詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェルナンド・メイレレス監督「ブラインドネス」(★★★-★)

2008-11-29 02:59:37 | 映画
監督フェルナンド・メイレレス 出演 ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、ガエル・ガルシア・ベルナル、伊勢谷友介

 突然、失明する。感染症の病気である。ただし、眼科医の妻だけは失明しない。--という粗筋(予告編の知識)で、映画を見はじめる。そして、見はじめてすぐにこの映画の鍵に気がついてしまった。メッセージに気がついてしまった。こういうのは、興ざめである。で、★3個-1個=★2個というのが私の採点。

 何に気がついたかというと。
 眼科医が不思議な失明患者を診察する。そして帰宅する。食事は上の空。妻だけがワインを飲む。この、ワインがこの映画の重要な鍵。妻が失明しなかったのは、このワインのおかげ。
 ワインにどんな意味があるか。どんな伏線が隠されているか。それは、最後にわかる。眼科医の夫婦を中心にした何人かが悲惨な隔離病棟から脱出し、無事に帰宅する。(この、帰宅にも意味がある。)そして、「よかった、よかった」と祝福のシャンパンを飲む。
 その翌日。最初に失明した、伊勢谷友介が、突然失明から回復する。視力を取り戻す。ワイン、あるいはシャンパンは、いわば「よかった、よかった」という一家団欒の祝福(若い)の象徴である。伊勢谷友介が視力を取り戻す前の夜、いっしょにシャンパンを飲んだあと、妻と会話する。そのなかで、妻は、「初詣、寒かったけれど楽しかったよ」という。二人が失明したとき、隔離病棟で伊勢谷友介は妻に対して初詣の話をしかけるが、「こんなときに、そんな話」と妻に拒絶される。そういう対立を超えて、和解したというのがシャンパンに象徴されている。
 類似したことが、実はワインのときに描かれている。ジュリアン・ムーアは料理をつくり、デザートを出す。マーク・ラファロはそれを十分には味わえない。診察した不思議な失明患者(伊勢谷友介)のことが気になっているからである。デザートも「ティラミス」を「タルト」と間違える。上の空なのである。その、崩れた団欒の中にあって、ジュリアン・ムーアは、それでも夫を受け入れ、ひとりワインを飲む。いわば家族の団欒、家族の和を守る。ワイン、シャンパンには、そういう「意味」が隠されている。
 隔離病棟でジュリアン・ムーアがひとり奮闘するのは、やはりそこにいる人々の「和」というものである。全員をつなぎとめ、いっしょに生きようとする力が彼女を支えている。その象徴的な事件が、夫と病棟で出会った女のセックスを目撃しても、それを許すところにあらわれている。他者を非難しない。身内を非難しない。ひとには、それぞれの行為の理由がある。ワインを飲まなかったのは、患者のことが気になっていたから。女とセックスをするのは孤独に苦しんでいたから。妻は、妻ではなく、病棟の「母」、あるいは看護婦としてふるまっている。自分だけの妻ではない、というさびしさに耐えられなかったから。そう、受け止め、夫を許す。夫の行為を受け入れる。ジュリアン・ムーアは「和」を大切にしている。「和」を「思想」の基本に置いているのだ。

 この映画は、いわば「和」が重要であるというメッセージをもった映画である。メッセージ映画である。メッセージ映画がいけいなというわけではないが、ちょっと楽しくない。メッセージなどなくていい。突然、人間が失明する。そのとき、どんな行動をとるか。どんなことが起きるか。それをただリアルに描くだけでいいのではないか、と私は思ってしまう。
 暴力が人間を支配し、マッチョ思想が世界を支配し、その世界の中にも人種差別があり、さらには途中失明ではなく最初から盲目だった男が盲目であることを利用するという姿まで描いている。そうしたリアルな人間模様だけなら、この映画は傑作になったと思う。そういうリアルな人間模様だけでは救いがないということなのかもしれない。しかし、もし、感染性の失明が社会に蔓延したとき、「和」こそが生きる道という「思想」がほんとうにこの映画のように人間を救い出すのか。そういう思想に人間は簡単にたどりつけるのか。それが、とても疑問なのである。
 なんだか安易なメッセージに思える。メッセージが安易に浮き彫りになる映画は、映画ではないように、私には思える。映画をメッセージで汚れれたくない、という夢を私はもっている。



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リッツォス「証言B(1966)」より(21)中井久夫訳

2008-11-29 02:06:33 | リッツォス(中井久夫訳)
屈伏   リッツォス(中井久夫訳)

彼女は窓を開けた。風がどっと彼女の髪を打った。
髪は、二羽の大きな鳥のように肩に止まった。
彼女は窓を閉めた。
二羽の鳥は卓子の上に落ちて彼女を見上げた。
彼女は二羽の間に頭を埋めて静かに泣いた。



 長い髪。センターで分けている。その女が、窓を開けて、また閉めて、テーブルにうっぷして泣く。その様子を、なぜ泣くのか、そういう説明もなく、ただ描写している。
 「鳥」の比喩が悲しい。
 彼女は、彼女のこころは鳥になって、遠くへ飛んで行きたい。恋人に会いに行きたい。恋人を追いかけて行きたい。それができずに、ただ泣くだけである。
 繰り返される「二羽」の「二」が、この悲しみ、この孤独を強調する。髪でさえ「二羽」というペアなのだ。彼女だけが、「二」(恋人と彼女)から切り離されて「一」なのである。

 繰り返されることばには、繰り返される理由がある。意味がある。

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