谷川俊太郎「分からない」(「朝日新聞」2008年11月07日夕刊)
谷川俊太郎は詩を書くといつも「他人」になってしまう。今回の詩には、特にそういう印象を強く持った。全行。
最後の3行がすごい。「瞑想」と「迷走」のだじゃれなのだが、そのだじゃれのなかで、ココロがココロでなくなってしまっている。「ココロ」が「他人」になってしまっている。もう、その「ココロ」は「自分が分からない」とは言っていない。「ココロ」にとって「ココロ」がわからないという状態はかわらないはずなのだが、そういうことを悩まずに「笑」のなかにいる。
いや、「笑」はほんとうの「笑」ではなく、演技だ--という見方もあるかもしれない。
しかしだからこそ「他人」というのである。もちろん「演技」なのだ。「わざと」なのだ。そして、そういう「わざと」というのは自分を「他人」に仕立てることである。自分を「他人」に仕立て上げて、それを自分で見つめる。
客観視--という便利なことばがあるが、そのなかには、ことばではたどりつけない孤独がある。その孤独が谷川のひとつの特徴だと思う。
この孤独は、たとえばこの詩では3連目の
という1行をさっととおりすぎている。
この1行だけ、たの行とは違っている。ことばの調子が中学生(?)の口語から遠い。「グチャグチャ」「ハチャメチャ」という口語を生きている中学生。その「ココロ」のなかにも「光と影が動きやまない灰の諧調」という口語から遠いことばが生きている。ココロはそういうことばを探している。いまの自分をどこか別の世界へつれていってくれることばを。いまの世界から自分をひきはがし「孤独」にしてくれることばを。
この「孤独」にふれるからこそ、ココロは「他人」になれるのだ。
谷川俊太郎は詩を書くといつも「他人」になってしまう。今回の詩には、特にそういう印象を強く持った。全行。
ココロは自分が分からない
悲しい嬉(うれ)しい腹が立つ
そんなコトバで割り切れるなら
なんの苦労もないのだが
ココロはひそかに思っている
コトバにできないグチャグチャに
コトバが追いつけないハチャメチャに
ほんとのおれがかくれている
おれは黒でも白でもない
光と影が動きやまない灰の諧調(かいちょう)
凪(なぎ)と嵐を繰り返す大波小波だ
決まり文句に殺されたくない!
だがコトバの檻(おり)から逃げ出して
心静かに瞑想(めいそう)してると
ココロはいつか迷走している(笑)
最後の3行がすごい。「瞑想」と「迷走」のだじゃれなのだが、そのだじゃれのなかで、ココロがココロでなくなってしまっている。「ココロ」が「他人」になってしまっている。もう、その「ココロ」は「自分が分からない」とは言っていない。「ココロ」にとって「ココロ」がわからないという状態はかわらないはずなのだが、そういうことを悩まずに「笑」のなかにいる。
いや、「笑」はほんとうの「笑」ではなく、演技だ--という見方もあるかもしれない。
しかしだからこそ「他人」というのである。もちろん「演技」なのだ。「わざと」なのだ。そして、そういう「わざと」というのは自分を「他人」に仕立てることである。自分を「他人」に仕立て上げて、それを自分で見つめる。
客観視--という便利なことばがあるが、そのなかには、ことばではたどりつけない孤独がある。その孤独が谷川のひとつの特徴だと思う。
この孤独は、たとえばこの詩では3連目の
光と影が動きやまない灰の諧調
という1行をさっととおりすぎている。
この1行だけ、たの行とは違っている。ことばの調子が中学生(?)の口語から遠い。「グチャグチャ」「ハチャメチャ」という口語を生きている中学生。その「ココロ」のなかにも「光と影が動きやまない灰の諧調」という口語から遠いことばが生きている。ココロはそういうことばを探している。いまの自分をどこか別の世界へつれていってくれることばを。いまの世界から自分をひきはがし「孤独」にしてくれることばを。
この「孤独」にふれるからこそ、ココロは「他人」になれるのだ。
これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)谷川 俊太郎集英社このアイテムの詳細を見る |