詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「緋の迷宮」「螺旋の閾」

2008-11-20 12:02:30 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「緋の迷宮」「螺旋の閾」(「hotel 第2章」20、2008年10月01日発行)

 野村喜和夫「緋の迷宮」は「恋人」追跡の詩なのだが、追跡が追跡でなくなるところが気に入った。

 恋人を追って、私はひどく奇怪な街に入り込んでしまったらしい。恋人といっても、まだキスしたこともない女で、いや、もしかしたら私の一方的な欲望の対象であるにすぎないのかもしれず、しかも彼女は、私の教え子のひとりであり、授業中彼女に質問を出すと、答えるかわりに教室から出て行ってしまったので、「待ちなさい」と私も教壇を降りて、そのまま大股でキャンパスを抜け、大通りを渡っていった。というのも、彼女もそのルートを逃げ去っていったからだ。

 「恋人といっても」からはじまる長い文章。そこに挟まりこんでいる「説明」が愉快だ。すべてを「説明」したいのだ。その「説明欲」(?)の結果として、

というのも、彼女もそのルートを逃げ去っていったからだ。

がある。笑ってしまう。追いかけているのだから、彼女が逃げ去った後をそのままたどってしまうのはあたりまえのことである。しかし、ここに詩がある。「わざと」がある。野村はわざと「というのも……」と書いている。
 なぜこんな1文を書いたか。
 この1段落の後、野村の追跡はそれこそ「奇怪な街」に入り込むのだが、そこで展開するすべても、「奇怪」ではあるけれど、ちゃんと「説明」がつく、ということをいいたいためである。
 というよりも、「説明」をこそ「描写」に代えたい、「描写」するのではなく、「説明」することで世界を描こうとしたいと思っているからである。
 いろいろな街(風俗)が出てくるが、それを野村は具体的に描写するふりをしながら、「説明」する。「説明」をつみかさねることで、「説明する私」の意識を表に出すのである。
 そこから「追跡」が追跡でなくなる。「彼女」を追うことより、自分の欲望を語ることに夢中になる。
 途中を省略して、

不動産屋のつぎは歯科医院であり、ところが、なぜかこのあたりから室内の照明が妙にピンク色っぽくなって、歯科医院というより歯科医がのぞく口腔そのものに入り込んだみたいだと思ったら、じっさい歯科医院のつぎは、何もかもがピンク色で統一されたなにやらいかがわしいマッサージの店で、だがそこを抜けた居酒屋も、ピンクをさらに一段と濃くしたような、つまり緋色の居酒屋であって、これではまるでほんとうにヒトの口腔から体内に入って、そのこんがらがった内臓や血管のなかを経めぐっているかのようだ。

 説明するとは「外部」から「内部」への侵入なのである。「口腔から体内に」という表現が出てくるが、「説明」とはそんなふうにして「外部」と「内部」を入れ替えてしまうことである。「説明」をくわえながら「追跡」していくく、追っている対象が「彼女」ではなく、自分の欲望になってしまう。自分の欲望に合致するものだけを、風景からすくい上げてしまうことになる。そして、その「欲望」を「彼女」と思い込むことになる。

 冒頭に引用した1段落。その、「というのも、彼女もそのルートを逃げ去っていったからだ。」は、そう「説明」した瞬間に、「私」が「彼女」(恋人)になってしまうのだ。追いつくのではなく、追い越してしまうのだ。
 普通、追跡は、「そのルート」などという感じではおこなわない。「その」ではなく、「この」と直接触れることだけを考えている。「この」から離れない、ぴったりくっついていくのが追跡である。ほかのルートなどには目が行かないのが追跡である。
 「その」と少し離れた感じで「ルート」を見た瞬間から、余分なものが入りはじめる。「ルート」を先回りしてしまう。「彼女」がどんなルートをたどるか、それを「彼女」の内部に入って想像する。そして、先回りするのだ。先回りしてしまうのだ。「内部」へ入ってしまうということは「追跡」ではなく、「追い越し」であり、「追い越す」ことで「私」は「彼女」を自分の欲望へ導くのである。「内部」にはいったのは「私」の欲望だから、追い越すことは、「彼女」を自分の「欲望」の形にかえることでもある。

 したがって、その「追跡」がどうなるかは、もう書かなくてもわかるだろう。
 だれもが思った通り、「私」は「私」を追い越して、「彼女」とセックスしている。それを目撃するしかない。
 これはわかりきったことばの運動なのだが、それでもやはりおもしろい。わかりきっているのに「説明」するその情熱がおもしろいのである。「説明」が情熱によって、「説明」を超えて、欲望の現実となるからである。

 「螺旋の閾」は、その「説明」の果てのセックスの、「説明」を超えた世界である。「追跡」しているあいだ、「その」ルートをたどっているあいだは「私」でいられるけれど、「その」ルート、そして「その」肉体が、いま、ここに「私」と触れ合って「この」肉体になるとき、「説明」は不可能になる。距離がないから、追いつくことも、そして追い越すこともできず、もつれるだけである。

なすすべの、
さきで、

うひ路だね、すね地だね、
というべつの声、

声はねじれ、
閾がそれを追い、

だるだると、
ふる泥、わけて、

あわなぎ、なのだった
あわなみ、なのだった、

閾が声に追いつき、
かさなり、

ふたつながら、
さらにねじれて、

つらなぎ、なのだった、
つらなみ、なのだった、

 表現の便宜上「追い」「追いつき」は出てくるが、書かれている焦点は「かさなり」である。






街の衣のいちまい下の蛇は虹だ
野村 喜和夫
河出書房新社

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リッツォス「証言B(1966)」より(12)中井久夫訳

2008-11-20 00:23:31 | リッツォス(中井久夫訳)
事故   リッツォス(中井久夫訳)

十八歳は過ぎていなかったろう。服を全部脱いだ。
体操でもしているみたいだった。だが何かの命令に従順に従っていることも分かった。
彼は岩の上に登った。多分、背を高く見せたかったのだろう。
それとも背を高くすると裸体が隠せると思ったのだろうか。
そんな心配は要らなかったのに。こんな時に誰が背丈を気にするか。
腰の周りの桃色の線条(すじ)彼の固いベルトのせいだ。それが裸体を強調していた。
それから、高々と跳んで、
この一月の寒さというのに、海に身を投げた。
すぐまた現れ出るでしょう、今度は十字架を高々と掲げて。



 岩の上から海に飛び込む少年(青年)。自殺というより、「事故」のタイトル通り、「事故」と受け取りたい。打ち所が悪く、死亡してしまった--そういうことを描いた詩だと思う。ここに書かれているのは「感情」ではない。少年(青年)の肉体だ。その描写--描写することばそのものが詩なのである。
 詩とは感情や内容ではなく、そのことばの描写する力なのである。

それとも背を高くすると裸体が隠せると思ったのだろうか。

 ここにあるのは、少年(青年)の傲慢な美しさだ。美しさに対する傲慢さだ。奢りだ。少年(青年)の奢りほど美しいものはない。それは少年(青年)ではなくなった人間にはけっして手に入れることのできないものである。
 美しさは裸の肉体の羞恥心を隠す。はずかしい部分を隠す。背は低いよりも高い方が美しい。だからこそ少年(青年)は岩の上で、さらに背伸びをする。
 そして美は「傷」(瑕疵)によってさらに美しくなる。腰の周りに残るベルトの痕。それは美しい肌を傷つけるが、その傷の存在が、肌の他の部分をよりいっそう輝かしいものにする。
 リッツォスは、ここでは肉体と美の関係だけを描いている。
 ほかのストーリーは飾りだ。ストーリーを書きたいのではなく、ある一瞬の美の存在、どのようにして美が存在するか、それをことばはどのように定着させることができるか。それだけが詩にとっての問題なのだ。





中井久夫著作集 (別巻2)
中井 久夫
岩崎学術出版社

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