山崎純治「蝸牛器官」(「独合点」96、2008年11月15日発行)
山崎純治の作品を読んだことがあるかどうか、よくわからない。読んでいても、読みとばしていたかもしれない。申し訳ない。「蝸牛器官」はとてもおもしろかった。
書き出しの3行である。
このカタツムリは、本物のカタツムリであると同時に内耳の構造に由来している。「蝸牛殻」ということばがあるが、これは内耳の一部を指す。ことばとほんものがどこかで交錯するのだ。肉体がことばによって侵食されているのだ。「夢」になるのだ。
「ドクダミが」以後の3行が、「銀色のぬめり」よりも、もっとぬめっている。粘着力が強い。「溝へ/溝に」という行をかえてのつながりが、悪夢そのものの動き方である。粘着力を抱え込んだまま、「もの」が動いていく。カタツムリはいつのまにか「溝」になり、「側壁」になる。
「内耳」のなかに「カタツムリ」がいたように、カタツムリのなかには「溝」や「側壁」があるのだ。(それはたぶん、カタツムリをどこで見たか、という記憶と関係するのかもしれないけれど。)
そして、その「側壁」のなかには、何が隠されているか。隠れているか。蝸牛殻のように、どんなリンパ液をためているのか。その液をくぐらせて、どんな外の世界を脳の中へ受け渡すのか。
詩はつづく。
カタツムリは、悪夢そのまま、カタツムリではなく「側壁」でもなく、「巨大な女」に変形している。「尻を割って足を伸ばし」はカタツムリの「銀色のぬめり」のような、ぞくってする描写だ。ぞくっとするけれど、その「ぞくっ」とするものが視線を引きつける。見たくないけれど、しっかり見つめたい。矛盾した感情を引き起こすリアルな夢だ。
そして、カタツムリから巨大な女になったと思ったら、
またカタツムリにもどっている。フラッシュバックのように(ハシゴを降りてくる巨大な女のように)、カタツムリは「内耳」へ奥深く這いずりまわって侵入していく。
眠たくなった「脳」の旅は、カタツムリに姿をかえて、溝や側壁やハシゴや巨大な女をへめぐって(粘着力のせいで、残像のようにそれが残りつづける)、「巨大な女」の「小さな耳」、その内部へ迷い込み、「蝸牛殻」そのものになるのだが、そのとき「わたし」(わたしとは書かれていないが)は「山崎」から「巨大な女」に変身してしまっているのだが、その変身がカタツムリの銀のぬめりそのままに、ずるっとしているので見境がつかない。どこで「山崎」が「巨大な女」になったのか、わからない。わからないまま、ただ、ことばのなかに、どっしりと存在している。
山崎もかわれば、世界そのものもかわってしまったような、そんな印象がある。実際、世界もかわってしまっている。晴天(といわなくても、少なくとも雨の降っていない)から、雨へと。
こうした最後のリフレインは、なんだか昔の歌謡曲のようで私は好きではないのだが、この詩では不思議に落ち着いている。リフレインがなかったら、寂しい。リフレインによって、夢をなだめているような、不思議な感じがうまれる。ずるっとした不思議な「内部」の変化を支えるためには、外の世界は2回くらい繰り返さないと、もちきれないのだ。たぶん。
山崎純治の作品を読んだことがあるかどうか、よくわからない。読んでいても、読みとばしていたかもしれない。申し訳ない。「蝸牛器官」はとてもおもしろかった。
眠たくなると
耳の奥から
カタツムリが這い出してくる
書き出しの3行である。
このカタツムリは、本物のカタツムリであると同時に内耳の構造に由来している。「蝸牛殻」ということばがあるが、これは内耳の一部を指す。ことばとほんものがどこかで交錯するのだ。肉体がことばによって侵食されているのだ。「夢」になるのだ。
眠たくなると
耳の奥から
カタツムリが這い出してくる
銀色のぬめりを引き
ドクダミが密生した線路脇の溝へ
溝に沿って垂直に切り立つ
コンクリート側壁へ
「ドクダミが」以後の3行が、「銀色のぬめり」よりも、もっとぬめっている。粘着力が強い。「溝へ/溝に」という行をかえてのつながりが、悪夢そのものの動き方である。粘着力を抱え込んだまま、「もの」が動いていく。カタツムリはいつのまにか「溝」になり、「側壁」になる。
「内耳」のなかに「カタツムリ」がいたように、カタツムリのなかには「溝」や「側壁」があるのだ。(それはたぶん、カタツムリをどこで見たか、という記憶と関係するのかもしれないけれど。)
そして、その「側壁」のなかには、何が隠されているか。隠れているか。蝸牛殻のように、どんなリンパ液をためているのか。その液をくぐらせて、どんな外の世界を脳の中へ受け渡すのか。
詩はつづく。
七月
金属ボルトで固定され
深緑色に塗装された
側壁の鉄製のハシゴ
巨大な女が
一段一段降りてくる
二の腕を震わせて鉄をつかみ
尻を割って足を伸ばし
汗が光る白い背中
カタツムリは、悪夢そのまま、カタツムリではなく「側壁」でもなく、「巨大な女」に変形している。「尻を割って足を伸ばし」はカタツムリの「銀色のぬめり」のような、ぞくってする描写だ。ぞくっとするけれど、その「ぞくっ」とするものが視線を引きつける。見たくないけれど、しっかり見つめたい。矛盾した感情を引き起こすリアルな夢だ。
そして、カタツムリから巨大な女になったと思ったら、
その小さな耳
耳の穴の
深く広がった闇に
産毛がちらちら反射して
ドクダミは濃い緑を噴き出し
低気圧前線が
関東南部に延びてくる
数匹のカタツムリは
耳の奥深く這い回り
塗装の剥がれかけたハシゴの
錆びた鉄が
ざらついて
激しく雨が降る
激しく雨が降る
またカタツムリにもどっている。フラッシュバックのように(ハシゴを降りてくる巨大な女のように)、カタツムリは「内耳」へ奥深く這いずりまわって侵入していく。
眠たくなった「脳」の旅は、カタツムリに姿をかえて、溝や側壁やハシゴや巨大な女をへめぐって(粘着力のせいで、残像のようにそれが残りつづける)、「巨大な女」の「小さな耳」、その内部へ迷い込み、「蝸牛殻」そのものになるのだが、そのとき「わたし」(わたしとは書かれていないが)は「山崎」から「巨大な女」に変身してしまっているのだが、その変身がカタツムリの銀のぬめりそのままに、ずるっとしているので見境がつかない。どこで「山崎」が「巨大な女」になったのか、わからない。わからないまま、ただ、ことばのなかに、どっしりと存在している。
山崎もかわれば、世界そのものもかわってしまったような、そんな印象がある。実際、世界もかわってしまっている。晴天(といわなくても、少なくとも雨の降っていない)から、雨へと。
激しく雨が降る
激しく雨が降る
こうした最後のリフレインは、なんだか昔の歌謡曲のようで私は好きではないのだが、この詩では不思議に落ち着いている。リフレインがなかったら、寂しい。リフレインによって、夢をなだめているような、不思議な感じがうまれる。ずるっとした不思議な「内部」の変化を支えるためには、外の世界は2回くらい繰り返さないと、もちきれないのだ。たぶん。
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