藤維夫「秋のフーガ」(「SEED」17、2008年11月01日発行)
藤維夫「秋のフーガ」の1連目。
3行目の「そこに」に詩を感じた。
「そこ」って、どこ? わからないね。かろうじて、「岸辺を走る道に佇」んだときに見える場所、ということがわかる。そして、もっと限定すれば「佇む」ときに見える場所なのだ。
ひとは誰でも佇むときがある。その佇んだ場所が「ここ」。「そこ」は「ここ」から離れた場所。「ここ」と「そこ」には距離がある。隔たりがある。その隔たり、距離と「孤独」は強く関係している。私は「ここ」にいる。そして私以外は「ここ」にはいない。他の存在は「私」から離れている--それが孤独だ。
でも、「そこ」って、どこ? また疑問が生まれてくる。何か、よくわからない。それは、たぶん藤にもよくわからない。「そこ」と「ここ」の距離がわからない。わからないから、とらえどころのないものが「そこ」と「ここ」のあいだ(間--魔かもしれない)に忍び込んでくる。そして、「そこ」と「ここ」の間(ま)があいまいだから、なにかが忍び込んできても、その間が埋まったかどうかはわからない。
この、間が埋まったかどうかわからない感じ--それを「空虚」と呼ぶ。藤は「空虚」と呼んでいる。(1連の最終行)
藤の詩は「抒情詩」に属する。(たぶん)そして、その抒情が清潔なのは、3行目の「そこ」ということばのように、彼のことばの運動がいつも論理的だからである。論理がセンチメンタルを洗い清める。
強い論理があるとき、ことばは美しく響く。
藤維夫「秋のフーガ」の1連目。
秋が深まって
岸辺を走る道に佇み
そこに冷えた地平が見えてくる
淡白な遠い波もある
共鳴する地図は近くに誰もいない場所
いくつもの言葉を失って
空虚な孤独の秋を告げるだろう
3行目の「そこに」に詩を感じた。
「そこ」って、どこ? わからないね。かろうじて、「岸辺を走る道に佇」んだときに見える場所、ということがわかる。そして、もっと限定すれば「佇む」ときに見える場所なのだ。
ひとは誰でも佇むときがある。その佇んだ場所が「ここ」。「そこ」は「ここ」から離れた場所。「ここ」と「そこ」には距離がある。隔たりがある。その隔たり、距離と「孤独」は強く関係している。私は「ここ」にいる。そして私以外は「ここ」にはいない。他の存在は「私」から離れている--それが孤独だ。
でも、「そこ」って、どこ? また疑問が生まれてくる。何か、よくわからない。それは、たぶん藤にもよくわからない。「そこ」と「ここ」の距離がわからない。わからないから、とらえどころのないものが「そこ」と「ここ」のあいだ(間--魔かもしれない)に忍び込んでくる。そして、「そこ」と「ここ」の間(ま)があいまいだから、なにかが忍び込んできても、その間が埋まったかどうかはわからない。
この、間が埋まったかどうかわからない感じ--それを「空虚」と呼ぶ。藤は「空虚」と呼んでいる。(1連の最終行)
藤の詩は「抒情詩」に属する。(たぶん)そして、その抒情が清潔なのは、3行目の「そこ」ということばのように、彼のことばの運動がいつも論理的だからである。論理がセンチメンタルを洗い清める。
強い論理があるとき、ことばは美しく響く。