詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子「背を」

2008-11-03 08:59:36 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「背を」(「ふらんす堂通信」118 、2008年10月25日発行)

 手押し車で清掃道具をのせて移動しながら炎天を清掃しているひとを描いている。なかほどから後半にかけて、ぐい、と視線をひっぱられる。

半日仕事しました
半日と半日を接いでやっと一日にする
日に焼けないように
流れる汗をふき取れるように
あちこちに布を巻いたり垂らしたり
私は包帯をしたひとのように見えるでしょう
一部は私物ですが、貸与されたものもあります
日は天心にあり
円い影が近づいてくるので少し顔を上げます
薬の白い袋を持ったひとでした
日傘と薬袋のひとでした
行き会うひとがいると
どうかして
いつの頃からか
静かな模様のように
笑います

 人と出会う不思議さ。見知らぬ人と出会い、何事かを知る。そのときのこころの動きが、とてもていねいに描かれている。
 「一部は私物ですが、貸与されたものもあります」とは手押し車に積んでいる清掃道具のことだろうけれど、「私物」と「貸与」を意識する距離感が、すべての存在につながっていく。
 伊藤は「私」と「他人」をはっきりと見分けることができる人なのだと思う。言い換えると、他人の内部へはわけいっていかない人なのだろう。自分を押しつけたりもしない人路のだろう。きちんと距離がとれる人なのだろう。そのきっちりとした「距離」が伊藤のことばを清潔にしている。

日は天心にあり
円い影が近づいてくるので少し顔を上げます

 この俳句のような、存在を存在のままぱっと把握する力。そこに伊藤の「距離」の一番の魅力が出ている。その存在を直接つかむやりかたのまま、視線が動いていく。そのスピードにむりがない。

薬の白い袋を持ったひとでした
日傘と薬袋のひとでした

 存在は、すぐには具体的な形にならない。少しずつ、存在をたしかめていく。そして、存在が具体的になると、こころが動く。

行き会うひとがいると
どうかして
いつの頃からか
静かな模様のように
笑います

 「あいさつの距離」。伊藤が大切にしているは「あいさつの距離」なのだと思う。知っているひととあいさつをする。その知っているひとのなかには「知らないもの」もある。「知らない」けれど、なんとなく「わかる」ものもある。そういう「知らない」「わかる」の距離を、つかず離れずのように保ちつづける。
 いま、こういう「あいさつの距離」は日本では急激に失われている。「知らない」か「知っている」かだけで「距離」がつくられている。それが「空気」を窮屈にしている。ひとには、「知らない」ままでも「わかる」こともある。その「知らない」ままで「わかる」ことが、ほんとうはとても大切なのだ思う。伊藤は、その大切なものの「場」にきちんととどまっている。
 そこに美しさがある。伊藤のことばの美しい哲学がある。






道を小道を―詩集
伊藤 悠子
ふらんす堂

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リッツォス「証言A(1963)」(14)中井久夫訳

2008-11-03 00:29:29 | リッツォス(中井久夫訳)
錨   リッツォス(中井久夫訳)

彼は呟いた、「投錨!」と。しっかり固定する意味ではない。
海底とは関係ないのだ--そういうことじゃなくて。
錨を自室に運んで天井から釣り下げた。
まるでシャンデリアだ。さて、夜中になった。
仰向けにねて、天井のまん中の錨を見つめた。
彼は承知していた。錨の鎖が垂直に屋根を破って上に延び、
頭上はるか、彼方の高み、静かな、ある表面に
灯を消した暗く大きく堂々たる軽快艇が繋留されていた。
貧しい音楽家が一人、その艇の甲板で、
バイオリンをケースから取り出してひき始めた。
下にいる彼は何かを待つような微笑みを浮かべつつ
水と月とに濾されて響いてくるメロディーに聴き入った。



 これは非常に美しい詩だ。リッツォスの空想は具体的なものからはじまり、どこまでも広がっていく。天井の錨は、「不在証明」の「皺」に似ているかもしれない。「皺」は「はしご」になった。「錨」は「錨」のままだが、その先に、鎖を、水面を、そして船を(艇を)引き寄せる。
 この自然な空想の上昇は、しかし、よく考えると「彼」自身を深く海底へ沈めることである。沈むほど高くなる海面。深くなるほど遠くなる海面。--というのは物理の世界で、遠くなるほど(海底が深くなるほど)、「彼」と「水面」(艇)は固く固く結びつく。その象徴、その空想の交わる一点が「錨」である。
 海底に深く深く沈みながら、「彼」の空想は、船(艇)をのぼり、甲板にのぼり、月さえ見つめる。
 海底に音楽はない。沈黙の世界である。(彼の部屋にも音楽をつたえるもの、たとえばラジオはないのだろう。)しかし、空想は音楽を引き出す。沈黙のなかにふりそそぐ音楽。--これが、とてもきれいだ。「水と月とに濾されて響いてくる」--この空想の至福。ほんとうに美しい。

 そして、悲しい。

 なぜなら、彼は「承知して」いるからである。「空想」を承知しているからである。それは幾度となく繰り返された空想なのである。繰り返すことで、空想が沈黙に研磨され、透明になっていったのだ。

 この作品の1行目。「彼は呟いた、」を、中井久夫は、最初「叫んだ。」と訳出している。ワープロの「叫んだ、」を見せ消ちにしたまま、「呟いた、」と書いている。この「叫んだ、」と「呟いた、」の違いは非常に大きい。この空想がきょうはじめての空想ならば「叫んだ、」である。声はどうしても大きくなる。でも、何度も何度もくりかえしてきた空想ならば声は大きくはならない。声に出す必要もなくなる。--じっさい、彼はほとんど声を出していないのだ。ずーっと沈黙している。沈黙したまま、自分の部屋を深い深い海底だと思っている。
 この悲しみには、たしかに透明な音楽が必要だ。






小さな贈り物―傷ついたこころにより添って
村瀬 嘉代子,中井 久夫
創元社

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