詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「朝、走る」

2007-07-18 08:35:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 白鳥信也「朝、走る」(「モーアシビ」10、2007年07月20日発行)
 朝の通勤ラッシュを描いている。いつも出会う男がいる。その男への悪意。

狐目のサラリーマン、またこいつだ

 1行で書かれた呼吸がいい。「狐目のサラリーマンまたこいつだ」と読点がない方がいいかなあ、と思う。読点がない方が、思考(感情)というより、「生理反応」(肉体感覚)が強くなると思う。読点があるために、反応がちょっとにぶくなる。「悪意」が薄れる。つまり……。

狐目が乗り込もうとするけれど
場所をゆずらない
先住民の無言の抵抗
二秒ほどで狐目はあきらめて俺を回り込む
小さな目標達成 職場でもこうありたいこうありたいが
狐目の狐耳の後ろに白髪がはえている
髪の毛全体を栗色まじりで染めている
それだけじゃないな
朝から髪の毛を数百回叩いて刺激を加えているまばら狐頭だ

 悪意に同情がまじる。
 こうなると、ちょっと(かなり?)つまらなくなる。「小さな目標達成 職場でもこうありたいこうありたいが」の呼吸が追い打ちをかける。
 「狐目のサラリーマン、またこいつだ」という読点のある呼吸が、ここではもうひとつ深呼吸するように「こうありたいこうありたいが」と胸の底へおりていく。こうなると人間の悪意というのは輝かなくなる。「生理反応」(肉体の反射的反応)ではなく、意識(?)というものが生まれる。(パニックに陥ったとき深呼吸をして肉体そのものをととのえ、肉体の落ち着きから精神を落ち着かせるのと幾分似ている。)
 白鳥は善良なサラリーマン(?)で、この深呼吸こそが白鳥の人間性を表わしているのだろうけれど、それではおもしろくない。詩は、ある意味では詩人の人間性など必要としていない。人間性を超えるもの、ここにないもの、ここにはないけれど、ほんとうは出現させてみたいものを求めている。たとえば通勤ラッシュで思わず抱く悪意の生々しさを。そして、そのことばのなかに自分自身の悪意を投げ捨てたい、放り込みたいと願うのが読者なのだ。

場所を譲ってやればよかった

 「悪意」からどんどん遠ざかって、白鳥の「苦労」「疲労」だけが漂いはじめる。「反省」ほど「悪意」から遠いもの、肉体の反射神経から遠いものはない。

見つけた
何が
希望と絶望がくっついているのが

 ランボーをもじってみても、なんだかやりきれない。
 「悪意」→「反省」→「抒情」というのでは、「善良」なサラリーマンの、「敗北主義」の「かなしみ」しか浮かび上がらない。

 白鳥のことばは「悪意」とは遠いところにこそ本質があるとわかって、まあ、人間性にふれることができてよかったといえばいえるのかもしれないけれど、詩を読んで楽しかった、という具合にはならない。
 「悪意」の呼吸ができない人間は、「悪意」を書くのは避けた方がいい。「悪意」の変質(善意への変化?)なんて、道徳の教科書みたいだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辻和人「いたっていいじゃん」

2007-07-18 00:25:31 | 詩(雑誌・同人誌)
 辻和人「いたっていいじゃん」(「モーアシビ」10、2007年07月20日発行)
 いくつかの文体が混じっている。1連目、2連目、3連目で文体が違っている。

鉄棒で逆上がりをしようとして何度も失敗し
果敢にまたチャレンジする子供たち-
そんな幽霊がいたっていいじゃんか
てゆーか、実際いるし
           
丁度通りがかった小さな公園にぽつんと鉄棒が置いてあった
鉄棒だけで他の遊具が全然ない
滑り台やら何やらもあったが取り払われて鉄棒だけが残ってる
それもいつかは撤去されて多分公園自体もなくなるんだろう

公園のまぢかな死
そう考えるとちょっと不気味だなー
なんて思ってたら

 2連目の文体がつまらない。4連目も同じ文体で書かれている。描写をきちんとしようとしたために文体が変わったのだと思う。その部分をもっと違った文体、1連目の4行目の文体で書くことができたらこの作品は傑作になったと思う。「公園のまぢかな死」ということば、「死」の強烈さが生きてきたのではないか。「てゆーか、実際いるし」という文体と地続きの「死」が生々しく浮かび上がったのではないかと思う。

着てる服の野暮ったさから見て
こいつらがここにいたのは70年代の初めくらいだろう
もうさっさと大人になって
今は会社員とか母親とか父親とかの役目を忙しくこなしてるに違いない
あっ、もしかしたらぼくより年上かもしれない

だけど、あッちゃー
蘇らせちゃったんだよな
君たちを立派な幽霊として

 「着てる服の野暮ったさから見て/こいつらがここにいたのは70年代の初めくらいだろう」の一筆書きのような批判がいいなあ。「もうさっさと大人になって」という痛烈な批判がいいなあ。そういうすばやい精神の動きと、「だけど、」からはじまる3行の軽やかさ。これは一体のものだね。
 そして、そういう一続きの精神の動きのスピードがあってこそ、

ぼくは心配する
鉄棒が撤去されたらお前たち、どうするの?
公園がなくなったらお前たち、どうするの?

 が自然に輝いてくる。
 「お前たち、どうするの?」はそっくり辻にかえってくる。
 鉄棒がなくなったら、公園がなくなったら、公園の鉄棒で逆上がりの練習をしたという辻の「思い出」はどうなってしまうんだろう。
 気になるよなあ。

 それはたぶん鉄棒や公園がなくなることの、一番の重大事なのである。逆上がりできないこどもが増えることよりも、逆上がりの練習をしたという「思い出」をもてなくなるこどもが増える--そのことが人間にとって重大事なのである。
 そういう重大事を、「てゆーか、」というようなかるーい、かるーい文体で語れるところが辻の文体の強さである。
 この文体を徹底して、2連目、4連目も書くことができれば、辻は文体を確立したと言えると思う。そこまで文体を鍛え上げてほしいと思った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井五月「鳥の定点」

2007-07-17 22:10:42 | 詩(雑誌・同人誌)

 藤井五月「鳥の定点」(「現代詩手帖」2007年07月号)
 第1連。

森を手に入れると、
机の水は
本を綴じる紐に変わる。
擦れた音を残して

 「机の水」をどうとらえるか。私は「机」の板(木材)の「水分」と読んだ。乾燥した板に「水」はないかもしれない。記憶だけかもしれない。「水」の記憶--それを読み取る人間の意識。それが「本を綴じる紐に変わる」。記憶がことばを綴じて行く。そして「本」という物語になる。「擦れた音」は本のページが擦れ合う音だろうか。それとも「机」の「水」の記憶の擦れる音だろうか。
 イメージが交錯し、ことばのなかへなかへと誘われる。
 冒頭の「森を手に入れると、」は「鳥」にとっての「森」だろう。人間の記憶と鳥の意識--鳥に意識があると想定する人間の意識が交錯し、わずか4行だが、それだけで深い深いことばの森にさまよい込んだ感じだ。

鋏が確かめるようにして山道を切り落としている。
柔らかい石と
歪んだ石の間に
千切れた羽根を残し

 私がさまよい込んだ「森」は、しかし普通の森ではない。「本」の(物語の)「森」なのだろう。書物の森とも言い換えてもいいかもしれない。だからこそ「鋏」で「森」のなかの道(山道)を切り落とすこともできる。
 こうしたことばの動き(運動)には、私はいつも魅了される。
 イメージが完結する前に動き、動くことで前のイメージを深めながら否定して行く。

 そのイメージが途中から不思議な感じで変質する。

貼りついた苔の、広い地面を剥いてしまう。
薄緑の波線に
音を投げ入れる人。
指の、指紋を剥いてしまう。

手に裸足の跡を残し、
消して行く。
書き写したいのに
白い紙が埋めつくす、湖岸で。

ビルは崩れる。
電話は鳴りやまない。
電子音に
傷ついた鳥を見ている。

 「人間」という抽象が、ふいに「私」という具体にかわり、肉体をもって動きはじめた感じがする。
 「指の指紋を剥いてしまう。」にあらわれた肉体。そして「剥いてしまう」という同じことばが「地面」と指紋」を結ぶことからはじまる空間と肉体の強引な(?)交錯。そしてそこから肉体がもう一度変化する。
 「電子音に/傷ついた鳥を見ている。」
 「電子音に/傷つく鳥」というのは、抽象的な存在なのに、奇妙に肉感的なのだ。というより、「剥いてしまう」で引き寄せられた肉体、「私」という存在の視線(肉眼)が強い力で迫ってくる。イメージではなく、肉体が迫りはじめる。
 この部分がもしかすると藤井の一番いい部分なのかもしれない。だが、私には書き出しの「連」と微妙に文体が違っているように感じる。
 次の連によって、その感じがいっそう強くなる。

針のついた布を
向かい合わせに羽織っているので
蝶番の扉の、
垂れた背中を撫でて

 この連の「蝶番の扉の、/垂れた背中を撫でて」は「本を綴じる紐」に通じる文体である(と私は感じる)。
 「水」「本」「紐」「鋏」「蝶番」に感じる尺度(距離感)と「電子音に/きずついた鳥」との距離感が、私の中で一致しない。間に「指紋を剥いてしまう」という肉体があるだけに、不思議な「先祖返り」のようなものも感じて、ちょっと困惑する。
 どちらを信じて読めばいいのかなあ、と悩んでしまうのである。

 悩みながら読むことばというものがあってもいい。そういうことは「頭」では理解できるけれど、実際に「悩み」に直面すると、私は困惑する。私の読み方は保守的なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春名純子『猫座まで』

2007-07-16 11:41:46 | 詩集
 春名純子『猫座まで』(編集工房ノア、2007年07月25日発行)
 ことばが既存の詩に流れてしまう部分がある。たとえば「十二月のイルミネーション」の書き出し。

海沿いの街のカフェはたそがれて

 それぞれのことばが、すでに何度も何度も多くの作品に登場している。春名のことばはそうしたことばに頼りすぎているかもしれない。きっと多くの人に受け入れられ語られることばの響きに安心するのだろう。
 こういうところに「詩」はすでに存在しない。それでもそういうことばを潜り抜けることは大切なことなのだ、と私は思う。人が潜り抜けたことばを全部潜り抜けてみること。それはある意味ではことばを鍛えることになる。響き、リズムが自然に身につく。
 春名のことばには多くのことばを潜り抜けてきた響き、リズムがある。その響き、リズムの果てに、突然、そうした響き、リズムの繰り返しだけがとらえることのできる世界があらわれる。
 「水底」。その全行。

魚でも
心に人が住む時は
幾重ともない水の輪を
吐いて潜むに違いない

人だって
心が湖になる時は
青い光に棲みながら
そんな魚に会えるだろう

魚の知らない幸せや
人の落としたかなしみの
青く漂う水底に
沈んでわたしは水を見る

 「魚」「水」「人」「かなしみ」。そうしたものの関係をきちんと説明することは難しい。ことばとことばを結ぶ深い深い何かがあるのだけれど、それを説明することはむずかしい。それにもかかわらず、このことばにふれると、春名が魚のように水底にいる、水底から世界をみつめていることがわかる。そして、その水底というのは「人の落としたかなしみ」が漂っているのだが、それは透明なものだということもわかる。透明ゆえに、春名はかなしいけれど、そのかなしみにたえていけるのだ(たえているのだ)ということが納得できる。
 春名のことばの響き、リズムは、日本語が積み重ねてきた響き、リズムと通い合いながら、そのことばの奥にある「かなしみ」と一体になっている。
 人がつかいつづけてきたことばには、そうした不思議な力がある。その力に春名は身をあずけている。あずけて安心している。そういうやすらぎのようなものがある。
 「かわせみ」のていねいな描写。そして、最後の

太陽が爪先を光らせて
水の上に降り立つ

 という輝き。新しいことは書いてないかもしれない。しかし、それは「古い」ということでもない。いまも確かに「ある」、「ありつづけている」存在のひとつの形式である。それをきちんと書くということは大切なことだ。
 「五月の町」の次の1行も大好きだ。

誰かの会話に わらびが混じる

 ふいに侵入してくる「生活」。それをしっかりと受け止める生活、暮らしの確かさがある。ことばの響き、リズムが生活を踏み外していないという安心感がある。
 ことばは、こんなふうにして一人一人の中で確実に支えられている、というなつかしさのようなものにひかれた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

齋藤健一『実体風貌』

2007-07-15 14:47:49 | 詩集
 齋藤健一『実体風貌』(穀物社、2003年01月01日発行)
         (谷内注・『実体風貌』の「実体」は旧字体)
 ことばが簡潔だ。その簡潔さは余分なものを剥ぎ取ることで真実に近づくという齋藤の基本的な姿勢を浮き彫りにする。
 「冬の日」の書き出し。

ぼくが六歳と五歳の息子ふたりの手をひいて家の近くを
歩くときの物悲しい充実はいったいどこからやってくる
のだろう。子供は父の手をしっかりと握りしめる。この
とき子供は親の心情をすべて了解している。

 「物悲しい充実」が美しいが、それに先立つ「家の近くを」という一語がとてもいい。知らない街や観光地ではない。十分知っている街。目をつむっても歩ける路。肉体になじんでいる路だ。
 その街と同様、息子の手も父にとってはなじみのあるものだ。何度も何度も握った手。その小さな手が父の手をしっかりと握りしめる。知らない街で、ではなく、いつもいつも遊び回っている「家の近く」で。
 「家の近く」が、この詩の一番いい部分である。
 「家」が「心情」を揺さぶるのである。



 齋藤のことばは、しずかに齋藤自身の肉体の内部へ内部へと沈み込む。「顔のはなし」の最後の2行。

みるみるうちに
ぼくはぼく自身になっている

 「なっていく」ではなく「なっている」。この「いる」が「物悲しい充実」につながる。「なっていく」なら「なっていかないように」することもできるかもしれない。しかし、齋藤はいつでも「なっている」ことを発見するのである。もちろん「なっていく」結果として「なっている」があるのかもしれないが、齋藤にはこの「なっていく」が欠落して、突然「なっている」状態を発見するだけなのである。
 「生成」ではなく「存在」としての齋藤。--そういうことを感じた。
 おなじ「顔のはなし」の、引用に先立つ部分。

ぼくは歩いている
ぼくはどこへも行かない

 「歩いている」にもかかわらず「どこへも行かない」。これが齋藤である。どこかへ行くということは、何かになるということだが、そういうことは齋藤には起きない。あるいは、そういう変化を齋藤は拒絶している。

海は何も見えない
それは歯の内側へ飛んでくる
荒い浪がおしよせてくる
しぶきは空高く舞いあがり
ぼくの中で破裂する
ぼくは熱い唇をかみしめる
まっ青な雲。
ぼくはてくてくと歩き、ぼくに出会う
ぱっちりと眼をひらいて。

ぼくはどこへもゆかない
ぼくは途方もなく立ち止まる
風邪の前で雪が落下しはじめる
花はぼくを知らない

 「ぼくは(略)ぼくに出会う」「ぼくは途方もなく立ち止まる」。立ち止まるために齋藤は詩を書く。立ち止まるとは「物悲しい充実」そのものとして、いま、ここに「いる」ことである。
 「存在論」としての詩、ということばが、ふっと浮かんだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ54)

2007-07-14 21:41:45 | 詩集

 入沢康夫「詩と私」(思潮社「現代詩文庫 続・入沢康夫詩集」収録)。
 短い文章だが、ここに入沢が詩について考えていることのエッセンスが書かれている。

 詩について、私にはかねてから一つの思い込みがある。それを、以前には<詩は表現ではない>という、いささかならず奇異な言い方で表明したことがあったが、その真意は、<詩の作品は、作者があらかじめ抱いたしかじかの感懐や印象を、読者に伝達するための手段ではない>ということで、これを逆の方向から言うならば、<読者は、作品を通して、作者の感懐や印象を受けとるのではない>ということになる。
 むしろ詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見するのであり、読者は、詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を発見するのだ。

 もちろん、入沢がこう書いているからといって、それがそのまま入沢の「思想」であると信じる必要はないかもしれない。しかし、私はここには入沢の本当に思っていること、考え続けていることが書かれていると信じる。(これまで「メモ」で書いてきたことは、この入沢のことばと矛盾しない。むしろ補いあうからだ。)

詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見するのであり、読者は、詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を発見するのだ。

 これは、「誤読」が生じる「原因」である。読者は「作者が言いたいこと」よりも「自分が読みたいこと」を優先する。その結果、「作者の言いたいこと」とは違ったことを読み取るという「誤読」が生まれる。
 --もちろん、これも、私が「読み取りたい」と思っていることを読み取っただけのことであり、「誤読」の一つかもしれない。

 入沢の本当に言いたいことは、そのあとに書かれていることがらかもしれない。

そして、この「言いたいこと」「読みたいこと」は、それぞれ、作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、普遍的な「真実」に達しているのでなければならない。

 この「普遍的な「真実」」は、たとえば「あの花は赤い」とか「花は美しい」といった「真実」とは違う。「A+B=C」というような「真実」とも違う。そういう「定まった状態にあるもの」とは違う。なぜなら、定まった状態にあるもの(こと)であるなら、それが「作者」と「読者」で違っていては「真実」とはなり得ない。作者が正しいのか、読者が正しいのか、二者択一のなかで、どちらかが「虚偽」になる。
 「それぞれ」。
 これが、入沢の「キーワード」である。
 作者にも「真実」があり、読者にも「真実」があり、そして、それは「それぞれ」普遍的な「真実」に到達している。--ここに書かれていることは「真実は一つである」というごく一般的な定義に反する。矛盾である。
 この「矛盾」を解消する方法がひとつある。(もっとあるかもしれないが、私が考えているのは「ひとつ」である。)
 入沢が「真実」と読んでいるものは、ある一定の状態(もの、こと、名詞)ではない。あることへ向けて動くことばの運動である。ことばが、ことばをかき分けながら何かを「発見する」。その「発見する」という動き(動詞)が「真実」なのである。
 「発見」の方法は一つではない。幾つでもある。そして、その「それぞれ」が皆、「真実」なのである。

 入沢は詩の「構造」についても何度か書いている。「構造」とは、たとえば建築物の柱があって、壁があって、床があって、階段があって、というようなことがらではない。「構造」によく似たことばに「構成」があるが、「構成」とも違う。
 「構造」は固定化しているが、入沢の言いたいことは「固定化した何か」ではない。動き続ける何か、動きをうながす何かである。動いたあとには「軌跡」が残る。その「軌跡」はたとえば階段をおりて地下室の扉を開けて、その壁を破ると宝石があるという形をとると、その「軌跡」そのもののありようとして「階段」「地下室」「壁」というような「構造」を残してしまうので、勘違いを引き起こしてしまうのだ。「発見」の「軌跡」を語るにはどうしても「建物の構造」を描かないことには語れない。だから「構造」を語ってしまうのだが、それは「副産物」なのである。入沢が「構造」ということばで浮かびあがらせたかったのは、「発見する」という行為、行動そのものである。

 「それぞれ」と通い合う「キーワード」が「詩と私」のなかにはもうひとつある。最初に引用した部分の、

これを逆の方向から言うと、

 「発見」の道筋はひとつではない。「それぞれ」にある。「逆の方向」からあることがらにたどりつくことも可能なのである。
 「方向」とここでも入沢は「名詞」をつかって説明しているが、そこに読み取るべきものは「名詞」ではなく、「名詞」に隠れている「動詞」なのである。「名詞」を「動詞」として解きほぐす--そのとき見えてくるものが入沢の「思想」である。「逆の方向」とは「逆から動かしてみると」ということである。「逆からたどってみると」ということである。

 「誤読」ということばも「名詞」である。これを「動詞」として解きほぐすとき、入沢がやっている試みが見えてくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大鐘敦子『森の囁き』

2007-07-14 14:54:27 | 詩集
 大鐘敦子『森の囁き』(思潮社、2007年06月30日発行)
 「漢字」で思考するのだろうか。「森の囁き」のなかほど。

限り無い出会いを見出し
限りある時を共有し
夢の中の邂逅を交感し
また眠りに就く

 「漢字」が多い。そして、この「漢字」が多いという印象は、不思議なことに、そこに「漢字」以外のものがまじるからだ。たとえば「夢」。たとえば「眠り」。もちろんそれも「漢字」で表記はされているが、「共有」とか「邂逅」「交感」という「漢字」とは違う。違うのだけれど、「共有」とか「邂逅」「交感」とは違うがゆえに、それらに汚染されて本来の美しさを失い、そのうしなわれた美しさが、また逆に「漢字」そのものの印象を強くする。
 「漢字熟語」が多い。そしてその漢字熟語にひっぱられる形で「漢字」そのものが多いという印象になるのかもしれない。
 いっそうのこと「無限の遭遇を発見し/有限の時間を共有し/夢幻の中原の邂逅を交感し/再度睡眠に就く」とでも書けば「漢字」が多いという印象は逆に消えたかもしれない。「夢」や「眠り」が「漢字」に汚染されているという印象とは違ってきたかもしれない。
 「漢字」が多い--という印象は、実は実際に漢字が多いからではなく、漢字と漢字以外のもののバランスが不自然に感じられるからである。それが「漢字」に汚染されているという印象を呼び起こすのだろう。この不自然というのは、もちろん私の印象であって、ほかの読者はそういうふうには感じないかもしれないが。

 言い換えると……。
 「漢字」をつかうときの対象(世界)との距離のとり方と、ひらがなをつかうときの対象(世界)との距離のとり方が違っている、「尺度」が違っているという印象がする。
 「漢字」。イメージが結晶化した世界、完結した世界(宇宙といった方がいいかもしれない)を大鐘は見ることができるのだろう。結晶のように完璧な美の世界が大鐘には見えるのだろう。そして、その完璧な宇宙へむけてことばを動かしていく。そういうスタイルの詩だ。
 たぶん大鐘には、大鐘の見ている宇宙が完璧だから、それを再現する詩も完璧である、という思いがあるのだろう。
 そうした思いはとても大切である。
 だが、大鐘に見える宇宙が完璧だからといって、それにあわせて完璧な「漢字」を持ち出してきても(たぶん大鐘の引き出しには「漢字」がいっぱい整理整頓されているのだろう)、完璧な宇宙というものは再現されるわけではない。
 「結晶」を持ち出して宇宙を飾るのではなく、宇宙の混沌に投げこむ一個の汚れた石が必要なのだ。大鐘が一個の汚れた石を宇宙に放り込めば、宇宙で動いているさまざまなものがそのまわりに集まってきて、いままでなかったものとして結晶する--宇宙というものはそういうものである。生成といっしょに存在するものである。詩とは、そういう生成の現場を揺り動かすことばのことである。そういうところでは、はじめから結晶してしまっている「漢字」は邪魔である。「漢字」と「漢字」がぶつかりあい、それは一瞬、きらきらと輝いて見えるのではあるけれど、新しい何かが誕生する美しさではない。また滅んでいく美しさ、破壊されていく美しさでもない。

 大鐘にとって必要なことは、引き出しのことばを全部捨ててしまうことだ。大鐘が美しいと思うことばを全部捨てて、そのあとにのこったことばで大鐘の「尺度」をつくりあげることだ。
 大鐘の作品の一部をなぞったふうに言えば、

漢字によって失った過去と
漢字によって掴んだ現在に訣別して

 大鐘自身の肉体の、その細胞の、そのうごめきが、「頭脳」(頭蓋骨)からほとばしり出るようにしむけなければならない。
 詩は、大鐘の書いていることばとは反対側にある、と私は思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広田修「神話」

2007-07-13 07:35:16 | 詩(雑誌・同人誌)
 広田修「神話」(「現代詩手帖」2007年07月号)。
 これも蜂飼耳が選んでいる「新人作品」の入選作。「2」の部分。

昔、その国の言葉を全て知っている賢者がい
た。だがあるとき賢者は、言葉を忘れていく
という重い病気にかかった。国の言葉のう
ち、あまり頻繁には使われない多くの言葉が
失われてしまうことを恐れた賢者は、ある機
械を発明した。その機械は、賢者の脳と何も
書かれていない本をつなぐもので、賢者の脳
から抜け落ちた言葉を、その意味とともに文
字として本に書き込むものだった。病気の進
行に伴って賢者が言葉を忘れていくにつれ、
本には少しずつ言葉が書き込まれていった。
賢者が全ての言葉を忘れたとき、本は完成し
た。この本を後世の人々は辞書と呼んだ。

 ことばへの愛着が感じられて、うれしくなる。詩とはことばなのだ。ことばが好きなひとが詩を書くのである。
 ことばへの愛着と同時に、広田には「発想」への愛着というものがあるのかもしれない。アイデアで読者を驚かせて楽しむ。話のなかに読者を引き込んで楽しむ。--発想の楽しいストーリーの、たとえば小説が好きなのかもしれない。
 ちょっと残念なのは、その発想に嘘がないことである。
 たとえば賢者と本をつなぐ機械。ここに嘘が紛れ込むととてもおもしろくなると思う。そんな機械などどこにもないのだから、どんな嘘を書いてもいいはずである。大きさとか、パイプの特徴とか、色とか、その瞬間に発する巨大な熱とか光とか……。
 そういう嘘があると、その嘘の機械がそのまま「辞書」の構造のようになり、楽しいのではないだろうか。
 今のままでは、ちょっとした「メモ」という感じがしてしまう。
 もっとも、この「神話」が 200くらい集まれば、それはまた印象が違ってくる。7月号に書かれているのは「時計」「辞書」「綱渡り」「椅子」の4つなので、これがこれから先、どこまで増えるのか楽しみに待ちたい。書いているうちに文体も変化してくるだろう。それもたのしみである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塚本一期「外灯」

2007-07-12 22:23:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 塚本一期「外灯」(「現代詩手帖」2007年07月号)。
 「新人欄」の入選作。その1連目。

あさの四時に
ごみ捨てにいって
そのかえりに
ひろばに立って
芝生をみていた
芝生は夜の青色とか
もってうまれた緑色とか
それと外灯のあかりと混じって
ふしぎにひかって

 「いって」「立って」「混じって」「ひかって」。動詞の連用形+接続助詞。動作がとまらないまま、動いて行く。動きが、そのままどこかへつづいていく感じ。「……って」を繰り返しののち、塚本は、ふしぎなことに、その動きの延長、未来ではなく、その動きの出発点を引き寄せる。
 2連目を省略して、3連目。

立っていると
こどもになっているというか
生まれると おもって
生まれたとおもったんだな
その芝生みたいな
そういうものから
それで母さんがいることを
おもいだした

 「その芝生」「そういうもの」「それで」。「その、それ」。先行することばを指し示すことば。「……って」の運動にのって、さらにさらに過去へ、資源へと意識をさかのぼらせる。
 そうしたことばに先行して「生まれる」「生まれた」があるのだけれど、「……って」と「その」「そういう」「それ」という指示代名詞が複合することで、資源、「生まれる」へ意識を動かしている。
 塚本はそういうことを意識していないかもしれない。たぶん、していない。ことばが塚本を動かして、詩を「書かせている」のだ。
 詩は自分で書くと同時に、ことばに書かせられるものでもある。書かせられてしまったことばを、どれだけ消さずに残せるかが詩人の資質のひとつだろうと思う。

 最終連。

みんなくるくるまわってそこから
出てきたんじゃないかとおもった
すごくきれいだったんだだから
そうだったらいいっていうか
そのほうがすごく
いいんじゃないかとおもって

 終止形を避け、あえて「……って」という形をとる。そうすることで、運動の動きをとめてしまわない。動いたままにしておく。解放したままのことばを方々に置くことで、言語空間そのものを解き放ち、いま、ここにあるものの前の(?)の世界を呼びよせる。
 そのとき、あたらしい世界が「生まれる」(生まれた)。
 こういう誕生(はじまり)は「すごく/いいんじゃないか」と思う。

 6月号の作品もそうだったが、蜂飼耳の選ぶ作品はとてもおもしろい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高塚かず子「噴水」

2007-07-11 15:09:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 高塚かず子「噴水」(「something 5 」、2007年06月25日発行)
 「混声合唱とピアノのための組曲・水の旅」のなかの1篇。

爛漫の桜
らんまんのさくら

 書き出しのこの2行。読んだ瞬間音楽が聞こえたような錯覚に襲われた。「合唱」のなかで、明確に違った音として響くこと、違いながらも重なり合って響くことを期待して高塚は書いたのだと思う。ことばを提供するだけではなく、音そのものも提供しているのだ。

水はきらめく 噴きあげる
霞が池と呼びかわして
水はささやく
ひとのいとなみ
旅の途中のできごとを

さあさあとしなしなと
水はきらめく 噴きあげる

らんまんのさくら
見あげる母の腕のなかで
赤ちゃんが不意に
むちむちした手を振る
赤ちゃんだけに見えたのは
ほほえみかけた 水の妖精

あ いま 噴水に溶けていく

 「さあさあとしなしなと/水はきらめく 噴きあげる」の2行が美しい。そして何より、最後の「あ いま 噴水に溶けていく」が耳線(視線のように「耳」にも音をおいかけるものがあると仮定してだが)がひっぱられて行く感じがする。
 合唱曲になったものを聞いてみたいと思った。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ53)

2007-07-11 14:38:14 | 詩集
 入沢康夫『詩の構造についての覚書』(思潮社、2002年10月20日発行、増補改訂新版)。
 入沢がこの詩論集で書いていることはひとつである。「詩」の成立には「詩人」「発話者」「主人公」が関係している。この3者は混同される。しかし、入沢はこれを混同してはならないという。

 《作者》と《発話者》は区別されねばならず、それはどんな詩においても詩作品であるかぎり(いわゆる私詩的といわれる詩においても)そうなのだ

 そのわかりやすい例として入沢は与謝野寛の「誠之助の死」を取り上げている。

大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。

 与謝野は大石誠之助の死を「いい気味」とは少しも思っていない。これは与謝野と発話者がおなじ考えをもっていないという証拠である。作者と発話者は同一人物ではない。そして、このことについてさらに補足している。

 感慨をそのまま書きつけることは危険であり、どうしても反語的表現をとらざるを得なかった

 この反語は、時代相や社会情勢によって強いられた反語である以上に、(作者がそれを明確に意識していたかどうかは別として)作品自体の要請による反語ではないのか。

 反語を用いて書く方が作品自体として強烈になる。自立する。入沢は、そういうのである。
 そのとおりだと思う。
 そして、ここから私は入沢の考えと少し違ったことを考えるのである。(あるいは入沢の考えていることを、別の角度から言い直してみたい気持ちにかられるのである。)
 作品自体か要請する「反語」という「構造」。そこを出発点にして見つめなおすとき、作者(与謝野)と発話者(「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」と言っている人物)は一致するのではないのか。
 「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「言説」が、時代に、社会に隠れている。それを表面に引き出す。引き出して、くっきり見えるようにする。それは、その「言説」に同調するためではなく、その「言説」がおかしいと読んだ人に感じてもらうためである。
 「読者」を想定し、「反語」という「構造」のなかに「読者」を引き込む。「反語」という「構造」のなかで「読者」と「発話者」が重なる。おなじ感覚を共有する。そのとき、「読者」は「反語」という「構造」のなかで「作者」と「読者」が重なるのを見る。「反語」で書かれた悲しみ、苦悩、怒りが「読者」と「作者」のあいだで共有される。そのとき「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」ということばは消える。

 「詩は表現ではない」というもう一つの重要なテーマがあるが、その「表現」とは、たとえば今引いた「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「意味」、見かけの「伝達内容」を指している。
 詩は、それでは何か。
 「読者」と「作者」のあいだで怒り、悲しみが共有されたとき、そこに書かれていたことばが「消える」ということの、「消える」という運動が詩なのである。
 消えて何が残るか。
 ことばが「反語」という運動をした、その運動の「構造」(運動の軌跡)が詩なのである。

 この「消える」を入沢は、サルトルのことばを借りながら言い直している。サルトルの「作家の政治参加」を引用している。

話すということが、意味の伝達ということならば、創造された事物(作品)は沈黙に匹敵する。もし書くということが伝達することによって成立っているのだとすれば、文学作品は言語を超えた沈黙による伝達として現れる

 「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「表現」(内容=意味)は、それを超越した「沈黙」、そのことばを「消してしまう」巨大な「沈黙」による伝達としてあらわれる。「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」ということばを批判することばはいっさいあらわれない。むしろ、そのことばが流布する。そして、流布しながら、そのことばの「意味」を消してしまう力が読者のなかで育つ。沈黙が育つ。
 詩にかぎらず、文学とはことばになっていないものを言語化する行為である。ことばになっていないものであるから、それは最終的にはことばを超えたもの「沈黙」によって共有されるのである。
 そのとき残るのも、「沈黙」ではない。「沈黙」にいたることばの運動である。運動の「構造」である。

 この「構造」を入沢は次のように言い換えている。

詩とは、語を素材とする芸術ではなく、言葉関係自体を、いや、言葉関係自体と作者(または読者)との関係そのものさえをも素材とするといった体の芸術行為である

 「誠之助の死」を読んだときの印象にもどると、入沢の言っていることがわかりやすい。「誠之助の死」が「詩」として成立するのは、「読者」が「反語」という「構造」を受け入れ、「読者」のなかで「大石誠之助は死にました、/いい気味な、」という「表現」(意味)が「消える」とき(「沈黙」にかわるとき)である。「読者」が存在し、「読者」のなかに「構造」が残らないかぎり(その「構造」が成立しないかぎり)、詩は存在しない。

 この「構造」は、そして「読者」がつくりだすものである。「作者」が「反語」という「構造」をつくりあげても、その「構造」に見合ったものを「読者」が作り上げないかぎり、それは「反語」とはならず、冷たい批判そのものとして流布してしまう。
 「読者」のなかに、どんな「構造」を呼び覚ますか。言語はどんな運動ができると覚醒させるか--それが入沢の詩を書く理由だろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野谷美智子『コレクション』

2007-07-10 14:57:54 | 詩集
 野谷美智子『コレクション』(洛西書院、2007年07月15日発行)
 不思議な文体である。ことばの奥にもっと別のことばがある、という印象がある。最初は舌足らずな感じ。そして足りない分だけ象徴性が強いという印象。その象徴性にひっぱられるように読むのだが、すぐには何かが出てくるという感じでもない。
 ほんとうに書きたい何かがあるのだが、その何かを正確に書くために、余分なことばを脇へよけるようにしてことばが進んで行く--そんなふうにことばを書き進めている姿が目に浮かぶ。
 タイトルになっている「コレクション」が一番おもしろかった。

一本の線があって
それが国境である
指は そのどちら側でも
同じように動く

指を買いませんか
という声を聞いた

指を売りませんか
という声を聞いた



女はいくつもの棚を作り 指を飾っている 銀色の指
無花果を掴んだままの指 水がめの中に浮いている指
なめまわしたい 噛み切りたい 撫でてほしい 女は
そっと溜息をつく

それにしてもエルグレコの絵の中の指が忘れられない
ひどいボロをまとった男でも指だけは違う 天蓋のつ
いた寝台で 絹の夜具をすべらせて愛撫をくり返した手
だ 十字架を担うキリストもそう キリストは確かに死
んだあの指だけは死んでいないと思ってしまう

女はいつもその棚に戻る ヴァイオリンを奏でている指
がある 聞こえる筈のない旋律がまわりを浸し 眼の中
一杯に指の影が乱舞する 痛みと痒さがからみあい 絶
望的な指との遠さに耐えきれず 女は声を上げる あの
時の あの人の指が消えていく

 「指」がさまざまに変化する。そして、その変化の奥に「あの人の」記憶がある。
 棚にある「指」はすべて記憶の指。「銀色の指」はどこで見た指だろうか。エルグレコの絵のなかでないのは確かだ。(エルグレコの描いた指は、そのあとで明確に書かれているのだから)無花果を掴んだままの指は芝居で見た指だろうか。水瓶のなかに浮いている指は本で読んだ指だろうか。
 指。指。指。
 記憶が積み重なって、記憶を解きほぐす。記憶が積み重なって、記憶の奥からほんとうの指があらわれてくる。ほんとうの指があらわれるまで、野谷はことばを積み重ねる。指を拾い集める。

 「指」は形を変えて別の作品にも登場する。「くせ」。

あきもせずテレビドラマを見ている
ありふれた話だと思いながら
何度も手の爪の生えぎわをむしっている
むずがゆい感じで
生えぎわの皮がはがれてくる
うすくつながっている皮を
無理にひきちぎると
痛いけれど息をのむ快感がある

 甘皮のことだろうか。ささくれをひきちぎる。
 「むずがゆい」「痛い」は「コレクション」のなかにあった「痛みと痒さがからみあい」に通じる。
 野谷の感覚は触覚に集中し、だからこそ触覚と深い関係のある「指」に思いが集まるのかもしれない。
 そっとそっと、慎重にことばを重ねながら、最後は「無理」を承知で「ひきちぎる」。その瞬間血がにじむ。その感じが快感なのだろう。指先にとどまらず、野谷の一番大切な部分へと、その快感はつながっていくのだろう。
 「くせ」の最後の2行。

爪の生えぎわから血がにじみだすと
乳房の先がピリピリする

 この告白(?)は美しい。肉体がある。肉体がある、という美しさだ。野谷に会ってみたいなあ、という欲望にそそられる。



 抑制されていたことばが野谷に逆襲して(?)、ふいに動くのだろうか。そのとき、野谷がふいに身を隠すことを忘れて表に出てしまうのだろうか。そういう部分に、何とも言えない不思議な魅力がある。「街角」の次の部分も印象的だ。

そうだ
呼吸をしているというだけで
ヒトは安心してヒトを憎むことができるのだ
大勢のヒトと
黙ってすれ違っていくこともできるのだ
死んだ人には
何か余分な言葉が要るようで

 「そうだ」とは、確かに野谷がつかっているように、自分自身のそれまでの考えから別の考えへ突き進むための掛け声かもしれない。
 「コレクション」にはいくつもの「そうだ」が隠れれている。書かれていないけれど、連と連の変わり目、その1行空きに「そうだ」を補って読むと、野谷のこころの動きがよりリアルに伝わってくるかもしれない。
 「そうだ」と声にならない声を出して、野谷は、連から連へと渡り、自分自身へ近づく。肉体へ近づく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋有『夕子ちゃんの近道』

2007-07-10 12:08:41 | その他(音楽、小説etc)
 長嶋有夕子ちゃんの近道』(新潮社、2006年04月30日発行)
 第1回大江健三郎賞の受賞作。連作。「夕子ちゃんの近道」について大江健三郎は

窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶかわからないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。

 を取り上げて、受賞の決め手にしたというようなことをどこかの新聞で語っていた。
 「なんと呼ぶかわからないが」。
 この節はほんとうにおもしろいと思う。普通、小説は「なんと呼ぶかわからないが」というものを「地」には書かない。書いていない。読者が知っていようが知るまいが、無関係に製品名を書く。知らなければ読者が調べればいいのである。
 「なんと呼ぶかわからないが」がそのまま「地」の部分になっているということは、それが実は主人公の「視点」をそのまま反映しているからだ。そして、その「視点」の反映のさせ方が自然なのだ。主人公にもわからないことはたくさんある。それをわからないということばそのままに取り込み、そのときにできる主人公と世界との距離(尺度)を一定に守り続ける。そこから独自の世界がひろがりはじめる。
 たしかに象徴的な文章だと思う。

 ほかの作品を読んだことがないのではっきりしないが、「地」に主人公の感覚をそのまま持ち込むときの手法が少し風変わりなのは長嶋の特徴かもしれない。
 会話の部分も独特の書き方をしている。

「うち、風呂ないですよ」銭湯ですよ、知ってるでしょう。
「あるでしょう、風呂」瑞枝さんはうんと若い頃にフラココ屋の二階に住んでいたのだ。
「あるけど、物置になっているんです」もうずっと使われてないみたいです。

 普通は、

「うち、風呂ないですよ。銭湯ですよ、知ってるでしょう」
「あるでしょう、風呂」瑞枝さんはうんと若い頃にフラココ屋の二階に住んでいたのだ。
「あるけど、物置になっているんです。もうずっと使われてないみたいです」

 と書くだろう。主人公の話したことばをわざわざ「 」の外へ出したりはしないだろう。
 主人公は、実際に声に出したのはどこまでなのだろう。
 作者が「 」のなかに入れていることばが実際に声になったことばであり、「 」の外のことばは主人公がこころの中で思っただけのことばかもしれない。たしかに、そんなふうにつかいわけているのだ。
 ひとはことばにして相手にいうことばと、思っていても声にしないことばがある。そして、その思っていても声にしないことばは、では通じないかというと、通じる。現実の場では、長嶋が「 」の外に出していることばは発言されなくても、言外の意味として明確に伝わってくる。
 長嶋は、こうした「言外の意味」(言外のことば)をくっきりと聞き取る耳をもっているのだろう。その耳に特徴があるのだろう。

 洗濯物干しの描写にでてきた「なんと呼ぶかわからないが」も、実は「言外の意味」(言外のことば)である。

窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、なんと呼ぶかわからないが、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。

 から「なんと呼ぶかわからないが」を省略してみると、そのことがよくわかる。

窓の外では洗濯ばさみのたくさんついた、靴下やパンツを干せるプラスチック製のものが物干し竿に揺れている。

 現実の風景は少しもかわらない。小説のなりゆきにどんな変化もない--と一瞬思ってしまう。
 ところがそうではない。
 「なんと呼ぶかわからないが」によって、主人公の人間性に深みが出てくる。主人公の生き方、考え方が、主張という形ではなく、じわーっとにじみでてくる。
 長嶋はたしかに新しい文体を確立したのだと思う。大江健三郎は、新しい文体の小説を探し出し、そこに小説の、文学の可能性を見出そうとしているのだと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田島安江「発酵する日」

2007-07-09 12:54:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 田島安江「発酵する日」(something 5、2007年06月25日発行)

真昼の台所で
味噌づくりをはじめる
ゆでた大豆をつぶして麹を混ぜ
塩をぱらぱらとふり
さっくりと混ぜ合わせていく
麹も塩も
知り合ったばかりの男女のように
そっけなく冷やか

 「知り合ったばかりの男女のように」がいい。ここから当然大豆と麹(塩)はとけあってゆく。
 その2連目がすばらしい。

夜ふけて
麹たちは深呼吸しながら
ふわふわはカラダを揺らしている
聞こえないほどの小さな声で
おしゃべりをしている
それは大豆と塩との睦まじい戯言で
深い夜のしじまのなかで
麹も塩も変わろうとしているらしい
大豆も塩も溶けてなれあい
自分をなくしていく
ふわっと布をかけてやると
おしゃべりが止む
麹たちのため息が満ちて
味噌に変わる瞬間を待ちわびている
跡形もなく消え去る
塩の心を知っているらしい

 「深呼吸」「カラダ」「小さな声」「おしゃべり」「睦まじい戯言」「なれあい」。全部セックスである。セックスを想像させるように書いている。しかし、むりがない。とくに、

ふわっと布をかけてやると
おしゃべりが止む

 が絶妙である。
 味噌をつくったことがあるひとなら知っていると思うが、実際に麹が発酵するときのざわめきのようなものが布をかけるとふっと静かになる。布は埃をさけるためなのか、保温のためなのか知らないが、その瞬間にやってくる沈黙は、田島の詩を読んだあとでなら、たしかにエクスタシーの予兆なのだ、自己を超越して何かにかわるための予兆の沈黙なのだとわかる。
 3連目もすばらしい。

朝の台所には
みめ汁のために用意した
葱の生くさい匂いが充満する
葱坊主をつむとき
ぽんとかすかに乾いた音がして
手にぬらりとまとわりつく
あの人への粘着質の殺意と欲望
発酵するふたりのあした
ちいさなわだかまりが
長い糸を引きながら落下する

 最後の1行は、私の「好み」にあわないので省略した。「あの人への粘着質の殺意と欲望」の「粘着質」も私にはうるさく感じる。ない方がすっきりする。2連目の美しさがきわだつ。「粘着質」以降、ことばが少し「頭」に傾いている。「ぽんとかすかに乾いた音がして/手にぬらりとまとわりつく」という、葱坊主をつんだことのある人にしかわからないような、やわらかな感じ、肉体に眠る記憶を呼び覚ます美しさが、「頭」で書かれた「粘着質」以降、消えて行くのが残念である。
 「ぱらぱら」「さっくり」「そっけなく」「冷やか」(1連目)、「ふわふわ」「ふわっと」(2連目)、「ぽんと」(3連目)。そうやって積み重ねてきたことばが「粘着質」によって別なものになってしまう。異次元になってしまう。それがとても残念。
 とてもいい詩なので、あえて最後に気に食わない部分を指摘しておく。



 「粘着質」と関係があるのかどうかわからないが、もう一か所、実は気にかかった部分がある。1連目「知り合ったばかりの男女のように」。あ、女性も「男女」というふうに「男」を先にして二人の関係を思い描くのかな? それが疑問だった。味噌のできる過程は、ゆっくり大豆、麹、塩のセックスにときほぐされているのに、二人の出会いは「男女」と「流通していることば」そのままである。これでいいのかな? もっと違った書き方があったのではないのかな?
 
「女性詩」という呼び方がある。
 私は実は、「知り合ったばかりの男女のように」というような行に「女性」を感じる。「男女」という部分に「女性」を感じる。それは「男性」と対比することで存在する人間という意味である。夜更けの麹、大豆、塩のむつごと--それを聞き取る耳には「女性」ではなく、人間を感じる。いのちを感じる。ところが「男女」という表現には「いのち」を感じない--こう書けば、私のいいたいことが伝わるだろうか。
 「粘着質」もおなじである。

 私は「女性詩」が嫌いである。



 おなじ号の「猫の気分」の、

猫がのこした空間に苦い水がしみる

 この行も美しい。この行も「頭」で書かれた行として分類することができる。ただし、「男女」のように「男」の「頭」に汚染されていない。「男」「女」という制度とは無縁の「頭」である。
 こういう行は大好きだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ52)

2007-07-09 11:44:09 | 詩集
 入沢康夫『詩の構造についての覚書』(思潮社、2002年10月20日発行、増補改訂新版)。
 入沢は、ことばを「作者」(発話者)と「読者」の両側から見ている。

 言葉というものは--ここで言葉というのは、一個もしくは一個以上の単語の連なりを指すが--いかなる言葉でも、それが発せられる(口から、あるいは文字として)ときには、発話者との《関係において》発せられているのであり、それが受けとられる(耳で、あるいは目で、そして結局は脳で)ときには、受け取り手との《関係において》受けとられているのだ。あたりまえのことではないか? そう、あたりまえのことである。だが、このあたりまえのことに、いましばらくかかずらわっておかねばならないとぼくは思う。

 ことばには「発話者」の「関係」が含まれる。しかし、「読者」はそのことばを「発話者」の関係のみでとらえるのではない。「読者」自身との関係でとらえなおす。
 ここに「ずれ」が生じる。
 この「ずれ」を「誤読」と言ってしまうと簡単である。ただし、その「誤読」をどう評価するか。「誤読」だから間違っている、というのが一般的な考え方のようである。入沢は簡単にはそうした考えには傾いていない。
 「誤読」というとき、何を「誤読」したことになるのだろうか。発話者の意図? 発話者の感情?
 発話者の意図を「誤読」することが「誤読」とはかぎらない場合がある。

 「詩」から少し(かなり?)離れる。きょう07月09日の朝日新聞におもしろい記事が載っている。赤城農相の事務所費をめぐって野党と論戦したときのものである。赤城農相は彼の両親の家に事務所をかまえ、架空の経費を計上したという疑惑をもたれている。

 「光熱費は月に 800円ですよ。 800円で辞任を要求するんですか」

 安部首相は、そう弁護している。これに対して、朝日新聞の記者は「事実」をあげて批判している。

 首相は用意した紙に目を落としながら、野党党首たちに反論した。「月 800円」は過去10年で最小の光熱費だった05年の年9660円を月割りしたもの。最多の99年なら、年約 132万円になる。

 首相は赤城農相の「意図」を正確に読み取り「月 800円」という数字で野党に反論したもの。その論理を逆手にとって、朝日新聞は、では99年の場合は? と紙上で質問している。
 --しかし、こんな反論でいいのだろうか? 朝日新聞の反論の仕方にしたがえば、99年は正確であり、05年は間違っているということになるが、こういう反論の仕方では、たぶん「事務所の活動状態が年によって違っているから差が出て当然」という赤城農相(安部首相)の「意図」にそった結論が導き出されてしまう。発話者と「ことば」との「関係」に飲み込まれてしまう。これでは「反論」にならない。
 光熱費が月に 800円? そんなことがありうるのか。電灯をつけようがつけまいが、月々の基本料金というものがあるはずである。 800円しかかからないということ自体、その「事務所」が架空のものであった証拠だろう。「ことば」を発話者の関係する「状況」を点検するようにして探らなければほんとうのことはわからない。
 首相の弁護は意図的な「誤読」である。赤城農相の「意図」にそった、意図的なものである。
 現実の日常、電気代を月々いくら払うか、払っているかという「庶民」の日常、そこで動いていることば、月々たとえば 1万5000円払っていることとの差から月 800円という「状況」を洗い直す--そこから浮かび上がる事実をつきつける、という反論でなければ、ほんとうの反論にはならないだろう。

 「誤読」されることを狙って発言されることばもある。「月 800円」は「誤読」を誘導する「論理的」な読み方である。

 「月 800円で辞任要求」するのではない。「月 800円だから」辞任要求するのである。嘘をついているから辞任要求するのである。



 文学(詩)においても、こういう「誤読」を誘うことばはある。特に入沢の作品には、そういうものがある。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」がそうしたものだと思う。あたかも「エスキス」以前に、いくつかの草稿があったかのように装った作品群。それ以前に草稿があったと「誤読」させる構造。
 --文学は政治のことばではないから、こういうことは罪にはならない。「誤読」に誘導されるのも楽しい。「誤読」に誘導されずに、そこからほかの読み方を探すのも楽しい。
 作者に作者とことばの関係があるなら、読者には読者とことばの関係がある。読者自身の関係を大切にして、作者の意図とは違った方向へ遊んでみる。そこに思いもかけなかったもの--読者自身の「本心」というものが立ち上がってくるときがある。そのとき、読者は作者の「意図」を「誤読」したのだけれど、同時に読者自身の「意図」を発見し、読者にとっての真実に近づく。そういうことがある。
 入沢は、そういう「誤読」を願っている。
 入沢自身のことばのなかに、誰かほかの人が書いたことばが紛れ込んでいる部分を読むと、強くそう感じる。
 「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」。それは宮沢賢治を「誤読」し、「誤読」のなかで語りたい入沢の本心をあぶりだしている。ことばはどんなふうに読まれたがっているか--そういう「夢」が書かれている。ことばがどんなふうに読まれたがっているかということを浮き彫りにするために、入沢は複数の作品を書いて「誤読」という世界へ読者を誘っているのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする