詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョージ・クルーニー監督「かけひきは、恋のはじまり」(★★★)

2008-11-21 23:31:13 | 映画
出演 ジョージ・クルーニー、レニー・ゼルウィガー

 アメリカン・フットボールの初期の頃の様子がおもしろい。防具は何もないに等しい。こんな格好でぶつかりあって大丈夫? もちろん、大丈夫じゃない。それが最後の最後の場面で生かされる。アメフトのフィールドも芝生ではない。(人工芝生ではもちろんない。)え、こんな状態でやっていたの? 雨が降ったらどうなるの? という心配も、最後のシーンで生かされる。
 この映画は、ようするに、古い時代の、人間がまだ自分の体力と智恵でがんばっていた姿を再現している。何もかもが組織化されず、個人の工夫にまかされていた時代の、手触りを再現しようとした映画である。
 個人の力でできることというのは限界がある。それでも自分の望みをかなえたい。こういうとき、ひとはどうするか。「反則」をする。どんなふうに「反則」をしながら生きていくか。どんな「反則」なら相手に受け入れてもらえるか。そういう駆け引きの楽しみを再現した映画である。
 この駆け引きを、ジョージ・クルーニーが楽しく演じている。

 アメフトにかぎらず、年をとると不利なことはたくさんある。アメフトは体力がないとできない。ジョージ・クルーニーには大学を卒業したばかりのルーキーの体力はない。新戦術もない。けれども、古くからの奇妙な作戦(反則)がある。恋においても、若い女を相手に恋をするのはなかなかむずかしい。けれども、培ってきた手練手管がある。どんな時に何をいえばいいのか。そういうことを知っている。もちろん反則も知っている。ただし、反則といっても、相手を徹底的にいためつけるものではない。ちょっといらいらさせる、というようなものだ。相手を刺激して、その瞬間にあらわれる無防備な部分をさらに責めるというものだ。
 この瞬間、恋とアメフトが重なり合う。
 そのためには、アメフトの防具は無防備でなければならない。現代アメフト選手が身につけているような頑丈なプロテクターでは、恋とアメフトが重ならない。
 ジョージ・クルーニーの相手役、レニー・ゼルウィガーの「防具」はことば、頭の回転の速さである。ジョージ・クルーニーが恋の攻めにつかうのもことばと頭の回転の速さだけである。ようするに、「智恵」である。その「防具」は「防具」とはいいながら、実は人間を剥き出しにしたものである。生身である。
 アメフトの選手が見につけている「防具」も映画の原題になっている「Leatherheads」だけ。これは革のヘルメットのこと。これではほんとうは「防具」にはならないだろう。ほんとうの「防具」は実は素手のパンチである。(これは、やはり最後に活躍する。)これは「防具」というより、生身である。「防具」をつかおうとすると、実は人間が剥き出しになるのである。その人間が、どんなふうにけんか(?)をしてきたか、殴りあってきたかが、剥き出しに出てくるのである。
 この伏線として、ジョージ・クルーニーとアメフトのルーキーの殴り合いがある。そして、そこでは「ルール」がある。いつもは「反則」をつかうジョージ・クルーニーがけっして「反則」をしない。無防備な人間は、相手と真剣に戦うときは「反則」はしないのである。自分の弱点をさらけだし、相手の弱点もきちんと聞いて、そういうふうにして「反則」を封じた上で戦うのである。

 あ、昔の人間は、ほうとうに生身だった。剥き出しだった。そういう美しさがあった、とういことを、見終わった後でじっくり感じる映画である。
 レニー・ゼルウィガーという女優は、私の基準では美人ではない。したがって、私はレニー・ゼルウィガーのファンでもない。けれども、この映画にレニー・ゼルウィガーをつかったのは「正解」だと思う。生身、剥き出し、無防備という感じがレニー・ゼルウィガーには本質的にそなわっていて、それがこの映画の味にぴったりである。
 「グッドナイト・グッドラック」のときも同じように思ったが、ジョージ・クルーニーは役者を見抜く力、キャスティングの力がすぐれている。感心した。映画のテーマにぴったりの役者をきちんと選んでいる。


グッドナイト&グッドラック 通常版

東北新社

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海埜今日子「《宮殿をひとりの恋人たちが》カンバス、油彩、歌」

2008-11-21 23:01:51 | 詩(雑誌・同人誌)
海埜今日子「《宮殿をひとりの恋人たちが》カンバス、油彩、歌」(「hotel 第2章」20、2008年10月01日発行)

 野村喜和夫「螺旋の閾」のことばのゆらぎはすばやい。それに対して、海埜のことばはゆったりしている。いや、ゆっくりしている。というより、速度がない。速度がないというと変だけれど、移動しない。移動せずに、重なる。(深まる、というのとも少し違う。)
 作品の書き出し。

むかしむかし、恋人のようなすあしをかかえ、わたしたちは宮殿をおりていった。まぎれもない述懐がころがり、べつのかたちをなぞるようにかなでている。ぬぐえそうなあがないです、あやまたないふとももです。いまだ歓喜のけはいがあるのは、ほうほう感覚もともにあるということなのか。

 「むかしむかし」からしてことばのくりかえし、ことばの重ね、重なりなのだが、「なぞるようにかなでている。ぬぐえそうなあがないです、あやまたないふとももです。」というのは、ひとつの状況をことばを重ね合わせながらくりかえし言っているのだ。「宮殿」でのセックスの倦怠。倦怠の奥底にある愉悦の記憶。それは、ことばを重ね合わせるとき、互いのことばを剥がし合うようでもある。ことばが隠してしまうもの、それをことばで剥がそうとする。けれども、それがまた重なってしまう。--矛盾である。徒労である。その、どうしようもない感覚の存在が、ひらがなのなかで揺らいでいる。
 「歓喜のけはい」「ほうこう感覚」。こうした漢字とひらがなの出会いが、ことばの重なり、出合いの奥に、書こうとして書けない感覚を閉じ込める。あるいは、隠す。隠すことで、そこに何かが存在すると明らかにする。ひらがなを漢字に衝突させることで、はじめて、そういうものが明らかになる。--どうしようもない感覚の存在が、ひらがなのなかで揺らいでいる、と書いたのは、そういう理由による。

 この作品は、絵を見ての感想、あるいは絵を見ての感想という形をとった虚構なのだが、何かについて語るということは、何かを利用して(何かの手を借りて)、自分を、つまり、「いま」「ここ」を裸にするということでもある。
 その種明かしのような、最後の行。

宮殿はのをこえ、やまをこえ、むかしむかし、いまをくらしたという。

 「いま」が、そこに登場する。それはそれでいいのだろうけれど、というか、種明かしをしないと不安という気持ちはわかるけれど、種明かしがないまま、しりきれとんぼの「むかしばなし」でもよかったかもしれないなあ、とふと思った。「いま」を明確にしないと「現代詩」というものにならないとは、私は考えない。




隣睦
海埜 今日子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(13)中井久夫訳

2008-11-21 00:33:30 | リッツォス(中井久夫訳)
大事なことは   リッツォス(中井久夫訳)

扉のあたりを彼はしつこく観察していた。
正面の、窓のない赤い扉だった。
にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。
反対側の小さな丘の上に村から男が彼の馬に飼い葉をやりに来た。
男は麦藁の束をそっと地面の上に置いて、石の上に腰を掛け、
静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。



 ことばで何かを描写したい。誰も書かなかったことを書きたい。詩人の欲望は(作家の欲望は)、いつの時代も同じだ。誰だって同じだ。
 リッツォスがここで書きたいのは、

にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。

 という行と、最後の

静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。

 であろう。
 「彼」と「男」が「かんどころを外す」と「静かに馬の睾丸を眺めていた」で奇妙に重なり合う。「大事なこと」から何かがずれている。しかし、そうやってずれたときにあらわれる何か--この詩では「少し悲しげ」という気分がそれになるが、それがくっきりとことばに定着する。「ずれ」を通してしか発見できない「真実」(大事なこと)があるのだ。

 別の接近のしかたもしてみよう。
 リッツォスのことばの不思議さは、ことばが「過去」を背負っていることである。たとえば、

にもかかわらず、彼がかんどころを外しているのが分かった。

 この行の「かんどころ」は「過去」を持っている。「かんどころ」はいっさい説明されない。しかし、それが「過去」(つみかさねてきた実績)とずれているからこそ、かんどころと外れていることがわかるのだ。「かんどころ」に従って何かをする--そういう行為をしたことがある人間だけが、「過去」を共有できる。
 同じように、最終行の

静かに馬の睾丸を眺めていた、少し悲しげに。

 も、馬の睾丸を(あるいは他の動物のでもいいが)眺めた「過去」がある人間だけが、その「少し悲しげ」な「少し」を理解できる。共有できる。
 ふたつの「過去」を共有できたとき、読者と「彼」と「男」が一体になる。

 中井久夫の訳は、ことばの「過去」を不思議な形ですくい上げてくる。
 「かんどころ」はギリシア語でどういうことばか知らないが、この肉体になじんだ日本語が、やはり肉体にぴったりよりそう睾丸と不思議に通い合う。男の肉体にそなわっている何か。--睾丸は「かんどころ」に従って動く。この感じを共有するには、やはり「過去」が必要だろうけれど、そういうものを中井久夫は不思議に、簡潔で、だれもが知っていて、実はあまり「文学」にはつかわないことばの中から探し出してくる。
 それがとてもおもしろい。



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