詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水島英己『楽府』

2008-11-07 10:33:38 | 詩集
水島英己『楽府』(思潮社、2008年10月31日発行)


 「辺野古野辺」という作品がある。その書き出しが好きだ。

へのこのへ
ぼくたちの窪みに雪が降る
まりんん・すのうが激しく辺野古の海で降る
どこの子
辺野古の子
ぼくたちの窪みに雪が降る
あたたかい呪言が慄える 鮮やかな珊瑚の樹木が枯れる
へのこの辺
坐りつくす人を思う

 水島は「あとがき」で、『楽府』は「怒りの詩」であると書いている。この書き出しは、一見、「怒り」から遠くにあるように見える。リズムが美しいからだ。けれども、私は、この書き出しにいちばん「怒り」を感じた。他の作品には「怒り」がそれほど感じられなかった。

へのこの辺
坐りつくす人を思う

 「坐りつくす」がすごい。「立ちつくす」ということばにはなじみがあるが、「坐りつくす」ということばには私は初めてであった。
 「立ちつくす」はただ立っているだけ。なにもできない。そういう状態をあらわすと思う。(私は、そういう意味合いでつかう。)「坐りつくす」は、ただ坐っているだけ、何もできないという感じになるのだろうか。
 --しかし、奇妙だ。「立ちつくす」の「立つ」は、何か行動をしたいのだが、それができない状態だ。「立つ」というのは、何か行動をするための準備のようなものである。何をするにも人間はまず立ち上がる。そして動く。「立ちつくす」は何かしようとする準備はこころのなか、肉体そのものにあるのだが、それができないことを指すだろう。
 「坐りつくす」は、何かをしようとてして「坐る」のではない。「坐る」とは、もともと何かをしないために坐るのである。立つのが何かの準備であるなら、坐るのは何もしないことへの準備である。
 何もしないことが「怒り」である。

 怒りのために何かをする、ということがある。一方、怒りのために、何もしないということがある。抗議には2種類ある。積極的に動く抗議と、絶対に動かないという抗議である。「座り込み」などは後者になる。
 そしてそれは、無防備な抗議である。無防備な怒りである。自分を投げ出しての抗議、命を投げ出しての抗議である。座り込みはハンガーストライキへとつながる、厳しい抗議である。

 そういう無言、無抵抗の抗議をする人々の胸のなかには何が去来するのだろうか。何を思っているのだろうか。
 この作品では、マリンスノーを思っている。青い海に降るプランクトンの遺体。それに自分たちを重ね合わせている。死が美しく見える瞬間がある。死が美しいというのは錯覚かもしれない。けれど、人間は錯覚を生きている。無抵抗での抗議--無抵抗が最大の抗議になるというのは錯覚かもしれない。それでも、それを選ぶしかないときがある。

 沖縄の悲しみと沖縄の切実な願いを思った。私は無抵抗の抗議というものに与するタイプの人間ではないが、水島がここで書いている抗議は、その「坐りつくす」という一語で、私をぐいと引きずり込む。「坐りつくす」人たちの胸のなかに降るマリンスノーにこころが動かされる。
 辺野古はキャンプシュワブの近くにある。--いや、キャンプシュワブは、辺野古の近くにある。


今帰仁(なきじん)で泣く
水島 英己
思潮社

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アイラ・サックス監督「ああ、結婚生活」(★★★)

2008-11-07 00:07:20 | 映画
監督 アイラ・サックス 出演 クリス・クーパー、ピアース・ブロスナン

 これはちょっと愉快な映画である。
 ストーリーは、クリス・クーパーが妻をも愛人をも寝取られる、というもの。愛人ができた。妻と別れたい。でも、妻には私しかいない。一人にさせるわけにはいかない。殺してしまおう。そして愛人との新しい生活を始めよう、とわがまま放題に考えている。
 ところが妻には愛人がいる。そして、愛人は友人(ピアース・ブロスナン)と恋に落ちてしまう。しかも、その現場をクリス・クーパーは目撃してしまう。
 そんな、ドタバタ・ラブコメディーである。

 ドタバタ、といま書いたが、実はちょっと違う。
 ドタバタしない。ドタバタガあっていいのに、ドタバタがない。実に落ち着いている。慎み深い。ゆったりしている。それが愉快である。

 どうも、この映画は夫婦のドタバタをテーマにしているように見せかけながら、実は、1950年代ころの映画を再現しようとしているように思える。ジャズといい、ストーリーの展開といい、とてもシンプルだ。あれこれ考えずに、ゆったりと時間が動いていくのを味わうことができる。台詞回しも、すっきりと、ていねいにことばを発音している。
 そこでは、もしかすると、一種の理想が描かれているのかもしれない。ゆったりとした人間の寛容さ。そして、慎みが、「手本」として描かれているのかもしれない。
 クリス・クーパーの妻がクリス・クーパーの友人とキスしているのをピアース・ブロスナンは目撃する。目撃されたのに二人は気がつく。そのあとの対応。「秘密にしてね」とは言わない。ピアース・ブロスナンは「何も見なかった」と言う。そして、そこで目撃したことをクリス・クーパーには言わない。言わないということを、妻と愛人は信じている。そのときの、不思議な信頼関係というのだろうか。人間の慎みを守る感じがなかなかいい。誰にでも秘密はある。誰にでもプライバシーはある。それは本人が語りたければ語る。他人が口をはさむことではない。そういう距離感がつくりだす、ゆったりした感じが、古い感じの映画にぴったりあっている。
 クリス・クーパーが、愛人とピアース・ブロスナンができているとわかったときも同じである。「愛人のことで相談したのに、その愛人を寝とるなんて。親友の癖に」などとは言わない。取っ組み合いもしない。あ、今は、愛人はピアース・ブロスナンと愛し合っている。私は恋愛に敗北したのだ--ということを、実に自然に受け入れる。ピアース・ブロスナンも愛人も、クリス・クーパーに謝罪したりなんかしない。私たちは愛し合っています、とことばにもしないが、自然に、そのまま、ふるまう。
 この距離感がいい。
 このときの距離感は、複雑である。複雑だけれど、それをシンプルにする寛容さを、1950年代の大人たちは身につけていたということだろう。いや、そういうものは、いつの時代でも身につけることはできないものかもしれない。そういうふうにありたいという願いが、こういう映画をつくったのかもしれない。
 いまの時代は、こういう距離感はむずかしい。だからこそ、1950年代をかりることで、そういう夢が、大人の童話が描かれているのかもしれない。

 この映画は、いわばきのう取り上げた「ブーリン家の姉妹」と正反対の映画である。人間は欲望をもっているが、寛容さももっている。寛容さが生活をゆったりとさせる。人間関係を豊かにする。人はいろいろ欲望や秘密をもっている。それでも、いっしょに「家庭」を築いてゆける。そういう「夢」が描かれている。
 この映画は、人間をシンプルにしてくれる。




007 / ダイ・アナザー・デイ

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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リッツォス「証言A(1963)」(18)中井久夫訳

2008-11-07 00:03:37 | リッツォス(中井久夫訳)
戸を叩く音   リッツォス(中井久夫訳)

塩と陽と水がその家を少しづつかじって行く。
窓があって人がいたところが、ある日に濡れた石だけになる。
それに彫像が一つ。泥に顔がうつぶせに。
扉たちだけが海上を帆走する。 ぴんと張って、海慣れして、武骨。
時には日没など水上に光るのが見えるだろう。平らな扉。永久に閉ざされた扉。
漁夫たちはもう扉を見ない。
彼等は朝早く家の中でランプの前に座って
己の身体の裂け目に魚が滑る、その音を聴く。
漁夫たちは海が千の手で自分たちを叩くのを聴く(皆知らない手ばかりだ)。
それから寝床へ行き、眠る。貝殻と髪の毛がもつれあって。
突如、扉を叩く音がして漁夫たちは目覚める。



 リッツォスの詩は(中井久夫の訳は)とても映像的である。1行1行くっきりと映像が見える。そしてその映像はとても簡潔なものである。けれども、その詩が簡単であるとはかぎらない。

塩と陽と水がその家を少しづつかじって行く。

 これは漁夫の家の描写である。海辺なので飛沫がかかる。太陽も過酷に照らす。家は徐々に雨風に傷んでいく。--そういうことは誰でもが知っていることなので、ここに書かれていることがわかった気持ちになる。けれどもよく読むと「その家を」の「その」がわからない。この行の前に、「その」に相当するものが書かれていない。
 ここではリッツォスは読者に「過去」を要求している。「過去」を想像するよう要求している。どの詩でも「過去」を要求する。たとえば、昨日読んだ「孤独な業」では、男がどこから馬を走らせてきたか、という「過去」を想像するよう要求している。男と馬がどんなぐあいに親密だったか、その「過去」を想像するよう要求している。リッツォス自信は、そのシーンの前にあるはずの時間、「過去」を説明しない。
 「過去」はどうしても、読者の「過去」になる。リッツォスは、読者に自分自身の「過去」を反映させて詩を読め(ことばを読め)と要求しているのである。この要求にこたえるには「おとな」でなければならない。「こども」は「過去」の時間が少なすぎて、リッツォスの要求にはこたえられない。リッツォスの詩は、「おとな」のための、そして、同じ時代を経験してきたひとのための詩なのである。
 リッツォスの詩をほんとうに理解するためには、リッツォスが生きたギリシアを知らなければならない。ほんとうのリッツォス論はそういうことを抜きにしては成り立たない。
 私はギリシアの現代史を知らない。リッツォスがどういう時代を生き、その仲間たちはどうしていたのかを知らない。
 だから私の感想は、あくまで、印象である。

 この詩は1連で、切れ目なく書かれているが、視線はふたつに分かれる。(多くの詩が同じスタイルをとっているように見える。「夢遊病者ともう一人と」で少し書いたが、ふたつの視線が交錯する。)
 前半。「漁夫たちはもう扉を見ない。」までは、嵐のあとの風景である。嵐が家を壊していった。残っているのは石だけ。倒れた彫像だけ。その家の「扉」は海の上を漂っている。それは家にあったときのように開かれることはない。海にはりついて(水面に張りついて)「永久に閉ざされ」ている。
 そして、その扉の下、つまり、海中、海底が、その家の「部屋」なのだ。「家の中」なのである。ここからが後半である。岸から扉を眺めていた視線が、海中から水面を漂う扉を眺めるのである。そこには、嵐で遭難した漁夫がいるのだ。その壊れた家の漁夫にはかぎらない。これまでの嵐で遭難した漁夫たちが、その扉の下、深い深い海底にいる。そして、遠い「扉」を、帰るはずだった家を夢見ている。夢見ながら、生きていた「日常」をくりかえしている。同時に、死を受け入れようとしている。遭難して、死んで行く漁夫たちの思いが描かれているのだ。
 傷ついた体の傷を魚がつっつく。海の水、海底の水は船に乗っていたときにはわからなかった感触がある。(皆知らない手、とはそういう意味だろう。)あきらめて、死んでいこうとする。寝床は、実は死の床である。髪の毛には貝殻が絡みつくだろう。
 と、そのとき、突如、扉を叩く音。
 遭難者をさがす漁夫仲間が、死にかけた男を見つけたのだ。「目覚め」は死からの回復である。
 --それはほんとうにあったことか。それとも、そうあってほしいという夢なのか。

 そんなことを考えながら、私はリッツォスを読む。


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