詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安川奈緒『MELOPHOBIA』

2007-01-07 21:23:12 | 詩集
 安川奈緒MELOPHOBIA』(思潮社、2006年11月23日発行)。
 最初、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。84ページまで読み進んできて、やっと安川のことばの動き、思想がわかったような気持ちになった。
 《愛人X》から《夫》への手紙のなかの文章。

話は変わりますけど、最近また電柱が増えていると思いませんか?いったい宅地造成になにがあったのでしょうか。あと、昼ご飯のスパゲティにお洒落なイヤホンが混入していたのですが、私は人から嫌われやすいのでしょうか。

 「あと、」が安川の思想である。電柱が増えていることと、スパゲティのなかのイヤホンは本来何の関係もないものである。それを「あと、」ということばで呼び出し、つなげていく。このとき存在するのは《愛人X》という肉体だけである。一個の肉体が無関係なものを「あと、」ということばでつないでゆく。そうすることで《愛人X》の時間を明確にする。
 手紙には「追伸」があるが、この追伸は「あと、」を書き換えたものである。前に書いたことに追加して何ごとかを書く。それが追伸。
 そして、この「あと、」というのは、実は「過去」のことである。手紙のなかの「現在」の時間、たとえば電柱が増えているという現在の問題からこぼれ落ちていた「過去」。それが「あと、」ということばで呼び出されている。
 芝居(戯曲)と小説の違いを説明するのに、三島由紀夫は「過去」の描き方に注目していた。(「文章読本」だったと思う。)小説はことの次第を順々に描いてゆける。芝居は登場人物が常に過去を現在のなかに呼び出しながらことばを動かす。--それに通じる「過去」が「あと、」で呼び出されているのである。「あと、」によって「過去」が呼び出され、「現在」が活性化し、「未来」へと時間を動かしてゆくのである。
 安川の詩は、したがって「あと、」を補って読むと、とてもわかりやすくなる。「あと、」が省略されているのは、それが安川にとって自明のこと、肉体にしみついた思想だからである。こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいる。
 たとえば、「週末のおでかけ」。そのもっとも魅力的な5行。

どうやって耐えるのか
びんかんな右の耳に
「あそびにいこうよ」
穴のあいた左の耳に
「しんでほしいよ」

 この唐突な5行の前に「あと、」を補うと、それが《愛人X》の手紙の「スパゲティのなかのイヤホン」と同様、ふいに侵入してきた「過去」であることがわかる。いま、そのことばが語られたのではない。スパゲティのなかにイヤホンが投げ入れられたのが食べている現在ではなく過去であるように、右の耳、左の耳にことばが囁かれたのは現在ではなく過去であり、その過去が唐突によみがえっているのだ。それも前に書かれたことがらとは無関係に、つまり文脈を無視して。
 この文脈の無視は、手紙の「追伸」がそうであるように、第三者にとっては文脈の無視ではあるけれど、当人たちにとっては語られなかった文脈の過去がある。共通の過去がある。
 「あと、」は文脈の無視であると同時に、過去の文脈、置き去りにしてきた文脈の復活でもある。この過去による現在の活性化によって安川のことばは刺激的なものになっている。

 ただし。
 「《妻》、《夫》、《愛人X》そして《包帯》」という作品に関していえば、この「あと、」が効果的なのは先の引用部分だけである。同じ「あと、」の使い方が、《妻》から《愛人X》への手紙にも出てくる。

あと、夫に「逆走するのが下手ではないね」と言われました。意味がまったくわかりません。あと、夫の洗濯槽への柔軟剤をたらすそのたらし方が気にさわりました。

 妻=愛人Xであることの種あかしだろうか。それとも安川は安川自身の「キーワード」に気がついていなくて無造作に「あと、」を使ってしまったのか。たしかに「キーワード」とは作者にとって無意識のことばだが、(というか、意識せずに使ってしまうことばだが)、読み返し、整理すべきだったろうと思う。
 ことばが上滑りして動いていってしまうところがあるのが残念だ。


コメント (2)
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高橋睦郎「詩人を殺す」、北川透「窯変論」

2007-01-07 01:28:47 | 詩集
 高橋睦郎「詩人を殺す」、北川透「窯変論」(「現代詩手帖」2007年01月号)。
 高橋睦郎の作品の末尾の2行。

私たちのなかの詩人を殺す以外に
詩を救う方策はない

 これは痛切なことばである。「詩は病んでいる」。詩の内側からむしばまれている……というようなことが語られ、 100年前にひとりの中国の詩人が身を投げたという人工湖のほとりに立って、高橋は、そういう結論に達した。

その頃すでに 詩は救いがたく病んでいた
病因はほかでもない 詩人なのだ
詩人が内側から 詩を蝕んでいる
詩を救うには 詩人を殺すしかない
彼は投身することで 詩人を殺したのだ
少なくとも彼の中では 自分を殺すことで
詩は健やかによみがえったに違いない

 この行を読んだとき、私はふいに谷川俊太郎の「詩人の墓」を思い出した。「何か言って詩じゃないことを」という1行を思い出した。「詩」は「詩じゃないこと」のなかにしかない。これは矛盾だが、矛盾だからこそ真実なのだ。
 「詩」と呼ばれるものを一つ一つ否定していく。そこからはじまることばの運動。そこにしか「詩」は存在しない。「詩は何か」という既成事実のようなものを拒絶する、それまでの「詩人」のすべてを拒絶する。そういうことを高橋は「殺す」と言い換えている。

*

 北川もまた「詩」を殺すことに懸命である。

黄とは何でござりましょう。アッ、ハン、漢字の世界でしょうな。
バカ言っちゃ、いけない。黄は黄変し、漢字は妖変する。
黄は黄であって黄ではない、正体不明の熱量。
漢字は弱い葦をたぶらかす、有毒物質。
見ていろ。やがて黄に炙られた空が、大音響とともに落下してくる。

 何を書いているのか。おそらく高橋が書いていることと共通する。中国の詩人との交流で考えたことを書いている。北川は高橋のように「意味」を正確にしようとはしない。「意味」という病を詩が病んでいると感じているからだ。意味になる前の、ことばにならないものをことばにしようとしている。矛盾であるが、その矛盾が「詩」である。
 「意味」を拒絶するというよりも「意味」を破壊する。そんなことは、本当は、しかしできない。どんなふうにでたらめを書いても、それがことばとして書かれてしまったときから、それは解読され、解読をとおして「意味」に堕落する。詩はいつでも「意味」に堕落するものとして存在する。--ということさえ、「意味」になってしまう。
 どこまで、それに対してあらがえるのか。

 北川の作品に出会うと、私はいつでも、「ああ、私は呑気な感想を書いているなあ」と思ってしまう。私の思考は、どうすればもっとも破壊的でありうるかというようなことより、その破壊のなかにさえ、何かを構築しようとする力を感じ、それに対して、いいなあ、と思ってしまうのだ。
 北川が破壊しようとしているもの、それを私ならこんなふうに破壊することができる、というような提案がほんのちらりとも思い浮かばない。
 そのことは北川の作品が非常にすぐれているということなのだが、北川は、そんな呑気な感想など誰にも求めていないだろう。北川のことばの運動を越えて、だれかが、北川の破壊しそこねていることば、詩というものを、徹底的に破壊することの方こそ望んでいるに違いないと感じる。
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清岡卓行論のためのメモ(13)

2007-01-06 23:44:19 | 詩集
 現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
 「萩原朔太郎『猫町』私論第十二章」は萩原朔太郎のことばについて書いているのだが、そのなかに清岡自身のことばにもあてはまる部分がある。

 『猫町』の本体というか、その第一章から第二章へとつづく展開は、その組み立て方を横から見ると、日常的な表現から出発してロマンティックなものへ旅行し、そこからまた日常的な現実へ戻ってくるという話を、いわば微妙な変奏によって、四回ほどくりかえすことから成立していると言っていいだろう。くりかえされるその旋回は、もちろん、内面により深く錘鉛をおろそうとすると同時に、外部の現象の背後により遠く迫ろうとするためのものである。

 「より遠く迫ろうとする」という表現が象徴的にあらわしているが、ここで書かれている「くりかえし」は「遠心求心」に通じる「くりかえし」である。くりかえすことで外部と内部を固く結びつけ、その結びつけを「宇宙」「世界」としてしまう。それは清岡自身の詩の世界である。
 清岡の多くの作品も日常的な表現から出発してロマンティックなものへ旅行し、あるいはより精密な細部へと旅行し、また日常へと戻ってくる。その往復をくりかえすことで、世界の構造をすこしずつふくらませる。その1回1回の往復は、たとえて言えば「円き広場」の放射状に広がる10本の道の1本1本である。往復をくりかえすことで、その世界は「円」に近付く。「円」はこのとき「完全」な形の象徴である。円の中心を通る直径は円の遠くと遠くを結ぶ最短のものであり、同時に最長のものである。清岡の表現しようとしているものは、「円」と「中心」と「交錯する道」である。そして、その「中心」が「と」ということばである。

 「「現代詩」という言葉」のなかにシュールレアリスムについて触れた部分がある。その言及にも清岡の詩を自身で解説しているように思えることばがある。

 (シュールレアリストたちは政治的に左翼、右翼に拡散していった。--谷内補記)このことは、既成の諸価値の否定のうちに夢みられた人間の新しい全体性と、選ばされた実際行動との間にある矛盾を告げているものだろう。しかしまた、こうした矛盾のうちに生じる緊迫にこそ、シュルレアリストたちの自由は宿っていたといえるかもしれない。


シュルレアリスムの展開は、外部現実の投影におびやかされた裸形の自我の、ぎりぎりの一線を示して、逆襲の拠点を構成しているように見える。

 「矛盾のうちに生じる緊迫」。これは「遠心求心」の緊迫である。そして、その緊迫が「自由」でもある。清岡は「遠心求心」の緊迫感に満ちた世界が同時にあらゆる自由へ通じることを知っていた。清岡が「と」を中心にして「円き広場」的な世界を言語で構築するのは、その構築によって精神が自由になることを知っているからである。
 そして「円き広場」の中心点、すべての道があつまる地点、「と」の場所は、あらゆる逆襲の拠点でもある。そこから一直線に精神は外部へ向けて噴出する。「直径」という最短の道を通って、円周のもっとも遠い場所へと一気に噴出する。
 『猫町』について触れていた文章にでてきた「より遠く迫ろうとする」とは、こういう緊迫感のある精神のありようを表現したものである。

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岡井隆「胃底部の白雲について」(再び)、白石かずこ「逢いにいったゴビに」

2007-01-05 22:40:48 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡井隆「胃底部の白雲について」(再び)、白石かずこ「逢いにいったゴビに」(「現代詩手帖」2007年01月号)。

 きのう岡井隆の詩を読みながら書いたことは、岡井の詩の魅力をまったく伝えていないのではないか、という気持ちがだんだん強くなってくる。
 岡井の詩のいちばんの魅力は音の美しさにある。「胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて」の不思議な響きは「し」のくりかえし「い」の響きあいというふうに説明(?)しやすいので、どうしてもそういうことを書いてしまうが、ほかの行もすべて美しい。口にやさしいというか、のどにやさしいというか、口蓋をはつらつとさせるというか、魅力的である。私は詩を読むとき声に出して読むことはないけれど、無意識に舌や声帯が動いているのだろう、ある詩ではとても読み終わったあとのどが疲れるが、岡井の詩にはそういう疲れがない。逆に口が軽くなる印象がある。
 2行目の「今朝はその雲が話題を独占した」。何気ない1行に見えるけれど、リズムがとてもいい。イントネーション変化も魅力的だ。3行目の「語られなくなつたねイラク といつて」の「といつて」の音、「イラク」と「といつて」のあいだの1字空き、その一呼吸の気持ちよさ。--こういう気持ちよさを、どう表現していいのか、私は知らない。ただ気持ちがいいとしかいいようがない。
 2連目1、2行目。「世界にはなんと六七八四もの言語があるが/そのうち二週間に一つの迅さで絶滅していくんだつてきくと心強くて」。これがたとえば「世界には六七八四もの言語があるが/二週間に一つの迅さで絶滅していく。そうきくと心強く」だとすると、その「論理上の意味」はかわらないのに、リズムが消えてしまう。のどがとても疲れる。「なんと」という軽い驚きの声、「そのうち」という先行することばを受けることばの軽さ、そして何より、「……ときくと心強くて」の一気のたたみかけ。これがのどに、そして耳にやさしい。散文の論理(?)では1行目と2行目を結ぶ「そのうち」はなくても意味はかわらないし、「……ときく」でいったん文を閉じた方が意味は明確になる。「……ときくと心強くて」と連続して次の行にわたってしまうと、先行する絶滅する言語のことより「心強くて」という気持ちの方が前面に出てきて、意味がぼやけてしまう。それなのに、というか、それゆえというか、私が仮にこころみた文体よりも岡井のオリジナルの文体の方が、はるかに魅力的である。気持ち(心強くて)と肉体(のどや耳の感覚)がぴったりくる。
 岡井は「論理」ではなく、「気持ち」を前面に出しているのだ。そして、その「気持ち」とは肉体と深く結びついているのだ。
 この論理よりも肉体という感じは、「そのうち二週間に一つの迅さで絶滅していくんだつてきくと心強くて」の「きく」ということばにも象徴的にあらわれていると思う。この「きく」は実際にだれかが発言している声を「聞く」ときの「聞く」ではない。伝聞として「知る」、認識するという意味である。それを聴覚を前面にだすことによって、無意識のうちに、その認識が「頭」というよりも肉体で知ったものという印象を残す。無意識のうちに肉体が刺激される。
 口語ではなく「しやべり言語」、話すではなく「しやべる」、伝聞では「絶滅」ではあっても岡井自身のことばでいうときは「おだぶつ」。肉体がそこにあるときの、口調、耳で聞いた音(意味というより、音が先行することば)。岡井は常にことばを肉体で動かしているのだ、という印象が強い。それがとてもおもしろい。
 その一方、岡井は「沈んでゐて」「なつたね」「やうに」と旧かなで表記する。「頭」でことばの本来の動きを認識しながら、音はあくまで現代に即している。肉体が存在する範囲だけで認識を終わらせるのではなく、頭で辿れる部分はどこまでも頭で辿る。明確にする。
 その強靱な(ということばしか思いつかないが)精神があって、岡井のことばは、イラクへもバッファロオへも中村憲吉の歌へも自在に飛び回る。自在に飛び回って、それを頭だけのできごとではなく、肉体の場へまで引き寄せる。そして、そこに不思議な、はつらつとした世界を繰り広げる。日本語が「滅びるかも知れんのだ」と言いながら、その声が、なんといえばいいのだろうか、しんみりした感じではなく、高らかな(?)怒りのように聞こえてくるのだ。
 私は詩の朗読には関心がないが、こういう岡井の作品のような詩に出会うと、これは朗読で聞いてみたいなあと思う。きっと黙読したときより生き生きとことばが動いている感じがすると思う。



 白石の作品も朗読で出会った方がおもしろいのでは、と思う。ただ、その「おもしろさ」は岡井の詩に感じるおもしろさとはかなり違う。

50年をポケットに入れ、ヤン・リアン、フォスター、田原、樹才(シューサイ)、
エリオット、
だがあの男は いなかった
ジンギスハーンの眼玉を洗い
心臓をなめていたカオス
シャーマンは どこにいるのか
モンゴルの風は コトバたちを粥にまぜ
人々の心臓と記憶を うまく織物にまぜ
それを着ると うたいだすのだ

 このリズムはだれにでも声にできるリズムではない。こういう詩は、作者の肉体が目の前にあって、そこで声を聞くときに動きだすものだ。「芝居」と同じように、肉体を見せるためのことばである。
 「精霊」ということばが白石のこの詩には出てくる。(魂とかスピリットとかいう表現も、たの作品に出てくるが。)その「精霊」は、私のことばで言えば「肉体」になる。触れるもの、具体的なものである。「芝居」において、ことばは次々に消えていくのに、役者の肉体はいつもいつも目の前にある。それと同じように、白石の詩においては、肉体はいつも目の前にある。「精霊」はその「肉体」の動きそのものである。「眼玉を洗い」の「洗う」、「心臓をなめていた」の「なめる」。
 さらには、次の部分。

 わたしは手さぐりで眠りの中でさえ あの砂嵐が脳髄を行き来するのを見、きくのだ。

 この「見る」「きく」。それは肉眼で見て、頭の両側についている耳で聞くのである。それが肉体であるからこそ、というか肉体と呼んでしまうと、論理上「矛盾」してしまうから、それを「精霊」と呼ぶことで、白石は「論理」を成り立たせているように思える。(こういう「矛盾」のなかにこそ、「思想」がある。)

 さらには。

わたしは幼年の年齢を加算し ようやく
きみの年齢に達する わずか三十年たらず
だというのに そこに達するのに
三百年かかったのだ そう 生まれる前から
わたしの精霊は いたのだろうネ

 これは三百年前からわたしは肉体として存在していた。いまの肉体になる前は別の肉体だったが、それもほんとうはわたしの肉体だ。肉体そのものに会ったのだ、といっているように私には思える。
 「精霊」ではなく生身の肉体が時空を超えるから「詩」になる。「精霊」が時空を超えるというのでは「ファンタジー」にすぎない。白石のことばは「ファンタジー」ではなく、「詩」である。



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イ・ジュニク監督「王の男」

2007-01-04 15:11:30 | 映画
監督: イ・ジュニク 出演: カム・ウソン、イ・ジュンギ、チョン・ジニョン 

 いくつもおもしろいシーンがあるが私がひかれるのは、美男の芸人が王の前で人形芝居をしてみせるシーンである。肉声では何も語れない芸人。しかし芝居の中でなら思いのたけを繊細に語ることができる。そして、その人形芝居に王自身がのみこまれていく。王自身も人形を動かしながら芝居をする。王もまた自分自身の肉声をうまく伝えることのできない存在である。
 美男の芸人が動かす人形の繊細な動きも美しいが、その人形にとりつかれ、無邪気に人形を動かしてみる王の表情も美しい。
 王の肉声さえも殺してしまっているのは何か。「体制」である、といってしまえば簡単だが、「体制」というものは見えにくい。「体制」というのは「頭」ではことばにすっきりとおさまるが、それを具体的なことばでつたえようとするとことばにならない。
 具体的に見えるのは、肉声を伝えられない人間の苦悩である。人はみな、ことばでは正確につたえられない肉声をもっている。それを解き放つために「芝居」がある。「芝居」のなかには、それを演じる人間の肉声があると同時に、それを見る観客の肉声もある。風刺劇なら、世の中をほんとうはそんなふうにみているけれど自分自身のことばでは恐くて言えないから、役者のやっていることを笑うことで自分の声を代弁するという肉声の在り方がある。この映画は、そうした「構造」を巧みに取り入れ、劇中劇を何度もくりひろげるが、それはあくまで「ストーリー」の都合である。
 見どころは、やはり語ろうとして語れない肉体、肉声の苦しさである。
 芸人のリーダーが相方の美男の芸人にそそぐ熱い眼差し。怒りと愛。一緒に芝居をして回るときの喜び。リーダーは怒りをあらわす肉声をもっているが、悲しみをあらわす肉声をもっていない。一方、相方の美男の芸人は怒りをあらわす肉声をもっていないが悲しみをあらわす方法を知っている。(それが王の前で見せた人形芝居である)。リーダーの怒りは美男の芸人を悲しませ、美男の芸人の悲しみはリーダーの男を怒らせる。
 怒りが二人を新しい世界へひっぱり、悲しみがその世界に深みをあたえる。怒りの力で突き進み、悲しみで現実の奥へと沈み、世界がひろがる。
 この怒りと悲しみと綱の上の芝居さながら、もつれあい、もつれあうことでバランスをとっている。つまり、それがもつれあうたびに、不思議なことに、喜びが伝わってくる。苦しいはずなのに、その苦しみを共有する人間がいる、つまり、生きている、互いにほんとうはこころの底で苦しみを抱き合って通じ合っているという喜びがあふれる。

 ラストシーン。「体制」の戦いのさなか、宮廷の庭に張られた綱の上で、相方をかばって盲目になったリーダーと美男の芸人が、生まれ変わったらやはり芸人になるといって芝居をし、空中へ高くジャンプする。つなぐものは何もない。一本の綱さえない。しかし、ふたりは結ばれている。いっしょのこころ、という喜び。
 この映画は無骨な芸人と美男の芸人、美男にこころを動かす王の三角関係の恋愛劇の様相ももっているが、王が嫉妬するのは、二人の見えない綱(糸というには太すぎる)つながりであろう。支えるものが何もなくても、結びついているこころ、その喜び。
 その喜びへの高らかな讃歌をラストシーンに見た。

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岡井隆「胃底部の白雲について」、平出隆「天文と雑纂」

2007-01-04 14:38:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡井隆「胃底部の白雲について」、平出隆「天文と雑纂」(「現代詩手帖」2007年01月号)。

 岡井の詩は不思議だ。書かれていることは、ことばは滅びる、それを意識しながら「死語の詩を書く」ということなのだが、その内容とは裏腹(?)に読んでいて楽しいのだ。意味が意味になってしまうことを音が拒んでいる、というか、音が意味を弾き飛ばして軽やかに動いていくといえばいいのだろうか。

胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて
今朝はその雲が話題を独占した
語られなくなつたねイラク といつて
避けられもしないイラク

世界にはなんと六七八四もの言語があるが
そのうち二週間にひとつの迅さで絶滅していくんだつてきくと心強くて
日本定型詩の文語をからかつてやりたくなるんだ
しやべり言語じやないけれどお前さん長寿だねつて

流暢にしやべれる人が一人もいなくなればその言語はおだぶつ
死のうわさはいつものやうにわたしを悦ばすがそれが言語であれ話題であれ他者であれ
そしてもうしやべられることのない死語の詩を書く
あかねさす昼にぬばたまの夜に日(け)並べて、さ

 「胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて」は私にはなんのことかわからない。(ここでは引用しなかった5連目の「夫婦語」に関係しているだろうと想像するのだが……。胃の違和感を「白雲が沈んでゐ」るというふうにして岡井夫婦は話すんだろうかとは想像するんだろうけれど。そして、そのときたとえば「死」というものが微妙に回避されており、その微妙に回避された問題が、夫婦の会話、あるいはここに書かれた作品を動かす隠れた推進力になっていると想像するのだけれど……。)
 ただ「し」の音、「い」の響きが印象に残る。「枕詞」のようにほんとうは意味があるのかもしれないが、意味を失ってしまって、ただ次のことばを引き出すための誘い水のように動いている。これからはじまるのは「散文」ではなく「詩」である、とつげるための序曲(音楽)のように、私には感じられる。そして、この「仕掛け」がおもしろいと思う。
 また、それぞれの行が、岡井のことばでいえば「しやべり言語」の響き、軽さを持っている。「ん」「つ」など音便の多用が意味を深刻に沈み込ませないのかもしれない。「おだぶつ」という口語とも響きあう。「のだ」とか「ね」という口語の末尾もとても自然だ。多くの詩に見られる「ね」「さ」などの口語の唐突な出現は、私には、何やら体臭(?)体温(?)の押し売りのように感じられ、思わず身を引いてしまうことがあるが、岡井の「のだ」「ね」にはそういう感じがない。「しやべり言語じやないけれどお前さん長寿だねつて」というような倒置法にも響きあう。書きことばとしての「口語」ではなく、ほんとうに「しゃべり言語」で岡井は詩を書いている。そのため、意味ではなく、岡井の肉声を聞いている、岡井の肉体を目の前に見ている感じがしてくるのである。私は岡井を見たこともないのだけれど、そういう感じが伝わってくるので、ひかれてことばを追ってしまう。詩を読んでしまう。
 そういう楽しさから、もう一度、作品そのものへ戻って……。
 「語られなくなつたイラク」。そのなかにはイラクの少数民族の問題もある。少数民族が絶滅すればもちろんその言語も絶滅する。そのことを岡井は思い出し、そこから日本定型詩(岡井自身が書いている短歌)へと連想が進む。文語へと連想が進む。
 「死のうわさはいつものやうにわたしを悦ばす」の「悦ばす」は活気づける、それも単に精神だけではなく肉体、感覚も活気づけるというような意味合いだと思う。岡井のことばから肉体を感じるせいか、「悦ばす」に、どうしても肉体の喜びを感じてしまう。はつらつとした笑いを感じてしまう。「私は、死ぬ前のことばをまだ味わいながら書くことができる」という喜び。
 それを残せ、とは岡井は言わない。「いつ滅びるかも知れんのだ」(最終行)とだけ言うのである。
 そして、その最終行、結語を読んだ瞬間、私ははっとする。ぎょっとする。ぞっとする。

胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて

 私にはこの第1行がわからない。「白雲」というのは「夫婦語」だから? それとも、岡井の中では生きているけれど、私の中では滅んでしまった言語によって書かれているから?
 岡井の中では生きているけれど、私(あるいは私たちの世代)の中では滅んでしまった言語、あるいは文体というものは無数にあるだろう。そして、それは岡井には見えるけれど、私には見えない。そうしたものへ向けて、岡井は、ことばを発しているかもしれない、と思うのである。
 岡井の詩の第1行が私に見えないのは、それが岡井の肉体だからである、とも思う。「意味」は頭で考える。肉体は「意味」を隠している。ことばの動き、それがことばの肉体であり、岡井の肉体は、私の肉体とは違った動きをする。私の中で滅んでしまった肉体の動きをする。私は、その名残のようなものを、かろうじて「響き」(音)のなかに感じているにすぎない。
 これから先、私のことばは、どこまで滅んでいくのだろう。それに対して私はどんなふうに向き合うことができるのだろうか。

 --これは岡井の詩とは無関係なことのようで、ほんとうは一番関係することかもしれない。詩を読むとき、問われているのは、作品のなかにあることばではなく、読んでいる私のことばなのである、と思う。



  平出の作品の2連目。

 一冊のノートが本になるより早く、同じところで、
一冊の本はノートにならなければならない。そう、い
けない。一端で化骨しつづけながら、その他の部分で
はさかんな増殖をつづける、薄い軟骨の細胞のように。

 平出の詩は岡井の詩とは関係ないのだが、その2連目が、私にとってはなぜか岡井の詩の「解説」のように響いてくる。いや、岡井の詩を読んだときの私の姿を「解説」してくれているように感じる。
 岡井は岡井の現実をひとつの作品にする。その作品を私はノートにする。そして、ノートの中で好き勝手に増殖する。その増殖したひとつの細胞が岡井の細胞を引き継いでいるのかいないのか、それはよくわからない。よくわからないけれど、その増殖に身を任せてしまうことが私にとって読むことなのだ、とあらためて感じた。

 私は私のことばのために読む。それが私の「読書日記」である。
 (今年もきままに、なんの方針もなく詩を読み感想を書きつらねます。「コメント」欄に、あるいはBBS 「こんな詩を書きました」に感想をお聞かせいただければありがたく思います。)

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大岡信「鯨の会話体」、谷川俊太郎「二×十」

2007-01-03 13:39:19 | 詩(雑誌・同人誌)
 大岡信「鯨の会話体」、谷川俊太郎「二×十」(「現代詩手帖」2007年01月号)。
 大岡はカナダの詩人のことばと向き合っている。

「五十キロぐらいの距離なら
クジラたちはのんびりと会話しながら
大洋を泳ぎまはつてゐるんだぜ」

ぶあつい海洋動物アンソロジーを編んだ
カナダのひげもじやの詩人が言つた
隣り同士の声さへも
きれぎれにしか聞こえない
東京銀座の雑踏の中で

「コンピューターと人類は
いつになつたら追ひつけるのかね
クジラののどかな会話体にさ?」

国境は否定されるためにのみ
存在するのだ

人工の壁は消えてしまふが
渡り鳥にあるのは つねに
軽やかに 移動してゆく
地平線だけ

クジラもあとを追つて泳ぐ
ゆつくりと会話しながら。

 カナダ人のことばと向き合ったとき、最初に「国境」ということばが登場し、つづいて「否定されるために/存在するのだ」とつづけられる。「国境」は次の連で「人工の壁」に「否定される」は「消えてしまふ」に置き換えられ、別の存在が登場する。「あるのは/軽やかに 移動していく/地平線だけ」。
 この意味の対比は私には急激な感じがする。「国境」はもちろん人間のつくった人工的なものであり、クジラの会話と人間の会話という区切りも人間のつくった人工的な存在であり、自然全体の中では無意味なものだろう。そういう意識からことばは動いていくのだろうが、何かを言い急いでいる感じがする。どうしてだろう。
 最後の連の2行で印象が変わる。
 「クジラ」は意味論的には渡り鳥を追って泳ぐ。しかし、このクジラは海を泳いでいるクジラではなく、いま、銀座の雑踏を泳いでいる(?)大岡とカナダの詩人の姿に思えるのだ。
 「国境は」から始まる4連、5連はかぎ括弧のなかには入っていないが、ほんとうは大岡のことばなのではないのか。カナダの詩人のことばに対して発せられたことばではないのか。
 二人は会話しながら銀座を歩いてる。カナダ人のことばに刺激されて、大岡の詩心が急に動いた。その急な動きをそのまま書いたのが4、5連ではないのか。詩心が発したもの、つまり詩であるから、論理的である必要はない。飛躍が多くてもいい。そして、それが最初から詩を書こうとしてたくまれたものではないから、熟考とか推敲とかとは無縁である。そのことばは、なげつけられたことばに反応して動くだけである。大岡の内部からふいにあらわれてくることばをただその動きのままに大岡は拾い上げている。--ここでは、大岡はカナダの詩人と即興の「連詩」をやっているのである。即興ゆえに「急いだ感じ」が残るが、同時に、即興ゆえの、跡をふりかえらない楽しみもある。
 カナダの詩人は詩を意識しないで会話をはじめたかもしれない。しかし、大岡はそれに詩を感じて、詩のことばをぶつけた。そして、そこから「会話」がはじまった。クジラの会話のように、コンピューターには追いつけない飛躍のある会話、スピードのある会話、しかしのどかな(現実の喧騒とかけはなれた?)会話に……。
 二人はクジラになろうとしているのだ。あるいはクジラと渡り鳥になろうとしているのだ。
 カナダ人の発したクジラの話題を追いかけ、国境も忘れ(カナダ人であること、日本人であること、国籍を忘れ)、国籍を否定し、ただ軽やかに前へ前へと広がる詩の地平線を追いかけ、移動していく。
 「クジラの会話体」はこのときから「詩」になる。大岡とカナダ人によって共有される「詩」になり、ふたりの共有によって、また読者に共有されるものにもかわる。



 大岡はカナダの詩人と「連詩」を銀座の雑踏の中で楽しんだが、谷川はひとりで「連詩」を試みている。登場する谷川は2人か、3人か、またはそれ以上か。それはよくわからないが、先行する2行を引き受け、次の谷川に渡すことをこころがけて、どこか「開いた」状態を残した行がつづく。
 テーマは「詩」、あるいは「詩のことば」なのだが、4連目が印象深い。

心の忘れ去った一瞬一瞬が
魂に降り積もっていく(だろうか)

 「降り積もっていく」という断定でもなければ、「降り積もっていくだろうか」という疑問でもない。断定でも次の連へはつづくし、疑問でも次の連へとつづく。どんなことばであっても連詩は可能である。しかし、谷川はあえて「降り積もっていく(だろうか)」と書いている。むりやり「違和感」をつくりだしている。行をこじあけている。
 そして、この操作が、詩をつきうごかしている。5連目。

言葉の細道を歩き疲れて
沈黙の迷路に座りこみ 笑う

 この「笑う」は高らかな笑い、開放的な笑いではないけれど、1連2行目の「物憂げ」な雰囲気を一瞬否定する。否定することで、次の連からのことばのスピードを加速する働きをしている。

 こんな感想が感想として成り立つかどうかわからないまま書いているのだが……。
 谷川の4連目の(だろうか)は大岡の詩に登場してきた「渡り鳥」のような印象がある。同じことを考えているのだけれど、どうしてもそこに入り込んでしまう異質なもの(他人の発想)が「会話」ではしょっちゅうある。そのために会話はとんでもないところへ流れて行ってしまったりするのだが、そういう異質なものによる「会話」あるいは「連詩」のこじ開け、風通し穴のようなものが(だろうか)にはある。
 (だろうか)が、ひとりで仕組んだ「連詩」を輝かせている。(だろうか)によって谷川は、ひとりであることから完全に2人であること、あるいは3人であることへと一気に飛躍して、「連詩」をつきうごかしている。
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清岡卓行論のためのメモ(12)

2007-01-02 23:04:14 | 詩集
 現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
 「くりかえし」ということばに出会った瞬間、私は「円き広場」を思い出した。広場を中心に放射状に広がる道。そこから清岡は「遠心求心」ということばを広場を通るのは1度ではない。繰り返すことによって「遠心求心」が明確になる。「円き広場」には「くりええし」ということばは出てこないが、意識の内部では「くりかえし」がおこなわれているのである。だからこそ、その2連目には「意識」ということばが出てくる。

ふるさとの子 二十歳(はたち)
幼き日よりの広場に
はじめて眩暈(めまい)し 佇む
意識の円き核の
かくも劇的なる
膨張(ふくらみ)と同時の収縮(ちぢまり)を
かつて詩にも 音楽にも
恋にも 絶えて知らざりき

 清岡自身の肉体が放射状に伸びた道と広場を行き来するのではない。清岡の「意識」が行き来し、その意識の中で膨張と収縮、遠心と求心が同時におこなわれる。

 また、この「遠心求心」の発見には、意識とは別の「くりかえし」も隠されている。

ふるさとの子 二十歳
幼き日よりの広場に
はじめて眩暈し 佇む

 清岡は幼い日からその広場を知っていた。しかし二十歳になりはじめてそれがどんなに劇的なものであるかを知った。くりかえし、その広場を、そして放射状の道を歩いただろう。その肉体の記憶が二十歳の日に突然意識を覚醒させた。
 ただし、その覚醒は単純な覚醒ではない。「眩暈」をともなった覚醒である。一種の混乱とさえ言えるかもしれない。混乱--つまり、それは、論理的な言語として定着していない精神の状態である。そこから何かが生まれてくるのだが、それがどんな形になるかは、まだわからない。わからないまま、魅了され、眩暈し、「佇む」。そう、佇んで、つまり、何もしないで、その混乱・混沌のなかから何かが生成してくるのを、清岡は目撃するのである。そして、その目撃をただ語るのである。清岡が発見したのではなく、清岡を超えるだれかが発見したものを語るように……。

 意識と無意識が、ここでは区別がつかない。区別がない。それは分離して存在するのではなく、融合して存在している。
 --これは、まさしく「夢」の状態である。

 「夢」を語った作品のなかに出てくる「くりかえし」は、清岡の詩の「と」と深く結びついているのである。
 「と」によってつくりだされる「円き広場」と放射状の道を清岡のこころ、ことばは何度も何度もくりかえし往復することで、遠心求心を硬く結びついたものにする。そして「詩」になるのだ。

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清岡卓行論のためのメモ(11)

2007-01-01 23:38:16 | 詩集
 掌篇小説集『夢を植える』から「バナナの皮」。
 プールで水をすくって対角線上の隅にいる男に向かって投げつける。その中に次の行がある。

 私はくりかえし水を飛ばしはじめている。しかし、今度は手ですくってそうするのではなく、コップに入れた水を飛ばすのである。どこからコップを手に入れたのか? それはわからないが、とにかくそのコップは、バナナを横に半分に切り、中身を取って捨てたところのバナナの皮である。

 タイトルはここからきている。バナナの皮のコップも魅力的だが、私はなぜか「くりかえし」ということばに惹かれた。「くりかえすこと」で清岡はなにかを探している。
 「遠足の弁当」にも「くりかえす」はでてくる。

 これでもう二度目だ。おにぎりの弁当を失くすのは。この前は、春の遠足のときであった。まったく同じようなぐあいにして失くしたのだ。私はどうして、こんな馬鹿げたことをくりかえすのだろう?

 この自問に、清岡は次のように「結論」を出す。

 遠足の弁当はどうしても見つからないだろう、と私は絶望しているのに、なぜそれを探しつづけるのだろう? ほんとうは絶望していないのだろうか? それとも絶望の味を深く味わうために、空しい努力をやめないのだろうか?

 くりかえすのは、今、清岡が感じているものを深く味わうためである。
 すべてはここにある。くりかえすことで、そこに存在するものを深く味わう。これはそのまま書くという行為の定義にもなる。感じていることを明瞭にし、味わう。
 そして、ここには書かれていない「と」が存在する。
 ぼんやりと感じていること「と」それが深く味わわれたあとの感覚。ふたつは連続している。切れ目はない。その切れ目のない部分に「と」(書かれなかった「と」)の力で分け入り、いままで存在しなかった意識の動き、意識として認識されなかった意識を浮かび上がらせる。それが清岡の作品だと思う。


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