詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「分からない」

2008-11-08 08:52:39 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「分からない」(「朝日新聞」2008年11月07日夕刊)

 谷川俊太郎は詩を書くといつも「他人」になってしまう。今回の詩には、特にそういう印象を強く持った。全行。

ココロは自分が分からない
悲しい嬉(うれ)しい腹が立つ
そんなコトバで割り切れるなら
なんの苦労もないのだが

ココロはひそかに思っている
コトバにできないグチャグチャに
コトバが追いつけないハチャメチャに
ほんとのおれがかくれている

おれは黒でも白でもない
光と影が動きやまない灰の諧調(かいちょう)
凪(なぎ)と嵐を繰り返す大波小波だ
決まり文句に殺されたくない!

だがコトバの檻(おり)から逃げ出して
心静かに瞑想(めいそう)してると
ココロはいつか迷走している(笑)

 最後の3行がすごい。「瞑想」と「迷走」のだじゃれなのだが、そのだじゃれのなかで、ココロがココロでなくなってしまっている。「ココロ」が「他人」になってしまっている。もう、その「ココロ」は「自分が分からない」とは言っていない。「ココロ」にとって「ココロ」がわからないという状態はかわらないはずなのだが、そういうことを悩まずに「笑」のなかにいる。
 いや、「笑」はほんとうの「笑」ではなく、演技だ--という見方もあるかもしれない。
 しかしだからこそ「他人」というのである。もちろん「演技」なのだ。「わざと」なのだ。そして、そういう「わざと」というのは自分を「他人」に仕立てることである。自分を「他人」に仕立て上げて、それを自分で見つめる。
 客観視--という便利なことばがあるが、そのなかには、ことばではたどりつけない孤独がある。その孤独が谷川のひとつの特徴だと思う。
 この孤独は、たとえばこの詩では3連目の

光と影が動きやまない灰の諧調

 という1行をさっととおりすぎている。
 この1行だけ、たの行とは違っている。ことばの調子が中学生(?)の口語から遠い。「グチャグチャ」「ハチャメチャ」という口語を生きている中学生。その「ココロ」のなかにも「光と影が動きやまない灰の諧調」という口語から遠いことばが生きている。ココロはそういうことばを探している。いまの自分をどこか別の世界へつれていってくれることばを。いまの世界から自分をひきはがし「孤独」にしてくれることばを。
 この「孤独」にふれるからこそ、ココロは「他人」になれるのだ。



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谷川 俊太郎
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リッツォス「証言B(1966)」より(1)中井久夫訳

2008-11-08 00:19:43 | リッツォス(中井久夫訳)
確かめられないもの   リッツォス(中井久夫訳)

彼はいつもその壮大な輝きを強調した。
彼は言った。眺めるだけでなく触れているよ、と。
私は目で見ず、触れるだけにした。私はそれを持った。私はそれになった。
辺りが暮れてゆくにつれて
部屋も卓子も灰皿も輪郭を失ってきた。
海の景色も、大きな柱時計も、私たちの顔も。
彼は己の椅子に座ってほんとうに輝いていた。
椅子も、その四つの脚も光を放っていた。
ちょうど雲に乗っているようだった。
彼に触れて確かめようとしかけて、
だが、席を立つ勇気がなかった。
私たちは階段の最上段に寄り掛かっていたから。
段の欠けた階段で、とても高く、それに私たちは登ってきた覚えがなかった。



 これがリッツォスではなく、カヴァフィスだったら、この詩を男色の詩と読むことができるかもしれない。「彼」のその「壮大な輝き」を発するものに触れる。それを実感する。その実感の中で、日は暮れてゆく。何もかもが輪郭を失って、わかるのはその感触だけ。その感触をだけではなく、「彼」そのもの、その等身大のすべてに触れたいが、それができない--「彼」の「その壮大な輝き」には触れることができるが、「彼」そのものには触れることができない。それが、愛。
 だが、何かが違う。
 カヴァフィスの詩には性を超えてひとを誘い込むような甘い匂いがある。その甘さがリッツォスにはない。孤独で、孤立している。それが男色とは相いれないような気がするのだ。セックスから遠い感じを印象づけるのだ。

 私は、この詩の、

辺りが暮れてゆくにつれて
部屋も卓子も灰皿も輪郭を失ってきた。

 この2行が好きだ。特に「失ってきた」の「きた」にこころが震える。失って「ゆく」ではなく、「きた」。それは「私」がのぞんでいることなのだ。「ゆく」ではなく、「きた」が何かの到来を告げる。それを待っているという感じが、「きた」にこめられている。
 「私たちの顔も」「輪郭」を失ってきている。闇の中で一体になる。そのときが「やってくる」という思いが、そこにあふれている。その瞬間こそを、「私」は確かめたいのだ。しかし、それがこわくてできない。
 これはいわば、男色にそまる前の、男色の世界かもしれない。男色に踏み出せずに、孤独を抱え込んでいる「私」を描いているのかもしれない。そのとき、確かめられないものとは、ほんとうは「彼」ではなく、「私」自身の姿でもあるかもしれない。



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