詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・ウー監督「レッドクリフ」(★)

2008-11-05 09:15:39 | 映画
監督 ジョン・ウー 出演 トニー・レオン、金城武、チャン・フォンイー

 駄作である。製作費が 100億円と宣伝されているが、無駄遣いである。
 私は「三国志」を読んだことがない。中国の歴史にも関心がない。そういう私が見ても、これは単に「三国志」をなぞっただけの映画であることがわかる。
 小説(?)の場合、たとえば戦闘シーンなどはひとりひとりを順番に書いていくしかない。何にかの武将が登場した場合、ひとりひとりの武将の闘いをていねいに描くしかない。それぞれの個性がかさなり、雄大な一篇の時代物語になる。それは言語の性質上、どうしてもそういうふうにしか表現できないのである。
 1行目にAが馬を走らせ、2行目にBが刀をふりかざし、3行目でCが負傷しながらも誰かを助けると書いたのでは、何が書いてあるかわからなくなる。主語をきちんと明示しても、わけがわからなくなる。文章というのはどんなに工夫しても、ある一定の長さがないと何が書いてあるかわからない。特に、歴史・戦闘などの場合は、だれが、どんなふうにをひとまとめにして書かないと、事実がつかめなくなる。
 ところが映画は違うのである。
 映画は小説と違い、人物を役者が演じる。つまり「ひと」が登場するだけで別々の人間であることがわかる。小説はひとりひとり名前で区別しなければいけないが、映画は役者の顔で区別できる。眼の、一瞬の働きで、だれがだれであるかがわかる。ひとの行動も一瞬でわかる。馬に乗る。そのときの様子は小説ならくだくだと描写しなければならない部分も、映画は人間の行動そのまま一瞬でいい。目つきも、目でどんな合図をしたかも、一瞬である。(そういうものに「せりふ」で説明を加えると、映画ではなくなる。)
 従って、戦闘のシーンでも、次々に武将の闘いぶりが、映像の切り替えで表現されても、観客は混乱しない。むしろ、同時に起きていることは、間を置かずに交錯させて映像化した方が戦闘そのものに実体に近くなる。観客は、そういうことを識別できる。
 ジョン・ウーはそういう映像表現をとっていない。「小説」のように、ひとりひとりの戦闘シーンを、ひとりひとりの個性的な活躍を個別にゆったりと表現している。だれがどんな闘いをしたかはわかりやすいが、とてもばからしい。広大な戦場が、いくつかのパートに分かれ、しかも別々の時間に闘いが行われている感じになる。言い換えると、まるでオリンピックと古代武闘のテレビ中継を見ている感じなのだ。まずAが金メダルを取る。次はBが別の階級で金。Cもまた別の競技で金。なんだ、これは。国盗りの戦争というのは、そんなに悠長なものなのか。
 激しいアクションの連続だが、思わず舟をこぎたくなる。
 ジョン・ウーは、この映画ではようするに「映画文法」を使いこなしていないのである。映画学科の学生でも、もう少しは映画文法を知っているだろう。そういいたくなるくらいに、ひどい映像ばかりである。
 戦闘シーン以外でも同じである。
 琴をひきながら、トニー・レオンと金城武が無言のやりとりをする、意志の伝達をするシーンなど、情感(?)たっぷりでいいのだが、そういうシーンのあとで、ごていねいに、何があったのか「せりふ」で説明するのだから、映画をみた感じがしなくなる。役者はなんのためにいるのかわからなくなる。小説ではひとの表情、あるいは琴の演奏の一瞬の音の響きが何をつたえるかをことばで描写しなければならないが、映画は、映像と音でつたえればいいのである。それをことばで補足すると紙芝居になる。
 そうなのだ。この映画は、紙芝居の文法でできている。絵を見せながら、絵だけに語らせるのではなく、絵で表現できないところを、ことばで語る。(戦闘シーンでは、ひとりひとりの活躍が観客の頭の中に「ことば」として定着するのをうながすように、ひとりずつていねいに、同じシーン、同じ戦い方を繰り返し映し出す。)

 この映画がばかばかしいのは、「レッドクリフ」パート2が最初からあるということだ。「三国志」の「赤壁」の部分には陸の闘いと水の闘いがあるようだ。パート1では、いわば陸の闘いが描かれたのだが、陸の闘いしか描けなかったのは、ようするにジョン・ウーが映画文法を間違えて、ひとりひとりのシーンを長く撮りすぎたためである。「三国志」を、書かれていることばの順序にあわせてなぞるのではなく、有機的に解体、再統合し映像化しなければならないのに、それができていない。だから長くなってしまった、というのが実情だろう。
 パート2を見ないと、映画として完結しないので、ごていねいにも、この映画にはパート2の予告編がそのまま最後についている。パート2を見ないと映画を見たことになりませんよ、と正直に告白している。どうしてもこの映画を見たいというひとは、パート1はDVDが出るのを待って見て、それからパート2だけ映画館で見ればいいだろう。
 しかし、ほんとうにいいのは、映画ではなく「三国志」を読むことかもしれない。きっと文字で読んだ方が頭がさえ渡り興奮するだろう。ことばの力を実感し、文学が好きになるかもしれない。文学への目覚めをうながす映画だったといえるかもしれない。

(映画のタイトルのあとの★は一種の採点です。5個が最高。傑作。見逃すと損。4個。佳作。見ておくと映画の話が楽しくなる。3個。普通。2個。暇があったらどうぞ。1個。金を返せといいたくなる駄作。)







トニー・レオンを見るなら、この映画。
ブエノスアイレス

パイオニアLDC

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言A(1963)」(16)中井久夫訳

2008-11-05 00:51:53 | リッツォス(中井久夫訳)
動きの影   リッツォス(中井久夫訳)

「私は帰るわ」と彼女は言った。「帰るわ。これ以上このまま行けないわ。
まあ、ひどい風・・・」。彼はトランプを投げ捨てた。階段に足音が聞こえた。
扉が開いた。細い光が床を打った。
女はトランプを拾い上げて男に返した。
何年もたってから返す手つきだった。
それから花の水を換えた。
だが彼女のことばは部屋の中をブンブン飛び廻っていた
ちょうど冬の初め、部屋に閉じ込められた蠅の跳ね音のように。



 女と男の、ありふれた情景。日々の1シーン。
 女と男がいさかいをする。そして、はっきりした謝罪もないまま、ずるずると和解(?)をして日常にもどっていく。ことばは、はっきりと受け止められないまま、部屋の中に残っている。--このとき、「部屋」は女と男の、「頭の中」であり、また「肉体」でもある。「部屋」と「頭の中」(肉体)は一体になっている。
 この悲しみ。

女はトランプを拾い上げて男に返した。
何年もたってから返す手つきだった。

 さりげない2行だが、この部分が、この詩のいちばん美しい部分だ。「手つき」がことばにならないことばなのだ。ひとは、ことばだけではなく、肉体の「動き」でも「意味」をつたえる。
 彼女は、しかし、その「手つき」だけでは、うまく「日常」にもどれない。だから、

それから花の水を換えた。

 「日常」での繰り返しを、繰り返す。繰り返すことで「日常」へと自分を戻す。けれども、それだけではまだ不十分なのだろう。ことばは、言ってしまったことばは、なかなか消えてくれない。だから、悲しく、切ない。
 短く切られたことば、短文の積み重ねが、孤独を浮き彫りにしている。
 この詩も、映画や芝居で見てみたい。読むのではなく、見てみたい--という気持ちにさせられる。リッツォスはとても視覚的な詩人である。




分裂病/強迫症/精神病院―中井久夫共著論集
中井 久夫
星和書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする