詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清野雅巳「岩倉界隈」、山本しのぶ「雨を知る」

2008-11-15 10:28:29 | 詩(雑誌・同人誌)
清野雅巳「岩倉界隈」、山本しのぶ「雨を知る」(「紙子」16、2008年10月10日発行)

 清野雅巳「岩倉界隈」と「海の近くで」はともに非常におもしろい。「岩倉界隈」の方を引用する。

碁盤目状の市内に住んでいる普段は意識することはないのだが
京都の街は北方をほぼ山に遮られている
自転車を漕いで松ヶ崎東山まで来るとそれがわかる

 ここには知っていることとわかること、肉体で確かめたことがきちんと整理されている。「普段は意識することはない」というのは知識として認識はしているけれど、それをあらためて考えることはないという意味だろう。ところが肉体を動かしてみると、その認識するという意識もなしに知っていたことが事実として実感できる。「わかる」とは「肉体」が実感することである。
 2連目以降は、この「肉体」の実感、つまり「知識」ではとらえられなかった世界へ入っていく。

麓の東側、高野川に挟まれた小径を迂回して岩倉へ向かう。左手に山の斜面、右手に住宅。庭のビニールプールにはビーチバレーが浮いている。

 「高野川」「岩倉」はまだ知識と肉体が競り合っている。知識が肉体を動かしている。ところが一歩「迂回」してしまうと知識は消えて肉体だけが世界と向き合う。そして、ほとんど無意味(?)なビニールプールやビーチバレーと向き合う。
 この瞬間が詩である。
 とても美しい。「頭」は否定され、清野は一個の人間になる。肉体になる。「肉眼」そのものになる。彼が見るものには、どんな「認識」「知識」も混じってこない。「もの」と「肉眼」の直接的な出会いである。

宝ヶ池公園を抜けて盆地の住宅街に入る
一〇五号線を横切り北上するとコンビニが見えてくる

 「宝ヶ池公園」「一〇五号線」--これは「知識」のようでもあるけれど、たまたまそこにそういう文字が書かれていて、あ、ここが「宝ヶ池公園」、ここが「一〇五号線」というだけのことだろう。「肉体」が拾い上げた「知識」のかけらである。あくまで「肉体」が世界を発見している。だからこそ「コンビニ」に出会ってしまう。なんの目印にもならない。どの街角にもある。しかし、このコンビニはだからこそ、とても新しい。ふいに街角に一軒だけ地面の底から生えてきたコンビニのように感じられる。あるいは天から突然降ってきたコンビのように感じられる。

実相院を探していたが、アイスを買って食べて帰ることにする。往路とは違う、西福寺の丘の西側を選ぶ。斜面に密集した住宅の隙間を縫いながら。下り坂にまかせて自転車を走らせる。

 「肉体」と「知識」(意識)が出会いながら、世界が立体化してくる。「アイスを買って食べて帰ることにする」。このシンプルな行動がとても美しい。アイスを食べに京都までいってみたい、自転車で京都の街を走りたいという気持ちにさせられる。
 いいなあ。

 このあと、詩はさらにおもしろくなる。「知識」にしたがっている(「知識」を利用している)ようでありながら、いったん目覚めた「肉体」が逆襲してくるのか、「知識」ガ「知識」でなくなる。「知っている」はずのことがわからなくなる。「肉体」のとらえたものが「知識」を超越して存在しはじめる。
 このクライマックスは、ぜひ、直接、作品に触れて楽しんでください。
 「海の近くで」も、クライマックスのあと「信じられない」世界に達する。いいなあ。信じられない、わからない。それこそ、世界に存在する詩そのものだ。その前では人間は自分をつくりかえるしかない。そういう次元へ、清野のことばは連れていってくれる。



 山本しのぶ「雨を知る」も「肉体」をつかって世界と向き合っている。そこに、不思議な清潔さがある。精神に汚れていない抒情がある。

あなたの隣で横たわるわたしの死体に
雨がしずかにしずかに降り注ぎます
あなたの寝息が健やかに
わたしの耳元に聴こえている深夜おそくなって
眠れないわたしの白い腹に落下していく雨の粒

あおむけに暗い天井をみつめながら
空のかなたの厚い雲からうまれ出る
ちいさな一粒が
わたしの真上に落ちてくるまでの
なすすべもない時間を数えています
それはひんやりと夜気のはかなさを吸って
わたしのくぼみに溜まりあふれていく

 最後の(引用部分の最後、という意味です。詩は、まだまだつづきます)2行がとてもいい。「はかなさ」など手垢に汚れたことばだと思っていたが、あ、こんなふうにつかうことばだったんですねえ。雨粒が「吸って」いるのか、それとも「わたし」の「肉体」が、その肌が「吸って」いるのかわからなくなる。
 美しい。

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リッツォス「証言B(1966)」より(7)中井久夫訳

2008-11-15 00:12:25 | リッツォス(中井久夫訳)
ありし日の休日   リッツォス(中井久夫訳)

何もかも晴れ。空に雲がいくつか。
ゆりかごに赤児。磨いた水差に窓。
室(へや)の中に樹。椅子にエプロン。詩に言葉。
一枚の木の葉がきらり光る。鎖に回した鍵も。



 清潔なイメージがつづく。特に「磨いた水差に窓。」ということばが私は好きだ。「磨いた水差」が空気の透明感を引き寄せる。「磨いた水差」によって、空気が輝きはじめる感じがする。空気は「窓」とつながっている。「窓」は当然、その前の行の「晴れ」につながっている。
 初夏。そのさわやかな印象がとても気持ちがいい。「赤児」になって、ゆりかごで眠ってみたい気持ちになる。
 けれども、最終行が複雑だ。「一枚の木の葉がきらり光る。」は初夏のままである。「鎖に回した鍵も。」も同じように初夏の光を反射しているものとしてとらえてもいいのかもしれない。しかし、何か、ちがった印象がある。違和感がある。
 そしてその違和感は、私には「一枚の木の葉がきらり光る。」の「きらり」から始まっているように思える。「きらり」ということばはなくても、木の葉の光は「きらり」以外に考えられない。ことばを節約し、簡潔に、よりいっそう簡潔に書くリッツォスは、なぜここに「きらり」をいれたのか。わざわざ「きらり」と書いたのか。「鎖」に回した「鍵」--その鎖と鍵が「きらり」と光っているということを強調するためである。
 鎖も鍵もほんとうは「きらり」と光る必要などない。それが「きらり」と光る。そのとき、そこに何が隠されているのだろうか。

 何も隠れされていないかもしれない。しかし、何が隠されているのだろうかという印象を呼び覚ます。
 その、不思議な違和感が、この作品の「詩」である。

 タイトルの「ありし日の」ということわりも、そこにつながってゆく。きょうの休日ではない。「ありし日」なのだ。「きょう」「ここ」とは離れた時間--それが、最終行の違和感といっしょに、ゆっくりと浮かびあがってくる。

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