詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言A(1963)」(12)中井久夫訳

2008-11-01 08:50:06 | リッツォス(中井久夫訳)
記憶   リッツォス(中井久夫訳)

彼女の外套の腋のところには暖かい匂いが残っていた。
回廊のハンガーに掛かった外套はカーテンを引いたみたいだった。
起こっていたことは皆、今は過去になった。
光が顔を変えた。皆、知らない顔になった。
もし、誰か家に押し入ろうとしたら、
人の着ていない外套がゆっくりと、だがきびしく腕を上げて、
ドアを閉めるだろう、一言も言わずに。



 「光が顔を変えた。皆、知らない顔になった。」は、不思議な行である。
 暗い夜の密会、たとえば森で、たとえば街角で。その暗がりのなかの顔なら互いによく知っている。しかし、今は家の中。光の中。そのなかでは、人はまったく違った顔に見える。
 この会合も、また、密会なのかもしれない。
 暗い森の、あるいは路地の密会よりも大きな集会。そこでは、それまで個別に話してきたことが、全員で討議されるのだ。その集会のために、皆が歩いてきた。そのときの体温の匂いが外套に残っている。外は寒いのだ。寒さを利用して、皆が隠れるように集まってきたのだろう。

 そんなことは、書いてない。

 確かに書いていないが、ことばが不思議な「過去」を持っている。語られない「過去」が、それぞれの行にあり、その「過去」が1行1行を独立させる。その独立感、孤立感が詩を浮かび上がらせる。
 何かがあって、それは何かをしようという狙いがあってしたことなのだが、それは無残に失敗した。「過去」のできごとになってしまった。「いま」は「過去」の夢から切り離されて、孤立した「いま」になってしまった。
 そのせいで、皆は、よけいに「知らない顔」になっている。かつての、ひとつのことに燃える闘志のようなものが傷つき、その傷が家の明かりによって浮かび上がっている。

 そんなことは、書いていない。

 書いていないが、そんなことを想像する。書かれていないことまで想像させるのが詩というものだろうと思う。
 皆は、敗北し、集まっている。その敗北の集会を襲う誰かがあるかもしれない。しかしそのときは、皆はきっちり団結する。外套さえも団結する。
 最後の2行、外套に託された結託が、きびしく、そして美しい。



関与と観察
中井 久夫
みすず書房

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ニキータ・ミハルコフ監督「12人の怒れる男」(★★★★)

2008-11-01 08:47:59 | 映画
監督 ニキータ・ミハルコフ 出演 ニキータ・ハミルコフ、セルゲイ・マコヴェツキイ、セルゲイ・ガルマッシュ 

 シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の感動の良心的映画のリメイク。私は、シドニー・ルメットの作品をしっかりとは記憶していない。映画を見はじめたころ見たので、映画の見方もいまとは違ってストーリー中心に見ていた。だから、厳密なことはいえないのだが、この映画には非常にびっくりした。
 近眼の目撃者の証言が信用できない、などのストーリーの細部は踏襲している部分もある。1人が無罪を主張し、少しずつ無罪派が増えていき、最後には全員一致で無罪の評決に至るというのは同じなのだが、とてもリメイクとは思えない。舞台がロシアに移っているから、というのが大きな理由だが、それだけではない。
 裁判映画だから、基本的には裁かれる人間は「被告」である。この映画の場合、チェチェンの少年である。ところが、陪審員たちが議論していく過程で、裁かれているのは被告というよりも陪審員そのものという感じにかわってくる。
 陪審員のひとりひとりが、他の陪審員に話したことがない「過去」を持っている。これはあたりまえのことであるが、とても重要なことだ。陪審員は、互いに他の陪審員のことをまったく知らない。(たぶん、まったく知らないままに終わることもできる。)互いをまったく知らない、というのは、それぞれの「過去」を知らない、ということである。どうやって、いま、ここにいるのか知らないということである。「過去」、つまり経験が違えば、それぞれの常識(判断基準)というものも違う。それなのに、最初は、それぞれが違った判断基準を持っているということさえ知らずに(認識せずに)、いきなり「有罪か、無罪か」という投票をしてしまう。
 そのことに疑問を感じるひとりの陪審員が、異議を唱える。
 そこから、ひとりひとりの「過去」があぶりだされていく。人種に対する偏見、出身地に対する偏見、職業に対する偏見。だれもが何らかの偏見をもっている。その偏見が表決にも反映される。またそれぞれが、つらい過去を持っている。家庭の悩みを抱えている。そういうことも票決に反映される。仕事を優先したい、恋人とのデートを優先したい、というような思惑も票決に反映してしまう。
 だれひとり、客観的に「事実」を分析し、その結果として票決にのぞんでいるわけではない。
 そのことを、ニキータ・ミハルコフはていねいに描き出す。ていねい、といっても、ロシア特有の人間描写の誇張(?--誇張ではないのかもしれない。私はロシア人を知らない)で描写される。激しい感情の振幅、繊細な情念が、濃密に展開する。これは、ちょっと見ていて苦しいくらいに迫ってくるのだが、その苦しいばかりの内面の噴出こそがニキータ・ミハルコフの描きたかったものかもしれない。こんなに感情的で、情念的なロシア人が、人間を裁く。事実をみつみかさねてというよりも、自分の感情、情念の闇と向き合い、それをふりしぼるようにして、ひとりの人間の人生と向き合う。
 陪審員たちは徐々にわかってくる。被告のことをよく知らないだけではなく、自分のこともよく知らなかった。自分の「過去」をはっきりと自覚していなかった。その「過去」を現実のなかで、どうやって明確にしながら未来へ進むかということを自覚していなかったことを知る。裁かれているのは、「いま」の彼らをつくっている「過去」なのだ。その「過去」をどうやって、いま、そして、これから社会のなかで具体化していくかということ、「過去」と「未来」をどうやって、折り合いを付けていくかということこそがきびしく問われている。
 陪審員は「無罪」という票決に達するが、「無罪」なら、それで少年はほんとうに救われるのか。現実に、社会に出て、生きていけるのか。その生に対して、陪審員として、どんなことができるか。どんなふうにかかわっていけるのか、が最後に問われる。それはニキータ・ミハルコフ以外の陪審員の、一度も考えたことのない問題だった。これは、ほんとうに、ほんとうに大切な問題である。無罪・有罪の判断を下す以上に重要な問題である。そこでも、陪審員そのものが裁かれるのである。少年の有罪・無罪を票決するだけと思っていたのに、ほんとうは自分の人生の過去と未来が裁かれるのだ。それが陪審員制度なのである。

 ラストのニキータ・ミハルコフと少年の対話が象徴的である。ふたりは互いの名前を名乗る。(自分の名前を名乗ることには、父の名を告げること--つまり、過去を語ることもふくまれる。)そこから互いを知りはじめる。生きるということは、過去をさらけだすこと。過去を受け入れること。過去を知ること。そして、その過去をかかえたまま、未来へ進むことなのだ。過去を「無」の状態にして、未来を手に入れることはできない。

 映画の映像として、これはおもしろい、こんな映像は見たことがない--というようなシーンはなかった。だけれども、ずっしりと重いものを投げかけられた。日本でも裁判員制度がはじまるが、実際に裁判員を引き受ける前に、ぜひ、見ておくべき映画だろうと思った。
 裁判で裁判員が裁くのは被告の行為そのものだけではなく、自分自身の過去、歴史、感情なのである。




福岡では、やっと上映がはじまったばかりだけれど、DVDがすでに出ています。


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