詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーブン・ウォーカー監督「ヤング@ ハート」(★★★)

2008-11-25 23:06:52 | 映画
監督 スティーブン・ウォーカー 出演 アイリーン・ホール、フレッド・ニドル、ボブ・シルマン

 平均年齢80歳のコーラス隊のドキュメンタリーである。彼らはロックを、ラップを歌う。もちろん、楽々と歌うわけではない。歌そのものはフレッド・ニドルが歌う「フィックス・トゥ・ユー」以外はふつうのお年寄りの歌う歌の域を超えているとはいえない。NHKの「のど自慢」でいえば鐘ふたつという感じの歌かもしれない。それでも思わず聞きほれてしまう。歌に聞きほれるというよりも、歌うことにかける情熱に、歌ったことのない歌を歌うという意気込みに聞きほれてしまう。--と書いて、すぐに気がつくのだが、歌は別にうまい歌を聴くことだけが歌の楽しみではない。うまい、へた、を超えて、歌っているひとの気持ちの楽しさ、華やぎががあればそれでいいのだ。歌うことで生きていることを実感し、楽しんでいる。それでいいのだ。歌を聴かせるのではなく、歌うことの楽しさを伝えたい--そういう映画である。

 映画独自の映像の魅力があるわけではない。強いて言えば92歳のアイリーン・ホールの顎の白い無精髭が映画ならではの映像である。女性である。女性だけれど、顎鬚が生えている。それも白髪である。もし美人に映したいのだったら、顎鬚を剃ったかもしれない。しかし彼女は剃ってはいない。いつものままである。生きているというとは特別なことをするのではなく、いつもの日常のままでいることである。
 その延長に歌がある。特別なことではない。いつもと同じことをする。そのひとつが歌である。たしかに彼らはコンサートのために新しい歌を覚え、練習する。しかし、それは特別なことではない。人間はいくつになっても新しい何かに出合い、そのあたらしいものと自分をなじみのあるものにするために努力する。工夫する。新しい歌も、それだけのことなのである。
 あらゆることが、いつもの暮らしと同じである。延長線上にある。
 仲間の死も同じである。死は歌と同じように暮らしの一部である。仲間の死は悲しい。悲しいけれど、それは受け入れなくてはならないものである。自分自身の死も受け入れなくてはならないものである。その、受け入れのとき、自分をかえるのではない。受け入れることで、自分がかわってしまうのではない。そうではなくて、ただあるがままに、すべてといっしょにいるのだ。
 ここにあるのは、他人をかえるという思想ではない。また、自分をかえるという思想でもない。ただ、ここにある。ここに生きている。そして、ここに生きているということを、なじませるのである。それはコーラスそのものである。ただ自分の声を出す。和音のためには自己抑制(自分の声を制御する)ということが必要かもしれないが、80歳ともなれば、自分を制御しなくても、他人となじむことができるのである。つくりあげるというよりは、新しい曲に耳を傾け、体をなじませる。ひとりひとりが曲になじんだとき、自然に、そこにコーラスが誕生する。

 生きるというのは楽しい。知らないことを知るということ、知らないものを自分の体になじませるというのは楽しい。自分の世界がすこしだけ広がる。80歳をすぎれはば、自分の世界をひろげなくてもいいという考え方もあるかもしれないが、いくつになっても自分を世界を広げるというのは楽しい。
 ふいに、ロックを歌ってみたい。大声で、何かを歌ってみたいという気持ちにさせられる映画である。


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リッツォス「証言B(1966)」より(17)中井久夫訳

2008-11-25 00:05:36 | リッツォス(中井久夫訳)
見知らぬ小物   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見回す。ここはどこだろう? 夕陽が遠い。
荘厳な夕陽。庭の柵が見える。
ドアの把手。窓。糸杉。
でも彼は? 静かな湖に空が映っている。
空の雲に。桃色の湖。金色の縁。
あそこに靴と衣服を置いて来た。さて、
こんな裸で、道の真ん中に突っ立っておれるか?
こんな裸で、知らない家に入って行けるか?



 「彼」は湖を泳いでやってきた。「知らない家」はずっーと彼の意識のなかにあった家である。「知らない」のは、実は、その「家」の誰かだけに夢中ということだ。その夢中の相手以外は「知らない」。泳いでやってきたものの、こんな姿で会えるのか。ふいに、現実にかえってしまった彼。
 1行目の「夕陽が遠い。」の「遠い」がとてもいい。夕陽と彼との距離は一度として変わったことはない。その永遠に変わらないはずの距離が「遠い」。それは、あらゆるものが「遠い」ことの象徴である。
 湖を泳いでやってきた。その家の前までやってきた。距離は縮まった。それなのに、「遠い」。湖の向こうで見ていたときより、いま、目の前にある家の方が「遠い」。

空の雲に。桃色の湖。金色の縁。

 この1行の「空の雲に。」の「に。」が美しい。
 原文がどうなっているかわからないが、「雲」「湖」「縁」という単語の並列。「と」の省略が一般的だが、中井は「に」ということばを選んでいる。このしずかな音が、あらゆる存在から孤立している「彼」のこころの不安定さと響きあう。句点「。」もとてもいい感じだ。「空の雲に、桃色の湖と、金色の縁。」という訳でも、詩の「意味」はかわらない。けれども、そのことばのリズムがつたえる感覚が違う。つながろうとして、つながれない、そういう孤独は、「空の雲に。桃色の湖。金色の縁。」という形でないと伝わらない。

 ところで、タイトルの「見知らぬ小物」とはなんだろう。
 「見知らぬ」とあるけれど、この詩の「遠い」が現実の距離ではなく、意識の距離であったように、これは実際には「見知らぬ」のもではない。実はよく知っているものである。そのよく知っているものの欲望に突き動かされて、湖を泳いでやってきた。そして、いよいよ、というときになって、それは怖じ気づいている。慣れ親しんだ「大きなもの」ではなく、「見知らぬ小物」になっている、ということだ。
 彼は肉体からさえも孤立しているのだ。そして、その孤立のまわりで、風景はこんなにも美しい。

 この不思議。世界に生きていることの、不思議な美しさ。さびしさ。あ、美しいということは、さびしいということなのだ。
 リッツォスとは関係ないのだが、私はふいに、西脇順三郎の「淋しい。ゆえにわれあり」ということばを思い出してしまうのだ。永遠の美しさに触れる瞬間、人間は絶対的なさびしさにとらわれる。詩は、そういう人孤独の対話なのだ。

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