記憶 リッツォス(中井久夫訳)
彼女の外套の腋のところには暖かい匂いが残っていた。
回廊のハンガーに掛かった外套はカーテンを引いたみたいだった。
起こっていたことは皆、今は過去になった。
光が顔を変えた。皆、知らない顔になった。
もし、誰か家に押し入ろうとしたら、
人の着ていない外套がゆっくりと、だがきびしく腕を上げて、
ドアを閉めるだろう、一言も言わずに。
*
「光が顔を変えた。皆、知らない顔になった。」は、不思議な行である。
暗い夜の密会、たとえば森で、たとえば街角で。その暗がりのなかの顔なら互いによく知っている。しかし、今は家の中。光の中。そのなかでは、人はまったく違った顔に見える。
この会合も、また、密会なのかもしれない。
暗い森の、あるいは路地の密会よりも大きな集会。そこでは、それまで個別に話してきたことが、全員で討議されるのだ。その集会のために、皆が歩いてきた。そのときの体温の匂いが外套に残っている。外は寒いのだ。寒さを利用して、皆が隠れるように集まってきたのだろう。
そんなことは、書いてない。
確かに書いていないが、ことばが不思議な「過去」を持っている。語られない「過去」が、それぞれの行にあり、その「過去」が1行1行を独立させる。その独立感、孤立感が詩を浮かび上がらせる。
何かがあって、それは何かをしようという狙いがあってしたことなのだが、それは無残に失敗した。「過去」のできごとになってしまった。「いま」は「過去」の夢から切り離されて、孤立した「いま」になってしまった。
そのせいで、皆は、よけいに「知らない顔」になっている。かつての、ひとつのことに燃える闘志のようなものが傷つき、その傷が家の明かりによって浮かび上がっている。
そんなことは、書いていない。
書いていないが、そんなことを想像する。書かれていないことまで想像させるのが詩というものだろうと思う。
皆は、敗北し、集まっている。その敗北の集会を襲う誰かがあるかもしれない。しかしそのときは、皆はきっちり団結する。外套さえも団結する。
最後の2行、外套に託された結託が、きびしく、そして美しい。
彼女の外套の腋のところには暖かい匂いが残っていた。
回廊のハンガーに掛かった外套はカーテンを引いたみたいだった。
起こっていたことは皆、今は過去になった。
光が顔を変えた。皆、知らない顔になった。
もし、誰か家に押し入ろうとしたら、
人の着ていない外套がゆっくりと、だがきびしく腕を上げて、
ドアを閉めるだろう、一言も言わずに。
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「光が顔を変えた。皆、知らない顔になった。」は、不思議な行である。
暗い夜の密会、たとえば森で、たとえば街角で。その暗がりのなかの顔なら互いによく知っている。しかし、今は家の中。光の中。そのなかでは、人はまったく違った顔に見える。
この会合も、また、密会なのかもしれない。
暗い森の、あるいは路地の密会よりも大きな集会。そこでは、それまで個別に話してきたことが、全員で討議されるのだ。その集会のために、皆が歩いてきた。そのときの体温の匂いが外套に残っている。外は寒いのだ。寒さを利用して、皆が隠れるように集まってきたのだろう。
そんなことは、書いてない。
確かに書いていないが、ことばが不思議な「過去」を持っている。語られない「過去」が、それぞれの行にあり、その「過去」が1行1行を独立させる。その独立感、孤立感が詩を浮かび上がらせる。
何かがあって、それは何かをしようという狙いがあってしたことなのだが、それは無残に失敗した。「過去」のできごとになってしまった。「いま」は「過去」の夢から切り離されて、孤立した「いま」になってしまった。
そのせいで、皆は、よけいに「知らない顔」になっている。かつての、ひとつのことに燃える闘志のようなものが傷つき、その傷が家の明かりによって浮かび上がっている。
そんなことは、書いていない。
書いていないが、そんなことを想像する。書かれていないことまで想像させるのが詩というものだろうと思う。
皆は、敗北し、集まっている。その敗北の集会を襲う誰かがあるかもしれない。しかしそのときは、皆はきっちり団結する。外套さえも団結する。
最後の2行、外套に託された結託が、きびしく、そして美しい。
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