監督 スティーブン・ウォーカー 出演 アイリーン・ホール、フレッド・ニドル、ボブ・シルマン
平均年齢80歳のコーラス隊のドキュメンタリーである。彼らはロックを、ラップを歌う。もちろん、楽々と歌うわけではない。歌そのものはフレッド・ニドルが歌う「フィックス・トゥ・ユー」以外はふつうのお年寄りの歌う歌の域を超えているとはいえない。NHKの「のど自慢」でいえば鐘ふたつという感じの歌かもしれない。それでも思わず聞きほれてしまう。歌に聞きほれるというよりも、歌うことにかける情熱に、歌ったことのない歌を歌うという意気込みに聞きほれてしまう。--と書いて、すぐに気がつくのだが、歌は別にうまい歌を聴くことだけが歌の楽しみではない。うまい、へた、を超えて、歌っているひとの気持ちの楽しさ、華やぎががあればそれでいいのだ。歌うことで生きていることを実感し、楽しんでいる。それでいいのだ。歌を聴かせるのではなく、歌うことの楽しさを伝えたい--そういう映画である。
映画独自の映像の魅力があるわけではない。強いて言えば92歳のアイリーン・ホールの顎の白い無精髭が映画ならではの映像である。女性である。女性だけれど、顎鬚が生えている。それも白髪である。もし美人に映したいのだったら、顎鬚を剃ったかもしれない。しかし彼女は剃ってはいない。いつものままである。生きているというとは特別なことをするのではなく、いつもの日常のままでいることである。
その延長に歌がある。特別なことではない。いつもと同じことをする。そのひとつが歌である。たしかに彼らはコンサートのために新しい歌を覚え、練習する。しかし、それは特別なことではない。人間はいくつになっても新しい何かに出合い、そのあたらしいものと自分をなじみのあるものにするために努力する。工夫する。新しい歌も、それだけのことなのである。
あらゆることが、いつもの暮らしと同じである。延長線上にある。
仲間の死も同じである。死は歌と同じように暮らしの一部である。仲間の死は悲しい。悲しいけれど、それは受け入れなくてはならないものである。自分自身の死も受け入れなくてはならないものである。その、受け入れのとき、自分をかえるのではない。受け入れることで、自分がかわってしまうのではない。そうではなくて、ただあるがままに、すべてといっしょにいるのだ。
ここにあるのは、他人をかえるという思想ではない。また、自分をかえるという思想でもない。ただ、ここにある。ここに生きている。そして、ここに生きているということを、なじませるのである。それはコーラスそのものである。ただ自分の声を出す。和音のためには自己抑制(自分の声を制御する)ということが必要かもしれないが、80歳ともなれば、自分を制御しなくても、他人となじむことができるのである。つくりあげるというよりは、新しい曲に耳を傾け、体をなじませる。ひとりひとりが曲になじんだとき、自然に、そこにコーラスが誕生する。
生きるというのは楽しい。知らないことを知るということ、知らないものを自分の体になじませるというのは楽しい。自分の世界がすこしだけ広がる。80歳をすぎれはば、自分の世界をひろげなくてもいいという考え方もあるかもしれないが、いくつになっても自分を世界を広げるというのは楽しい。
ふいに、ロックを歌ってみたい。大声で、何かを歌ってみたいという気持ちにさせられる映画である。
平均年齢80歳のコーラス隊のドキュメンタリーである。彼らはロックを、ラップを歌う。もちろん、楽々と歌うわけではない。歌そのものはフレッド・ニドルが歌う「フィックス・トゥ・ユー」以外はふつうのお年寄りの歌う歌の域を超えているとはいえない。NHKの「のど自慢」でいえば鐘ふたつという感じの歌かもしれない。それでも思わず聞きほれてしまう。歌に聞きほれるというよりも、歌うことにかける情熱に、歌ったことのない歌を歌うという意気込みに聞きほれてしまう。--と書いて、すぐに気がつくのだが、歌は別にうまい歌を聴くことだけが歌の楽しみではない。うまい、へた、を超えて、歌っているひとの気持ちの楽しさ、華やぎががあればそれでいいのだ。歌うことで生きていることを実感し、楽しんでいる。それでいいのだ。歌を聴かせるのではなく、歌うことの楽しさを伝えたい--そういう映画である。
映画独自の映像の魅力があるわけではない。強いて言えば92歳のアイリーン・ホールの顎の白い無精髭が映画ならではの映像である。女性である。女性だけれど、顎鬚が生えている。それも白髪である。もし美人に映したいのだったら、顎鬚を剃ったかもしれない。しかし彼女は剃ってはいない。いつものままである。生きているというとは特別なことをするのではなく、いつもの日常のままでいることである。
その延長に歌がある。特別なことではない。いつもと同じことをする。そのひとつが歌である。たしかに彼らはコンサートのために新しい歌を覚え、練習する。しかし、それは特別なことではない。人間はいくつになっても新しい何かに出合い、そのあたらしいものと自分をなじみのあるものにするために努力する。工夫する。新しい歌も、それだけのことなのである。
あらゆることが、いつもの暮らしと同じである。延長線上にある。
仲間の死も同じである。死は歌と同じように暮らしの一部である。仲間の死は悲しい。悲しいけれど、それは受け入れなくてはならないものである。自分自身の死も受け入れなくてはならないものである。その、受け入れのとき、自分をかえるのではない。受け入れることで、自分がかわってしまうのではない。そうではなくて、ただあるがままに、すべてといっしょにいるのだ。
ここにあるのは、他人をかえるという思想ではない。また、自分をかえるという思想でもない。ただ、ここにある。ここに生きている。そして、ここに生きているということを、なじませるのである。それはコーラスそのものである。ただ自分の声を出す。和音のためには自己抑制(自分の声を制御する)ということが必要かもしれないが、80歳ともなれば、自分を制御しなくても、他人となじむことができるのである。つくりあげるというよりは、新しい曲に耳を傾け、体をなじませる。ひとりひとりが曲になじんだとき、自然に、そこにコーラスが誕生する。
生きるというのは楽しい。知らないことを知るということ、知らないものを自分の体になじませるというのは楽しい。自分の世界がすこしだけ広がる。80歳をすぎれはば、自分の世界をひろげなくてもいいという考え方もあるかもしれないが、いくつになっても自分を世界を広げるというのは楽しい。
ふいに、ロックを歌ってみたい。大声で、何かを歌ってみたいという気持ちにさせられる映画である。