詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山崎純治「蝸牛器官」

2008-11-19 10:58:23 | 詩(雑誌・同人誌)
山崎純治「蝸牛器官」(「独合点」96、2008年11月15日発行)

 山崎純治の作品を読んだことがあるかどうか、よくわからない。読んでいても、読みとばしていたかもしれない。申し訳ない。「蝸牛器官」はとてもおもしろかった。

眠たくなると
耳の奥から
カタツムリが這い出してくる

 書き出しの3行である。
 このカタツムリは、本物のカタツムリであると同時に内耳の構造に由来している。「蝸牛殻」ということばがあるが、これは内耳の一部を指す。ことばとほんものがどこかで交錯するのだ。肉体がことばによって侵食されているのだ。「夢」になるのだ。

眠たくなると
耳の奥から
カタツムリが這い出してくる
銀色のぬめりを引き
ドクダミが密生した線路脇の溝へ
溝に沿って垂直に切り立つ
コンクリート側壁へ

 「ドクダミが」以後の3行が、「銀色のぬめり」よりも、もっとぬめっている。粘着力が強い。「溝へ/溝に」という行をかえてのつながりが、悪夢そのものの動き方である。粘着力を抱え込んだまま、「もの」が動いていく。カタツムリはいつのまにか「溝」になり、「側壁」になる。
 「内耳」のなかに「カタツムリ」がいたように、カタツムリのなかには「溝」や「側壁」があるのだ。(それはたぶん、カタツムリをどこで見たか、という記憶と関係するのかもしれないけれど。)
 そして、その「側壁」のなかには、何が隠されているか。隠れているか。蝸牛殻のように、どんなリンパ液をためているのか。その液をくぐらせて、どんな外の世界を脳の中へ受け渡すのか。
 詩はつづく。

七月
金属ボルトで固定され
深緑色に塗装された
側壁の鉄製のハシゴ
巨大な女が
一段一段降りてくる
二の腕を震わせて鉄をつかみ
尻を割って足を伸ばし
汗が光る白い背中

 カタツムリは、悪夢そのまま、カタツムリではなく「側壁」でもなく、「巨大な女」に変形している。「尻を割って足を伸ばし」はカタツムリの「銀色のぬめり」のような、ぞくってする描写だ。ぞくっとするけれど、その「ぞくっ」とするものが視線を引きつける。見たくないけれど、しっかり見つめたい。矛盾した感情を引き起こすリアルな夢だ。
 そして、カタツムリから巨大な女になったと思ったら、

その小さな耳
耳の穴の
深く広がった闇に
産毛がちらちら反射して
ドクダミは濃い緑を噴き出し
低気圧前線が
関東南部に延びてくる
数匹のカタツムリは
耳の奥深く這い回り
塗装の剥がれかけたハシゴの
錆びた鉄が
ざらついて
激しく雨が降る
激しく雨が降る

 またカタツムリにもどっている。フラッシュバックのように(ハシゴを降りてくる巨大な女のように)、カタツムリは「内耳」へ奥深く這いずりまわって侵入していく。
 眠たくなった「脳」の旅は、カタツムリに姿をかえて、溝や側壁やハシゴや巨大な女をへめぐって(粘着力のせいで、残像のようにそれが残りつづける)、「巨大な女」の「小さな耳」、その内部へ迷い込み、「蝸牛殻」そのものになるのだが、そのとき「わたし」(わたしとは書かれていないが)は「山崎」から「巨大な女」に変身してしまっているのだが、その変身がカタツムリの銀のぬめりそのままに、ずるっとしているので見境がつかない。どこで「山崎」が「巨大な女」になったのか、わからない。わからないまま、ただ、ことばのなかに、どっしりと存在している。
 山崎もかわれば、世界そのものもかわってしまったような、そんな印象がある。実際、世界もかわってしまっている。晴天(といわなくても、少なくとも雨の降っていない)から、雨へと。

激しく雨が降る
激しく雨が降る

 こうした最後のリフレインは、なんだか昔の歌謡曲のようで私は好きではないのだが、この詩では不思議に落ち着いている。リフレインがなかったら、寂しい。リフレインによって、夢をなだめているような、不思議な感じがうまれる。ずるっとした不思議な「内部」の変化を支えるためには、外の世界は2回くらい繰り返さないと、もちきれないのだ。たぶん。



夜明けに人は小さくなる
山崎 純治
ふらんす堂

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リッツォス「証言B(1966)」より(11)中井久夫訳

2008-11-19 00:05:29 | リッツォス(中井久夫訳)
雨の朝   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見つめていた、雨の色を、窓ガラスの向う側に。
葦の茎の中にある滑らかな黄色と、レールの錆と、
トネリコの灰色に籠もる暗い緑と。
透明という色は最後までとって置いた。
浴室の鏡に裸体の少女が三人映っていた。
腕は上気して桃色。湯気の彼方でダンスをしていた。
一人がかがんで花をつまみあげた。髪が顔と片側の乳を隠した。
身を起こして、髪を左右に振って元に戻した。
銀の滴が五つ、鏡にかかった。彼女は花を手にしていなかった。



 色の動きが華麗だ。「黄色」と「灰色」はギリシアの映画監督、テオ・アンゲロプロスの色を思わせる。テオ・アンゲロプロスは、雨や霧、濡れた地面をとても美しく撮る。その濡れた灰色に黄色がとても美しく響く。この詩を貫くのは、同じ色の好みである。冷たい音楽である。
 ギリシアには雨が降る。雪が降る。灰色の空がある。ということを、私はテオ・アンブロプロスの映画を見るまで知らなかった。その映画の記憶がなかったら、この詩は、まったく違ったものに見えたかもしれない。

透明という色は最後までとって置いた。

 この1行の美しさには胸がふるえる。それは風景のための色ではない。彼の「こころ」のための色である。こころを透明にしたいのだ。こころが透明になる瞬間。そのときのために、彼は透明という色を風景の中に見つけることを拒んでいる。
 ところが。
 その透明は突然やってくる。彼は探してはいないのに、向こうの方からやってくる。詩のインスピレーションのように。浴室の鏡に映る少女。三人の少女。ダンスをする少女として。
 何が透明か。

一人がかがんで花をつまみあげた。髪が顔と片側の乳を隠した。

 髪に隠れている他方の乳である。見えない。見えないものが、しかし「見える」。見えないということが成り立つのは、それが「ある」ということがわかっているからである。あるのに見えない。それは「透明」そのものである。「透明」も存在してもけっして見ることができないものである。見えないから「透明」である。
 ここには矛盾がある。説明しようとすれば、どんどん、奇妙になっていくしかない何かがある。説明できないもの--詩が、ここにはある。

 最後の1行も不思議だ。

銀の滴が五つ、鏡にかかった。彼女は花を手にしていなかった。

 「五つ」はどこから出てきたのだろう。髪を振ったとき飛び散る滴が「五つ」ということはありえないだろう。「五つ」とは何か。
 「彼」と「三人」と「花」。あわせると「五つ」。--これは、うがちすぎた「算数」かもしれない。けれども、私は、やはり、そう読みとってしまうのである。「五つ」とは「彼」と「三人」と「花」があわさったもの--「一つ」になったもの。
 「五つ」が「一つ」というのは矛盾である。そんな「算数」はどこにもない。学校の授業にはない。
 しかし、詩のなかでは、そういう算数が存在する。矛盾した算数が存在する。そして、このときその算数を支えているのは「透明」という感覚なのである。みんな、「透明」。「透明」なのものが「五つ」あつまって、さらに「透明」になり、見分けがつかなくなる。「一つ」になる。そういう算数が、この詩である。


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