出演 ジョージ・クルーニー、レニー・ゼルウィガー
アメリカン・フットボールの初期の頃の様子がおもしろい。防具は何もないに等しい。こんな格好でぶつかりあって大丈夫? もちろん、大丈夫じゃない。それが最後の最後の場面で生かされる。アメフトのフィールドも芝生ではない。(人工芝生ではもちろんない。)え、こんな状態でやっていたの? 雨が降ったらどうなるの? という心配も、最後のシーンで生かされる。
この映画は、ようするに、古い時代の、人間がまだ自分の体力と智恵でがんばっていた姿を再現している。何もかもが組織化されず、個人の工夫にまかされていた時代の、手触りを再現しようとした映画である。
個人の力でできることというのは限界がある。それでも自分の望みをかなえたい。こういうとき、ひとはどうするか。「反則」をする。どんなふうに「反則」をしながら生きていくか。どんな「反則」なら相手に受け入れてもらえるか。そういう駆け引きの楽しみを再現した映画である。
この駆け引きを、ジョージ・クルーニーが楽しく演じている。
アメフトにかぎらず、年をとると不利なことはたくさんある。アメフトは体力がないとできない。ジョージ・クルーニーには大学を卒業したばかりのルーキーの体力はない。新戦術もない。けれども、古くからの奇妙な作戦(反則)がある。恋においても、若い女を相手に恋をするのはなかなかむずかしい。けれども、培ってきた手練手管がある。どんな時に何をいえばいいのか。そういうことを知っている。もちろん反則も知っている。ただし、反則といっても、相手を徹底的にいためつけるものではない。ちょっといらいらさせる、というようなものだ。相手を刺激して、その瞬間にあらわれる無防備な部分をさらに責めるというものだ。
この瞬間、恋とアメフトが重なり合う。
そのためには、アメフトの防具は無防備でなければならない。現代アメフト選手が身につけているような頑丈なプロテクターでは、恋とアメフトが重ならない。
ジョージ・クルーニーの相手役、レニー・ゼルウィガーの「防具」はことば、頭の回転の速さである。ジョージ・クルーニーが恋の攻めにつかうのもことばと頭の回転の速さだけである。ようするに、「智恵」である。その「防具」は「防具」とはいいながら、実は人間を剥き出しにしたものである。生身である。
アメフトの選手が見につけている「防具」も映画の原題になっている「Leatherheads」だけ。これは革のヘルメットのこと。これではほんとうは「防具」にはならないだろう。ほんとうの「防具」は実は素手のパンチである。(これは、やはり最後に活躍する。)これは「防具」というより、生身である。「防具」をつかおうとすると、実は人間が剥き出しになるのである。その人間が、どんなふうにけんか(?)をしてきたか、殴りあってきたかが、剥き出しに出てくるのである。
この伏線として、ジョージ・クルーニーとアメフトのルーキーの殴り合いがある。そして、そこでは「ルール」がある。いつもは「反則」をつかうジョージ・クルーニーがけっして「反則」をしない。無防備な人間は、相手と真剣に戦うときは「反則」はしないのである。自分の弱点をさらけだし、相手の弱点もきちんと聞いて、そういうふうにして「反則」を封じた上で戦うのである。
あ、昔の人間は、ほうとうに生身だった。剥き出しだった。そういう美しさがあった、とういことを、見終わった後でじっくり感じる映画である。
レニー・ゼルウィガーという女優は、私の基準では美人ではない。したがって、私はレニー・ゼルウィガーのファンでもない。けれども、この映画にレニー・ゼルウィガーをつかったのは「正解」だと思う。生身、剥き出し、無防備という感じがレニー・ゼルウィガーには本質的にそなわっていて、それがこの映画の味にぴったりである。
「グッドナイト・グッドラック」のときも同じように思ったが、ジョージ・クルーニーは役者を見抜く力、キャスティングの力がすぐれている。感心した。映画のテーマにぴったりの役者をきちんと選んでいる。
アメリカン・フットボールの初期の頃の様子がおもしろい。防具は何もないに等しい。こんな格好でぶつかりあって大丈夫? もちろん、大丈夫じゃない。それが最後の最後の場面で生かされる。アメフトのフィールドも芝生ではない。(人工芝生ではもちろんない。)え、こんな状態でやっていたの? 雨が降ったらどうなるの? という心配も、最後のシーンで生かされる。
この映画は、ようするに、古い時代の、人間がまだ自分の体力と智恵でがんばっていた姿を再現している。何もかもが組織化されず、個人の工夫にまかされていた時代の、手触りを再現しようとした映画である。
個人の力でできることというのは限界がある。それでも自分の望みをかなえたい。こういうとき、ひとはどうするか。「反則」をする。どんなふうに「反則」をしながら生きていくか。どんな「反則」なら相手に受け入れてもらえるか。そういう駆け引きの楽しみを再現した映画である。
この駆け引きを、ジョージ・クルーニーが楽しく演じている。
アメフトにかぎらず、年をとると不利なことはたくさんある。アメフトは体力がないとできない。ジョージ・クルーニーには大学を卒業したばかりのルーキーの体力はない。新戦術もない。けれども、古くからの奇妙な作戦(反則)がある。恋においても、若い女を相手に恋をするのはなかなかむずかしい。けれども、培ってきた手練手管がある。どんな時に何をいえばいいのか。そういうことを知っている。もちろん反則も知っている。ただし、反則といっても、相手を徹底的にいためつけるものではない。ちょっといらいらさせる、というようなものだ。相手を刺激して、その瞬間にあらわれる無防備な部分をさらに責めるというものだ。
この瞬間、恋とアメフトが重なり合う。
そのためには、アメフトの防具は無防備でなければならない。現代アメフト選手が身につけているような頑丈なプロテクターでは、恋とアメフトが重ならない。
ジョージ・クルーニーの相手役、レニー・ゼルウィガーの「防具」はことば、頭の回転の速さである。ジョージ・クルーニーが恋の攻めにつかうのもことばと頭の回転の速さだけである。ようするに、「智恵」である。その「防具」は「防具」とはいいながら、実は人間を剥き出しにしたものである。生身である。
アメフトの選手が見につけている「防具」も映画の原題になっている「Leatherheads」だけ。これは革のヘルメットのこと。これではほんとうは「防具」にはならないだろう。ほんとうの「防具」は実は素手のパンチである。(これは、やはり最後に活躍する。)これは「防具」というより、生身である。「防具」をつかおうとすると、実は人間が剥き出しになるのである。その人間が、どんなふうにけんか(?)をしてきたか、殴りあってきたかが、剥き出しに出てくるのである。
この伏線として、ジョージ・クルーニーとアメフトのルーキーの殴り合いがある。そして、そこでは「ルール」がある。いつもは「反則」をつかうジョージ・クルーニーがけっして「反則」をしない。無防備な人間は、相手と真剣に戦うときは「反則」はしないのである。自分の弱点をさらけだし、相手の弱点もきちんと聞いて、そういうふうにして「反則」を封じた上で戦うのである。
あ、昔の人間は、ほうとうに生身だった。剥き出しだった。そういう美しさがあった、とういことを、見終わった後でじっくり感じる映画である。
レニー・ゼルウィガーという女優は、私の基準では美人ではない。したがって、私はレニー・ゼルウィガーのファンでもない。けれども、この映画にレニー・ゼルウィガーをつかったのは「正解」だと思う。生身、剥き出し、無防備という感じがレニー・ゼルウィガーには本質的にそなわっていて、それがこの映画の味にぴったりである。
「グッドナイト・グッドラック」のときも同じように思ったが、ジョージ・クルーニーは役者を見抜く力、キャスティングの力がすぐれている。感心した。映画のテーマにぴったりの役者をきちんと選んでいる。
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