詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「数枚シナリオ 痛い門出」

2008-11-23 09:24:11 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「数枚シナリオ 痛い門出」(「白黒目」14、2008年11月発行)

 「数枚シナリオ」とは文字通り数枚のシナリオである。映画のためのシナリオである。数枚だから、ストーリーの大きな流れはない。ある一瞬の描写があるだけだ。けれど、これがとてもおもしろい。
 2つめのシーン。

○吉村藤吉の表札(一軒家)
   ゆりかが庭でチリ取りを持っている。
ゆりか「何ですか」
英「なつかしいなあ。ゆりちゃんでしょ。ホラ、カラオケ屋で毎日生活していただろ。ホラ 何だったかなあ あの唄」
ゆりか「(笑って)英ちゃんでしょ」

 昔(高校時代、とその前のシーンには説明がある)付き合っていた「彼女」との再会。ふたりはともに31歳という設定だから15年ほど時が過ぎ去っている。そのふたりが会って、ふいに「過去」を思い出している。共有する「思い出」があるので、「ホラ」とか「何だったかなあ」だけで通じる。そういう状況を、せりふそのものとして引き出してくる。これは簡単なようでいて、なかなかむずかしい。
 他のシーンもそうだが、登場人物の「過去」を、豊原は具体的に書いていない。映画を想定して、そのときの役者の肉体にまかせてしまっている。役者はそれぞれ肉体を持っていて、肉体を持っていると同時に「過去」も持っている。「肉体」は「過去」から出来上がっている。その「過去」にまかせきっている。
 豊原がいったい役者の誰を想定して書いているのかよくわからないが(たぶん、豊原自身と、実際の「彼女」自身だと思うが)、この短いせりふのなかには、きちんと「過去」がある。「過去」を感じさせることばの不思議な生々しさがある。

 最後のシーンの、ふたりのやりとり。

ゆりか「時たま会いに来てね。時たま、いっしょにカラオケ行こう。
 あたし働いていないのよ。する事なくて一回 やくざとも付き合ったんだけれど…」
英「(目を細めて)ほんま、くるしいなあ。」

 あ、いいなあ。「ほんま、くるしいなあ。」の未来を断ち切るような「過去」の噴出のさせ方。「現在」を「過去」がぶち破って、「未来」が「現在」に侵入して来ないようにする。その「過去」と「現在」の固い結びつき。「現在」がたたき壊されているにもかかわらず、そこに強い結びつきがある。そういう結びつきを具現化する口語。口語の肉体。この後、ふたりはふいに死ぬ。それしか方法がない、ということが、たったこれだけのやりとりで、くっきりと伝わってくる。
 これは、すごい。

 豊原は詩人としても俳人としても強烈だが、散文を書くともっとすごいことになる。そういう予感がする。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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リッツォス「証言B(1966)」より(15)中井久夫訳

2008-11-23 00:27:32 | リッツォス(中井久夫訳)
小道具   リッツォス(中井久夫訳)

もう何もすることがなかった。彼はこれでよしとする。陽は美しく
大きく輝き、島は影である。
彼は五階に登る。水差を見る。
つややかで、断固透明である。無論知っている、
下の歩道では黒い西瓜の種が吐き散らされ、
陽に乾いているのを。
女が一人、通りの向うのシャッターの陰から覗いている。
鏡の光が彼女の周りにちらちら戯れる。
彼女の片手は金色、もう一方は赤。



 これはギリシアの真昼。自然の美(宇宙の美)と人間の暮らしが対比される。歩道の西瓜の種は暮らしのだらしなさを象徴している。人間の生活の汚れを象徴している。しかし、それがあるからこそ美がより強烈に響く。

つややかで、断固透明である。

 この「断固」が強い。すべての汚れをはねつける。真昼の太陽そのものである。剛直で鋭い。
 この「断固」たる美に匹敵するものを、彼は知っている。人間の暮らしのなかにあることを知っている。歩道に西瓜の種がまき散らされているのを知っているのと同じように知っている。
 通りの向こうに住む女。
 そして、彼は見られているのも知っている。互いに見つめ合っている。覗くようにして。見られていることを知っているから、女は手に何かを持っている。この何かをこの詩は書いてはいない。書かないことによって、読者に、その美の完成をまかせている。

 さて、どうしよう、と私は悩む。
 「金色」。これは産毛だろうか。腕の産毛が真昼の光を受けて輝いている。「赤」は? 西瓜? 西瓜だとしたら、食べている姿を見せていることになる。これは、非常に色っぽい。彼女は、西瓜を食べながら歩道に新しい種をまき散らす。その口の動き。唇の動き。見られていることを知っている目の動き。とても、色っぽい。


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リッツォス「証言B(1966)」より(14)中井久夫訳

2008-11-22 00:49:44 | リッツォス(中井久夫訳)
姿勢   リッツォス(中井久夫訳)

彼は素裸で浜に立った。
空が髪を嘗めた。
海が足を嘗めた。
夕日が赤いリボンを十字に胸に掛け、
腰のところで結んだ。
リボンの片端が左の肘に付いた。



 夕日の浜辺。「彼」は青年だろう。全身が宇宙と一体になる。夕日がその裸体を祝福している--ということなのだろう。
 と、想像してみる。
 そして、この詩のなかに描かれているのは「時間」なのだと思う。
 「彼」が素裸で浜に立ったのはいつのことだろう。それは「いま」ではない。立っている「彼」の髪を空が嘗めてた。そのあと、潮が満ちてきた。足元まで押し寄せてきた。足を嘗めた。
 太陽は天空から水平線に近付く。そのとき、夕日が赤く、「彼」の胸を照らす。腰を照らす。夕焼けの色は広がり、肘にも触れる。
 太陽が動き、潮の満ち引きがあり、と宇宙は動いている。その変化が「夕日」の「赤いリボン」に象徴されている。
 一方、そういう宇宙の時間、天体の動きとは別に、「彼」は不動でいる。

 美は不動である。そう告げているのかもしれない。完璧なギリシャ彫刻のような裸体を思い浮かべる。永遠の美というものを思う。そういうものだけが、宇宙の祝福を受けることができる。
 永遠のギリシャの夢--そう思うのは、ギリシャの遠い遠い昔しか知らないからだろうか。そういう夢想としてのギリシャしか知らないためだろうか。


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ジョージ・クルーニー監督「かけひきは、恋のはじまり」(★★★)

2008-11-21 23:31:13 | 映画
出演 ジョージ・クルーニー、レニー・ゼルウィガー

 アメリカン・フットボールの初期の頃の様子がおもしろい。防具は何もないに等しい。こんな格好でぶつかりあって大丈夫? もちろん、大丈夫じゃない。それが最後の最後の場面で生かされる。アメフトのフィールドも芝生ではない。(人工芝生ではもちろんない。)え、こんな状態でやっていたの? 雨が降ったらどうなるの? という心配も、最後のシーンで生かされる。
 この映画は、ようするに、古い時代の、人間がまだ自分の体力と智恵でがんばっていた姿を再現している。何もかもが組織化されず、個人の工夫にまかされていた時代の、手触りを再現しようとした映画である。
 個人の力でできることというのは限界がある。それでも自分の望みをかなえたい。こういうとき、ひとはどうするか。「反則」をする。どんなふうに「反則」をしながら生きていくか。どんな「反則」なら相手に受け入れてもらえるか。そういう駆け引きの楽しみを再現した映画である。
 この駆け引きを、ジョージ・クルーニーが楽しく演じている。

 アメフトにかぎらず、年をとると不利なことはたくさんある。アメフトは体力がないとできない。ジョージ・クルーニーには大学を卒業したばかりのルーキーの体力はない。新戦術もない。けれども、古くからの奇妙な作戦(反則)がある。恋においても、若い女を相手に恋をするのはなかなかむずかしい。けれども、培ってきた手練手管がある。どんな時に何をいえばいいのか。そういうことを知っている。もちろん反則も知っている。ただし、反則といっても、相手を徹底的にいためつけるものではない。ちょっといらいらさせる、というようなものだ。相手を刺激して、その瞬間にあらわれる無防備な部分をさらに責めるというものだ。
 この瞬間、恋とアメフトが重なり合う。
 そのためには、アメフトの防具は無防備でなければならない。現代アメフト選手が身につけているような頑丈なプロテクターでは、恋とアメフトが重ならない。
 ジョージ・クルーニーの相手役、レニー・ゼルウィガーの「防具」はことば、頭の回転の速さである。ジョージ・クルーニーが恋の攻めにつかうのもことばと頭の回転の速さだけである。ようするに、「智恵」である。その「防具」は「防具」とはいいながら、実は人間を剥き出しにしたものである。生身である。
 アメフトの選手が見につけている「防具」も映画の原題になっている「Leatherheads」だけ。これは革のヘルメットのこと。これではほんとうは「防具」にはならないだろう。ほんとうの「防具」は実は素手のパンチである。(これは、やはり最後に活躍する。)これは「防具」というより、生身である。「防具」をつかおうとすると、実は人間が剥き出しになるのである。その人間が、どんなふうにけんか(?)をしてきたか、殴りあってきたかが、剥き出しに出てくるのである。
 この伏線として、ジョージ・クルーニーとアメフトのルーキーの殴り合いがある。そして、そこでは「ルール」がある。いつもは「反則」をつかうジョージ・クルーニーがけっして「反則」をしない。無防備な人間は、相手と真剣に戦うときは「反則」はしないのである。自分の弱点をさらけだし、相手の弱点もきちんと聞いて、そういうふうにして「反則」を封じた上で戦うのである。

 あ、昔の人間は、ほうとうに生身だった。剥き出しだった。そういう美しさがあった、とういことを、見終わった後でじっくり感じる映画である。
 レニー・ゼルウィガーという女優は、私の基準では美人ではない。したがって、私はレニー・ゼルウィガーのファンでもない。けれども、この映画にレニー・ゼルウィガーをつかったのは「正解」だと思う。生身、剥き出し、無防備という感じがレニー・ゼルウィガーには本質的にそなわっていて、それがこの映画の味にぴったりである。
 「グッドナイト・グッドラック」のときも同じように思ったが、ジョージ・クルーニーは役者を見抜く力、キャスティングの力がすぐれている。感心した。映画のテーマにぴったりの役者をきちんと選んでいる。


グッドナイト&グッドラック 通常版

東北新社

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海埜今日子「《宮殿をひとりの恋人たちが》カンバス、油彩、歌」

2008-11-21 23:01:51 | 詩(雑誌・同人誌)
海埜今日子「《宮殿をひとりの恋人たちが》カンバス、油彩、歌」(「hotel 第2章」20、2008年10月01日発行)

 野村喜和夫「螺旋の閾」のことばのゆらぎはすばやい。それに対して、海埜のことばはゆったりしている。いや、ゆっくりしている。というより、速度がない。速度がないというと変だけれど、移動しない。移動せずに、重なる。(深まる、というのとも少し違う。)
 作品の書き出し。

むかしむかし、恋人のようなすあしをかかえ、わたしたちは宮殿をおりていった。まぎれもない述懐がころがり、べつのかたちをなぞるようにかなでている。ぬぐえそうなあがないです、あやまたないふとももです。いまだ歓喜のけはいがあるのは、ほうほう感覚もともにあるということなのか。

 「むかしむかし」からしてことばのくりかえし、ことばの重ね、重なりなのだが、「なぞるようにかなでている。ぬぐえそうなあがないです、あやまたないふとももです。」というのは、ひとつの状況をことばを重ね合わせながらくりかえし言っているのだ。「宮殿」でのセックスの倦怠。倦怠の奥底にある愉悦の記憶。それは、ことばを重ね合わせるとき、互いのことばを剥がし合うようでもある。ことばが隠してしまうもの、それをことばで剥がそうとする。けれども、それがまた重なってしまう。--矛盾である。徒労である。その、どうしようもない感覚の存在が、ひらがなのなかで揺らいでいる。
 「歓喜のけはい」「ほうこう感覚」。こうした漢字とひらがなの出会いが、ことばの重なり、出合いの奥に、書こうとして書けない感覚を閉じ込める。あるいは、隠す。隠すことで、そこに何かが存在すると明らかにする。ひらがなを漢字に衝突させることで、はじめて、そういうものが明らかになる。--どうしようもない感覚の存在が、ひらがなのなかで揺らいでいる、と書いたのは、そういう理由による。

 この作品は、絵を見ての感想、あるいは絵を見ての感想という形をとった虚構なのだが、何かについて語るということは、何かを利用して(何かの手を借りて)、自分を、つまり、「いま」「ここ」を裸にするということでもある。
 その種明かしのような、最後の行。

宮殿はのをこえ、やまをこえ、むかしむかし、いまをくらしたという。

 「いま」が、そこに登場する。それはそれでいいのだろうけれど、というか、種明かしをしないと不安という気持ちはわかるけれど、種明かしがないまま、しりきれとんぼの「むかしばなし」でもよかったかもしれないなあ、とふと思った。「いま」を明確にしないと「現代詩」というものにならないとは、私は考えない。




隣睦
海埜 今日子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(13)中井久夫訳

2008-11-21 00:33:30 | リッツォス(中井久夫訳)
大事なことは   リッツォス(中井久夫訳)

扉のあたりを彼はしつこく観察していた。
正面の、窓のない赤い扉だった。
にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。
反対側の小さな丘の上に村から男が彼の馬に飼い葉をやりに来た。
男は麦藁の束をそっと地面の上に置いて、石の上に腰を掛け、
静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。



 ことばで何かを描写したい。誰も書かなかったことを書きたい。詩人の欲望は(作家の欲望は)、いつの時代も同じだ。誰だって同じだ。
 リッツォスがここで書きたいのは、

にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。

 という行と、最後の

静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。

 であろう。
 「彼」と「男」が「かんどころを外す」と「静かに馬の睾丸を眺めていた」で奇妙に重なり合う。「大事なこと」から何かがずれている。しかし、そうやってずれたときにあらわれる何か--この詩では「少し悲しげ」という気分がそれになるが、それがくっきりとことばに定着する。「ずれ」を通してしか発見できない「真実」(大事なこと)があるのだ。

 別の接近のしかたもしてみよう。
 リッツォスのことばの不思議さは、ことばが「過去」を背負っていることである。たとえば、

にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。

 この行の「かんどころ」は「過去」を持っている。「かんどころ」はいっさい説明されない。しかし、それが「過去」(つみかさねてきた実績)とずれているからこそ、かんどころと外れていることがわかるのだ。「かんどころ」に従って何かをする--そういう行為をしたことがある人間だけが、「過去」を共有できる。
 同じように、最終行の

静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。

 も、馬の睾丸を(あるいは他の動物のでもいいが)眺めた「過去」がある人間だけが、その「少し悲しげ」な「少し」を理解できる。共有できる。
 ふたつの「過去」を共有できたとき、読者と「彼」と「男」が一体になる。

 中井久夫の訳は、ことばの「過去」を不思議な形ですくい上げてくる。
 「かんどころ」はギリシア語でどういうことばか知らないが、この肉体になじんだ日本語が、やはり肉体にぴったりよりそう睾丸と不思議に通い合う。男の肉体にそなわっている何か。--睾丸は「かんどころ」に従って動く。この感じを共有するには、やはり「過去」が必要だろうけれど、そういうものを中井久夫は不思議に、簡潔で、だれもが知っていて、実はあまり「文学」にはつかわないことばの中から探し出してくる。
 それがとてもおもしろい。



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野村喜和夫「緋の迷宮」「螺旋の閾」

2008-11-20 12:02:30 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「緋の迷宮」「螺旋の閾」(「hotel 第2章」20、2008年10月01日発行)

 野村喜和夫「緋の迷宮」は「恋人」追跡の詩なのだが、追跡が追跡でなくなるところが気に入った。

 恋人を追って、私はひどく奇怪な街に入り込んでしまったらしい。恋人といっても、まだキスしたこともない女で、いや、もしかしたら私の一方的な欲望の対象であるにすぎないのかもしれず、しかも彼女は、私の教え子のひとりであり、授業中彼女に質問を出すと、答えるかわりに教室から出て行ってしまったので、「待ちなさい」と私も教壇を降りて、そのまま大股でキャンパスを抜け、大通りを渡っていった。というのも、彼女もそのルートを逃げ去っていったからだ。

 「恋人といっても」からはじまる長い文章。そこに挟まりこんでいる「説明」が愉快だ。すべてを「説明」したいのだ。その「説明欲」(?)の結果として、

というのも、彼女もそのルートを逃げ去っていったからだ。

がある。笑ってしまう。追いかけているのだから、彼女が逃げ去った後をそのままたどってしまうのはあたりまえのことである。しかし、ここに詩がある。「わざと」がある。野村はわざと「というのも……」と書いている。
 なぜこんな1文を書いたか。
 この1段落の後、野村の追跡はそれこそ「奇怪な街」に入り込むのだが、そこで展開するすべても、「奇怪」ではあるけれど、ちゃんと「説明」がつく、ということをいいたいためである。
 というよりも、「説明」をこそ「描写」に代えたい、「描写」するのではなく、「説明」することで世界を描こうとしたいと思っているからである。
 いろいろな街(風俗)が出てくるが、それを野村は具体的に描写するふりをしながら、「説明」する。「説明」をつみかさねることで、「説明する私」の意識を表に出すのである。
 そこから「追跡」が追跡でなくなる。「彼女」を追うことより、自分の欲望を語ることに夢中になる。
 途中を省略して、

不動産屋のつぎは歯科医院であり、ところが、なぜかこのあたりから室内の照明が妙にピンク色っぽくなって、歯科医院というより歯科医がのぞく口腔そのものに入り込んだみたいだと思ったら、じっさい歯科医院のつぎは、何もかもがピンク色で統一されたなにやらいかがわしいマッサージの店で、だがそこを抜けた居酒屋も、ピンクをさらに一段と濃くしたような、つまり緋色の居酒屋であって、これではまるでほんとうにヒトの口腔から体内に入って、そのこんがらがった内臓や血管のなかを経めぐっているかのようだ。

 説明するとは「外部」から「内部」への侵入なのである。「口腔から体内に」という表現が出てくるが、「説明」とはそんなふうにして「外部」と「内部」を入れ替えてしまうことである。「説明」をくわえながら「追跡」していくく、追っている対象が「彼女」ではなく、自分の欲望になってしまう。自分の欲望に合致するものだけを、風景からすくい上げてしまうことになる。そして、その「欲望」を「彼女」と思い込むことになる。

 冒頭に引用した1段落。その、「というのも、彼女もそのルートを逃げ去っていったからだ。」は、そう「説明」した瞬間に、「私」が「彼女」(恋人)になってしまうのだ。追いつくのではなく、追い越してしまうのだ。
 普通、追跡は、「そのルート」などという感じではおこなわない。「その」ではなく、「この」と直接触れることだけを考えている。「この」から離れない、ぴったりくっついていくのが追跡である。ほかのルートなどには目が行かないのが追跡である。
 「その」と少し離れた感じで「ルート」を見た瞬間から、余分なものが入りはじめる。「ルート」を先回りしてしまう。「彼女」がどんなルートをたどるか、それを「彼女」の内部に入って想像する。そして、先回りするのだ。先回りしてしまうのだ。「内部」へ入ってしまうということは「追跡」ではなく、「追い越し」であり、「追い越す」ことで「私」は「彼女」を自分の欲望へ導くのである。「内部」にはいったのは「私」の欲望だから、追い越すことは、「彼女」を自分の「欲望」の形にかえることでもある。

 したがって、その「追跡」がどうなるかは、もう書かなくてもわかるだろう。
 だれもが思った通り、「私」は「私」を追い越して、「彼女」とセックスしている。それを目撃するしかない。
 これはわかりきったことばの運動なのだが、それでもやはりおもしろい。わかりきっているのに「説明」するその情熱がおもしろいのである。「説明」が情熱によって、「説明」を超えて、欲望の現実となるからである。

 「螺旋の閾」は、その「説明」の果てのセックスの、「説明」を超えた世界である。「追跡」しているあいだ、「その」ルートをたどっているあいだは「私」でいられるけれど、「その」ルート、そして「その」肉体が、いま、ここに「私」と触れ合って「この」肉体になるとき、「説明」は不可能になる。距離がないから、追いつくことも、そして追い越すこともできず、もつれるだけである。

なすすべの、
さきで、

うひ路だね、すね地だね、
というべつの声、

声はねじれ、
閾がそれを追い、

だるだると、
ふる泥、わけて、

あわなぎ、なのだった
あわなみ、なのだった、

閾が声に追いつき、
かさなり、

ふたつながら、
さらにねじれて、

つらなぎ、なのだった、
つらなみ、なのだった、

 表現の便宜上「追い」「追いつき」は出てくるが、書かれている焦点は「かさなり」である。






街の衣のいちまい下の蛇は虹だ
野村 喜和夫
河出書房新社

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リッツォス「証言B(1966)」より(12)中井久夫訳

2008-11-20 00:23:31 | リッツォス(中井久夫訳)
事故   リッツォス(中井久夫訳)

十八歳は過ぎていなかったろう。服を全部脱いだ。
体操でもしているみたいだった。だが何かの命令に従順に従っていることも分かった。
彼は岩の上に登った。多分、背を高く見せたかったのだろう。
それとも背を高くすると裸体が隠せると思ったのだろうか。
そんな心配は要らなかったのに。こんな時に誰が背丈を気にするか。
腰の周りの桃色の線条(すじ)彼の固いベルトのせいだ。それが裸体を強調していた。
それから、高々と跳んで、
この一月の寒さというのに、海に身を投げた。
すぐまた現れ出るでしょう、今度は十字架を高々と掲げて。



 岩の上から海に飛び込む少年(青年)。自殺というより、「事故」のタイトル通り、「事故」と受け取りたい。打ち所が悪く、死亡してしまった--そういうことを描いた詩だと思う。ここに書かれているのは「感情」ではない。少年(青年)の肉体だ。その描写--描写することばそのものが詩なのである。
 詩とは感情や内容ではなく、そのことばの描写する力なのである。

それとも背を高くすると裸体が隠せると思ったのだろうか。

 ここにあるのは、少年(青年)の傲慢な美しさだ。美しさに対する傲慢さだ。奢りだ。少年(青年)の奢りほど美しいものはない。それは少年(青年)ではなくなった人間にはけっして手に入れることのできないものである。
 美しさは裸の肉体の羞恥心を隠す。はずかしい部分を隠す。背は低いよりも高い方が美しい。だからこそ少年(青年)は岩の上で、さらに背伸びをする。
 そして美は「傷」(瑕疵)によってさらに美しくなる。腰の周りに残るベルトの痕。それは美しい肌を傷つけるが、その傷の存在が、肌の他の部分をよりいっそう輝かしいものにする。
 リッツォスは、ここでは肉体と美の関係だけを描いている。
 ほかのストーリーは飾りだ。ストーリーを書きたいのではなく、ある一瞬の美の存在、どのようにして美が存在するか、それをことばはどのように定着させることができるか。それだけが詩にとっての問題なのだ。





中井久夫著作集 (別巻2)
中井 久夫
岩崎学術出版社

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山崎純治「蝸牛器官」

2008-11-19 10:58:23 | 詩(雑誌・同人誌)
山崎純治「蝸牛器官」(「独合点」96、2008年11月15日発行)

 山崎純治の作品を読んだことがあるかどうか、よくわからない。読んでいても、読みとばしていたかもしれない。申し訳ない。「蝸牛器官」はとてもおもしろかった。

眠たくなると
耳の奥から
カタツムリが這い出してくる

 書き出しの3行である。
 このカタツムリは、本物のカタツムリであると同時に内耳の構造に由来している。「蝸牛殻」ということばがあるが、これは内耳の一部を指す。ことばとほんものがどこかで交錯するのだ。肉体がことばによって侵食されているのだ。「夢」になるのだ。

眠たくなると
耳の奥から
カタツムリが這い出してくる
銀色のぬめりを引き
ドクダミが密生した線路脇の溝へ
溝に沿って垂直に切り立つ
コンクリート側壁へ

 「ドクダミが」以後の3行が、「銀色のぬめり」よりも、もっとぬめっている。粘着力が強い。「溝へ/溝に」という行をかえてのつながりが、悪夢そのものの動き方である。粘着力を抱え込んだまま、「もの」が動いていく。カタツムリはいつのまにか「溝」になり、「側壁」になる。
 「内耳」のなかに「カタツムリ」がいたように、カタツムリのなかには「溝」や「側壁」があるのだ。(それはたぶん、カタツムリをどこで見たか、という記憶と関係するのかもしれないけれど。)
 そして、その「側壁」のなかには、何が隠されているか。隠れているか。蝸牛殻のように、どんなリンパ液をためているのか。その液をくぐらせて、どんな外の世界を脳の中へ受け渡すのか。
 詩はつづく。

七月
金属ボルトで固定され
深緑色に塗装された
側壁の鉄製のハシゴ
巨大な女が
一段一段降りてくる
二の腕を震わせて鉄をつかみ
尻を割って足を伸ばし
汗が光る白い背中

 カタツムリは、悪夢そのまま、カタツムリではなく「側壁」でもなく、「巨大な女」に変形している。「尻を割って足を伸ばし」はカタツムリの「銀色のぬめり」のような、ぞくってする描写だ。ぞくっとするけれど、その「ぞくっ」とするものが視線を引きつける。見たくないけれど、しっかり見つめたい。矛盾した感情を引き起こすリアルな夢だ。
 そして、カタツムリから巨大な女になったと思ったら、

その小さな耳
耳の穴の
深く広がった闇に
産毛がちらちら反射して
ドクダミは濃い緑を噴き出し
低気圧前線が
関東南部に延びてくる
数匹のカタツムリは
耳の奥深く這い回り
塗装の剥がれかけたハシゴの
錆びた鉄が
ざらついて
激しく雨が降る
激しく雨が降る

 またカタツムリにもどっている。フラッシュバックのように(ハシゴを降りてくる巨大な女のように)、カタツムリは「内耳」へ奥深く這いずりまわって侵入していく。
 眠たくなった「脳」の旅は、カタツムリに姿をかえて、溝や側壁やハシゴや巨大な女をへめぐって(粘着力のせいで、残像のようにそれが残りつづける)、「巨大な女」の「小さな耳」、その内部へ迷い込み、「蝸牛殻」そのものになるのだが、そのとき「わたし」(わたしとは書かれていないが)は「山崎」から「巨大な女」に変身してしまっているのだが、その変身がカタツムリの銀のぬめりそのままに、ずるっとしているので見境がつかない。どこで「山崎」が「巨大な女」になったのか、わからない。わからないまま、ただ、ことばのなかに、どっしりと存在している。
 山崎もかわれば、世界そのものもかわってしまったような、そんな印象がある。実際、世界もかわってしまっている。晴天(といわなくても、少なくとも雨の降っていない)から、雨へと。

激しく雨が降る
激しく雨が降る

 こうした最後のリフレインは、なんだか昔の歌謡曲のようで私は好きではないのだが、この詩では不思議に落ち着いている。リフレインがなかったら、寂しい。リフレインによって、夢をなだめているような、不思議な感じがうまれる。ずるっとした不思議な「内部」の変化を支えるためには、外の世界は2回くらい繰り返さないと、もちきれないのだ。たぶん。



夜明けに人は小さくなる
山崎 純治
ふらんす堂

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リッツォス「証言B(1966)」より(11)中井久夫訳

2008-11-19 00:05:29 | リッツォス(中井久夫訳)
雨の朝   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見つめていた、雨の色を、窓ガラスの向う側に。
葦の茎の中にある滑らかな黄色と、レールの錆と、
トネリコの灰色に籠もる暗い緑と。
透明という色は最後までとって置いた。
浴室の鏡に裸体の少女が三人映っていた。
腕は上気して桃色。湯気の彼方でダンスをしていた。
一人がかがんで花をつまみあげた。髪が顔と片側の乳を隠した。
身を起こして、髪を左右に振って元に戻した。
銀の滴が五つ、鏡にかかった。彼女は花を手にしていなかった。



 色の動きが華麗だ。「黄色」と「灰色」はギリシアの映画監督、テオ・アンゲロプロスの色を思わせる。テオ・アンゲロプロスは、雨や霧、濡れた地面をとても美しく撮る。その濡れた灰色に黄色がとても美しく響く。この詩を貫くのは、同じ色の好みである。冷たい音楽である。
 ギリシアには雨が降る。雪が降る。灰色の空がある。ということを、私はテオ・アンブロプロスの映画を見るまで知らなかった。その映画の記憶がなかったら、この詩は、まったく違ったものに見えたかもしれない。

透明という色は最後までとって置いた。

 この1行の美しさには胸がふるえる。それは風景のための色ではない。彼の「こころ」のための色である。こころを透明にしたいのだ。こころが透明になる瞬間。そのときのために、彼は透明という色を風景の中に見つけることを拒んでいる。
 ところが。
 その透明は突然やってくる。彼は探してはいないのに、向こうの方からやってくる。詩のインスピレーションのように。浴室の鏡に映る少女。三人の少女。ダンスをする少女として。
 何が透明か。

一人がかがんで花をつまみあげた。髪が顔と片側の乳を隠した。

 髪に隠れている他方の乳である。見えない。見えないものが、しかし「見える」。見えないということが成り立つのは、それが「ある」ということがわかっているからである。あるのに見えない。それは「透明」そのものである。「透明」も存在してもけっして見ることができないものである。見えないから「透明」である。
 ここには矛盾がある。説明しようとすれば、どんどん、奇妙になっていくしかない何かがある。説明できないもの--詩が、ここにはある。

 最後の1行も不思議だ。

銀の滴が五つ、鏡にかかった。彼女は花を手にしていなかった。

 「五つ」はどこから出てきたのだろう。髪を振ったとき飛び散る滴が「五つ」ということはありえないだろう。「五つ」とは何か。
 「彼」と「三人」と「花」。あわせると「五つ」。--これは、うがちすぎた「算数」かもしれない。けれども、私は、やはり、そう読みとってしまうのである。「五つ」とは「彼」と「三人」と「花」があわさったもの--「一つ」になったもの。
 「五つ」が「一つ」というのは矛盾である。そんな「算数」はどこにもない。学校の授業にはない。
 しかし、詩のなかでは、そういう算数が存在する。矛盾した算数が存在する。そして、このときその算数を支えているのは「透明」という感覚なのである。みんな、「透明」。「透明」なのものが「五つ」あつまって、さらに「透明」になり、見分けがつかなくなる。「一つ」になる。そういう算数が、この詩である。


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リッツォス「証言B(1966)」より(10)中井久夫訳

2008-11-18 00:23:21 | リッツォス(中井久夫訳)
めくらまされて   リッツォス(中井久夫訳)

私には見分けが付かなかった--とは彼の言葉である--遠くからは、一体何だか。
さらされて白くなったものが彼の腰にさがっていた。
ほとんど裸体で、皮膚はなめした革、土色だ。
垂直に光るものにくっついて立っていた。
方の幅の広さは年齢に不相応だ。(近くに寄ってそれが何だか分かった)。
あの腰の周りには白い前垂れに釘が打ち付けてあったのだ。
「こんにちは」と言うことは不可能だった。
釘を歯で挟んで抜いた。釘は陽に輝いて私の眼はくらんだ。
でも私は大工ではないんだよ。



 磔。「大工」から、キリストを想像する。キリストではないかもしれない。ギリシアの内戦のときの犠牲者かもしれない。

「こんにちは」と言うことは不可能だった。

 この1行が強烈である。磔の死者を見たとき、いったい人に何ができるだろうか。「こんにちは」とあいさつすることはもちろんできない。これは当然のことだ。
 だが、なぜリッツォスはこんなことばを書いたのか。
 とても異様に響く。
 たぶん、リッツォスにとって、人と出会ったらあいさつするというのが人間の基本的な姿勢としてしみついているということだろう。そういう、普通、日常が、いま、ここでは拒まれている。
 磔という異様なものの前で、「私」には寄って立つべきものがない。いちばん基本的なことさえできない。いちばん基本的なところへ帰っていくが、そこにすら「私」は立つことができない。
 「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」が、「暮らしの論理」がそこでは拒絶されている。そのことをくっきり浮かび上がらせる1行だ。

 次の1行もすごい。

釘を歯で挟んで抜いた。釘は陽に輝いて私の眼はくらんだ。

 釘の頭は手で(指で)は動かせなかった。それで自分の歯で挟んで(つまり釘の頭を噛んで)、釘を抜いたということだろう。人間は手だけではなく、口をもつかっていろいろなことをする。歯で噛んで袋を破く。歯で噛んでコルクの栓を抜く。(瓶缶ビールの栓を抜く人もいる。)「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」(暮らしの論理)で、ひとは肉体を動かす。自分にできることをする。
 磔。その痛ましい姿。何ができるか。遺体に食い込んだ釘を抜いてやることしかできない。手で抜けないから、歯をつかって抜いた。そのときの、肉体の接触に「思想」がある。愛がある。
 釘はもちろん、そうした思想にも愛にも気がつかない。太陽も気がつかない。--というより、そういう思想、愛に対して非情である。反応することができない。ただ、いつものように太陽は金属を照らし、照らされた金属(釘)は光を反射する。そこには人間の思想や愛を超えるどうすることもできないものがある。
 そういうものの前で、人間は何もできない。ただそういうものがあるとういことを知るだけである。目眩のなかで。

 自然(宇宙)、物理のほかにも、人間の野蛮な行為の中にも、なかにはそういう「目眩」を引き起こすような巨大な力があるかもしれない。--それは「こんにちは」というあいさつではたどりつけない力である。
 うまく書けないが、ふとギリシア悲劇を思った。人間を動かしていく何か巨大な力。そういうものに、この詩は触れているような気がする。


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シドニー・ルメット監督「その土曜日、7 時58分」(★★★★)

2008-11-18 00:20:18 | 映画
監督 シドニー・ルメット 出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、イーサン・ホーク、マリサ・トメイ、アルバート・フィニー

 フィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークはまったく似ていない。フィリップ・シーモア・ホフマンは太っている。金髪だ。イーサン・ホークは痩せている。黒っぽい髪だ。この二人が兄弟というのはとても奇妙である。--というのは、映画を見る以前の印象である。映画のなかではとても似ている。外見はまったく違うのだが、兄弟特有の不思議な匂いがある。兄・弟という関係のなかでつくられる力関係と、その力関係を成り立たせてしまう不思議な互いの弱さの部分がとても似ている。兄・弟の力関係をひきずりながら、その力関係がなりたたなくなるシーンに、そのそっくりさかげんが際立ってくる。
 たとえば、宝石店強盗に銃撃されたのが母だと知って驚く病院の場面。ナースセンターでの二人の目の感じがそっくりである。顔の大きさは違うのに、目の大きさがそっくりに見える。青い目のかげりがそっくりになる。これは演技なのか、それともキャスティング段階からわかっていたことなのか。びっくりしてしまった。二人は同じものを共有しているということがとてもよくわかる。実生活ではなく、この映画のなかで、ということだが。

 映画は宝石強盗からはじまる。そして、犯人(兄弟)たちの過去をくりかえしくりかえし再現する。そのなかで、フィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークは、どうしようもなく似てくる。
 二人とも、とても弱い。その弱さが似てくる。
 フィリップ・シーモア・ホフマンは不動産会社の要職についている。立派なスーツを着ている。美しい家を持っている。けれども、彼が力を発揮できるのは弟のイーサン・ホークに対してだけなのである。自分では何もできない。宝石強盗は、もちろんできない。できないことを弟にやらせるだけである。あるいは、こういえばすべてがわかりやすくなるだろうか。追いつめられて、フィリップ・シーモア・ホフマンは麻薬の売人を襲うが、そのときも彼は単独行動をとれない。イーサン・ホークがいてくれないと、何もできないのである。イーサン・ホークの前で強い兄を演じる。弱いものを必要としてしまう弱さがフィリップ・シーモア・ホフマンにある。麻薬の売人を襲い、銃を撃ち放つ凶暴さ--その凶暴さを発揮できるのは弟がそばにいてくれたからなのである。
 弟がそばにいないとき、たとえば母の葬儀のあと、マリサ・トメイと家へ帰るとき、フィリップ・シーモア・ホフマンは強さを発揮できない。涙を流してしまう。さらに、マリサ・トメイに去られたあとは、家の中の家具をたたき壊す(?)のだが、その乱暴のしかたは、あとでちゃんと元通りにできるような、弱々しい破壊である。棚の上のものはそっと落とす。テーブルの上の飾りの小石は放り投げるのではなく、水のように少しずつこぼす。(このシーンはとてもすばらしい。今年見た映画のなかでももっとも印象に残るシーンだ。)
 弱い弟、かわいがられつづけた弟に、嫉妬して、憎しみ、利用するときだけ、フィリップ・シーモア・ホフマンは「強い」と錯覚するのである。そういう弱い人間である。
 一方、イーサン・ホークは、兄のフィリップ・シーモア・ホフマンに従うことしかできない。したくないことも、兄の命令だからという形で受け入れ、自分の決定ではないと言い訳できる要素を知らず知らずに内に抱え込んでいる。従いながら、自分ではなにも決定しなくていいという立場を受け入れている。これはある意味では、甘えである。イーサン・ホークは兄の妻、マリサ・トメイと毎週木曜日に情事をくりかえしているが、そこにも甘えがある。マリサ・トメイにかわいがられて満足しているのである。マリサ・トメイに甘えて満足しているだけである。葬儀のあとの、父の家。そこでも、イーサン・ホークはマリサ・トメイに電話をかけて甘えようとする。見境がない。甘える相手がいないと我慢ができないのである。イーサン・ホークが唯一ひとりでできることは、兄から逃げること、それだけである。(これは最後になってやっと実現する。)

 映画は、過去をつぎつぎに視点をかえて描くことで、その弱さをしだいに浮き彫りにする。人間の弱さが重なり合い、歯車が狂い出す。その様子を、人間の内部に入り込むというよりは、一歩引いて、ドキュメンタリーのようにしてシドニー・ルメットは映画にしている。その手際がとてもすばらしい。ぐいぐいと人間の内面の弱さをえぐり出すのではなく、じわじわと弱さが漏れ出してくる。引き込まれるというよりは、知らずに、その弱さに染まってしまう。あ、人間は、みんな弱い。弱くて、どうしようもなくて、しなくていいことをしてしまう。--その、なんともいえない悲しみ。
 もし、フィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークの弱さが、もっと強烈に描かれていたなら、映画には不思議なカタルシスがあったかもしれない。この映画は、人間の弱さを強烈には描かない。だらしなく描く。そのだらしなさのために、それが映画ではなく、現実になる。映画を見た、というより、現実を知らされた--そういう不思議な気持ちになる作品である。

 映画を見た直後の印象では★4個だが(やりきれないきもちに圧倒されて、5個つける気持ちにはなれない)、きっとあとから5個つけたくなる、つけてしまう映画だろうと思った。人間描写のたしかさがあとからじっくりと肉体に響いてくる映画だ。





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北川透『窯変論--アフォリズムの稽古』

2008-11-17 22:12:02 | 詩集
北川透『窯変論--アフォリズムの稽古』(思潮社、2008年10月15日発行)

 「畸型論」という作品が最後に収録されている。そこに、私には理解できないことばがでてくる。

愛は霊でも肉でもない、木の葉の狂乱だ、と滅裂に脱皮を繰り返す生殖器官。文法を壊されて迷路を疾走する蝸牛螺旋官。こうして三角形の頭部を持つ畸型の器官群の誕生。

 「三角形の頭部」とは何か。それがわからない。理解できない。「器官」は、いま引用した前の部分を含めると「消化器系」「循環器系」「呼吸器系」があり、そのあとに「生殖器官」「蝸牛螺旋官」がある。この最後の「蝸牛螺旋官」というのは内耳の何かかなあ、と勝手に想像する(私は調べたりはしない)が、なぜ、それが「三角形の頭部」をもたなければならないのか、私には理解できない。「愛・霊・肉」は「三」だけれど、もしかすると、その「三」がここに形をかえて「三角形」ということばを生み出したのだろうか。--なんだか違うなあ。そういう「三」に吸収されていくことを北川の「三角形」は望んでいないようである。そういうことは望んでいないが、ここに「三角形」ということば、「三」という数字が登場するのは、きっと理由があるのだ。
 私は、私に理解できないことばがあると、そこにはきっと作者独自の「思想」がこめられているからだと考える悪い癖(?)がある。
 というわけで、「三」について考えてみる気持ちになった。

 北川は、私が引用した1連目のあと、すぐに「三」ということばをつかっている。2連目に出てくる。

 わが家は三方を山々に囲まれた小さな盆地、浜浦台にある。背後の北方にあたる唐櫃山、西に聳える霊鷲山、南に小さな茶臼山、その後ろに控える火の山。東は細く切れて関門海峡に開いている。

 「三角形」とは最小の辺で構成された強靱な形である。変形が聞かない。「四方」(2連目に「四方」ということばは出てこないが、描かれているのは「四方」である)の場合は少し違う。四角い箱はぐいと押すとひしゃげて平行四辺形になる。「三角」はそういうことがない。「三角」は外部からの力の影響を受けない。だからこそ、「四角」は「三角」を対角線に組み合わせることで外部の影響を受けないようなものに補強したりもする。(壁のはすかい、など)。
 はっきりそうとは書いていないのだが、北川は「畸型」を「三」というものといっしょに考えようとしているように思えてならない。

 3連目には「三」でも「四」でもなく「二」という数が登場する。

外耳もなく、鋭く二つに裂けた舌をもつ異形の器官。まったくでたらめに発話した途端、辺りの空気から血が引いていく二つのイメージの衝突や、思想の山塊を崩落させる流動的な斜面を演出するには、こんな工夫をしなければならない。

 ここには「一」という数字もほんとうは隠れている。「二つに裂けた舌」は最初は「一つの舌(裂けていない舌)」である。「二つのイメージの衝突」とは、「一つのイメージ」と「一つのイメージ」の衝突である。
 「二」は「分裂」「衝突」という不安定な運動をともなっている。

 そう考えると、「三角形の頭部」の「三」だけが安定していることになる。「三」だけそれぞれのはしっこを他者と共有してがっちりとかたまり、動かない。外からの力に対しても屈しないし、衝突もしない。

 しかし、そうなんだろうか。「三」は安定しているのだろうか。

 「三」ということばと同時に私が思い浮かべるのは、弁証法である。正と反。それが統合されて別の次元のものになる。「一」と「一」の衝突のあとにうまれる、もうひとつの「一」。あわせて「三」。その果てしない運動--それを考えると「三」は安定というよりも常に運動を誘いつづける「誘い水」、誘惑のようにも思える。

 「畸型論」は、現実の(そう想像させる)北川が住んでいる街の風景の描写と、それとは関係ない何事かがくりかえし書かれる形で構成されている。
 これはある意味では、「現実の風景」と「現実の風景から逸脱したことば」の衝突、「一」と「一」の衝突であり、その衝突が引き起こすイメージが、さらに「現実の風景」と衝突しつづける運動のように見える。
 果てしなく「三」を追い求める運動に見える。

 この運動は、なんらかの終着点を予定しているのだろうか。私にはしていないように思える。どこまでいけるか、どこまで運動をつづけることができるかということしか考えていないように思える。
 そして、たぶん、この運動をつづけるということが、北川にとっては「アフォリズム」ということになるのだろうと思った。運動とはけっして「体系」にならないことである。「体系」を否定しつづけることである。「非体系」でありつづけることである。
 既存の「体系」(たとえば北川の住む街の風景)に対して、それ以外のことばをぶつける。そうすると、そこに衝突がうまれ、その衝突は、「体系」(風景)を歪める。(歪みながらも、同時に、ぐいと引き戻そうとする力ももちろん働くだろうけれど。)その結果誕生するのは「非体系」を含んだ「体系」である。そこで終わってしまうと、何にもならない。それは「体系」に「非体系」がとりこまれたことともとらえられるからである。だからこそ、それをさらにたたき壊すために、また別の「非体系」をぶつける。

 その結果、何がうまれるのだろう。どういう世界が誕生するのだろう。それは、やはりわからない。--わからないけれど、北川は、ただただ、ことばを動かしてみたいのだと思う。ことばがどんなふうに動けるか、それを「三角形」を利用して、動かしてみたいのだろうと思った。

 こんなことを書いても、最初に書いた「三角形」の答えにはならないのだが。


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リッツォス「証言B(1966)」より(9)中井久夫訳

2008-11-17 01:03:10 | リッツォス(中井久夫訳)
特別の時   リッツォス(中井久夫訳)

大きな月。銀の静寂。何事もなし。
白馬が一頭、庭の咲くの向う側に。光の柵。
若者が一人、庭に入った。
門を開かずに柵をすうっと透りぬけた。
胸と太股に合計四箇所。幅の広い金色の刺繍が残った。
柵のうねうね模様だ。
木の下で馬がいなないた。



 美しい風景だ。幻想的だ。神秘的だ。中井久夫の訳は、少し意地悪である。

門を開かずに柵をすうっと透りぬけた。

 「透りぬけた」。こんなことばはない。「とおりぬけた」とワープロで打つと「通りぬけた」(通り抜けた)と変換される。中井は「わざと」透明の「透」の字をつかって「透りぬけた」と書いている。
 中井の訳を「意地悪」というのは、「透」という文字をつかわなくても、この詩は透明だからである。そこに「透」という文字があれば、それこそ「すうっ」と誘い込まれもするが、同時に、えっ、こんな簡単に誘い込まれてしまっていいのだろうか、とも考えさせられるからである。
 中井は読者を立ち止まらせたかったのだろう。
 短く、透明な詩。描かれている風景を読み違える読者などいるはずがない。あまりにも簡単に風景を思い描き、「あ、透明な風景だ」と通りすぎられては困る。たちどまってほしい--そう思ったのだろう。
 「透りぬけた。」の小さな「罠」(つまずきの石)のあと、美しい美しい1行があらわれる。

胸と太股に合計四箇所。幅の広い金色の刺繍が残った。

 えっ? これって、なんのこと?
 もちろん、すぐにわかる。次の行が説明する。「柵のうねうね模様だ。」この、説明のリズムがいい。長く、これは何だろうと考えさせておいて、ぱっと短く断定する。その短いことばのなかに、前に読んだことばが映画のフラッシュバックのようによみがえる。
 「柵」は2行目に登場した「光の柵」、4行目にことばをかえて登場する「門」の「柵」。それは月の光がつくりだす柵だ。それが若者の体に映っている。そして、フラッシュバックのように「過去」がよみがえるとき、「過去」は実は「過去」そのものではない。ちょっと変形する。「銀」の静寂は「金」の刺繍にかわる。
 まるで魔法である。

 木の下で馬がいななくとき、私は、その美しさに息を飲む。

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古賀忠昭「焼き肉と思想」

2008-11-16 11:48:20 | 詩(雑誌・同人誌)
古賀忠昭「焼き肉と思想」(「スーハ!」4、2008年10月20日発行)

 <古賀忠昭 未刊詩集『古賀廃品回収所』より>というタイトルでおさめられた作品のうちの1篇。
 その書き出し。

もろふじさんが死にました。もろふじさんはリヤカーで生活していました。段ボールで風がはいらないようにリヤカーの荷台を四角にかこってそこにフトンをひいてねていました。ねどこの上にはベニヤがひいてあって雨がもらないようにしてありました。

 この書き出しは古賀の作品に共通する文体である。少しずつ描写が増えていく。その増え方に「飛躍」がない。ずーっと、ずるずる、ずるずると地続きである。前の文章ででてきたことばが次の文章にでてきて、世界が広がる、というその広がり方が地続きである。飛躍しないこと、それが古賀の文体の特徴である。
 そして、その地続きが、当然のことながら、あるとき、地続きではいられなくなる。そこに何が噴出してくるか--思想が噴出してくる。思想とは、何かをもちきれなくなったとき、それをいったん手放して、もう一度世界を組み立てるときの「道具」である。その「道具」をどこからもってくるか。古賀は「頭」に頼らず、肉体の奥からひきだしてくる。暮らしの奥からひきだしてくる。--これは、古賀だけではなく、生きている人間なら誰でもすることである。(と、言いたいけれど、そうしない人が多い。)

 「もろふじさん」の葬式。そのあと。

朝鮮の金さんが突然こんなことをいい出したのです。今から、焼肉をするぞ、といい出したのです。精進あげのつもり、と朴さんがいいました。精進あげでんなんでんよか、焼肉ばするぞ、おこったように金さんがいいました。どげんしたと、と今度はわたしがいいました。あいつをころしてやっとればよかった、と金さんはいいました。あいつとはもろふじさんのことです。えっ?とわたしはいいました。あいつは、おれに殺してくれというとったんだよ、こん棒で頭をたたくわって殺してくれというとったんだよ、こん棒で頭をたたきわって殺してくれというとったんだよ、金さんの目から涙が流れおちています。どげんしたと?とわたしはいいました。あいつをころしてやっとればよかった、と金さんはまたいいました。もろふじさんとは仲がよかったのに、と台湾の陳さんがいいました。仲がよかったから殺してくれというたんだ、と金さんが涙を流しながらいいました。仲がよかったからこん棒で、頭をたたきわってくれというたんだ。金さん、わかった!とわたしはいいました。焼肉をしよう、といいました。あいつは、頭をたたきわって殺してくれというてくれたんだ、と金さんはいいました。いうたんじゃない、いうてくれたんだ、と金さんはいいました。犬を殺すようなわけにはいかんよ、というこけど、犬を殺すように殺してくれというたんだ、のたれ死にするともよかけど、それより金さんに殺されたいんだというたんだ。金さん、わかった、とわたしがいいました。わかっとらん!と金さんがいいました、あいつは、おれの気持ちを思うていうたんだ、おれの気持ちを思うて、犬のように殺してくれというたんだ。

 殺す--殺して食べる、自分の一部にする。そんなふうに、されたい。そんなふうにして、親しいひとの一部になりたい。そういうふうに親しいひとの一部になって、そのひとのなかで生きていきたい。
 それはたしかに「いうた」ではなく、「いうてくれた」ことである。
 誰かが何かを言う。それはたしかに言ったことである。しかし、それは言って「くれた」ことでもある。この一回だけ書かれている「くれた」のなかに思想がある。世界を再構成する力がある。「言った」ではなく「言ってくれた」ととらえ直すとき、世界が急展開する。
 「殺してくれ」だけではなく、そのとき、金さんの肉体のなかには、あらゆるもろふじさんのことばが「言ってくれた」ものとしてよみがえる。あらゆることを「言ってくれた」のだ。それを、どんなふうにして受け止めることができる。金さんは「食べる」、「肉」を食べるということで受け止める。「ありがとう」「たべさせてもらう」という気持ちで受け止める。(これは、引用したあとの部分に書かれていることなのだけれど……。)
 あ、すごい。
 古賀は、ほんとうに暮らしのなかで思想をつかみ、それをことばにしていたのである。



 この詩を読みながら思い出したことがある。
 古賀が死んだとき、私はどうしても追悼文が書きたかった。そして、そのとき私が書いた文というのは「古賀はやっと死んだ」というものだった。不謹慎だといわれた。古賀とはなんの面識もない。親しい友人でもない人間が、そういう乱暴なことばをつかってはいけない、ということだ。しかし、やっぱり「やっと死んだ」ということばでしか書けないものがあるのだ。
 それは、「焼き肉と思想」との詩にからめて言えば、「殺してやれなかった」ことへの後悔である。私には古賀を殺すような能力はない。しかし、「殺してくれ」と言われたかった。言ってもらえなかった--そんな悔しさが「やっと死んでしまった」ということばになったのだ。
 古賀を殺す--それは、古賀を凌駕するということである。
 古賀の書いていることを、その思想をきちんと引き受け、古賀が胸に秘めていたもの以上のものを書いて突き出す。古賀がことばのなかに産みつけていったものを、きちんと育てる。一人歩きできるものにする。そういうことをして、古賀に対して、もう古賀がいなくても、古賀が書いている思想、書こうとしている思想は私が引き受けたと言い切ること--それが古賀を殺すということである。
 そんなことは、私にはできない。(私の知っている限りでは、誰もできない。)
 古賀の詩を読めば読むほど、古賀にはたどりつけない。古賀を超えることはできないという思いだけがつのる。
 そして、単に古賀を超えられないだけではなく、古賀をきちんと評価するだけのことばを私がもっていないことをも知らされる。せめて、もう少しきちんと古賀の詩のすばらしさ、その思想の強さを書けないものだろうかとも思う。きちんと書ければ、古賀を「殺す」ことはできなくても、その熱い返り血を浴びることができなくても、いっしょに生きていた時代があった、いっしょに生きてくれていてありがとうと言えるのに、と悔しくなる。

 ほんとうに、どう書いていいかわからない。ただ、ただ悔しい。「古賀はやっと死んだ」と書いてみたって、悔しさは消えない。「殺せない」以上、古賀はいつだって生きている。古賀の詩を読むたびに、なぜ死なないんだ、頭をたたき割ってやるぞ、叫んでも、私の振り上げたこん棒を跳ね返して平気な顔をしている。焼き肉にして食べるなどというところへはとうていたどりつけない。「食べさせてもらったぞ」と言えるところへはたどりつけない。
 「殺してくれ」と言ってもらえなかった悔しさ。その悔しさを悔しいと書きつづけ、最後に、ありがとう、と付け加えよう。古賀さん、ありがとう。私の知らない場所で死んでいった古賀さん、私は、あなたのことばを、あなたから遠い場所で、しずかに食べさせていただきます。いつか、大勢のひととあつまって、焼き肉を食べるみたいにむしゃむしゃと食べたいと願っています。読者が大勢集まって、古賀さんを自分の手で殺せなかったのは悔しい、悔しい、悔しいと涙を流しながら、古賀さんのことばを食べたいと思います。



血のたらちね
古賀 忠昭
書肆山田

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