高貝弘也『子葉声韻』(思潮社、2008年10月31日発行)
断章から構成された詩集である。この詩集が好き--というのは、ちょっと自分はこういう感性のあり方が好き、それは私の感性に似ているから、ということにつながるようで、なんとなく気恥ずかしい。そして、その感性というのは、実は、感性というよりも、そういうことばを読んできたから、ということにつながる。つまり、「お里」につながる。だから、なんとなく気恥ずかしい。
こんなふうに思うのは、私だけだろうか。
ここには「意味」はない。ことばが「意味」になることを拒否して、ただ「音」「文字」として、「音」「文字」といっしょにある感性そして存在する。
たぶん、ことばが好きではないひとにはわからないことかもしれないが、これはことばが好きといえる詩人の特権的な何かである。ことばは、いくつかのことばとつながって「意味」をつくる。これは普通のことである。日常はそういう「意味」をたよりに動いている。ところが、そういう「意味」ではなく、ただ、いまそこにあることばが好きという、一種の「恋」のようなものである。
「恋」に「意味」はない。なぜ、あいてが好きなのかも実のところよくわからない。何かがひとを引きつける。そのひきつける理由など一生かかってもわからない。
高貝は「紙背」ということばが好きである。その響き。その文字が好きである。そして、それに似合うことばを、記憶から(文学から)すくいあげる。うまく響きあわなければ何度でも別の記憶(文学)からすくいあげる。その何度も何度もの手つきのなかに、たとえば「新古今」の感性とか、その他の感性とかが触れる。その快感を高貝は大切にしている。
「意味」ではなく、ことばとことばのゆらぎ。ゆらぎの遠近法のなかにふっと浮かび上がってくる、遠い世界。なつかしい世界。日本語が生まれてくる瞬間の世界。そういうものが見える。
魂のことを書いているのではない。書くふり(?)をあて、ことばのゆらぎを書いている。ことばのゆらぎに触れている。「多麻之比」というのは、万葉仮名かどうかはわからないが、そういう一つ一つの漢字が「たましい」を別なものに見せる。それぞれの音と文字のあいだに「たましい」ということば、「魂」という文字にはなりきれなかった何かがゆらいで見える。
もちろん、それは錯覚である。
でも、錯覚であって、何が悪い?
そうなのだ。すべて錯覚であって、何がいけないのだろう。「見た」と思ったものが「錯覚」であって、どうして悪いのだろう。その「錯覚」がたとえばとてつもなく美しいものだったら、それはそれで十分ではないだろうか。この世界には存在しないような、とてもかなしいもの、とてもさびしいものであったとしたら、それはそれで十分ではないだろうか。
高貝は、ことばのなかにある、そういう「錯覚」の系譜を探しているのかもしれない。たったひとりだけの、つまり高貝だけの、感性の系譜を探しているのだろう。
「おとり」と「辺(ほとり)」。ふたつのことばが出会うとき、そこに不思議な遠近法ができる。その遠近法のなかで世界が屈折する。その屈折を「幻」と呼ぶのは簡単だが、そんなふうに「幻」をわざとことばにするのは、一種の「ふり」である。「幻」のふりをして、ことばの遠近法をわかろうとしないひとを安心させる方便である。
「おとり」「振りかえり」「辺(ほとり)」「ふり」のなかでゆらぐ「り」の音。その距離を正確にたどることは誰にもできない。それは楽譜のなかにあらわれた、特別な音のようでもある。その音はあらゆる曲の楽譜のなかにある。そして、それは、では、どの曲から引用した音なのか。そんなことは誰にもわからない。いろいろな音楽の記憶が、ある日、突然、独自の遠近法とともにあらわれて、そこに不思議な旋律をつくるだけである。その旋律が聴こえるか、聴こえないか、それは読者の感性次第である。
だから、ちょっと気恥ずかしい。高貝の詩が好きである、というのは。それは高貝の感性が好きというより、自分の感性の「お里」に近付くことだからである。
私はいつでもそういうものを振り捨てたいと願っている。自分の「お里」に対して、批評的でありたいと思っている。でも、同時に、あ、こんなふうに、自分の感性を前面に出してしまうと気持ちいいだろうなあ、とも思う。
断章から構成された詩集である。この詩集が好き--というのは、ちょっと自分はこういう感性のあり方が好き、それは私の感性に似ているから、ということにつながるようで、なんとなく気恥ずかしい。そして、その感性というのは、実は、感性というよりも、そういうことばを読んできたから、ということにつながる。つまり、「お里」につながる。だから、なんとなく気恥ずかしい。
こんなふうに思うのは、私だけだろうか。
紙背で、石榴(ざくろ)、落ちて。
あなたの声(こわ)ぶり。こわ振りよ。
霊(たま)合いの。たましひ、多麻之比よ。
生まれなおし、産みなおし。
くるりとむいて
ここには「意味」はない。ことばが「意味」になることを拒否して、ただ「音」「文字」として、「音」「文字」といっしょにある感性そして存在する。
たぶん、ことばが好きではないひとにはわからないことかもしれないが、これはことばが好きといえる詩人の特権的な何かである。ことばは、いくつかのことばとつながって「意味」をつくる。これは普通のことである。日常はそういう「意味」をたよりに動いている。ところが、そういう「意味」ではなく、ただ、いまそこにあることばが好きという、一種の「恋」のようなものである。
「恋」に「意味」はない。なぜ、あいてが好きなのかも実のところよくわからない。何かがひとを引きつける。そのひきつける理由など一生かかってもわからない。
高貝は「紙背」ということばが好きである。その響き。その文字が好きである。そして、それに似合うことばを、記憶から(文学から)すくいあげる。うまく響きあわなければ何度でも別の記憶(文学)からすくいあげる。その何度も何度もの手つきのなかに、たとえば「新古今」の感性とか、その他の感性とかが触れる。その快感を高貝は大切にしている。
「意味」ではなく、ことばとことばのゆらぎ。ゆらぎの遠近法のなかにふっと浮かび上がってくる、遠い世界。なつかしい世界。日本語が生まれてくる瞬間の世界。そういうものが見える。
霊合いの。たましひ、多麻之比よ。
魂のことを書いているのではない。書くふり(?)をあて、ことばのゆらぎを書いている。ことばのゆらぎに触れている。「多麻之比」というのは、万葉仮名かどうかはわからないが、そういう一つ一つの漢字が「たましい」を別なものに見せる。それぞれの音と文字のあいだに「たましい」ということば、「魂」という文字にはなりきれなかった何かがゆらいで見える。
もちろん、それは錯覚である。
でも、錯覚であって、何が悪い?
そうなのだ。すべて錯覚であって、何がいけないのだろう。「見た」と思ったものが「錯覚」であって、どうして悪いのだろう。その「錯覚」がたとえばとてつもなく美しいものだったら、それはそれで十分ではないだろうか。この世界には存在しないような、とてもかなしいもの、とてもさびしいものであったとしたら、それはそれで十分ではないだろうか。
高貝は、ことばのなかにある、そういう「錯覚」の系譜を探しているのかもしれない。たったひとりだけの、つまり高貝だけの、感性の系譜を探しているのだろう。
おとり鮎(あゆ)投げ、振りかえり。
畦のうえの、幻
辺(ほとり)の 廃舟は口べたのふりをしている。重い、子どもを乗せる
「おとり」と「辺(ほとり)」。ふたつのことばが出会うとき、そこに不思議な遠近法ができる。その遠近法のなかで世界が屈折する。その屈折を「幻」と呼ぶのは簡単だが、そんなふうに「幻」をわざとことばにするのは、一種の「ふり」である。「幻」のふりをして、ことばの遠近法をわかろうとしないひとを安心させる方便である。
「おとり」「振りかえり」「辺(ほとり)」「ふり」のなかでゆらぐ「り」の音。その距離を正確にたどることは誰にもできない。それは楽譜のなかにあらわれた、特別な音のようでもある。その音はあらゆる曲の楽譜のなかにある。そして、それは、では、どの曲から引用した音なのか。そんなことは誰にもわからない。いろいろな音楽の記憶が、ある日、突然、独自の遠近法とともにあらわれて、そこに不思議な旋律をつくるだけである。その旋律が聴こえるか、聴こえないか、それは読者の感性次第である。
だから、ちょっと気恥ずかしい。高貝の詩が好きである、というのは。それは高貝の感性が好きというより、自分の感性の「お里」に近付くことだからである。
私はいつでもそういうものを振り捨てたいと願っている。自分の「お里」に対して、批評的でありたいと思っている。でも、同時に、あ、こんなふうに、自分の感性を前面に出してしまうと気持ちいいだろうなあ、とも思う。
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