詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲川方人「カンブリア湖の岸のあなたの家」、瀬尾育生「放散」

2008-11-04 10:57:45 | 詩(雑誌・同人誌)
稲川方人「カンブリア湖の岸のあなたの家」、瀬尾育生「放散」(「イリプスⅡnd」2、2008年10月20日発行)

 稲川方人の作品には、私はいつもつまずく。いらいらしてことばを読めなくなる。たとえば「カンブリア湖の岸のあなたの家」。

水色の半身に月を格下あなたの
乾いた手にもう一度
ツグミの雛を乗せてあげられたなら
譲れない命で争うことも、もうなかろうと
夕暮れの停留場で
あなたを見送る人の
掛け替えのない声に私は祈られる

 もっとまわった修辞、きれいなことばをならべたてた修辞が、これはいったいいつの時代の詩?という感じを呼び起こす。それだけならいいのだが、「文法」が気に入らないのである。

掛け替えのない声に私は祈られる

 「意味」はわかる。しかし、これは日本語?
 あなたを見送る人が停留場にいる。あなたはたぶんバス(列車なら「停車場」だろう--それにしても、なんという古いことばだろう)に乗っている。そのあなたを見送る親しい人たちの声を聞いていると、その声はあなたを見送っているというよりも、むしろ、私には、私のことを祈っているようにも感じられる--というような「意味」だろう、と私は推測する。
 だが、「祈られる」なんていう表現があるのか。日本語にかぎらず、外国語にもそういう「受け身」の表現があるだろうか。私は、とても疑問に感じる。「祈られる」ような存在は「神」くらいである。
 ひとは何にだって祈る。神はもちろん、鰯の頭でも、1枚だけ壁に残ったツタの葉にだって「いのる」。願いをかける。しかし、「祈られる」なんて、ばかげている。
 たとえばだれかが私に対して「あなたの健康をお祈りします」という。そのとき、私が祈られているのではない。あくまで「健康がつづきますように」とだれかが私に言ってくれているだけであって、そのときの「祈り」というのは「私」そのものが「祈られている」わけではない。だいたい、「あなたの健康をお祈りします」というような表現は、「祈り」ということばは含まれているが、「あなたを愛しています」「あなたのことをいつも気にかけています」というような親愛をつたえることばである。
 稲川のことばは、それ自体としては、間違っていないというか、文法上はありうるものである。しかし、ありうるということと、それが存在するということ、人間の暮らしのなかで気持ちをこめてつかわれるということとは違うのだ。
 詩のことばは、日常にしばられる必要がない。日常のことばを批判するために詩があるという見方もあるだろうけれど、そういう批判的言語だとしても、どこかで肉体とつながっていないといけない。ふたたび書いてしまうが「祈られている」なんて、「神」だけで十分だろう。「神」の「肉体」だけが「祈られる」ことが可能だ。
 稲川のことば(文法)は、私には、とうてい信じることができない。それは「肉体」をくぐりぬけていない。もしかすると「頭」さえもかすめていない。ようするに、感じても、考えてもいない、単なる「きれいごと」のことばにしか思えない。とても不正直である。そういうことばに、私は、いらいらとしてしまう。



 瀬尾育生も独特のことばづかいをする。「放散」。その書き出し。

kuuchuu の帝国の砂の上を雨滴が風とともに動いてゆき
木の霊としてきみが葉を揺らしていたと私たちが言うとき
その霊という語は、像をまとって百年の見知らぬ地形のなかへ行進する

 「kuuchuu の帝国」なんて、私は知らない。「木の霊」なんて、存在するかどうかわからない。「像をまとって」って、なんの像? 「百年の見知らぬ地形」って、いったい何? どこにある? というような不明・疑問を数え上げればきりがない。
 稲川の「水色」「半身」「月」「ツグミ」などの方がはるかに理解できる。理解できる範疇にある。
 しかし、私は、瀬尾のことばの方が信頼できる。
 そこにはきちんとした文法がある。主語と述語が呼応し合う。その呼応の仕方は、肉体をとおった呼応である。「頭」を通るときも、しっかりその痕跡を残す。たとえば3行目の「その」。「その」が指し示す「文法」が「肉体」を通っている。
 言い換えよう。
 どんな言語表現(あるいは芸術表現)にも共通することだが、ひとは何か特別なことをつたえたいとき、それを何度かことばをかえて(表現をかえて)繰り返す。(音楽でも、重要なテーマは何度も変奏される。)そういう「習慣」がある。その習慣のことを私は「肉体」と呼ぶ。
 瀬尾は、そういうことをきちんと踏まえ、その上で、現在流通している言語に対して批評を試みている。
 奇妙な言い方になるかもしれないが、たとえば書き出しの「kuuchuu の帝国」、その「帝国」が「定刻」(ワープロでは、最初にこの変換が出た)であったとしても、文法は崩れない。「意味」は違ってくるが「文法」は同じである。

 「文法」も批判されなければならない。「文法」こそ、批判の対象であるべきだ、という考えもあると思う。しかし、文法を批判するときは、稲川のように文法を乱すという「みせかけ」ではだめである。文法を超越する必要がある。より強靱な文法を作り上げたときだけ(つまり、あたらしい文法になったときだけ)、それは文法を批判したと言える。
 --この視点から、瀬尾をとらえ直すとき、ほんとうの瀬尾論がはじまるのだと思うが、私は瀬尾の作品をそんなに熱心に読んでいないので、「論」を書くことまではできないのだが、じっさいに瀬尾が試みているのは、ほんとうは文法批判である。瀬尾のおもしろさは、ほんとうはそこにある。
 北川透にも共通したものを感じるが、瀬尾がやっているのは、強靱な文法で新しい文体を誕生させるという試みである。言語のつくりかえである。詩にしかできない仕事である。
 「kuuchuu の帝国」にしろ何にしろ、そういうものを「文法」はどれだけ自在に取り込めるか。取り込めながら、どんな文体になることができるか。
 文体の真剣勝負として、瀬尾の作品を読むことが必要なのだと思う。





アンユナイテッド・ネイションズ
瀬尾 育生
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言A(1963)」(15)中井久夫訳

2008-11-04 01:19:29 | リッツォス(中井久夫訳)
夢遊病者ともう一人と   リッツォス(中井久夫訳)

夜中じゅう眠れなかった。頭上の屋根を歩く
夢遊病者の足音を追いかけた。一つ一つの足音が
彼の中の虚ろにはてしなく木魂した。
ずっしりと重い、押し殺した足音だった。
彼は窓のところに立って、落ちて来たら掴まえようと待った。
だが、奴の墜落に彼が巻き込まれたのか?
壁の上を走った鳥影か? 星か? 彼か? 彼の手じゃないか?
暁、石畳の上にどさっという音がした。
窓が開く。近所の人が走る。夢遊病者は暖炉の煙突を走り降りる、--
窓から墜落した男を眺めようとして。



 この詩はよくわからない。
 「夢遊病者」とその足音に困惑している「彼」が描かれいてるように見える。さまよい歩く夢遊病者の足音に苦しんでいる彼が、なんとか夢遊病者の足音をとめようと躍起になる。窓の近くにくるのをまって、その足を掴もうと思っている。そして、その幻をつかんで、彼は石畳の上に落ちてしまう。夢遊病者は生き残り、彼は死んでしまう。--そういう「ストーリー」をもった作品だろうか。

 どうも、違うような気がする。

 私は次のように読みたい。
 夢遊病者は自分の足音に苦しんでいる「彼」を夢見ている。きっと彼が自分の足をつかんで、それがきっかけで、自分は石畳に落下して死ぬ。それが夢なのに、「彼」は夢遊病者の足を掴み損ね、空気を掴み、そのまま石畳に落下してしまう。自分をつかまえてくれる「彼」、夢のさまよいから救い出してくれる「彼」を失い、まださまよいつづけなければならない。
 --そういう夢に夢遊病者は苦しんでいる。
 この夢は、循環する。途切れない。そういう苦しみがここに描かれている。

 これはいわば「錨」とはまったく逆の苦しみである。悲しみである。共通するのは、どちらも孤独である、ということだ。「不在証明」の「彼女」も孤独だった。リッツォスは人間の孤独をドラマにして描く。劇的なことがらのなかで、人間は、いっそう孤独になる。

壁の上を走った鳥影か? 星か?

 この部分に、私のこころは震える。涙が出るくらい好きな部分だ。





天才の精神病理―科学的創造の秘密 (岩波現代文庫)
飯田 真,中井 久夫
岩波書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする