詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷岡亜紀『鳥人の朝』

2008-11-06 10:32:18 | 詩集
谷岡亜紀『鳥人の朝』(思潮社、2008年10月25日発行)

 谷岡亜紀は歌人である。わたしは不勉強なので、短歌のことはまったく知らない。「後書き」にそう書いてあったので、あ、そうか、と思っただけである。しかし、この詩集の中では、その短歌がいちばんおもしろい。「クリスマス・ゴア」という作品のなかに2首書かれている。

沖合から雨季近付くと海流は夜ごと騒ぎて色を変えゆく
まぼろしを見せる薬の覚めるまでくらき輪廻の夢に苦しむ
   (谷内注・「くらき」は原文は「木」の下に「日」という漢字、「き」の送り)

 ことばが途中でうねる。そのうねりに、「肉体」を感じる。「頭」はまっすぐに動くけれど、「肉体」には「肉体」の寄り道がある。それがうねりだ。
 「沖合から」は「近付くと」がなんとも奇妙ないいまわしである。「と」が、私には奇妙に感じる。私の感覚では、この「と」は短歌ではない。歌ではない。散文である。それも、論理に拘泥する粘着質の散文である。「と」で、谷岡のことばはつまずき、「肉体」へとうねるのである。「と」がない方が世界が飛躍して美しく輝くと私は思うけれど、谷岡は「と」で世界を引きずりたいのである。世界を手放さず、ずーっと引きずる--というのが谷岡の「肉体」である。
 「まぼろしを」のうたも同じである。「目覚めるまで」の「まで」がしつこい。粘っこい。「まで」で世界を引きずるのではなく、いったん手放した方が、歌はリズミカルになる。響きがよくなる。世界が叩ききられ、断面があざやかになる。そう思うけれど、谷岡は、そういうあざやかさ(短歌的抒情?)よりも、「肉体」の引きずる感じの方が好きなのだろう。

 実は、この2首に出会うまで、谷岡のことばは重たくて重たくて、ちょっと読むのがつらかった。短歌に出会い、あ、谷岡は世界を引きずるのだ。そういう「肉体」をしているのだと思った。短歌よりも、詩よりも、たぶん散文(粘りを特徴とする散文)の方が谷岡のことばにはあっているかもしれないとも思った。
 世界をひきずる感じ--それは巻頭の「ガンガー」の冒頭の2行にもあらわれている。

ガンガーの対岸の不浄の地に灼熱の落暉がゆがみ
聖地ベナレスは入寂のときを迎える

 世界をひとつひとつ完結して見るのではなく、ひとつの世界を見て、その世界をひきずったまま次の世界へと動いてゆく。見たもの、触れたものを手でしっかりとつかんで、ことばは動いてゆく。「ゆがみ」という連用形が、谷岡の「肉体」の強さを物語っている。「不浄」「灼熱」「落暉」という重たいことばをそのまま抱え込み、次の行へわたる。これはほんとうに体力のいる仕事だ。書いている方も体力がいるだろうけれど、読む方はもっと体力がいる。(と、私は感じる。ちょっと、つらい。)
 そうした作品に比べると、「OLD LOVE SONG」「鉄の魚人」は異質なものだが、私には、その谷岡にしては異質な部類に属する詩の方が楽しい。軽い。ことばが美しく動いているように見える。書くという気構えよりも、声の方が前面に出ているからかもしれない。
 「鉄の魚人」の最初の2連。

鉄の魚人(ぎょじん)は泳げざり
プールサイドで空を見てをり
空には船の浮きてゐつ
鉄の魚人は泣きにけり

鉄の魚人は眠れざり
飲み屋の隅で雨を見てをり
雨には過去の滲みゐつ
鉄の魚人は少し酔ふ

 1、2連に共通していることなのだが(そして、3、4連にも共通しているのだが)、「鉄の魚人」が1行目と4行目で繰り返され、世界がその瞬間に、いったん完結する。「けり」という強いことばが「完結」を強調している。それが世界をすっきりさせる。同じ「魚人」の姿が描かれるのだが、そこには「世界」を引きずっている感じがないのは、「けり」に特徴的にあらわれている「完結」が、そこにあるからだ。
 それぞれの2、3行目にも、自然なことばの工夫がある。1連目でいうと、2行目の「空」が、3行目でも出てくる。「クリスマス・ゴア」の短歌の「と」とは違って、ここでは、そういうことばはつかわず、名詞を繰り返す。そのことによって、世界は引きずられるというよりも、ジャンプする。意識がいったん断ち切られて、別の次元へ飛躍する。そのジャンプに軽みの秘密がある。引きずるものは重く、ジャンプするものは軽い。
 3連目を省略して、4連目。

鉄の魚人は帰れざり
はらいそへ行く夢をみてをり
夢にも雨が降りてゐつ
鉄の魚人は祈りけるかな

 最後の「けるかな」がとても気持ちがいい。
 --と、書きながら、でも、私が気持ちよく感じるものと、谷岡が書きたいものは、きっと違うんだろうなあ、とも思った。




谷岡亜紀集 (セレクション歌人 20)
谷岡 亜紀
邑書林

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ジャスティン・チャドウィック監督「ブーリン家の姉妹」(★★★★)

2008-11-06 10:28:38 | 映画
監督 ジャスティン・チャドウィック 出演 ナタリー・ポートマン、スカーレット・ヨハンソン、エリック・バナ、アナ・トレント

 この映画はバージン・クウィーンといわれたエリザベスの誕生秘話である。エリザベスというとどうしてもケイト・ウィンスレットの「エリザベス」を思い出してしまうのだが、そのエリザベスが、この映画のナタリー・ポートマンから生まれたのか、と思うと、なるほどなあ、と納得してしまう。
 歴史と映画がごっちゃになってしまう感想だが、ケイト・ウィンスレットの演じた気性の強靱な女性像--それは、この映画でナタリー・ポートマンが演じたアンという女性、気が強くて頭の回転が速くて、美人の血を引き継いでいる。そのことが、くっきりと伝わってくる。変な話だが、アン-エリザベスという人間像のなかに、血がつながっているという、非常に説得力があるのだ。「変な」というのは、「エリザベス」の方が古い映画なのだから、「エリザベス」の人間像はナタリー・ポートマンの演じたアンに影響されるはずがないのだから……。頭では理解していても、映画を見終わったとき、ほんとうにそう思ってしまうのだ。
 ナタリー・ポートマンの演技が、それだけ人間の、剥き出しの強さを具現化していたということかもしれない。歴史と映画をごちゃまぜにしてしまうような、人間の力そのものに触れていたということかもしれない。ほしいものはなんでも手に入れる。そのためにはなんでもする。黒い目の、強い輝きと、白い肌の対比--その強靱な矛盾(?)を感じさせる力が、とてもいい。スカーレット・ヨハンスンに比べると、実にいやな女性になるのだが、そのいやな女性の感じを突き破って目が誘っている。いやな女とわかっていても、その目に誘われる。それが「エリザベス」につながる、と書くと、ケイト・ウィンスレットに叱られそうだが、どうしてもそう感じてしまう。スカーレット・ヨハンスンが演じたメアリーからはエリザベスは産まれようがない。
 歴史と映画がごちゃまぜになる感覚を味わうためにも、この映画は見るべきものだ。

 この映画のもう一つの特質は、風景のきれいさにある。21世紀に撮影されているのだが、草が太陽の光の中で金色に輝く、その輝きの透明さは現代というよりも、まだ自然が剥き出しのまま生きていた時代のものである。同じように、空が、雲が、光の中でそれぞれに輝いている。剥き出しの命が祝福されている感じだ。この自然の剥き出しの美しさがあればこそ、ナタリー・ポートマンの感情の剥き出しも、命の美しさとしてスクリーンからあふれてくる。

 この映画には、ひとつ付録(?)がついている。「みつばちのささやき」のアナ・トレントがヘンリー 8世の正妻(王妃)として出てくる。あ、この目はどこかで見た目だ、と思っていたらアナ・トレントだ。「みつばちのささやき」のときは10歳以下である。そのときから目はかわっていない。ここよりも、はるか遠くを見てしまう不思議な目。ここにとらわれず、永遠を見てしまう目--その力が発揮されるシーン、ナタリー・ポートマンの目、目の前の現実だけを見つめ、現実を変形させてしまう目との対立の一瞬は、見物である。




「ブーリン家の姉妹」のとは、ぜひ、この1本をみましょう。

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リッツォス「証言A(1963)」(17)中井久夫訳

2008-11-06 00:25:53 | リッツォス(中井久夫訳)
孤独な業   リッツォス(中井久夫訳)

単騎夜っぴて駆けた。馬のあばらに無茶苦茶に拍車をかけた。
自分の無事安着を待っている。そういう話だった。
そんな急用だった。暁に着いた。
待つ人は一人もなかった。誰も出てない。見回した。
しんとした家。鍵を掛けてる。寝てる。
自分の喘ぎに混じって馬の喘ぎが聞こえた。
馬の口に泡。あばらに打ち傷。背に擦り傷。
男は馬の首に手を回した。泣いた。
死相を示す馬の眼は大きく、暗く、
二つの塔であった。己の眼が遠くに映っていた。雨の降る風景の中で。



 短い文のたたみかけが「男」のこころを浮き彫りにしている。男は急いで帰って来た。その急ぐこころが、長い文を拒む。そのリズムがとてもいい。聞こえるのは、自分のいらいらとした声だけだ。しん、としているのは「家」だけではないだろう。周り中がしん、としている。そのしん、とした空気のなかに、男のいらだちが短い文となって飛び散る。
しんとした家。鍵を掛けてる。寝てる。

 事実を確かめるのも、ひとつずつだ。しん、とした沈黙のなかへ、すぐに吸い込まれて消えていくことば--そのとき、そのいらだった声を吸い込んでいった空気の向こう側から聞こえてくるものがある。ことばにならないもの。喘ぎ。自分の喘ぎ。そして、男をここまで連れてきた馬の喘ぎ。
 ことばをもたないものは、肉体の傷で、こころを語る。

馬の口に泡。あばらに打ち傷。背に擦り傷。

 そのことばにならないことば、馬の肉声が「男」にはよくわかる。忠実な馬。男といっしょに走ることを生きがいにしていた馬。その馬が、いま、疲労の果てに死んで行く。なんのために疲労したのか、なんのために死ぬまで走りつづけたのか--それが報われぬままに。

男は馬の首に手を回した。泣いた。

 この行は、絶対に「男は馬の首に手を回し、泣いた。」であってはならない。馬の首に手を回したあと、男が泣き出すまでには時間が必要なのだ。ことばが、ことばにならない思いが、男の体を駆けめぐる時間が。そして、男の肉体をことばにならない悲しみが駆けめぐっていることが馬に伝わるまでの時間が。句点「。」はそういう時間をあらわしている。
 「男は馬の首に手を回した。」から「泣いた。」までのあいだには、時間がある。けれど、それは「改行」してはならない時間である。別の時間ではないのだ。深く緊密につながっている。男の思いが肉体を駆けめぐり、それが馬にも伝わる、それから馬からも何事かがつたわってくる--そういう時間は、男が馬の首に手を回している間中、ずーっとつづき、こらえきれなくなった瞬間にあふれだす。そのこらえきれなくなった瞬間というのは、馬の首に手を回している時間とは切り離せない。
 とてもせつなく、とても孤独だ。男と馬は、こころを通わせている。何にもならないこころを通わせている。通い合えば通い合うほど、ふたつのこころは孤独になる。こんなにふかく結びついているのに、孤独だ。一方が消えていくことがわかっているから。
 それが、すべて、「手を回した」のあとの句点「。」のなかにある。

 あとは、静かに抒情がやってくる。


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