詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『子葉声韻』

2008-11-24 09:22:39 | 詩集
高貝弘也『子葉声韻』(思潮社、2008年10月31日発行)

 断章から構成された詩集である。この詩集が好き--というのは、ちょっと自分はこういう感性のあり方が好き、それは私の感性に似ているから、ということにつながるようで、なんとなく気恥ずかしい。そして、その感性というのは、実は、感性というよりも、そういうことばを読んできたから、ということにつながる。つまり、「お里」につながる。だから、なんとなく気恥ずかしい。
 こんなふうに思うのは、私だけだろうか。

紙背で、石榴(ざくろ)、落ちて。
あなたの声(こわ)ぶり。こわ振りよ。

霊(たま)合いの。たましひ、多麻之比よ。
生まれなおし、産みなおし。
くるりとむいて

 ここには「意味」はない。ことばが「意味」になることを拒否して、ただ「音」「文字」として、「音」「文字」といっしょにある感性そして存在する。
 たぶん、ことばが好きではないひとにはわからないことかもしれないが、これはことばが好きといえる詩人の特権的な何かである。ことばは、いくつかのことばとつながって「意味」をつくる。これは普通のことである。日常はそういう「意味」をたよりに動いている。ところが、そういう「意味」ではなく、ただ、いまそこにあることばが好きという、一種の「恋」のようなものである。
 「恋」に「意味」はない。なぜ、あいてが好きなのかも実のところよくわからない。何かがひとを引きつける。そのひきつける理由など一生かかってもわからない。
 
 高貝は「紙背」ということばが好きである。その響き。その文字が好きである。そして、それに似合うことばを、記憶から(文学から)すくいあげる。うまく響きあわなければ何度でも別の記憶(文学)からすくいあげる。その何度も何度もの手つきのなかに、たとえば「新古今」の感性とか、その他の感性とかが触れる。その快感を高貝は大切にしている。
 「意味」ではなく、ことばとことばのゆらぎ。ゆらぎの遠近法のなかにふっと浮かび上がってくる、遠い世界。なつかしい世界。日本語が生まれてくる瞬間の世界。そういうものが見える。

霊合いの。たましひ、多麻之比よ。

 魂のことを書いているのではない。書くふり(?)をあて、ことばのゆらぎを書いている。ことばのゆらぎに触れている。「多麻之比」というのは、万葉仮名かどうかはわからないが、そういう一つ一つの漢字が「たましい」を別なものに見せる。それぞれの音と文字のあいだに「たましい」ということば、「魂」という文字にはなりきれなかった何かがゆらいで見える。
 もちろん、それは錯覚である。
 でも、錯覚であって、何が悪い?

 そうなのだ。すべて錯覚であって、何がいけないのだろう。「見た」と思ったものが「錯覚」であって、どうして悪いのだろう。その「錯覚」がたとえばとてつもなく美しいものだったら、それはそれで十分ではないだろうか。この世界には存在しないような、とてもかなしいもの、とてもさびしいものであったとしたら、それはそれで十分ではないだろうか。
 高貝は、ことばのなかにある、そういう「錯覚」の系譜を探しているのかもしれない。たったひとりだけの、つまり高貝だけの、感性の系譜を探しているのだろう。

おとり鮎(あゆ)投げ、振りかえり。
畦のうえの、幻

辺(ほとり)の 廃舟は口べたのふりをしている。重い、子どもを乗せる

 「おとり」と「辺(ほとり)」。ふたつのことばが出会うとき、そこに不思議な遠近法ができる。その遠近法のなかで世界が屈折する。その屈折を「幻」と呼ぶのは簡単だが、そんなふうに「幻」をわざとことばにするのは、一種の「ふり」である。「幻」のふりをして、ことばの遠近法をわかろうとしないひとを安心させる方便である。
 「おとり」「振りかえり」「辺(ほとり)」「ふり」のなかでゆらぐ「り」の音。その距離を正確にたどることは誰にもできない。それは楽譜のなかにあらわれた、特別な音のようでもある。その音はあらゆる曲の楽譜のなかにある。そして、それは、では、どの曲から引用した音なのか。そんなことは誰にもわからない。いろいろな音楽の記憶が、ある日、突然、独自の遠近法とともにあらわれて、そこに不思議な旋律をつくるだけである。その旋律が聴こえるか、聴こえないか、それは読者の感性次第である。

 だから、ちょっと気恥ずかしい。高貝の詩が好きである、というのは。それは高貝の感性が好きというより、自分の感性の「お里」に近付くことだからである。
 私はいつでもそういうものを振り捨てたいと願っている。自分の「お里」に対して、批評的でありたいと思っている。でも、同時に、あ、こんなふうに、自分の感性を前面に出してしまうと気持ちいいだろうなあ、とも思う。


子葉声韻
高貝 弘也
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高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
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リッツォス「証言B(1966)」より(16)中井久夫訳

2008-11-24 00:32:55 | リッツォス(中井久夫訳)
労働者の美   リッツォス(中井久夫訳)

彼はいらいらと行ったり来たりした。埃の道を。汗みずくで、
壊れたトラックとその荷を守って。裸足で、
ズボンを捲くり上げて。古代の漕ぎ手に似てる。
足は幅広いなめし皮。剥き出した腕は彫刻した筋肉。
微風が吹く。シャツに皺が寄る。逞しい背中の輪郭が見える。
正午になって浜から帰る女の子たちは歩幅をゆるめて
サンダルの紐を直すか、ベルトを締め直す。すると彼は
トラックの西瓜の上に登って、櫛を取り出し、
髪を櫛けずる。



 ここに描かれている労働者は若い。書き出しの「いらいら」は若さ特有の「いらいら」である。自分には能力がある。それなのに、なぜこんなことをしていなければならないのか。そういう「いらいら」である。欲求不満である。
 彼はなによりも、まず美しい。肉体にかねそなわった彼の特権である。

微風が吹く。シャツに皺が寄る。逞しい背中の輪郭が見える。

 まるで、風さえも、彼の肉体を見たがっているかのようである。「シャツに皺」が逆に彼の肉体をくっきりと見せる。「シャツ」は肉体を隠すためにあるのではなく、強調するためにある。隠すことによって、見えないものを「想像力」のなかで探り当てさせるのである。ひとは肉眼で見たものよりも想像力で見たものの方を信じる。
 女の子たちと出会い、自分をととのえるために髪を梳る。それは単に身だしなみをととのえるというのではない。自分を美しく見せるというのではない。自分はさらに美しくなれる、と誇示するのである。
 この、剥き出しの、本能のような、若さの美しさ。

 彼はこのとき「いらいら」していない。それが若さの特権である。「いらいら」を忘れてしまって、自分が見られていること、見られることの喜びを味わっている。そんなふうに、見られることの喜びを露骨に味わうことができる、というのは、若さの特権以外のなにものでもない。
 リッツォスはそれを「櫛を取り出し、/髪を櫛けずる」という短い描写のなかに凝縮させている。中井の訳は、それをいちばん短い形で日本語にしている。こういう美は、たしかに、凝縮がいのちである。

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