安川奈緒『MELOPHOBIA』(思潮社、2006年11月23日発行)。
最初、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。84ページまで読み進んできて、やっと安川のことばの動き、思想がわかったような気持ちになった。
《愛人X》から《夫》への手紙のなかの文章。
「あと、」が安川の思想である。電柱が増えていることと、スパゲティのなかのイヤホンは本来何の関係もないものである。それを「あと、」ということばで呼び出し、つなげていく。このとき存在するのは《愛人X》という肉体だけである。一個の肉体が無関係なものを「あと、」ということばでつないでゆく。そうすることで《愛人X》の時間を明確にする。
手紙には「追伸」があるが、この追伸は「あと、」を書き換えたものである。前に書いたことに追加して何ごとかを書く。それが追伸。
そして、この「あと、」というのは、実は「過去」のことである。手紙のなかの「現在」の時間、たとえば電柱が増えているという現在の問題からこぼれ落ちていた「過去」。それが「あと、」ということばで呼び出されている。
芝居(戯曲)と小説の違いを説明するのに、三島由紀夫は「過去」の描き方に注目していた。(「文章読本」だったと思う。)小説はことの次第を順々に描いてゆける。芝居は登場人物が常に過去を現在のなかに呼び出しながらことばを動かす。--それに通じる「過去」が「あと、」で呼び出されているのである。「あと、」によって「過去」が呼び出され、「現在」が活性化し、「未来」へと時間を動かしてゆくのである。
安川の詩は、したがって「あと、」を補って読むと、とてもわかりやすくなる。「あと、」が省略されているのは、それが安川にとって自明のこと、肉体にしみついた思想だからである。こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいる。
たとえば、「週末のおでかけ」。そのもっとも魅力的な5行。
この唐突な5行の前に「あと、」を補うと、それが《愛人X》の手紙の「スパゲティのなかのイヤホン」と同様、ふいに侵入してきた「過去」であることがわかる。いま、そのことばが語られたのではない。スパゲティのなかにイヤホンが投げ入れられたのが食べている現在ではなく過去であるように、右の耳、左の耳にことばが囁かれたのは現在ではなく過去であり、その過去が唐突によみがえっているのだ。それも前に書かれたことがらとは無関係に、つまり文脈を無視して。
この文脈の無視は、手紙の「追伸」がそうであるように、第三者にとっては文脈の無視ではあるけれど、当人たちにとっては語られなかった文脈の過去がある。共通の過去がある。
「あと、」は文脈の無視であると同時に、過去の文脈、置き去りにしてきた文脈の復活でもある。この過去による現在の活性化によって安川のことばは刺激的なものになっている。
ただし。
「《妻》、《夫》、《愛人X》そして《包帯》」という作品に関していえば、この「あと、」が効果的なのは先の引用部分だけである。同じ「あと、」の使い方が、《妻》から《愛人X》への手紙にも出てくる。
妻=愛人Xであることの種あかしだろうか。それとも安川は安川自身の「キーワード」に気がついていなくて無造作に「あと、」を使ってしまったのか。たしかに「キーワード」とは作者にとって無意識のことばだが、(というか、意識せずに使ってしまうことばだが)、読み返し、整理すべきだったろうと思う。
ことばが上滑りして動いていってしまうところがあるのが残念だ。
最初、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。84ページまで読み進んできて、やっと安川のことばの動き、思想がわかったような気持ちになった。
《愛人X》から《夫》への手紙のなかの文章。
話は変わりますけど、最近また電柱が増えていると思いませんか?いったい宅地造成になにがあったのでしょうか。あと、昼ご飯のスパゲティにお洒落なイヤホンが混入していたのですが、私は人から嫌われやすいのでしょうか。
「あと、」が安川の思想である。電柱が増えていることと、スパゲティのなかのイヤホンは本来何の関係もないものである。それを「あと、」ということばで呼び出し、つなげていく。このとき存在するのは《愛人X》という肉体だけである。一個の肉体が無関係なものを「あと、」ということばでつないでゆく。そうすることで《愛人X》の時間を明確にする。
手紙には「追伸」があるが、この追伸は「あと、」を書き換えたものである。前に書いたことに追加して何ごとかを書く。それが追伸。
そして、この「あと、」というのは、実は「過去」のことである。手紙のなかの「現在」の時間、たとえば電柱が増えているという現在の問題からこぼれ落ちていた「過去」。それが「あと、」ということばで呼び出されている。
芝居(戯曲)と小説の違いを説明するのに、三島由紀夫は「過去」の描き方に注目していた。(「文章読本」だったと思う。)小説はことの次第を順々に描いてゆける。芝居は登場人物が常に過去を現在のなかに呼び出しながらことばを動かす。--それに通じる「過去」が「あと、」で呼び出されているのである。「あと、」によって「過去」が呼び出され、「現在」が活性化し、「未来」へと時間を動かしてゆくのである。
安川の詩は、したがって「あと、」を補って読むと、とてもわかりやすくなる。「あと、」が省略されているのは、それが安川にとって自明のこと、肉体にしみついた思想だからである。こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいる。
たとえば、「週末のおでかけ」。そのもっとも魅力的な5行。
どうやって耐えるのか
びんかんな右の耳に
「あそびにいこうよ」
穴のあいた左の耳に
「しんでほしいよ」
この唐突な5行の前に「あと、」を補うと、それが《愛人X》の手紙の「スパゲティのなかのイヤホン」と同様、ふいに侵入してきた「過去」であることがわかる。いま、そのことばが語られたのではない。スパゲティのなかにイヤホンが投げ入れられたのが食べている現在ではなく過去であるように、右の耳、左の耳にことばが囁かれたのは現在ではなく過去であり、その過去が唐突によみがえっているのだ。それも前に書かれたことがらとは無関係に、つまり文脈を無視して。
この文脈の無視は、手紙の「追伸」がそうであるように、第三者にとっては文脈の無視ではあるけれど、当人たちにとっては語られなかった文脈の過去がある。共通の過去がある。
「あと、」は文脈の無視であると同時に、過去の文脈、置き去りにしてきた文脈の復活でもある。この過去による現在の活性化によって安川のことばは刺激的なものになっている。
ただし。
「《妻》、《夫》、《愛人X》そして《包帯》」という作品に関していえば、この「あと、」が効果的なのは先の引用部分だけである。同じ「あと、」の使い方が、《妻》から《愛人X》への手紙にも出てくる。
あと、夫に「逆走するのが下手ではないね」と言われました。意味がまったくわかりません。あと、夫の洗濯槽への柔軟剤をたらすそのたらし方が気にさわりました。
妻=愛人Xであることの種あかしだろうか。それとも安川は安川自身の「キーワード」に気がついていなくて無造作に「あと、」を使ってしまったのか。たしかに「キーワード」とは作者にとって無意識のことばだが、(というか、意識せずに使ってしまうことばだが)、読み返し、整理すべきだったろうと思う。
ことばが上滑りして動いていってしまうところがあるのが残念だ。