詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(3)中井久夫訳

2008-11-10 11:58:17 | リッツォス(中井久夫訳)
彼の発見物   リッツォス(中井久夫訳)

ヨルゴスはカフェニオンに座ってコーヒーを飲む、海は見ずに。
葡萄を摘む農夫の声がここまで届く。
ジプシーのテントの前で、蹄鉄屋が蹄鉄を馬のヒズメに打ち込む。
荷車がトマトを積んで通り過ぎる。

ヨルゴスは何をしてよいやら。
海はもちろん淡青色。太陽はいつもながらに太陽。
蹄鉄は扉に懸かって、孔が六つ。



 私は、こうした一瞬の情景をスケッチした作品が好きだ。「ヨルゴス」が何者かはいっさい説明されていない。そういう省略が好きだ。風景とことばが交錯する。そして、その交錯のなかにこころが浮かび上がってくる。説明する必要のないこころが。
 
ヨルゴスは何をしてよいやら。

 だれにでも、何をしていいかわからない、ぼんやりした時間がある。無為の時間がある。そして、そういう無為の時間の中で、ひとは永遠にふれる。でも、永遠といっても、「海」や「太陽」のことではない。ランボーではないのだから。もちろん、ここにも海と太陽は出てくるが、そういう「自然」の「永遠」ではなく、ひとの暮らしのなかにある「永遠」。
 蹄鉄--孔は六つ。
 あ、いいなあ。この「もの」、人間がつくりだした「もの」、それが到達した完成点。そこに永遠がある。
 それはたしかに「発見物」なのだ。

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村永美和子試論(2)

2008-11-10 11:54:52 | 詩集
 村永美和子はことばとものを同一のものとは考えない。ことばはことば。ものはもの。それぞれが独立した文脈を生きている。『されない傘』には、そういうことばがつまっている。藤富保男の影響かもしれない。柴田基孝(基典)の影響かもしれない。たとえば、「垂」。

生憎の
雨の棟上げ

夜には 早くも屋根になる深みに 懸垂
するっ
--蛇

 何かが屋根の梁にぶら下がっている。「懸垂」している。そこから、「懸垂する」→「するっ」→「すべる」→「ぬめる」→「蛇」。蛇が梁を登っているのだ。ぬるっと滑って、半分落ち懸かっている。それをあえて、「懸垂する」と言う。
 いや、紐(縄の類)が梁に残っていて、それが夜には蛇に見えたということかもしれないが。地方によって違うだろうが、私の生まれ育った田舎では、蛇が住み着く家には金がたまるといった。蛇は家にとっては縁起がいいのだ。そういう意識が縄を蛇に見せたかもしれない。
 いずれにしろ、「懸垂/するっ/--蛇」という改行のなかには、ものとことばを結びつけるという基本的な接着剤がはがれ落ち、ことばが自立して動いている。それがおもしろい。



 村永には柴田基孝の影響があるかもしれない、と書いたが、『されない傘』には柴田が「しおり」を書いている。その「しおり」を読んでいて、私は、あっと声を上げた。「さされない傘」を引用している。そしてコメントしている。

 ”されない傘”というものもある すんなり受け身に
 世にあまたの傘のなか 本数が少ないか たまに持たされると ハッっとなり蛙の腹で空をふさぐ ほどなく持ち帰る か 水切りの後 ぐったり場に倒したまま 足はうすらいだ頭を垂れている

 これはタイトルポエムの冒頭部分だが、がんらい村永の詩のなかに持ち込まれる道具はすべて家庭の日常に見るものばかりである。その日常用具の処理がムラナガ語の世界で秩序を変えることで、モノの重みが変わり、コトバの景色に亀裂が生まれる。つまり、世界はその大小を問わず、いかに関係に依存し、関係に群がっていることか。する傘、される傘はあっても、されない傘はありえなかった。それに、「ぐったり場」。ありえないものが登場することは、ひとを緊張させる。

 あ、柴田さん、誤読していますよ、と私はいいたい。(私が誤読なのかもしれないけれど。)
 「されない傘」というのは「持たされない傘」の省略形。女が男に傘を持たせる。そのときなんとなく傘を選ぶ。その選択からこぼれおちたものを「(持た)されない傘」と村永は呼んでいる。そして、「ぐったり場」というのは、場所の名前ではない。村永が発明したことばではない。
 傘は家へ入るとき水切りされる。そのあと立て掛けられる傘もあれば、その辺り(場)にぐったり倒したまま(放り出されたまま)にされる傘もある。「ぐったくり」は「場」を修飾することばではなく「倒した」を修飾することばなのだ。
 村永は、この柴田のコメントを読んだとき、どんな気持ちだっただろう。あ、違うのに、と思ったけれどそれをつたえられなかったのではないのか。そこに、村永の柴田への敬愛がうかがえる。いいづらかったんだろうなあ。
 そして。
 「ぐったり場」か。そんなふうに読んでもらえるなら、そっちの方がおもしろいかも、と思ったのかもしれない。誤読を積極的に受け入れ、受け入れることで、村永は自分のことばを変えてしまった。「されない傘」を柴田との合作にしたのだ。
 ジャズセッションのようなものだ。ことばはことば。ものはもの。--そう考えるときにのみ、成立する合作、パフォーマンスだ。
 詩とはもともと誤読されるためのものだから、これはこれで、とても楽しいなあ、と思った。



詩人藤田文江―支え合った同時代の詩人たち
村永 美和子
本多企画

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高岡修「現代詩文庫190 高岡修詩集」

2008-11-10 10:50:22 | 詩集
高岡修「現代詩文庫190 高岡修詩集」(思潮社、2008年09月17日発行)

 「二十項目の分類のためのエスキス・ほか」という詩集がある。高岡の初期の詩集である。この「エスキス」ということばに高岡の詩の特徴がよくあらわれていると思う。
 素描は、いわばメモ。それは必要最小限のものを書き留めたもの。いずれ、それを補足する形で「大作」が完成する。素描に必要なのは、線のスピードである。ことばの場合は、ことばのスピードである。そして、そのスピードというのは、たいていの場合はオリジナルであってはいけない。そこに個性があると、つまずいてしまう。すでに完成されているもの、つまり、古典からの引用でなければならない。古典は他者によって十分共有されている。共有されているものはすばやく動く。つまずかない。素描に必要なのは古典の力である。
 「ある建築物のためのエスキス」の「1」の部分。

その建築物は
天空から吊るされている
天心とおもわれるあたりから
強靱な綱が垂れていて
その上端を
死者たちの歯が噛んでいる
一種の浮遊状態にあるわけだが
その建築物が落下するというようなことはない
そこでは
重力というより
物質の質量そのものが存在しない

 「天空」には「天心」が呼応する。「吊るす」のに必要なものは「綱」である。「綱」を「噛む」のは「歯」である。この一連のことばの運動は古典である。綱をつかんでいるものが、たとえば果てしなくのびる欲望の舌であったなら、このエスキスはエスキスにならない。個別の完成を目指した作品になってしまう。
 「重力」「物質」「質量」。ここにも存在するのは古典である。
 高岡は、一方で「死者」とか「歯」とか、「噛む」とか、いわば人間の肉体を感じさせるものを置き、他方に「物理」という非生命体を置く。いわば、相いれないものをぶつける。いや、とりあわせる。これは「俳句」の古典的な手法である。
 高岡は、現代詩の形を借りて、いわば「俳句」をやっている。

 「俳句」は短い文学である。「俳句」は、ことばの量だけを問題にすれば、素描の素描の、そのまた素描になるかもしれない。しかし、文学というのは「ことばの量」ではないから、「俳句」を素描から独立させるものが必要である。それは何かといえば、対象を矛盾のままつかみとる把握力である。体感力である。

 高岡は、現代詩において、その把握力を放棄している。放棄することで素描にしている。

そこでは
重力というより
物質の質量そのものが存在しない

 こういうことを、俳句では対象に託して一気に噴出させる。世界をたたき割り、たたき割った瞬間に再結合させる力で一気に閉じる。そういう力にすべてをかけるが、高岡は、そういう力を放棄して、現代詩のなかに逃げている。
 私には、なぜか、そんなふうに感じられてしまう。

 「エスキス」が「エスキス」として独立して存在するためには「余白」が必要だと思う。それは「俳句」でいえば「切れ」のようなものかもしれない。高岡の俳句を私はそれほど読んでいるわけではないが、高岡の俳句には「切れ」が少ないように感じられる。(文法上の「切れ」のことではなく、感覚の「切れ」のことである。)そして、その「切れ」の少なさが、何か、とても古いものを読んだような気持ちを呼び覚ます。
 それは古典の古さとは違う古さである。古典はいつでも新しい。もちろん古典のなかにも古い部分があるけれど、それを超えてしまう新しさがいつでもある。

 私は、どうやら高岡のことばが苦手なのかもしれない。どの作品にも「傷」はない。どの作品も美しい。けれども、その美しさは、近付きたい美しさとは少し違う。
 逆に言えばいいかもしれない。世界には汚いものが沢山ある。汚いものには私は基本的には近付きたくないが、なかには魅了されてしまう汚さというものがある。いやなんだけれど、それにそまってみたい。汚れてみたい。汚れる楽しみにふけりたい、という欲望を燃え上がらせるものがある。--そういう欲望とはまったく反対の気持ちになる。高岡の書く美しさ。それには、まあ、近付かなくていいかな、という感じになる。
 どうぞ、高岡の作品が好きなひとは好きになってください。私はちょっとほかの用事がありますので……、と、つい、書いてしまう。






高岡 修
思潮社

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