詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

南原充士『花開くGENE』

2008-11-27 11:12:46 | 詩集
南原充士『花開くGENE』(洪水企画、2008年11月01日発行)

 南原の詩には余分なことばがある。「気分」を押しつけてくるものがある。その「気分」が私は嫌いだ。詩は「気分」ではない、と私は考えている。「気分」を壊していくものが詩であると思う。別なことばで言い換えると、「気分」をつくっていくのが詩である。いままでの「気分」をたたきこわし、それまで存在しなかった新しい「気分」をつくっていくのが詩ではないのだろうか。

 「わたしはわたしに向かってなにかを言った」という作品がある。タイトルが象徴するように、そこにはいわゆる「詩的」なもの、ロマンチックな「気分」というものがない。そこには、ことばで何かをつくっていこうという批評性がある。そういうものに私は詩を感じる。「いま」「ここ」がかわっていく。ことばが、新しくなっていく--という予感に誘われ、私は、その作品を読みはじめる。
 全行。

わたしはわたしに向かってなにかを言った
思いつくことならなんでもよかった
ひとりぼっちのわたしをだれも慰めることはできなかった
あまりに長くわたしは泣き続けていた

ひとりで夜遅くまで起きていたことにわたしは気づいた
わたしは眠れなかった なにも考えてはいなかったのに
なにか熱っぽいのもが暗い灯りの中のわたしを悩ませた
わたしはなににも集中できなかった

わたしは低い音で聞きなれた音楽を聴いた
それはわたしを楽にさせ癒してくれた
それからわたしはベッドに行き すこし香水をつけて横になった

次の朝早く わたしは目が覚めた
雨がやわらかに降っていた それはわたしにはラッキーだと思えた
それまでには 昨晩なにをわたしがわたしに言ったのか忘れていた

 「なに」はついに明かされない。それでいいと思う。2連目までは、私はこの作品は傑作になるかもしれないと思って読んだ。3連目でつまずいた。4連目でいやになった。
 「気分」のことばが急に出てきて、「気分」を主張するからである。
 「すこし香水をつけて」と「それはわたしにはラッキーだと思えた」ということばがなければ、私はこの作品に対して違ったことを書いたかもしれない。興奮したかもしれない。けれど、その2か所のことばで、とてもいやな気持ちになった。南原が昨晩何を考えたのか、何を言ったのか。それを余韻のなかで信じる気持ちにならなくなった。「香水」と「ラッキー」が、余韻をかき消して、安物の、ただ刺激臭だけが明確な香水のように、脳味噌をくらくらさせる。私は鼻が悪い。揮発性の強い匂いは気分が悪くなる。
 3連目は音楽を「低い音」(あ、とても美しいことばだ、うれしくなることばだ)で聞く、それだけで十分ではないだろうか。4連目も「やわらかに」降る雨の「やわらかに」だけで十分だろう。それで十分「気分」が遠くから漂ってくる。それ以上書くと、「気分」の押し売りである。
 
 この作品の前のページ。「春の雨」も最後の行がなければ、と私は思う。最後の行がなければ、「男」は読者のなかで「永遠の散歩者」になるけれど、南原がそのことばを書いてしまうと、永遠が消えてしまう。
 書かないことによって書くことばというものがある。読者のなかで生まれてくることば--それが詩である。作者と読者の共同作業によることばの生成。それを「待つ」ということが大切なのだと思う。



笑顔の法則
南原 充士
思潮社

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ベン・スティラー監督・脚本「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」(★★★★)

2008-11-27 01:30:07 | 映画
監督・脚本 ベン・スティラー 出演 ベン・スティラー、ロバート・ダウニーJr.、ジャック・ブラック、ニック・ノルティ、トム・クルーズ、マシュー・マコノフィー

 落ち目の役者が戦争映画で出演するが、予算がなくなったので、本物の戦場へほうりこまれる--というとんでもない話。予告編も、ドタバタを絵に描いたようなもの。あまり期待もせずに見に行ったのだが、これがおもしろかった。
 ベン・スティラーはシルベスター・スタローン、ロバート・ダウニーJr.はマーロン・ブランド、ジャック・ブラックはエディー・マーフィーのパロディー。この3人がやっていることは、ドタバタはドタバタなのだが、途中で、映画批評をやる。演技論をやる。それが妙にシリアスなのだ。そして、それがシリアスであればあるほど、役者ばか(いい意味ですよ)がくっきりと浮かび上がってくるのがなんとも楽しい。ダスティン・ホフマンは「レインマン」で自閉症を演じ、トム・ハンクスは「フォレスト・ガンプ」で白痴を演じ、それぞれアカデミー賞をとったが、ショーン・ペンは「アイ・アム・サム」で白痴を迫真の演技で演じたのに賞をとれなかったのはなぜか? なんてことを、いかにも、それっぽく解説する。アカデミー賞の裏話である。笑ってしまう。
 途中で、主役級の役者は誰も脚本を読んでいなくて、脇役だけが真剣に脚本を読み、内容を把握している--などということや、役作りのために中国語さえマスターしてしまう、というような変なエピソードも出てくる。さらには、へたくそな演技なのに観客に受けてしまったために、その演技をつづけることが天命と勘違いしてしまうこととか、役にのめりこんで自分にもどれなくなるばかばかしさとか。笑いがとまらない。
 この映画は、実は、ドタバタ戦争映画を借りた、映画論、演技論の映画なのである。「僕らのミライに逆回転」は映画オタクの、映画オタクによる、映画オタクのための映画だったが、これも同じ。ちょっといやらしいのは、そのオタクの前に批評ということばがつくことだろう。映画批評オタクの、映画批評オタクによる、映画批評オタクのための映画なのである。映画の批評が楽しくないひとは、きっと楽しくない。でも、映画の批評で盛り上がるひとなら、絶対笑える。
 さらに、この映画にはおまけがついている。ニック・ノルティ、トム・クルーズ、マシュー・マコノフィーという、それぞれ主役をやっていい役者が脇で出ている。トム・クルーズは禿の鬘をかぶって、ずんぐりむっくりの中年男をやっている。中年男の、のりのりの、中年男でしかないダンスまで披露している。(扮装のために一瞬誰かな、と考え込むが、あの、独特の声でトム・クルーズとわかる。私は、顔よりも、声で役者を覚えるタイプなのか、扮装には意外とだまされない。)
 そしてさらに、おまけというより、前菜(?)に、これまたおもしろい仕掛けがある。映画はいきなり予告編のラッシュではじまるのだが、それが実におかしい。ロバート・ダウニーJr.の、いかにもゲイという感じなど、笑ってしまう。
 最後までしっかり見てね、というより、最初からしっかり見てね、という映画である。



ミート・ザ・ペアレンツ

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

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リッツォス「証言B(1966)」より(19)中井久夫訳

2008-11-27 00:02:50 | リッツォス(中井久夫訳)
演技   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見物の椅子の一ヤード上に赤い布を引いた。
彼等の苦悩を彼等のすぐ眼の前で演じて見せた。
ガラスの仕切りの向うにいる彼は裸のように見えた。
ヌードの女性を連れているみたいだった。
ナイフが五本置いてあった。ギラリと光るのが見えた。
テラコッタの像が浴槽の隅で壊れていた。
海の輝きのなかで彼は大きな漁網を引き揚げた。
毛むくじゃらの醜い怪物が入っていた。
彼はローソクを掲げて階段を上がった。
叫びながらトンネルを下った。
皿を一つ踏み潰した。
他の者たちは、なだめて、ほめて、さよならをした。
彼はかけらを集めて、一晩中、継ぎ合わせようとした。
ちょうど真中のかけらが一つだけなかった。
これでは夕食を食べる器が全然ない。第一、空腹ではないんだが。



 ある劇の1シーンを思い浮かべる。「彼」のひとり芝居である。「彼」はひとりで、たとえば漁師の様子を演じる。あるいは、何者かから逃げる男を演じる。それは、ギリシアの現実を知っているひとには、そのまま自分の姿に見えるかもしれない。
 私はリッツォスの生きた時代のギリシアを知っているわけではない。だから、ぼんやりと想像するだけなのだが……。

 最後の3行が複雑である。
 これは演技が終わったあとの男の孤独な姿を描写しているのか。それとも、その孤独な姿までもが演技なのか。両方にとれる。
 たぶん、両方を生きなければ、当時のギリシアを生き抜くことはできなかったのかもしれない。
 ここでも、リッツォスは何も説明しない。説明せずに、孤立した人間を、孤立したままに描いている。ことばは、その孤立した男といっしょに孤立する。
 このさびしさが、なぜか、私は好きである。



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