詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『窯変論--アフォリズムの稽古』

2008-11-17 22:12:02 | 詩集
北川透『窯変論--アフォリズムの稽古』(思潮社、2008年10月15日発行)

 「畸型論」という作品が最後に収録されている。そこに、私には理解できないことばがでてくる。

愛は霊でも肉でもない、木の葉の狂乱だ、と滅裂に脱皮を繰り返す生殖器官。文法を壊されて迷路を疾走する蝸牛螺旋官。こうして三角形の頭部を持つ畸型の器官群の誕生。

 「三角形の頭部」とは何か。それがわからない。理解できない。「器官」は、いま引用した前の部分を含めると「消化器系」「循環器系」「呼吸器系」があり、そのあとに「生殖器官」「蝸牛螺旋官」がある。この最後の「蝸牛螺旋官」というのは内耳の何かかなあ、と勝手に想像する(私は調べたりはしない)が、なぜ、それが「三角形の頭部」をもたなければならないのか、私には理解できない。「愛・霊・肉」は「三」だけれど、もしかすると、その「三」がここに形をかえて「三角形」ということばを生み出したのだろうか。--なんだか違うなあ。そういう「三」に吸収されていくことを北川の「三角形」は望んでいないようである。そういうことは望んでいないが、ここに「三角形」ということば、「三」という数字が登場するのは、きっと理由があるのだ。
 私は、私に理解できないことばがあると、そこにはきっと作者独自の「思想」がこめられているからだと考える悪い癖(?)がある。
 というわけで、「三」について考えてみる気持ちになった。

 北川は、私が引用した1連目のあと、すぐに「三」ということばをつかっている。2連目に出てくる。

 わが家は三方を山々に囲まれた小さな盆地、浜浦台にある。背後の北方にあたる唐櫃山、西に聳える霊鷲山、南に小さな茶臼山、その後ろに控える火の山。東は細く切れて関門海峡に開いている。

 「三角形」とは最小の辺で構成された強靱な形である。変形が聞かない。「四方」(2連目に「四方」ということばは出てこないが、描かれているのは「四方」である)の場合は少し違う。四角い箱はぐいと押すとひしゃげて平行四辺形になる。「三角」はそういうことがない。「三角」は外部からの力の影響を受けない。だからこそ、「四角」は「三角」を対角線に組み合わせることで外部の影響を受けないようなものに補強したりもする。(壁のはすかい、など)。
 はっきりそうとは書いていないのだが、北川は「畸型」を「三」というものといっしょに考えようとしているように思えてならない。

 3連目には「三」でも「四」でもなく「二」という数が登場する。

外耳もなく、鋭く二つに裂けた舌をもつ異形の器官。まったくでたらめに発話した途端、辺りの空気から血が引いていく二つのイメージの衝突や、思想の山塊を崩落させる流動的な斜面を演出するには、こんな工夫をしなければならない。

 ここには「一」という数字もほんとうは隠れている。「二つに裂けた舌」は最初は「一つの舌(裂けていない舌)」である。「二つのイメージの衝突」とは、「一つのイメージ」と「一つのイメージ」の衝突である。
 「二」は「分裂」「衝突」という不安定な運動をともなっている。

 そう考えると、「三角形の頭部」の「三」だけが安定していることになる。「三」だけそれぞれのはしっこを他者と共有してがっちりとかたまり、動かない。外からの力に対しても屈しないし、衝突もしない。

 しかし、そうなんだろうか。「三」は安定しているのだろうか。

 「三」ということばと同時に私が思い浮かべるのは、弁証法である。正と反。それが統合されて別の次元のものになる。「一」と「一」の衝突のあとにうまれる、もうひとつの「一」。あわせて「三」。その果てしない運動--それを考えると「三」は安定というよりも常に運動を誘いつづける「誘い水」、誘惑のようにも思える。

 「畸型論」は、現実の(そう想像させる)北川が住んでいる街の風景の描写と、それとは関係ない何事かがくりかえし書かれる形で構成されている。
 これはある意味では、「現実の風景」と「現実の風景から逸脱したことば」の衝突、「一」と「一」の衝突であり、その衝突が引き起こすイメージが、さらに「現実の風景」と衝突しつづける運動のように見える。
 果てしなく「三」を追い求める運動に見える。

 この運動は、なんらかの終着点を予定しているのだろうか。私にはしていないように思える。どこまでいけるか、どこまで運動をつづけることができるかということしか考えていないように思える。
 そして、たぶん、この運動をつづけるということが、北川にとっては「アフォリズム」ということになるのだろうと思った。運動とはけっして「体系」にならないことである。「体系」を否定しつづけることである。「非体系」でありつづけることである。
 既存の「体系」(たとえば北川の住む街の風景)に対して、それ以外のことばをぶつける。そうすると、そこに衝突がうまれ、その衝突は、「体系」(風景)を歪める。(歪みながらも、同時に、ぐいと引き戻そうとする力ももちろん働くだろうけれど。)その結果誕生するのは「非体系」を含んだ「体系」である。そこで終わってしまうと、何にもならない。それは「体系」に「非体系」がとりこまれたことともとらえられるからである。だからこそ、それをさらにたたき壊すために、また別の「非体系」をぶつける。

 その結果、何がうまれるのだろう。どういう世界が誕生するのだろう。それは、やはりわからない。--わからないけれど、北川は、ただただ、ことばを動かしてみたいのだと思う。ことばがどんなふうに動けるか、それを「三角形」を利用して、動かしてみたいのだろうと思った。

 こんなことを書いても、最初に書いた「三角形」の答えにはならないのだが。


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リッツォス「証言B(1966)」より(9)中井久夫訳

2008-11-17 01:03:10 | リッツォス(中井久夫訳)
特別の時   リッツォス(中井久夫訳)

大きな月。銀の静寂。何事もなし。
白馬が一頭、庭の咲くの向う側に。光の柵。
若者が一人、庭に入った。
門を開かずに柵をすうっと透りぬけた。
胸と太股に合計四箇所。幅の広い金色の刺繍が残った。
柵のうねうね模様だ。
木の下で馬がいなないた。



 美しい風景だ。幻想的だ。神秘的だ。中井久夫の訳は、少し意地悪である。

門を開かずに柵をすうっと透りぬけた。

 「透りぬけた」。こんなことばはない。「とおりぬけた」とワープロで打つと「通りぬけた」(通り抜けた)と変換される。中井は「わざと」透明の「透」の字をつかって「透りぬけた」と書いている。
 中井の訳を「意地悪」というのは、「透」という文字をつかわなくても、この詩は透明だからである。そこに「透」という文字があれば、それこそ「すうっ」と誘い込まれもするが、同時に、えっ、こんな簡単に誘い込まれてしまっていいのだろうか、とも考えさせられるからである。
 中井は読者を立ち止まらせたかったのだろう。
 短く、透明な詩。描かれている風景を読み違える読者などいるはずがない。あまりにも簡単に風景を思い描き、「あ、透明な風景だ」と通りすぎられては困る。たちどまってほしい--そう思ったのだろう。
 「透りぬけた。」の小さな「罠」(つまずきの石)のあと、美しい美しい1行があらわれる。

胸と太股に合計四箇所。幅の広い金色の刺繍が残った。

 えっ? これって、なんのこと?
 もちろん、すぐにわかる。次の行が説明する。「柵のうねうね模様だ。」この、説明のリズムがいい。長く、これは何だろうと考えさせておいて、ぱっと短く断定する。その短いことばのなかに、前に読んだことばが映画のフラッシュバックのようによみがえる。
 「柵」は2行目に登場した「光の柵」、4行目にことばをかえて登場する「門」の「柵」。それは月の光がつくりだす柵だ。それが若者の体に映っている。そして、フラッシュバックのように「過去」がよみがえるとき、「過去」は実は「過去」そのものではない。ちょっと変形する。「銀」の静寂は「金」の刺繍にかわる。
 まるで魔法である。

 木の下で馬がいななくとき、私は、その美しさに息を飲む。

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