詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

菊池唯子『すすきの原 なびいて運べ』

2008-11-13 11:16:29 | 詩集
菊池唯子『すすきの原 なびいて運べ』(思潮社、2008年10月28日発行)

 菊池唯子のことばは孤独である。ただ菊池のこころにだけ向けて書かれている。「そこに」の書き出し。

確かめる必要はないと
思った

そこにあるものはわたしの腕
そこにあるのはわたしの言葉
そう 言い切って
いいのだと
鏡を見るように
それは明らかなのだと

 この作品の「そこ」は、きのう感想を書いた藤維夫「秋のフーガ」の「そこ」に似ているようでまったく違う。「ここ」ではない「場」--そういう意味では同じ日本語の「そこ」である。「ここ」と「そこ」のあいだには距離がある。
 しかし、この距離は菊池の方が藤の場合よりも短い。接近している。というより、菊池の「そこ」は身体に密着している。肉体に密着している。「そこ」と「ここ」は一体となっている。

鏡を見るように

 この不思議な1行が、「そこ」と「ここ」が密着していることを語っている。「そこ」が「わたし」から離れた「場」なら、それは「鏡」を必要としない。鏡を必要とするのは、「そこ」が肉眼では直接見えないからである。鏡という、いったん離れた「場」において見ないと、それは見えない。
 そして、「そこ」は動かない。動かせない。
 たとえば「腕」。誰でも「腕」を動かして、目の前にかざして、それを「腕」として見ることはできる。しかし、菊池はそれができない。本来、鏡をつかわなくても見えるはずのものが、見えない。

 「そこ」とはどこか。

 私は菊池の「こころ」と思って読む。「こころ」のなかにこそ、「腕」はあり、「言葉」はある。短い作品のなかで、菊池はそのことを確かめている。あらためて、自分に言い聞かせている。
 そして、「そこ」にあるものにむけて、ことばを動かしていく。「そこ」が満足するように、ただそれだけを願ってことばを動かしいる。

 菊池は肉体をつかって、世界を取り込む。肉体をしっかり通過させて、世界を「そこ」、つまり「こころ」に届ける。肉体は、菊池にとって、世界を「濾過」するような存在である。「いちばん低い音を」の書き出し。

 遠くにあると信じ込んでいるものがある。たとえば清冽な、水の湧き出る光景。ざわめきの消えた湖水を渡る、風。芽吹く前にほんのり色付いた枝。雪をいただいた頂上からの俯瞰。長い道のりを歩き抜いて初めて手に触れることが許される、何か。

 「長い道のりを歩き抜いて初めて手に触れることが許される」。つまり、肉体をつかって「私」が動いていく。肉体そのものを動かしていく。そうすることで肉体が「初めて」「触れる」もの。距離がなくりなり、ぴったりと接触する瞬間。そのときに、世界と「そこ」が融合する。一体になる。
 そういうことを菊池はしているのだ。

 菊池のことばは、とても静かだ。簡潔に切り詰められている。それは肉体が、長い長い距離を歩くことで無駄をそぎ落としてきた結果である。肉体をしっかり動かして、「もの」に触れる。そして、「もの」が肉体を通過してくるのを待つ。「もの」は肉体の、血や骨や肉に形をととのえられて「こころ」に届く。
 その形をととのえる作業を菊池はひっそりと隠している。隠していることさえ隠している。私はこんな苦労をしました、とは言わない。そこに、言いようなのない美しさがある。
 「離れて」の最終連は非常に美しい。

小さな石を取って
わたしは書こう
忘れてしまった一つの名前
手のひらを這う蟻の
石を温めた太陽の
湿らせた土の
におい立つ草の
明け方の露の
名づけられたときの その
ただ一つの方法で

 ここに書かれている石も蟻も土も、みんな菊池の肉体を通過した存在である。ここに書かれているのは「自然」ではなく、菊池の「肉体」である。そして、その「肉体」のなかにあるこころは、しっかりと「肉体」そのものといったいになっている。「そこ」、「こころの位置」は、「肉体」の内部(たとえば、心臓とか、脳)ではなく、全身に満ちているのだ。



 昨年、伊藤悠子の詩集にこころがあらわれる感じがしたが、菊池の清潔なことばは伊藤のことばのたしかさに似ている。とてもいい詩集だ。「現代詩手帖」のアンケートに回答をしたあとに読んだので10冊のなかには書き漏らしてしまったが、2008年の10冊のうちの1冊である。
 ぜひ読んでください。



すすきの原なびいて運べ
菊池 唯子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(6)中井久夫訳

2008-11-13 09:56:23 | リッツォス(中井久夫訳)
春   リッツォス(中井久夫訳)

ガラスの壁。少女が三人座っている。
裸体で壁の向こう側に。男は一人。梯子を登って行く。
裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。
と、目くるめく光のぎらつきが庭全体を隠す。沈黙。近眼の人が眼鏡をはずされた状態。
ガラスの壁に縦にひびが入った。ひび割れの音が聞こえる。
不可視の秘密の巨大なダイアで切り裂かれたのだ。



 「春」をついて書かれたたくさんある。そして、それはかならずしも喜びであふれているわけではない。エリオットの「四月は残酷な季節」をふと思い出す。「春」はたしかに残酷なのだ。いままで眠っていた意識を呼び覚ます。目覚めた意識は、なんとてしでも新しいことをしたがる。新しいものを手に入れたがる。そのとき、どこかでかならず破壊が起きる。破壊なしには何も始まらない。

裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。

 この1行が非常に好きだ。「少女」の「裸体」よりも、なぜか強烈に「肉体」を想像させる。「少女」の「裸体」はことばでしかないが、「足裏」はことばを超越している。普通は、「足裏」など見ない。見えない。その、いつもは隠されているものがリアルに見えるからである。
 この「足裏」は、しかし、どこから見ているのだろうか。誰が見ているのだろうか。
 「少女」ではない。もちろん男には見えない。詩人リッツォスが想像力のなかで見ている。つまり、孤独のなかで見ているのだ。

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