詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「磊は打倒されなければなりません」

2008-11-30 15:17:58 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「磊は打倒されなければなりません」(「現代詩図鑑」2008年秋号、2008年11月01日発行)

 松岡政則「磊は打倒されなければなりません」は不思議な詩である。不可解な詩である。書かれていることがよくわからない。
 書き出し。

センセイにはがっかりしました いいえそれ以下です センセイはがっかり以下でした あの時センセイがあわてられたミツイシを ぼくは知っているのですよ ミツイシは空音ではありません 男女の態でもありません あれは燃え盛る一軒の家 炎によってくる蛾の群舞 センセイはそのことに気づいておられたはずです

 登場人物は「センセイ」と「ぼく」。「ぼく」は「ミツイシ」について語っている。「ミツイシ」とは何か。詩のタイトルにある「磊」か。こころの大きな様子か。「磊」を「ミツイシ」と呼ぶのはなぜか。まったく不可解である。
 わからないけれど、わかることもある。「ぼく」が「センセイ」に落胆している子である。落胆を通り越して、怒りすら覚えている。そのことはよくわかる。読み進めば読み進むほど、「ぼく」が「センセイ」に対して怒りを抱いていることがわかる。信じていないことがわかる。

センセンはもう以前のセンセイではありませんでした。 その話しぶりもどこか不潔で 捩くれた悪意さえ感じました それには気づかぬフリで ぼくがへらへらと笑っていたからでしょうか オ前ガソウ言ッタト噂デ聞イタケド 本当ノトコロハドウナンダ あの時センセイは同じことを二度訊かれました それはセンセン自身がそう思っておられるということです その人をなめ切った驕慢な態度といい 濁った眼の奥のうすく笑っているといい 血くだが煮えくり返りました いいえ血のかたまりのような躰でした 

 「ぼく」の不信感、怒りだけがあざやかに浮かび上がってくる。そして、それがあざやかになればなるほど、何を言っているかがわからない。
 「センセイ」と「ぼく」。そのどちらが松岡の立場なのか--それもわからない。

 そして、不思議なことに、わかることと、わからないことがあるということが「世界」なのだというこが徐々に身体に迫ってくる。「ミツイシ」が、たとえば、標準語(?)、あるいは辞書にあることばに置き換えられたとしても、それで事実がわかるわけではないということが、身体感覚として伝わってくる。
 引用した途中に「血くだ」ということばがあった。「血管」のことだろう。「ぼく」は「血管」を「血くだ」と呼んでいる。その一方で「驕慢」ということばも知っている。「ぼく」のことばのなかには、「ミツイシ」もそうだが、何か、標準語、あるいは辞書のことばを超えるものが含まれている。そして、その標準語、辞書のことばを超えるものを、「センセイ」は的確につかみ取ることができない。同じように、読者の私も、それを的確にはつかみ取れない。ただ、それが何か、標準語や辞書のことばを超えるということだけをひしひしと感じる。
 その、標準語、辞書のことばを超えるものを、「ぼく」も実はよくわかっていないのかもしれない。そういうものをあらわすことばがあるとは思えないのだ。だから、知っていることば、間違っていることばで、それでもなお語ろうとするのだ。この熱いこころ、ことばにならないもの、ことばをこえるものをことばにしたいという思い--そこに、詩は、詩の出発点はあるはずだ。
 松岡が書こうとしているものは、そういう詩の形、詩の原始の形かもしれない。

 「ミツイシ」や「血くだ」という不可解なことばの一方、「ぼく」は間違いのない(?)ことばで、借り物ではないことばで、強烈なことを言う。先の引用の直後。

ぼくはぬるりとしたものがいつ口から漏れ出すかと 気が気ではなかったのでした

 借り物のことばをすてたとき、ことばは、こころにふれる。こころとは「肉体」のことである。ことばは「肉体」のなかにある。
 もし、「センセイ」が松岡なら、松岡はそのことを「ぼく」から学んだのだ。そして、「ぼく」が松岡なら、松岡はそのことを「センセイ」に伝えたいと真摯に願っている。そのことがあったときから、ずーっと、ただひたすら願っている。
 わけのわからないことばと、肉体。ことばは肉体を通ってくる。必ず、肉体を通る。だから、それは「頭」のことば、標準語、辞書のことばのように、透明で、無害で、流通しやすいものではない。真実を語ろうとすればするほど、ことばはわけのわからないものを含んでしまう。そして、そのわけのわからないもののなかにこそ、本当のことがある。ことばを超えるもの、流通していることば(標準語、辞書のことば、「頭」のことば)を破壊するものが、そこにある。矛盾した言い方だが、そういうものこそが、ことばになる瞬間を、詩になる瞬間を待っている。

 松岡のこの作品は、そういうことばへ、じわりと接近していく。それは、もしかするとたどりつけない場所かもしれない。けれど、たどりつけなくても、そこに近付かなければならないのである。--それが、たぶん詩人・松岡の決意というものだろう。




草の人
松岡 政則
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(22)中井久夫訳

2008-11-30 00:07:52 | リッツォス(中井久夫訳)
歩み去る   リッツォス(中井久夫訳)

彼は道の突き当たりで消えた。
月はすでに高かった。
樹々の間で鳥の声が布を裂いた。
ありふれた、単純なはなし。
誰一人気を留めぬ。
街灯二本の間の路上に
大きな血溜まり。



 内戦の1シーンだろうか。簡潔な描写の間にあって、「樹々の間で鳥の声が布を裂いた。」がさらに凝縮している。鳥の声そのものが布を裂くわけではない。その声が布を裂いたときのように聞こえるということだ。そして、この「布を裂く」という比喩が、そのまま惨劇を想像させる。ひとが殺される。おそらくナイフで。そのとき、肉が切られる前に衣服が切られる。布が裂ける。鳥の声の中に、殺人が準備されているのだ。そういう描写があるからこそ、「血」が自然に存在することができる。非情な風景として。
 月は最初から非情な存在である。街灯は人間が設置したものだが、それは非情を通り越している。人間が作り上げたものは、孤独をいっそう厳しくする。ひとは月とは孤独な対話をすることができるが、街灯とは孤独な対話ができない。その街灯が「二本」ならなおのこと、人間と街灯との間には対話は成り立たない。街灯は街灯と対話している。目撃したことを。二本の足元にひろがる、その血の色について。


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