伊藤悠子「背を」(「ふらんす堂通信」118 、2008年10月25日発行)
手押し車で清掃道具をのせて移動しながら炎天を清掃しているひとを描いている。なかほどから後半にかけて、ぐい、と視線をひっぱられる。
人と出会う不思議さ。見知らぬ人と出会い、何事かを知る。そのときのこころの動きが、とてもていねいに描かれている。
「一部は私物ですが、貸与されたものもあります」とは手押し車に積んでいる清掃道具のことだろうけれど、「私物」と「貸与」を意識する距離感が、すべての存在につながっていく。
伊藤は「私」と「他人」をはっきりと見分けることができる人なのだと思う。言い換えると、他人の内部へはわけいっていかない人なのだろう。自分を押しつけたりもしない人路のだろう。きちんと距離がとれる人なのだろう。そのきっちりとした「距離」が伊藤のことばを清潔にしている。
この俳句のような、存在を存在のままぱっと把握する力。そこに伊藤の「距離」の一番の魅力が出ている。その存在を直接つかむやりかたのまま、視線が動いていく。そのスピードにむりがない。
存在は、すぐには具体的な形にならない。少しずつ、存在をたしかめていく。そして、存在が具体的になると、こころが動く。
「あいさつの距離」。伊藤が大切にしているは「あいさつの距離」なのだと思う。知っているひととあいさつをする。その知っているひとのなかには「知らないもの」もある。「知らない」けれど、なんとなく「わかる」ものもある。そういう「知らない」「わかる」の距離を、つかず離れずのように保ちつづける。
いま、こういう「あいさつの距離」は日本では急激に失われている。「知らない」か「知っている」かだけで「距離」がつくられている。それが「空気」を窮屈にしている。ひとには、「知らない」ままでも「わかる」こともある。その「知らない」ままで「わかる」ことが、ほんとうはとても大切なのだ思う。伊藤は、その大切なものの「場」にきちんととどまっている。
そこに美しさがある。伊藤のことばの美しい哲学がある。
手押し車で清掃道具をのせて移動しながら炎天を清掃しているひとを描いている。なかほどから後半にかけて、ぐい、と視線をひっぱられる。
半日仕事しました
半日と半日を接いでやっと一日にする
日に焼けないように
流れる汗をふき取れるように
あちこちに布を巻いたり垂らしたり
私は包帯をしたひとのように見えるでしょう
一部は私物ですが、貸与されたものもあります
日は天心にあり
円い影が近づいてくるので少し顔を上げます
薬の白い袋を持ったひとでした
日傘と薬袋のひとでした
行き会うひとがいると
どうかして
いつの頃からか
静かな模様のように
笑います
人と出会う不思議さ。見知らぬ人と出会い、何事かを知る。そのときのこころの動きが、とてもていねいに描かれている。
「一部は私物ですが、貸与されたものもあります」とは手押し車に積んでいる清掃道具のことだろうけれど、「私物」と「貸与」を意識する距離感が、すべての存在につながっていく。
伊藤は「私」と「他人」をはっきりと見分けることができる人なのだと思う。言い換えると、他人の内部へはわけいっていかない人なのだろう。自分を押しつけたりもしない人路のだろう。きちんと距離がとれる人なのだろう。そのきっちりとした「距離」が伊藤のことばを清潔にしている。
日は天心にあり
円い影が近づいてくるので少し顔を上げます
この俳句のような、存在を存在のままぱっと把握する力。そこに伊藤の「距離」の一番の魅力が出ている。その存在を直接つかむやりかたのまま、視線が動いていく。そのスピードにむりがない。
薬の白い袋を持ったひとでした
日傘と薬袋のひとでした
存在は、すぐには具体的な形にならない。少しずつ、存在をたしかめていく。そして、存在が具体的になると、こころが動く。
行き会うひとがいると
どうかして
いつの頃からか
静かな模様のように
笑います
「あいさつの距離」。伊藤が大切にしているは「あいさつの距離」なのだと思う。知っているひととあいさつをする。その知っているひとのなかには「知らないもの」もある。「知らない」けれど、なんとなく「わかる」ものもある。そういう「知らない」「わかる」の距離を、つかず離れずのように保ちつづける。
いま、こういう「あいさつの距離」は日本では急激に失われている。「知らない」か「知っている」かだけで「距離」がつくられている。それが「空気」を窮屈にしている。ひとには、「知らない」ままでも「わかる」こともある。その「知らない」ままで「わかる」ことが、ほんとうはとても大切なのだ思う。伊藤は、その大切なものの「場」にきちんととどまっている。
そこに美しさがある。伊藤のことばの美しい哲学がある。
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