1号、2006年11月30日発行)。
 沖長ルミ子「食べる」は自分の家で飼っていた鶏をさばいて食べることを描いている。12羽飼っている。そのうちの1羽を父がさばいている。その終わりの2連。

井戸端でブリキのバケツを洗う音がする
父親の仕事が終ったようす
わたしたち家族そろって
今夜は笑いながら食卓を囲むでしょう

鶏小屋の前を通るとき
横目で数を数えてみた
羽をばたつかせてやたら走りまわり
十一羽のような
十二羽のような

 最後の2行がとてもいい。「十一羽」であることは間違いない。「十二羽」ではけっしてないことは頭では完全に理解している。しかし肉眼では、その違いはわからない。特に「横目」でさっと見たかぎりではわからない。動き回っていればなおさらわからない。もちろん、そこには鶏への思いも含まれている。
 鶏は、卵を産ませ、それを食べる。卵を産まなくなったらさばいて鶏を食べる。--そういうことは頭ではわかっているし、感情としても納得しているはずのことである。納得しているはずのことではあるけれど、感情というのは、納得通りには動かない。
 そのあたりの、ことばにはできないような、あいまいさが「十一羽のような/十二羽のような」につまっている。
 たぶん、そういうあいまいさを含めて、本当の納得というものがあるのだろう。自分の仕事、自分の「分」というものが……。
 だからこそ、それに先立つ父親の描写、母の様子、そして「わたし」がそういう日常にどんなふうにかかわっているか、かかわりたいか、ということが、とても美しく描かれている。特別技巧をこらしいるわけではないのに、美しい形で目に入ってくる。ことばに無理がないのだ。
 自然を踏み外さない。自然であることを踏み外さない、という生き方がここにあらわれている。「食べる」というタイトルも、自然そのものである。



 田中澄子「ヒロ子さんは」もおもしろかった。

 ずみ子さーん とわたしを呼びながら家の中に入りこんでくる はーいと答えてふりかえるともう目の前にいる 嗄(しわが)れた声だけれど すみ子さんがずみ子さんになっているわけではなく 私の耳がそう聞いてしまう (略) 隣の家に灯が点いているっていいもんだね 寂しかったよずみ子さん ほだされてつい唇の端がゆるんでしまう のを待っていたように ねぇねぇ 一年ぶり 夕食ご一緒しましょう

 「ほだされてつい唇の端がゆるんでしまう のを待っていたように」の一字空きがすばらしい。間がすばらしい。この「間」によってふたりの肉体が見えてくる。
 ふたりの肉体が、というのは、「ずみ子(すみ子)さん」と「ヒロ子さん」が対話するとき、ふたりは単に相手のことばの論理を聞いているだけではなく、きちんと相手の顔を見て、そこから相手の意識(感情)をくみ取り、ことばというよりはむしろその表情と対話している、ほんとうに対話しているのはことばではなく、肉体にあらわれた変化、表情を相手にしているということである。そして、そのことを田中は明確に認識している。田中の肉体が表情をもっている、そしてその表情、肉体の微妙な動きこそが、人と人との対話なのだと意識している。ことばを聞くのは「頭」ではなく、もっと体全体がことばを受け止めるのである。そして、ことばをかえすのはやはり肉体なのだ。そういうことを田中ははっきり体得している。
 「すみ子さんがずみ子さんになっているわけではなく 私の耳がそう聞いてしまう」。この「すみ子さんがずみ子さんになっているわけではなく」は「頭」が考えたことである。そういう「頭」で整理したことがらを、「耳」が裏切る。肉体が裏切る。ここにも田中の「頭」よりも肉体を優先する、尊重する姿勢が出ている。
 肉体が「頭」よりも便利(?)なところは、「頭」はまじってしまうが肉体は混じり合わないことである。ことばは入り交じるとそのことばを言ったのがだれなのかわからなくなることがあるが、肉体はそういう具合には入り交じらない。どんなに接近しても「ずみ子(すみ子)さん」の肉体は「ずみ子(すみ子)さん」の肉体であり、「ヒロ子さん」の肉体は「ヒロ子さん」の肉体である。
 そして。
 ここで少し私の感想は前へもどるのだが、その肉体と肉体のあいだには「間」がある。「あき」がある。そしてこの「間」を人間というのは微妙に動かしながら対話するのである。「間」の動かし方、狭めたり、広げたりするのが人間の対話、つきあいなのである。 そして。
 と、ここで少し私の感想を先へ進める。この「間」のことを、田中は「ひっつきもっつき」と表現している。たぶん、この「ひっつきもっつき」というのは岡山(倉敷?)の方言であろう。標準語でいえば「くっつき、もつれあい」なのか、いわゆる「つるんんでいる」という状態なのか、ちょっとうまくいえないけれど、仲好しの状態だろう。ここに方言、田中の生活の場でくりかえしつかわれ、共有されたことばをつかうところにも、田中の肉体が生きてきた「場」を大切にするという姿勢が出ている。
 「ひっつきもっつき」が方言とは知らなかった--と田中は言うかもしれない。そういう「無意識」、田中から意識によって切り離せないことばこそ、私は「思想」と考えるのだが、そこにはやはり肉体がある。「ひっつきもっつき」できるのは、あくまで肉体である。こんなふうに自然に肉体を表現することばはいいなあ、と思う。

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杉本徹「螺旋/多島海」ほか

2007-01-10 23:24:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 杉本徹「螺旋/多島海」ほか(「鐘楼」10号、2006年12月発行)。
 「鐘楼」ははじめて読んだ。新井豊美門下生(?)の詩人が中心になって発行されている同人誌らしい。魅力的な詩がならんでいる。杉本徹「螺旋/多島海」。

さまよう曇り空に鳩クララの血を
……探しつづける光は、人さし指をつたい
一滴、落ちた一滴、蝶番の音に射す
(わたしたちは、ふるえて、)
(日付のあかるむ螺旋、……)
ほら、惑星はみるみる一刻を賑わすんだ
    ……懐かしい舟の残像がショーウィンドーを過ぎ
甲州街道の岬の一節を、五時のの闇にくちずさんだ

 久しぶりに「抒情詩」を読んだと思った。「抒情」はどこからくるか。「一滴」「一刻」「一節」。繰り返される「一」から杉本の抒情は生まれてくる。それは断片であることへの決意、個(孤)であることへの決意から生まれてくる。書き出しの3行は、空にある血を(飯島耕一みたいだ)を探す光が蝶番に落ち、聞こえない音(しかし見える音)を響かせたというふうに、強引に「意味」を読み取ることもできるけれど、こうした「意味」を読み取ること(意味をつむぎだすこと)は、杉本のことばを疎外するだろう。「意味」を追うのではなく、先行する1行が次の1行によって否定され、否定しながら2行目は飛躍する。2行目は3行目によって否定され、3行目は2行目を否定することで飛躍する。そのとき、もう1行目は存在しない。常に、今という2行だけが孤立して存在し、悲鳴をあげるのだ。その悲鳴が杉本の「抒情」なのである。
 1行目の「鳩クララ」の「クララ」。その唐突な孤立から、すでに杉本の「抒情」は完璧にはじまっている。おもしろかった。



 小笠原鳥類「デザイン」。

水がいつまでも、流れる水の中で健康な
涼しいナマズを飼育する、流れと水圧、
この水槽であれば、深海魚も飼育できるので
科学雑誌の夢の写真では、深海魚の顔の写真が並び
この口で、大きな魚も食べます 映画になった
説明の文章もあった。ここには説明の文章もある。

 小笠原のことばは孤立するというより、ことばが行き来する、往復することで、その往復の間に広がるあいまいさ、あるいは往復がつくりだす意識の空間の幅の豊かさをつくりだす。往復するたびに、ことばは底力をためてどこかへ飛躍するというより、むしろ飛躍を拒絶する。飛躍を拒絶し、何ごとかを遅延する。遅らせることのできる快感に身をまかせてゆく。そう、ことばの運動も遅らせることができるのだ。一直線に、あるいはさらには飛躍することだけがことば(論理、イメージ)の仕事ではないのだ。遅延させ、なおかつその遅延を生き抜くこと--そういう体力があるのだ、というような喜びがある。遅延の中で、(遅延の中だからこそ)、「飛躍」ではなく、寝そべるようにして横へ横へとずれて行く。なだれて行く。寝そべりながら、ときどき手で空中をかき回すように、宙に浮かんだことばも引き寄せる。そういう肉体を感じた。



 キキダダマママキキ「最後の抜け道を壊ス」。引用がとても難しい作品である。文字の配列の仕方がうまく再現できないのである。(同人誌でぜひ確認しなおしてほしい。)

          水
                 水
 水
              水

 本文はもちろん縦書きなのだが、最後にあらわれるこの「水」が零れて散らばった水滴のように輝いている。縦書きなのに、というのも変な話だが、水平に広がった感じが眼に浮かぶ。引用して横書きにした瞬間、その輝きが消える。まるで文字そのものが水の肉体をもっているのに、それは縦書きの紙面の中だけに存在し、それ以外では存在しないように感じられる。
 キキダダマママキキは私の印象では「耳の詩人」(あるいは「声の詩人」)だったが、視力もとてもいいのかもしれない。



 新井豊美「草花丘陵」。私は長い間、新井豊美の作品が嫌いだった。いまでも好きとはいえないかもしれない。嫌いと感じるのは、たとえば書き出しの2行。

とある日の多摩川で
下着のような自我を濯ぐのだ

 この「自我を濯ぐ」という表現が嫌いなのである。「自我」という音と「濯ぐ」という音がつくりだす音楽が嫌いなのである。声が聞こえない。頭のなかで「意味」だけが動く。7行目に「ぬめる首筋を洗うのだ」とあるが、2行目の「濯ぐ」と7行目の「洗う」が逆だったら、ちょっと違った印象になったかもしれない。こういうことはもちろん新井の方に責任(?)があるのではなく、私の感じ方に責任があるのだが、どうもしっくりこないのである。意味も、イメージも、きちんとわかる(わかったつもり)。それなのに、私の耳が新井のことばを拒むのである。
 しかし、次のような部分はとても素敵だ。

(それにしても頭骨ひとつに付けられた名前の不思議
(「スズキイ」くん
(三十八年前の化石少年「スズキ」くん、この崖の
(灰色の縞目にも高校時代のきみに似た
(フタバサウルス・スズキイ
(細い目で面長の、おとなしい首長竜が眠っているかもしれない
(孵化する時を夢みる詩の卵も
(おさないきみの発見も

 1行を屹立させる強引さがない。しかし、そのかわりに自然な声の音楽が聞こえる。そういう声があってはじめて「フタバサウルス・スズキイ」という音が笑いになって立ち上がる。それは「頭」を笑わせるというより、肉体を笑わせる。なぜそれがおかしいのか、と問われても困るのだ。「頭」ではおかしいことなど何もない。しかし肉体は笑ってしまう。こういう、なんというか、どこかで肉体を刺激することばが、初期のころの新井のことばにはあったような気がする。それに再び出会えたようで、この部分だけは非常に好きだ。

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中堂けいこ『枇杷狩り』

2007-01-09 11:21:59 | 詩集
 中堂けいこ枇杷狩り』(土曜美術出版販売、2006年11月20日)。
 「夢幻」という表現はつかっていないが、中田敬二『夢幻のとき』(01月08日の日記参照)よりは「夢幻」を感じさせる。「批評」の出発点が、「伊豆大島」「ナガサキ」などではなく、彼女の肉体そのものだからだと思う。
 「白蛇」の最後の部分。

蛇になっても祖父は結構なハンサムに見え、縦縞の祖母も祖父もおかしいが、生きているのは何よりうれしい。

 この「おかしい」がすばらしい。「縦縞の(銘仙の着物)の祖母」が「おかしい」のはその着物が「見慣れぬ」ものだからである。「白蛇の祖父」が「おかしい」のは、蛇は人間ではないからである。そして「おかしい」という基準になっているのは、中堂の長い間の記憶、常識、常識というより肉体になってしまった考え(つまり、彼女の肉体から切り離しては存在しない考え)である。
 もちろんこういう「考え」は「頭」だけでもつくられるけれど、「頭」だけでつくられた基準の場合、次の「生きているのは何よりうれしい」が結びつかない。
 生きているというのは、そこに肉体(たとえそれが蛇であったとしても)があり、それが動くから生きているのである。「頭」ではなく、蛇が動くのを見たとき、中堂の肉体そのものが反応し(つまり、奥深いところにある筋肉や血が動き)、「あ、生きている」と肉体で感じるのだ。
 それに先立つ部分。

 白蛇の口元に(水を--谷内注)含ませる。ふいに白さがはえわたり、ああ、じいちゃんが生き返った、よかった、よかった。障子越しに薄明かりが射して、人々の顔がほんのり浮き上がる。

 「生き返った、よかった、よかった」は「頭」で考え、判断したことがらではない。肉体の反応である。ほんとうに祖父が蛇なら生き返られては困るだろう。そういう不条理なことは「頭」は許さないだろう。ところが肉体は、命が消えるのよりも、どんなときにも命がよみがえる方が安心するのだ。「よかった、よかった」と思ってしまうのだ。肉体の、というより、命のあるものの自然な反応といっていいかもしれない。
 この「よかった、よかった」は最後の「うれしい」と同じものである。
 そして、「おかしい」と「うれしい」(よかった、よかった)を結びつけているのが、中堂の肉体である。手足をもっている人間の肉体から見れば、手足のない白蛇が「祖父」であるというのは「おかしい」。でも、同じように肉体をもち、命をもっている人間には、それがどんな形をしているのであれ、生き物が生きているというのは「うれしい」。
 なんという不思議。そういうしかない。「白蛇」は「夢」を語った作品だが、まさに「夢幻」とは、そういう肉体の不思議さそのもののなかにこそある、と実感してしまう。

 中堂のことばのなかにはいつも肉体が存在する。だから、そのことばは不透明である。そして、この不透明というのは「頭」で考えるから不透明なのであって、肉体そのものを動かせば、すーっと不透明なものが消えて別なものが立ち現れるという不透明さである。たとえば「うりうはら」。

うりうはら うりう うり
瓜生原病院の立て看板
傍らに元病院長がすわっている
うりうはら先生?
体中に蔓をまといつかせ
この蔓先をたどればわたくしの地所に参ります
ここから深江の浜までいちめん
瓜の原 蔓の原
どのような瓜でしょう?
しろうりあおうりきうりあらゆるうり

 「しろうりあおうりきうりあらゆるうり」。このことばを口の中でころがすときの甘さ。喜び。「瓜生原」は私は「うりゅうはら」と読んでしまうが、それを「うりうはら」と分解したときからはじまる何かがまとわりついてくるような、それこそ蔓のほそいうねりが動くような感じ。それは口蓋に、のどに、耳に--そして肉体全体に広がる。
 「瓜生原病院」はたぶん「産科」なのだろう。
 肉体の奥をくすぐる音の動きにつづいて、詩では出産が語られるが、その出産、あるいは命の誕生のなんともいえない自然な生命力。そういうものを楽々と(と私には感じられる)不思議なことばをもった詩人が中堂なのだと思う。

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イングマール・ベルイマン監督「サラバンド」

2007-01-09 01:40:43 | 映画
監督 イングマール・ベルイマン 出演 リヴ・ウルマン、エルランド・ヨセフソン、ボリエ・アールステッド、ユーリア・ダフヴェニウス

 不思議なシーンがある。リヴ・ウルマンがエルランド・ヨセフソンを訪ねていく。エルランド・ヨセフソンはベランダで昼寝している。それをリヴ・ウルマンが部屋の中から見つめ、カメラに向かって説明する。「1分見つめて、それからベランダへ出ていくわ」とカメラに向かって自分の行動も説明する。「あと10秒」というようなこともことばにして語る。
 普通の映画ではありえないシーンである。そういうことばは語られず、ただじーっと男を見つめる女が映し出されるだけというのが普通である。この映画は、そういう普通の映画ではない、とこのシーンは最初にことわっているのである。
 では、どういう映画か。
 リヴ・ウルマンがそのときにとった行動そのままの映画である。つまり、自分が今からしようとしていることを語るという映画である。観客に向かってもそうだが、そこに登場する人物に対しても、常に語る--語ることが、この映画の主題である。
 私は字幕を読まなければわからない映画は大嫌いである。そんなものは映画ではない、と思っている。しかし、ベルイマンのこの映画は別格である。字幕を読まなければ何を語っているかわからないのに、映像に引き込まれて行く。苦しくなる。夢中になる。
 私は、実は、この映画は12月に見た。すでに半月以上たっている。そして、語る映画であると書きながら、そこで語られたせりふなどひとつも覚えていない。生理中にチェロのレッスンをするのは苦痛だとリヴ・ウルマンに対してユーリア・ダフヴェニウスが語ったことくらいだ。
 それなのに、この映画が忘れられない。
 リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソン。別れた女と男。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウス。別れた男の孫娘。ユーリア・ダフヴェニウスとボリエ・アールステッド。娘と父の近親相姦そのものといった関係。エルランド・ヨセフソンとボリエ・アールステッド。父に甘えたい息子と甘えようとする息子を拒絶する父。エルランド・ヨセフソンとユーリア・ダフヴェニウス。祖父と孫娘。間に「息子(父)」をはさむことで距離ができ、そこには憎しみが欠落し、愛情だけが満ちあふれる。
 語ることと距離。たぶん、それが本当のテーマなのだろう。
 リヴ・ウルマンは語りながらエルランド・ヨセフソンとの距離を縮めてゆき、30年ぶりに再会する。そこには「時間」の距離もある。「愛」には距離が必要なのだ。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウスには血のつながりがないという「距離」がある。リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソンには30年という時間の「距離」がある。逆にエルランド・ヨセフソンとボリエ・アールステッドは本当は離れた場所に住んでいるのに今は娘のレッスンのために近付いている。近くに住んでいる。そのことが憎しみをあおる。語れば語るほど、その距離がぎすぎすする。
 語ること、距離、そこに渦巻く愛憎。それをベルイマンは不思議な映像処理で見せる。たとえばリヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウス。2人はテーブルに平行にならんで料理の下準備をしている。2人は同じ方向をむいている。対立がない。平和である。2人を結びつけるのはテーブルの上の料理の材料である。そこには笑いがある。
 ユーリア・ダフヴェニウスとボリエ・アールステッド。1つのベッド。娘の背中越しに父親が娘の見ている方向を見つめる。あるいはチェロのレッスン。向き合い、涙を流し、キスさえする。その愛憎のうごめき。
 リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソン。女は悪夢におびえる男を迎え入れ、いっしょに裸の体を並べる。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウスがそうであったように、平行にならんで、同じ天井を見つめる。平和がある。
 向き合ったとき怒りがうずまき、平行にならんだとき平和が訪れる。接近が憎しみを駆り立て、遠い距離が平和をもたらす。--こうした関係を、ほとんど役者のアップで描き出す。何が語られたかを忘れてしまっても、その距離、対立、平行の印象が映像として鮮明なので、この映画を忘れることができないのだ。

 それにしても、と思う。こんなふうに、一瞬一瞬、むき出しの感情が次々に変化する演技を、ほとんど顔だけで演じるのはたいへんなことだろう。ベルイマンは役者を酷使している。そして役者はベルイマンによって酷使されることによって輝いている。
 音楽もすばらしい。強靱な映画である。

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中田敬二『夢幻のとき』

2007-01-08 23:03:47 | 詩集
 中田敬二夢幻のとき』(思潮社、2006年12月25日発行)。
 「対話・死の町をゆく」は次のようにはじまる。

-エトルリアへ行くんだ
-エッ?!  エトルラ…… ?
-墓をさがしに行くんだ
-エッ?!  (はだしでふるえてる) オヤ おでこにたんこぶが!
-自転車で転んだんだ 荷物をとりにもどった 忘れたんだ
-船は出てしまいましたよ
-ここはサルデーニャではないのか?
-エッ?!  ……ここは伊豆の大島ですよ
-ストロンボリが見えている
-ミハラ山でしょ

 この対話は2人の対話ではなく、1人のうちなる対話だろう。エトルリアへの墓探しの旅。その旅は常に中田の現実、日常をひきつれての旅である。中田は一方で紀元前5世紀をロレンスもひきつれて旅をする。時空を超えて旅をする。その一方で現実を意識しつづける。その「現実」がたとえば「伊豆の大島」ということばであらわされている。現実があるからこそ、時空を超えた「夢幻」の旅が可能なのである、ということかもしれない。中田の旅は「夢幻」一方に傾き、現実離れしてしまうということがない。つまり、そこには必ず現実からの視点、批判というものが入り込む--これは中田のことばの強みだろう。批評が中田のことばを抒情にまみれることから救っている。これは中田の詩のひとつの美点である。
 一方、中田は「夢幻」を簡単に「夢幻」と断定してしまっている。中田のなかの1人が見た風景の「夢幻」性を一瞬足りとも信じていないようなところがある。「夢幻」と「現実」を描くことで、「夢幻」をより鮮やかにするのだ、という手法を意識しすぎて、「夢幻」の種明かしをしすぎてしまう。

-ストロンボリが見えている
-ミハラ山でしょ

 この対話は、2人がほんとうに他人なら成り立たない。ほんとうに他人なら相手のいっていることがわかるはずがない。対話は次のようになるはずだ。

-ストロンボリが見えている
-エッ?!  なんのこと?
-あの山だ
-あれはミハラ山ですよ

 中田の対話では「ストロンボリ」が山であることを、「ミハラ山でしょ」とこたえた人物は知っていることになる。
 この詩は、あらゆることが何を指しているのか、あらかじめ知っている人間によって受け止められ、その結果として対話になっている。その結果、「夢幻」はあくまで「夢幻」にとどまり、現実へ侵食してこない。そこが物足りない。
 ロレンスも、その友人も登場するが、彼らは(あたりまえのことかもしれないが)中田の知っているロレンスであり、友人にすぎない。つまり中田を裏切らない。中田を裏切って、とんでもないところへと行ってしまわない。中田の知っていることを範囲内で動き回る。
 ここに書かれているのは、つまり発見ではなく、発見されたものの要約なのだという印象が残る。
 「夢幻」のななかへどこまでも突っ走り、それをつききったら突然新しい現実があらわれてこそ、「夢幻」を旅する意味があると思うのだが……。
 中田には中田なりの考えがあって、知っているものの視点を動かしているのだろうけれど、私にはそれが本当は何を探しているのかよくわからない。



 詩集中、一番おもしろく感じたのは「ナイ アル」。

オンナニヨクボウハナイトオモッテイタ
ナイハズダ ト
アッテハナラナイ ト
アルハズガナイ ト

 「ない」が「ある」を否定する形で言いなおされる。その言い直しの中に「詩」がある。意味はかわらない。かわらないけれど、言いなおさずにはいられない。そこに本当は「夢幻」があるのではないだろうか。「詩」があるのではないだろうか。
 たとえば「グランド・ゼロを行く」。その風景は多くの人が見た。そして多くの人がことばにしただろう。それでも中田はことばにせずにはいられない。他人のことばではなく中田のことばで言いなおさずにはいられない。そうした欲望の中に「詩」があるのだと思う。
 「グランド・ゼロを行く」のなかには「ナガサキ」が登場する。「浦上天主堂」が登場する。そうした中田の現実によって、もう一度言いなおす--グランド・ゼロを見つめなおす。その瞬間に「詩」があらわれる。「言い直し」が「詩」なのである。
 「対話・死の町をゆく」では、その「言い直し」が私には切実につたわってこなかった、ということなのだと思う。


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