詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

前田哲監督「ブタがいた教室」(★★★★★+ハンカチ5枚)

2008-11-09 21:47:47 | 映画
監督 前田哲 出演 妻夫木聡、ブタのP子、6年2組、原田美枝子

 「食べることを前提にブタを飼う」という、実際に小学校で行われた授業を映画化したもの。びっくりしました。子豚の飼育というよりも、子豚と遊ぶ子供たちの楽しい姿、そして子供になついている子豚の様子が愛らしくて、動物好きの私には、前半はとにかく楽しい映画だった。
 クライマックスは、あたりまえのことながら、育ててきた子豚に情が移り(情、というかんたんなものではないかもしれないが)、食べることに反対する児童と、約束だから食べないといけないという児童にわかれての、右往左往。
 このシーンが、たいへんすばらしい。
 子供たちの議論は、もう感情が剥き出し。論理的に相手を説得するというようなことをほんとうは試みているのだけれど、どうしても感情があふれてきてしまう。そして、相手を説得するというよりも、自分の感情に手が負えなくなる。どうしていいかわからない。結論が出せない。みんな、泣きだしてしまう。こんなに真剣に自分の思いを語っているに、どうして相手はわかってくれない? なぜ、わかってもらえない? わかってもらえない、説得できないとわかると、いっそうつらさがこみあげてくる。わかってほしい。この悲しみをわかってほしい、と26人の児童がそれぞれに真剣に語る。
 「豚肉は食べるのにP子だけ食べないというのは差別だ」「3年生に飼育を引き継ぐなんて、問題の先送りだ」というような、子供が子供の頭で考えたせいいっぱいのことばが次々に出てくる。それはある意味では、「大人」の会話から聞きかじったことばを利用していることなのかもしれないけれど、そういう「背伸び」を含めて、ぎりぎりまでことばを探して涙を流す。この情熱、真剣さが、ほんとうにすばらしい。
 子供の真剣さに、ついつい、もらい泣きしてしまう。私はいつでも、わけのわからない感情に揺り動かされて、その感情にのみこまれていく人間を見ると、涙が出てしまう。この真剣さ--それが、私にあるだろうか。ああ、もう一度、そういう真剣さにどっぷりと浸って、自分だけしか見えなくなるって、いいだろうなあ。

 この映画のテーマにふれることば、「人間は他の生きている命を食べている。それは他の命を引き継ぐことだ」を精肉店の子供が語る。それは、この映画のテーマであり、若い教師(妻夫木聡)がつたえたかった「真実」なのだが、そのせりふも、しかし子供たちの激情、ありまあまる感情のあらしのなかで、ひとつの意見になっていく。若い教師が、その意見にはっとする表情を見せるが、それをひきずらない。そこに焦点をあててしまわない。その方向に議論をもっていかない。
 この処理の仕方も、とてもいい。
 どこにも答えなんかない。「人間は他の生きている命を食べている。それは他の命を引き継ぐことだ」は、ある意味では答えに見える。そういうことばを、たとえば国語のテストなら「正解」としてしまうかもしれないけれど、このえいがではそんなことをしない。わからないことがある。わからないことを考え、そしてその考えをわからなくても実行するそういう瞬間があるということだけをつたえる。どんな答えも出さない。

 答えのない映画は、とても美しい。



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村永美和子試論(1)

2008-11-09 09:21:15 | 詩集
 村永美和子はことばが好きである。特に新しいことばが。「朝 目が開くと」(『家 と ことば』待望社、1980年01月15日発行)は、そのことを端的に語っている。

朝 目が開くと
もう 今日のことばが 喉に迫り上がっている
洗面所の歯磨きのにおいをかいだだけで
歯の隙間から 漏れてきそうに

コップの新しい水と いっしょに
勢いよく 噴き出す
明け方 衣替えしたらしい今朝のことばの着衣は
色の ひだが こまやかだ
白い陶器に 粘りつく光沢を見せ
その勢いに合わず ゆっくり ゆっくりと

わたしが三十年かかっても
組合わせられなかった この模様の重なり!
昼下がりの頃 出せるかもしれない
乾いた真昼のカンバスに のせられるかもしれない
姿を消す この色の渦巻きを……

 朝のきらきらしたことば--と思って読んでいく。そして、わたしは実は2連目でつまずく。「色の ひだが こまやかだ」までは、ともかく新しいことばが好き、という喜びがあふれている。その次の2行である。

白い陶器に 粘りつく光沢を見せ
その勢いに合わず ゆっくり ゆっくりと

 ほとばしることば--という印象が急に変わる。「粘りつく」と書いたあと、「勢いに合わず」とわざわざ書いている。そして、この「合わず」がたぶん村永の詩の特徴である。
 多くの人は、ことばを「合わせる」。朝なら、朝日、新しい光。冷たい空気。新鮮さ。ところが、村永は「合わせない」。別なことばを借りていえば「ずらす」。
 それは実は1連目から始まっている。ことばがあふれてくる。村永の肉体から、ことば自身の力で噴出してくる。それは新鮮な躍動だ--と思いたいが、よくよく読むと、ちょっと変である。つまり、ちょっと「ずれ」ている。
 「喉に迫り上がってくる」はことばの勢いを強烈に表現している。あ、ことばがあふれてくるんだという印象を呼び覚ます。しかし、「歯磨きのにおいをかいだだけで」はどうだろう。「歯磨き」は新鮮な匂いがする。歯磨きをしたあと、口のなかはさっぱりする。これも新鮮さを含んでいる。しかし、それが「歯の隙間から 漏れてきそうに」とつづくと、ちょっと違った印象も生まれてくる。磨かれた歯のあいだから漏れてくることばは清潔で新鮮そうだけれど、考えようによっては、歯磨きをしているときにふいに襲ってくる嘔吐に似ていないだろうか?
 どこかに「毒」がある。どこかに「毒」を感じさせる。「毒」があるからこそ、新鮮に響いてもくる。「肉体」の奥を刺激する。
 2連目の、

コップの新しい水と いっしょに
勢いよく 噴き出す

 も、よく読むと奇妙に「ずれ」がある。「日常」と「合わない」(合わず)部分がある。なぜ、コップの水? 勢いよくあふれるのは水道の水では? 蛇口からあふれる水ではないのか。それとも、コップに受け止めている水道の水ということだろうか。--そうだとしても、少し「ずれ」ている。ことばの動きに「ひねり」がある。
 ことばを「ひねる」「ずらす」--そうすることで、日常にある隙間を拡大して見せる。間接の動きをぎくしゃくさせて、いままでなかった動きを呼び込む。つまり、意識をめざめさせる。
 村永のことばの特徴はそこにある。

ふくらみかけていた ことばに
さら湯をかけたら
どちらも 球状になって…… (「ふくらみかけていた ことばに」)

 これは入浴する詩だが、「ふくらみかけていた ことば」という抽象に、突然「さら湯」(だれもつかっていない風呂のお湯、いちばん降風呂の湯、のことだろう)をかける。この「さら湯」という日常にどっぷりつかっていることばと抽象の出会い。これは、とんでもない「ずれ」である。「さら湯」ということばは入浴という状況をとりはらったところでは、え? いま、なんていったの?と問い返されるに違いないことばである。
 こんなことばが、こんなふうに出会う。その「ずれ」が、私の意識のなかにある何かを目覚めさせる。新鮮な何かを呼び覚ます。

テーブルの 上に
ことばを 置く


皿を置いたような
音がする    (「テーブルの 上に」)

 テーブルも皿も「日常」である。ところが、ことばをテーブルの上におくということは「日常」ではない。それはきわめて抽象的な表現であり、だれもテーブルの上に置かれたことばなど知らない。本だとか、活字が印刷された新聞だとかは、あくまで本、新聞であって、ことばそのものではない。
 2連目の「?」にもびっくりする。
 このマークは知っている。何をあらわすかも知っている。知らない人はいないだろう。でも、これは何? ことばをテーブルの上に置いたときの音?
 村永は、奇妙に「ずれ」をつくりだし、「日常」に「合わない」(合わず)を引き込むのである。そして、その隙間でことばを動かすのである。





されない傘―村永美和子詩集
村永 美和子
書肆青樹社

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リッツォス「証言B(1966)」より(2)中井久夫訳

2008-11-09 00:09:15 | リッツォス(中井久夫訳)
病むひとの一日   リッツォス(中井久夫訳)

一日中腐った臭。濡れた床板。
陽が差すと乾いて湯気が立つ。
鳥たちが一瞬屋根の頂上から覗き下ろすが、そのまま飛び去る。
夜には隣の安宿で墓掘りが腰掛けて
チリメンジャコで酒を飲んで歌う。
黒い孔の沢山開いた歌を歌う。
その孔からそよ風が吹き出し、
木の葉も光も細かにふるえる。
戸棚の縁に貼った紙もかすかにふるえる。



 「病む人」の詩といえば朔太郎を思い出す。朔太郎のことばには湿気がある。じめじめしている。それに比べるとリッツォスのことばは乾いている。「病気」の質が違って感じられる。
 腐った臭、濡れた床板--それさえもじめじめしたものの存在ではない。2行目の「陽が差すと乾いて湯気が立つ。」が象徴的だが、1行目は太陽によって否定されるための湿度である。
 朔太郎において、あるいは日本においてというべきなのだろうか。人間と人間とのあいだにあるのは「湿気」である。空気にはすでに触覚を刺激する重さがある。密度がある。リッツォスの、ギリシアの空気は乾いている。そよ風が吹き、紙さえも「かすかに」ふるえる。そういう繊細な動きをひきだす乾燥がある。

 この詩を読みながら、とても不思議な気持ちになるのは、この空気の違いだ。
 この空気から私は「病」を感じない。感じるのは、病から回復しているのに、まだ、そこにいなければならない、養生していなければならないという倦怠である。
 「ここ」に「動けずにいる」のに対して、鳥は飛び立つ。「隣」では墓掘りが歌を歌っている。みんな、「ここ」にとらわれていない。「黒い孔の沢山開いた歌」というものはどういうものだろうか。もしかすると、「音はずれ」の歌かもしれない。(ギリシア特有の言い回しかもしれない。)そういう「音はずれ」の歌であっても、こころはどこかへ飛んでゆく。自由である。
 その自由から取り残されている「私」の一日--そういうものを想像してみる。



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