詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿蘇豊「白い一本と紙のマッチ」

2008-11-28 09:30:30 | 詩(雑誌・同人誌)
阿蘇豊「白い一本と紙のマッチ」(「ひょうたん」2008年08月25日発行)

 阿蘇豊のことばはていねいに動く。「白い一本と紙のマッチ」の前半。

ぼくの前にはティポットとティカップ その中には半ばさめたミルクティそしてスプーン
「DUG」と印刷された紙マッチと「Dawadoff」と読めるタバコの白い箱

ぼくの前にあるものは
決してそれだけではないのだが
見られることによって初めて生まれる
在るという動詞

いま、白い箱を開けて白い一本を取り出せば
「ティポットとティカップ その中には半ばさめたミルクティそしてスプーン」のすべてが失われて
白い一本の紙のマッチがぼくの中に入り
「白い一本と紙のマッチ」という記述が生まれ
つかの間、在るだろう

 ことばをていねいに追っていくと、あるとき矛盾が生まれる。思考をていねいに追っていくと、あるとき矛盾が生まれる。この、存在論を、あるいは存在論とことばをめぐる静かな追求にも矛盾が生まれる。

白い一本の紙のマッチがぼくの中に入り
「白い一本と紙のマッチ」という記述が生まれ

 「記述」は「記述」についての論考の前に、すでに「記述」されてしまう。「記述が生まれ」と記述について書く1行前に、すでに記述が存在してしまう。
 この矛盾が美しい。
 矛盾とわかっていて、それでも矛盾として書くしかない--そのときの精神のふるえが美しい。ことばが、ことばであることに耐えている。ことばでしかないことに、耐えている。
 矛盾につきあたって、それからどんなふうにことばは動いてゆけるのか。それはじつのことろ、よくわからない。この詩では、最後はかなり腰砕けみたいになってしまうが、それは、阿蘇がぶつかった矛盾がそれだけ大きかったということの証拠かもしれない。
 引用したあとにつづく2連はない方が美しいと思う。書くならもっと矛盾をしっかりと見据えてほしいとも思う。

 書くこと、書かれてしまうこと、その記述をめぐる矛盾から、ことばはなにを新たにつかみとり、矛盾を超えるのか。それも、じつはよくわからない。わからないけれど、この静かな、ひとりでなにかと正直に対面していることばは美しい。

 阿蘇豊という詩人は、私の記憶のなかには、とても古くから在る。
 「イエローブック」という同人誌に参加していたとき、資金難(?)から同人を増やすことになった。公募した。そのとき公募してきたひとりである。どんな詩だっかた具体的には覚えていないが、阿蘇の作品に対して、私だけが高い評価をした。ほかの同人は別のひとを選んだ。そして、別のひとが同人になった。
 私が阿蘇に感じたのは、この詩にもあるような、矛盾をていねいに書き留める力である。静かな持続力である。あ、まだ詩を書いていたのだ、と知って、とてもうれしい気持ちになった。
 これからも美しいことばを書きつづけていてほしい。
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大倉元『石を蹴る

2008-11-28 09:06:07 | 詩集
大倉元『石を蹴る』(澪標、2008年06月29日発行)

 ふるさと祖谷について書かれている。ふるさとは誰にとってもなつかしい存在である。距離の取り方がむずかしい。「牛の覚悟」は視点を「牛」に置いた。そのため、距離が乾いて、べたべたした感じがない。

ラジオから君が代が流れ
天皇陛下の玉音放送がはじまった
オヤジさんはひれ伏して
泣き続けた

夕方
オヤジさんは牛の俺の所へ来て
俺の背中を撫でて
「日本は戦争に負けよった 息子の戦死は
報われなんだ」と ポツリと言った
牛の俺も悲しくなった
(略)

進駐軍は肉が好きだとの噂が
村中で持ち切りになった
割をくったのは俺たち牛だ
「進駐軍に喰われる前に喰おうぞ」
村人は狂った野獣のように口々に叫び
俺たち牛を山の中で次々に殺した

俺たち牛を家族のように
可愛がり育ててくれた村人が
「うまいのう うまいのう」と俺たちを喰った
肉など喰ったことのなかった村人が
俺たちをむしゃぶり喰う

 この、対象との距離は乱れることがない。距離とは、別のことばで言えば「物差し」になる。「物差し」とはなにかを測るときの基準である。なにかを測るとは、批評することである。なにかを測るとは、また、なにかから測られることでもある。批評されることでもある。
 この相互批評の中に、詩への第一歩がある。

 大倉のことばは、まだ、ことば自身を批評の対象とはしていない。だから、「現代詩」という感じがしない。けれども、その一歩は、たしかにこの作品の中にある。


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リッツォス「証言B(1966)」より(20)中井久夫訳

2008-11-28 02:05:18 | リッツォス(中井久夫訳)
罪   リッツォス(中井久夫訳)

彼は帽子を取って出て行った。
彼女はランプの傍のテーブルを動かなかった。
彼の足音が遠くなった。彼女は明かりに手をかざした。「きれいよ」と言ってみた。
それから誰かに言い訳をするように
パンを台所に持って行き、
明かりを消した。
外には行き交う荷車と月。



 男と女がいさかいをする。男が出て行く。女が残される。その女が、自分を「きれいよ」慰める。男が言ってくれなかったことばを、自分で言う。
 この詩の最後がきれいだ。「荷車」は彼女の悲しみを知らない。「月」は彼女の悲しみを知っているかもしれない。けれども、彼女に対して声をかけることは絶対にない。「荷車」の御者が彼女になにかの拍子に声をかけることはあるかもしれないが、「月」は絶対にそういうことはしない。「荷車」(そして、御者)は無情である。男と同じである。「月」は非情である。その非情は無情さえも洗い流していく。その結果、なんの混じり気もない透明な孤独が残される。
 罪とは、そういう透明な孤独の別称かもしれない--そういう思いさえわいてくる詩である。

 この訳詩には(訳には)、以前触れた詩のように書き込みがある。中井はワープロで訳詩を残しているが、ときどき、そこに手書きの修正がある。この詩にも、その修正、推敲がある。
 3行目は、ワープロのもとの形では、

彼の足音が遠くなった。彼女は明かりに自分の手を見た。「きれいよ」と言ってみた。

 「自分の手を見た」が「手をかざした」にかわっている。「かざした」ということばのなかには「見る」は含まれていない。けれど、手をかざす(特に、ランプの明かりに手をかざす)ときは、その手を見ることになる。「見る」を別の動詞に置き換えている。ここが中井の訳のすばらしいところだ。
 動詞はいろいろな「動き」をもっている。手をかざす--それはたんに手を上げることではない。上げた手を「見る」という動きを含む。「見る」ということばを直接書かないとき、「見る」という動きが「頭」ではなく、「肉体」にかえっていく。ことばにならない領域、より人間の深い場所へとかえっていく。そこから、人間をとらえ直す。
 この人間の、深い部分でとらえることばが、月の非情と響きあう。月の明るい非情さは、「見る」という動詞よりも、「かざす」という動きをよりすばやく洗って、孤独を浮き彫りにする。
 このことばの選択が、とてもいい。

 4行目も、ワープロ原稿では「それから言い訳するように」と「誰かに」が含まれていなかった。「誰かに」はあとから挿入されたものである。この「誰かに」もとても詩に落ち着きを与えている。「誰かに」があるから、「荷車」(御者)がすーっと近付いてくる。誰でもいい。その不特定を浮き彫りにするのが「誰かに」なのである。そして、自分とは無縁である、無関係であることが浮き彫りにする孤独が、さらに「月」と響きあうのだ。
 中井の訳はほんとうに素敵だ。

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